Sin and Punishment:Revenant 作:アイダカズキ
「……誰か、誰でもいいから手伝ってくれない? 具合の悪い人がいるの!」
若い女の切実な叫びに、ノーラは読書をやめて顔を上げた。
晩秋にもなるのに、暖房器具一つない寒々とした部屋だった。せいぜいマンションの応接間程度しかないスペースに、十人を越える女が詰め込まれている。誰もが若く、痩せていて、そして不安を隠し切れないでいた。
ノーラが立ち上がると、周囲の視線が集中した。彼女が歩いただけでいつもそうなる。
「私は医者ではありませんが、心得ならあります。どうしました?」
具合の悪い女の面倒を見ていた娘は、ほっとしたように振り返った。彼女もやはり若く、痩せていて、不安を隠し切れない顔をしていたが、他人への慈悲は完全に擦り切れてはいないようだった。「さっきからぐったりしていて、意識がないの。熱もあるようだし……」
ノーラは分厚い掌を病人の額に当て、次いで呼気の臭いを嗅いだ。「感染症の類ではないようですが、油断はできませんね。人を呼んできます」
「ええ、お願い」
ノーラは乱暴にドアを叩いた。外から鍵が外される音がして、柄の悪い極彩色のシャツを着た若い男が胡散臭そうな顔で顔を覗かせる。
「何だよ?」
「具合の悪い人がいます。医者を呼ぶか、せめて薬だけでも貰えませんか?」
「あ? 何を寝ぼけた……」
ノーラの拳が、音もなく男の腹に吸い込まれた。
完全に
「あなたで無理なら、あなたの
「てめえ……」
男は男としての誇りそのものを踏み潰されたような顔をしていたが、結局は言う通りにした。悟ったのだ──この女は今まで彼らが面白半分に痛めつけてきた無力な奴らとはまるで別物だと。
できるだけノーラの方を見ないように努力しながら男たちが病人を運び出した後、ノーラは何事もなかったように自分が元いた壁際に座り込み、同じ本を広げた。ルキアノスの『本当の話』だった。
傍らに誰かが座り込んだのでまたも顔を上げると、先ほどの娘が微笑みかけていた。
「ラナよ。さっきはありがとう。えーと」
「エレオノーラですが、ノーラと呼んでください。親しい人は皆そう呼びます」
「それじゃ、ノーラ。びっくりしちゃったわ、私があの人たちに何を頼んでも鼻で笑われるだけなのに」
「まともでない人に丁寧に頼んでも、鼻先であしらわれるだけですからね。こちらもまともでない方法を使ったまでです」
ラナは溜め息を吐いた。「何のことだかわからないとは言わないわ。今のご時世、
「あなたを責めているわけではありません。私も後ろ暗い連中を頼らなければ、
「どこも同じね……」
ラナはそこで改めて、ノーラをしげしげと見た。そんな目つきになるのも無理はないと思う──室内の女たちの中で、ノーラほど肌が黒い者はいなかったからだ。
それもライトグリーンの、炯々と燃える両眼の持ち主となればなおさらだ──まるで密林の中の虎のような。
だが、ラナは他の者とは別の意味でノーラに興味を持ったようだ。
「ノーラ、もしかしてあなた、ずいぶんと若いんじゃない?」
「どうしてそう思ったんですか?」
「話し方よ。身体こそ確かに大きくて強そうだけど、世慣れた口調じゃないもの。若くない人が若いふりをするのとはわけが違う」
「まだ17ですからね。できれば内緒にしていてほしいんですが」
ラナは、まるでそこにいたノーラに初めて気づいたような顔になった。
「私より5つも歳下じゃない……その歳で故郷を捨てるなんて。よほどのことがあったのでしょうね」
「ええ、まあ」
ノーラの顔にほろ苦い笑みが浮かんだ。自分がまだ成人ですらないことを思い出したような笑みだった。
「私には夢があるの。お金を貯めて、小さくても自分の会社を興したい。あなたの夢は何? そんなに若いんだから、夢くらいあるでしょう?」
「夢、ですか」
まるで違国の言語を口にするように、彼女はそっとその単語を舌に乗せた。
「私には夢はありません。夢を叶える前に、やらなければならないことが一つあるだけです」
「どんな?」
「話したら、きっとあなたは笑います」
「笑わないって約束する。話して」
ノーラは躊躇ったが、やがて口を開いた。
「この世で最も許すべからざる悪を滅ぼすことです」
「お前は全く慈悲の権化だな、ノーラ? 他の女の代わりに手付金を払っていいとは。しかもパスポートも女どもに返せだって?」
アメリカ映画を意識してでもいるのだろうか。デスクにさほど長くはない両足を乗せてふんぞり返っている社長に、私を略称で呼んでいいと言ったつもりはないんですが、とノーラは言いそうになったが黙っていた。
「無理を頼んでいるのはわかっています。その無理も
「俺がわからんのはな、ノーラ」
社長は自分では魅力的と思っていそうな流し目を寄越してきた。「それだけの金を持ってりゃ正規のルートで入国することもできたろうに、なぜ俺たちみたいのを頼って、しかも相場の倍以上の金を払おうとしているのかってことだ。それでお前に何の得がある?」
「さあ。急に慈悲の心にでも目覚めたんでしょう。それで、どうです? 悪い話ではないと思うんですが」
ノーラは背後で、荒事に慣れていそうな男たちがさりげなくドアの方に移動するのを感じ取った。
流血を好むわけではない。避ける努力は最後までしよう、と自分に言い聞かせる。
「悪い話ではない、か。確かに悪い話ではない」
背後の男たちが懐に手を入れた気配があった。刃物か──あるいはもっとまずい得物か。
「悪い話ではないが、俺たちはこうも思っちまうんだ。
「あなたがいくら欲深い人でも、慈悲はあるでしょう。先ほどの女性を、医者に見せるために連れ出したことであなたの慈悲は種切れですか?」
「俺にだって慈悲はあらあな。だからこれ以上苦しむ前に、楽にしてやった」
「……そういう理屈ですか」
社長のわざとらしい下卑た笑みに、子分たちも追従笑いで応じる。
「他の女性たちも、同じような目に遭わせるつもりですか?」
「俺を何だと思ってやがるんだ? 地獄の悪魔か?」
さも不本意な物言いを受けたかのように、社長はたちまち不機嫌になった。「
ラナの言葉が脳裏に蘇る── 私には夢があるの。お金を貯めて、小さくても自分の会社を興したい。
「まあ……例えばだ、あくまで例えばの話だが、俺が慈悲の権化にでもなったつもりであの女たちにパスポートを返して開放したとしよう。で、その後は? 俺は今回の
「私が代わりに働きます。私一人で、口先ばかりのあなたの部下十人より多くの仕事ができます。
露骨な挑発にたちまち背後の男たちが色めき立った──が、社長は掌を上げて制した。
「だろうな。お前は只者じゃないし、実際にその言葉通りのことをこなすだろう」
「では」
「
安全装置を解除する音が重なった──それも一丁二丁ではない。
「理由を伺っても?」
「認めるしかねえな。俺の子分どもが束になってかかったって、お前一人には敵わねえだろう。そう思ったから、俺もわざわざ社長室までお前がやってくることを許した。場合によっちゃ、腕っぷしを見込んで取り立ててやってもいいってな。だが、そんな考えはお前の顔を見るなり消し飛んだよ。俺には一目でわかったんだ……こいつを飼い慣らすのは無理だってな」
欲の皮の突っ張った小悪党どもの親分でも、常に頭の悪い結論に飛びつくとは限らないということか。
「安心しろよ。あの女みたいに、お前を食えもしない屑肉にして運び出すようなことはしねえ。余さず利用してやる……これだけのガタイだ、剥製にでもすりゃどこぞの変態が言い値で買ってくれるだろう」
背後から迫る暴力の気配を感じながら、ノーラはあえてゆっくりと口を開いた。
「わかりました。では私からも、最後に一つだけ」
一歩前へ進み出て──デスクの上にどっかりと乗った社長の足を摘み上げる。
「あ……?」
見て取れるほど緩やかな動きだったのに、誰一人としてそれを制止できなかった。
「お母様に教わりませんでしたか?」
ノーラは社長の右足首を鷲掴みにし、無造作にぐいと捻った。肉と腱がぶちぶちと千切れる耳障りな音。
窓ガラスがびりびりと震えるほどの絶叫が室内にいた全員の鼓膜を震わせた。
殺虫剤を浴びせられた虫のように、手足をばたつかせながら社長が椅子から転がり落ちる。彼の右足首は、ものの見事に一回転していた。
「
「足が! 俺の足が!」
「足よりもっと心配するものがあるんじゃないですか? あなたの脆い頭蓋骨とか、貧相な胸板とか」
「殺せ! 早くこの化け物女を殺せえ!」
社長の絶叫に血相を変え、子分たちがそれぞれの得物を内懐から抜き出そうとする──が、その動きは途中で凍りついた。
「何だ、こりゃ……」
床に這いつくばったままの社長が、痛みすら忘れたような顔で呻く。
それぞれの男たちの傍らに、まるで付き添いのようにもう一人のノーラが出現していた。背格好も一緒なら、着ている衣服も一緒。本人と見分けが全くつかない別のノーラたちだ。
そしてそのノーラたちが一斉に動いた。
拳銃を持っていた者は、一瞬でその拳銃を奪われ眉間を射抜かれた。
ナイフを持っていた者は、一瞬でそのナイフを自分の口中に突き込まれた。
メリケンサックを持っていた者は、背後から回された腕に首の骨を折られた。
室内に一瞬で死が満ちた。
殺戮を終えると、無数のノーラたちは消えた──始めから存在しなかったかのように。後に残されたのは、無数の死体と、そしてまだ生きている社長とノーラだけだった。
「おやおや。死体の片付けを命じる子分さえいなくなりましたねえ」
暴力にも残虐にも慣れ切っているはずの男の顔を、剥き出しの恐怖が埋め尽くした。
「お前……お前、本物の〈
「
涙を一杯に溜めた社長の顔に、ノーラはまるで見せつけるように自分の顔を近づけてみせた。
「ああ、もしかしたら、私は本当に慈悲の権化なのかも知れませんね。何しろ、約束を破って殺そうとした相手さえ命を奪わず……」
白い歯を剥き出しにした、黒い髑髏じみた顔を。そして、雌虎のように爛々と輝く緑の両眼を。
「足首を一回転させただけで済ませるんですから」
「それにしても、世の中捨てたものではないわね。入国させてくれて、パスポートも返してくれた上に、手付金はいらない、だなんて」
配られた金とパスポートを手にした女たちが大喜びで立ち去った後で、ラナはこんなこともあるのね、としきりに首を振っていた。「ノーラ、あなた、
「さあ。急に慈悲の心に目覚めたんでしょう。ああそうだ、ラナ、あなたにはこれを」
ノーラに手渡された札束の分厚さに、ラナは息を呑んだ。
「他の人には内緒ですよ。お金なんて、あって困ることはありませんから」
「ノーラ、こんな大金、私一人で受け取れないわ……助けてもらったのに、その上お金までなんて……」
「そう言わず、どうか受け取ってください。私が誰かのために何かできるのは、これで最後になるでしょうから」
ラナはなおも何かを言いたそうだったが、ノーラの顔に浮かぶ決意の固さを見て取ったのだろう、結局はそれを飲み込んだようだった。
「あなたがこれから何をするかはよくわからないけど……上手く行くといいわね。どこにいてもあなたの幸せを祈っている」
ラナは自分の倍近くありそうなノーラの腰回りに手を回した。ノーラの分厚い手が、優しくラナの後頭部を撫でた。
「ええ。あなたも」
(……そうだ。私が誰かのために何かできるのは、これが最後になるだろう)
ラナと別れ──彼女は去り際まで、名残惜しそうに手を振り続けていた──市街へ向けて歩き出してからも、ノーラはそのことについて考え続けていた。空は白み、暁光の最初の一瞥が街と人を照らし出そうとしていた。
後はもう、ひたすらに戦うだけだ。命ある限り。私自身のために──そして虫けらのように殺された、私の母のために。
どのバスが目的地に向かうのか調べるだけで30分近くが過ぎた。バスがやってくると、まだ眠い目の学生や勤め人に混じって乗り込んだ。誰もがノーラの図体に好奇心を隠せない視線を注いできたが、そちらに目をやると視線を逸らした。
バスが動き出す。ノーラはバスのガラス窓に額を押し当てながら、周囲を一瞥した。
登校中の学生たち。出勤途中のサラリーマンやOLたち。前日からの疲労が消えない顔の若い日雇い労働者たち。誰も彼もが、彼女から見れば老いも若きも、雛鳥のように脆く儚く見える。
(白浜市……)
このバスの終点、もう手を伸ばせば届くほど近くに、あの男がいる──それを考えただけで、彼女の腹の底で昏い怒りが燃え上がる。
この世で最も「許すべからざる悪」である二人の男、その一人。
プロローグを書きあげるのと引き換えに、夏休みが終わってしまいました_(:3 」∠)_
次回から本編です。「7人の母」の一人を探し始める龍一とあさひですが、一方であさひの妹のまひるも別のトラブルに巻き込まれていて…長くは待たせません。お楽しみに!