Sin and Punishment:Revenant 作:アイダカズキ
「7人の……お母さん?」
「うん」
困惑しきったあさひの眼前で、素直に頷く龍一の表情は真剣だった。真剣すぎてこっちが困るほどに。
正直、あさひも龍一に負けないくらい真剣に困っている。反応のしようがない。
これで「冗談だよ」と言われたら「なあんだ」と返せるのだが、困ったことに龍一の表情は真剣そのものなのだった。だからあさひも困惑するしかない。
(そもそも相良くん、冗談とかあまり口にしたことないし……)
だからおそらく本当のことを言っているんだろうな、とは思うのだが──大体、嘘ならもう少し信憑性のある嘘を吐くだろうし。
(……待てよ、これ私が相手ならチョロいから、こんないい加減な嘘でも騙せると思われてない?)
そこまで舐められていたら泣いちゃうなと思った。それも声を上げて。
「俺のお祖父ちゃんが殺されたこと、もう知っているだろ?」
「……うん」
知らないはずがない。そのせいで私は
あの時の気持ちを無理やり喩えるなら、塹壕の中で「死ぬまで戦おう」と誓い合った戦友に置き去りにされたような気持ち、とでも言えばいいだろうか。
もちろんそれは自分一人の勝手な思い込みであるし、龍一のせいにするのはお門違いとわかっているだけで。
(勝手に期待して、勝手に裏切られて……)
あの頃は惨めだったな、と思う。惨めだったし、惨めに思う自分がますます惨めだった。今は違う、とも言えない。ただ思い出すのが少しだけ辛くなくなっただけだ。
「あの時は辛かったな。結局、平沼さんを含めてクラスの皆にも『さよなら』さえまともに言えなかった。自分のことを考えるのが精一杯だったよ」
龍一の口元に苦い笑みが浮かんだ。寂しげなその笑みは、やはりあの頃の彼とさほど違っているようには見えなかった。
「謝らないでよ。相良くんは何も悪くないんだから。そっちはそっちで大変だったんでしょ? ……って、そう思えるようになったのは最近だったんだけど」
そこまで言って、あさひはやっと胸の中の小さなしこりが一つ、ほどけて消えたような気がした。
そうか、私はちょっとだけ相良くんのことを恨んでいたんだ……と思う。実は根拠のない恨みを。
「辛かったから、俺もできるだけ考えないようにはしていた。でも最近になって、そうも言っていられなくなったんだ」
龍一が口元を引き締め、あさひもつい背筋を伸ばしてしまう。
「親元を離れて、お祖父ちゃんの家で一緒に暮らし始めたことは覚えてる。薪を拾って火を起こさせられたり、飼っていた鶏を締めて捌いたりしたことも……でも、逆に言えば、それより前の記憶がすごく曖昧だったんだよ。
連想記憶ってのがあるだろ? 昔好きだった歌を聴いて、当時の思い出も一緒に思い出すとかさ。最近、あんな感じで、お祖父ちゃんの家に預けられる前の出来事をいっぺんに思い出したんだ。それで一緒に思い出したんだよ──
「それが……相良くんのお母さん
龍一は頷く。「皆、俺のことを自分の子供だって言っていた。
「えぇ……?」
あさひの困惑はさらに深まった。実は当時の同級生から「相良くんの家庭って複雑らしいから、あんまり関わらない方がいいよ」と言われたこともあるのだが(不思議なことに、そう『忠告』してくるのはあさひと大して親しくもない相手ばかりだった)これは複雑どころの騒ぎですらない。「それ、私が聞いてもいい話なんですか?」と返しそうになる。
「これは……聞いてもいいのかな。相良くんのお父さんはどうしてたの?」
「それがな、よくわからないんだ。父さんは父さんの仕事があったから、あまり家にいなかったのもあるけど……気にも留めてなかったんじゃないかと思う。家を知らない人がうろうろしていてもどうとも思わない人だったし」
「なんか……すごいね」
あさひはそれだけ言うのが精一杯だった。大らか、とかそういう問題ですらないだろう。
「まあ、俺も自分の家族があんまりまともじゃないってわかったのは、かなり最近になってからだからな」
例えばこれがあさひの家だったら、お父さんやお母さん以外の男女が家の中をうろうろしていたらどうなるだろうか。それも親戚でも何でもない、赤の他人が。私もまひるも絶対耐えられないと思った。
「それで、改めて思ったんだ。俺は、俺自身のことを何も知らないって」
「……相良くんは、それで帰ってきたんだね」
平沼さんに会いたかったんだ、などという答えが返ってくるのを期待するほどあさひも脳天気ではない。……ないが、言われていたらどうしただろう、とは少し思う。ちょっとだけど。いや、だいぶだけど。
「世間で俺たちについて言われていることの大半は嘘っぱちだけど、真実がない訳じゃない。そのうちの一つが」
龍一は掌を上に向けて開いた。
あさひは息を呑んだ。龍一の掌の上に、半透明のガラス板のようなものが浮かんでいた──握り拳一つ分の大きさの六角形が陽光を跳ね返し、音もなく虹色に輝いている。角度を変えて横から見てみると、それは完全に消えた──厚みがないのだ。
「俺たちが〈
「綺麗……」
あさひは無意識のうちにそれに触れようとして。
「駄目だ!」
聞いたこともなかった龍一の鋭い声に、びくりと指を止めた。
「ごめん、怒鳴ったりして。でも、これに迂闊に触ったら駄目だ。見た目は綺麗でも、とんでもなく鋭い──人の指なんか簡単に落ちる」
慌てて指を引っ込めた。
「こんなのは〈竜〉の使える兵装のほんの一部だ。うっかり街中で使ったら、たちまち死人の山ができるような代物ばかりなんだよ。〈竜〉が『人間サイズの戦術核兵器』呼ばわりされるのも、ただの悪口じゃないんだ。第一、生身の人間は壁を走ることも、ビルからビルへ飛び移ることも、艦隊一つを海の底に沈めることもできない」
──TVのニュースやネット記事ではお馴染みのことを……正直半信半疑だったそれらを、数年ぶりに会ったあの相良くんの口から直接聞かされるのは、正直だいぶ堪えた。
「俺はやりすぎたし、有名になりすぎた。この半年でそれを思い知らされた。……もし、俺が『知らなかった』だけじゃない、『知ろうともしなかった』ことで人が死んだら」
龍一は言葉を切り、ビルの屋上から見える空の彼方を見た。割れた曇天から微かに見える『天使の梯子』の辺りを。
「俺は、俺自身を許せるんだろうか?」
「相良くん」
そこまで聞いて、あさひの中の「躊躇」という言葉が泡のように消えた。
彼女は胸に手を当てて、大きく深呼吸した。自分より頭一つ──下手すると一つ半──高い彼の目を覗き込む。
「私も、相良くんのお母さんを探すよ!」
「いや、平沼さん、それは……」
「拒否は
あえて腰に手を当て、ぐっと胸を張る。「だって相良くん、白浜市《この街》に来るのは初めてでしょ? ここにはどんな歴史があって、どこへ行けばそれが調べられるのか、知らないでしょ? 未真名市ならともかく、勝手の知らない街で案内人もなしに調べ物をしようとしたら、だいぶ苦労するんじゃない?」
龍一は心底意表を突かれたように黙り込み、そして一瞬後、ぷっと吹き出した。
「どうして笑ったの?」
「ごめん。でもあの平沼さんが、そんなに俺に対してはっきり言えるようになったんだ、って思うと感慨深くてさ。初めて話しかけた時は『すいませんお金持ってないです』って言われたから……あれはちょっと、いや、だいぶ傷ついたな……」
「ごめんなさいそれは私が悪かったです! でもできれば忘れてお願い!」
思わず顔を鞄で隠してしまった後、その陰から顔半分だけ覗かせる。
「私、相良くんのことを探さなかった。探そうともしなかった。相良くんがいなくなってからずっと、そのことが引っかかってたんだ。だから今度こそ、君のために何かさせてよ。
また一つ、胸のしこりがほどけて消えた気がした。
今度は少しだけ、苦さの混じった笑いが返ってきた。
「俺のためだけじゃなく平沼さんのためって言われちゃ、嫌とは言えないな」
「それじゃ……OKってことでいい?」
あさひは手を差し出す。「お母さんが見つかるまでは手伝うよ。でも全部……本当に全部終わったら、ちゃんと出頭するんだよ。私もついていってあげるから。わかった?」
龍一はなおも苦笑。「わかったよ。こちらこそよろしく、平沼さん」
二人は握手を交わした。骨張っていると思っていた龍一の掌は、意外にもしなやかで、温かくて柔らかかった。
「それにしても、お母さんの何か……手がかりとかあるの? 迷子探しとは訳が違うんだし」
「うん、実はなくもないんだ……」
龍一が頷き、口を開こうとして──表情を引き締めた。
「誰か来る」
「えっ?」
果たしてその言葉通り、屋上のドアが蹴られでもしたように乱暴に開かれた。
全身で息をするようにして立っていたのは、あの
「あ、さっきの人! よかった、無事で……」
言いかけて、いやよかったとも言い切れないなと思い当たる。何しろ龍一に頭を掴まれて、ぬいぐるみみたいに持ち運びされた人なんだし。
あの、えと、と目を左右に泳がせているあさひだったが、当の脇坂はそれどころではなかったらしい。
「あいつらだ!」
脇坂はわななく手で、はっきりと龍一とあさひを指差した。まるで親の仇でも見るような目で。
「あいつらだ!
「えええっ?」
今日で何度目かになる困惑があさひを襲う。「殺せ」なんて言葉、映画やドラマ以外でそうそう聞かない──というかあんまり聞きたくない言葉のトップだ。
あさひも困惑したが、脇坂に付き従っていた二人の男も困惑していた。
「脇坂さん、正……本気ですか? 男はともかく、女はどう見ても堅気《カタギ》の小娘ですよ?」
「うるさい! 俺がどんな目に遭ったと思ってやがるんだ? しかもあいつは
脇坂は男たちを押し除けるようにして、スーツの内側から取り出した何かを龍一たちに向けた。
ぱん、と状況にそぐわない間の抜けた音が響く。
信じられなかった──これまた映画やドラマの中でしか見たことのない小道具。本物の拳銃だ。
まともに狙いもつけず放たれた銃弾は当然大きく外れ、手摺に当たって明後日の方向へ飛んでいった。しかし、問題はそこではなく、
「ほ、本物の拳銃!?」
「平沼さん、ごめん! ちょっとだけ我慢して!」
「え、おああああ!?」
驚きのあまり可愛らしさとは無縁の悲鳴を上げてしまった。
龍一はあさひをひょいと横抱きにすると、軽い跳躍で手摺に飛び乗り、そして水平方向に手摺を蹴った。反動で手摺がバイオリンの弦のように、びいん、と鈍い音を立てて折れ曲がる。
「うわひゃあああああ!?」
あさひの悲鳴が尾を引いて流れる。龍一はそのまま数十メートルを一息に飛び、別のビルの屋上に着地した。脇坂がさらに第二弾を放つが、それはまるで見当違いの方向に飛び去った。
さらに跳躍、また数十メートルが一瞬で後方に飛び去る。あさひはもう声すら出ない。ただ龍一の鼓動と、耳元で鳴る風の音を聞くのみだ。
(こ、怖すぎる……!)
もし龍一が気まぐれを起こして自分を手放そうものなら、自分は数十メートル下の路面へ真っ逆様だ。文字通りぺしゃんこに潰れてしまうだろう。
──そこまで怖いのに、なぜ目を開けてしまったのか。
(えっ……)
一瞬で目を奪われた。いつもの街並みが……まるで精緻なミニチュアのようだった。毎日自分が行って帰ってくる通学路、その途中で通りかかる文房具店やドーナツショップやスーパーが一望で見渡せる。そしてその中を、無数の人々が行きつ戻りつ忙しく動き回っている。その上を飛び去る龍一とあさひなど目もくれずに。
そして遙か彼方の空に、あの〈割れ目〉が、淡い虹色に輝きながら異界の星空を垣間見せている。
すごい。相良くんには、こんなふうに世界が見えているんだ……。
いつの間にか、あさひは驚嘆のあまり怖がるのをやめていた。
やけに心臓の音がうるさい。鼓動が早まりすぎて、それが自分のものなのか、龍一のものなのかわからなくなる。
龍一の体温を感じる。よく考えたら、こんなにも彼に近く接しているのは初めてだ。恥ずかしさはあったが──ただ温かいな、という思いの方が優った。
「平沼さん、気分が悪くなったのか? 大丈夫か?」
急に静かになってしまったあさひが心配になったのか、龍一は一旦、手近なビルの屋上に降り立った。
「少し休もう。無理しなくていい。立てるかい?」
「あー……うん」
目眩はあったが、屋上に足を着けると収まった。気分はさほど悪くない。
「あのね……相良くん」
「あ、うん」
何を言われるのかと神妙な顔になっている龍一に、
「今の、もう一度やってくれない?」
「…………何で?」
「お、おい……何だったんだ今の?」
「天狗か何かじゃねえのか……大体、生身の人間があんな動きできるか?」
「何が天狗だ! ふざけたことを抜かすな!」
自分たちの目が信じられない顔で呆然と呟いている部下たちに、脇坂は怒鳴り散らした。「どこぞの企業が送ってきた
またもや二人の部下は愕然となった。
「脇坂さん……この街にガキのカップルなんて何組いると思ってるんです? 分家どころか、本家から応援呼んだって人手が足りませんよ」
「人が足りないんなら雇え! この街からあいつらを生かして出すな!」
脇坂はひとしきり怒鳴っておいてからなおも腹立ちが収まらないように、力一杯に手摺を殴りつけ、それから顔をしかめた。相当痛かったらしい。
これが白浜市を襲う混沌の始まりだった──この八つ当たり気味の指示が何をもたらすか、脇坂はこの時、全く予想していなかったのである。
【数時間前──海南国際空港ゲート前】
空港のゲートを抜けた〈処刑人〉たちを出迎えたのは、特にこれといった特徴のない30手前の中肉中背の男だった。なまじ醜くない程度に整った顔立ちと、安すぎはしないが大して高くもなさそうな背広とが、その男の印象をより掴みがたいものにしていた。
たが〈処刑人〉は男が身にまとわりつかせている、冷気とも翳りともつかない冷え冷えとしたものを見過ごさなかった。少なくとも、只者ではない。
「本社から商談に来られた方々ですね? お待ちしておりました。
偽名なのかそうではないのか、どちらとも取れる名だ。さすがに往来で〈王国〉だの〈竜〉だの口にしない程度の分別はありそうだった。
「そうだ。ビジネスについての話に来た。よろしく頼む」
〈処刑人〉も、自分たちの素性に関しては具体的には伝えず、会話でも固有名詞はなるべく使わず話すことにしている。
「では、こちらへどうぞ。車を用意してあります」
澤の案内で〈処刑人〉と〈女狩人〉は歩き出した。その後ろから何もかもが珍しいといった調子の〈詩人〉と〈道化〉、相変わらず心ここに在らずといった風情の〈悪魔〉、そして目にするもの何もかもが気に入らない顔をした〈苦行者〉が続く。
傍らの〈女狩人〉が囁き声で問うてきた。「やはり、何の感慨も湧きませんか? 久しぶりの祖国は」
「何度言ったらわかってくれるんだ? もうずっと昔に捨てた国だ」
二度と戻らない、と決意した故郷に戻ってきて何も思わないではなかったが、これからやるべきことが変わるわけでもない。
澤が用意したのは大型のワンボックスカーで、キャンピングカーとしても使用可能らしく、全員が乗り込んでもなお車内空間に余裕がある。これなら兵員輸送車として充分使えるな、と思ってしまうのは、まあ職業病だ。
「皆さんには当面、シロタ化学の旧社員寮に滞在していただきます。老朽化に伴って放棄されたものですが、定期的にメンテナンスを行なっているため、滞在に不自由はないはずです。警備は私どもの息がかかった人間が行なっていますし、民家からも離れているため、無関係な人間に出入りを見られる心配もありません」
「なるほど。俺たちの
「量が多いため数回に分けてですが、第一便は既に運び込んでおります。こちらのリストをご確認ください」
澤から手渡されたタブレット端末に目を通す。物資が大量すぎて、全て運び込めるのに時間がかかるのは百も承知だった。それに第一便だけでも作戦行動は充分に可能なので、文句はない。
「旧社員寮には電気も通っていますし、大型の冷凍庫もありますから、ご注文のありました
「助かる」
何しろあれは
「ある程度広くて、天井も高い建物はあるか? 体育館とまでは行かなくても、車のガレージくらいのスペースは欲しい」
「ガレージはこの車を停めるために使用しますが、社員用のレクリエーションルームがあります。そちらを使っていただければ」
〈処刑人〉は頷く。「充分だ。澤さんだったか、あんたとはいい仕事ができそうだ」
「恐縮です」
実際、〈処刑人〉はこの男を見直していた──あまり下手に出て舐められるのも考えものだが、有能で非の打ち所がない現地協力者をわざわざ敵に回す必要もないだろう。
「俺と彼女以外は日本語がわからないから、何かあったらどちらかに報告してくれ」
本当は〈処刑人〉と〈女狩人〉以外も日本語は理解できる(『復活』の際に脳内へ直接インストールされたからだ──ほとんど喋らない〈悪魔〉にあまり意味はなさそうだったが)のだが、他の隊員には日本語がわからないふりをしておけと指示しておいた。何か思いがけない話が聞けるかも知れないからだ。
「かしこまりました。……ところで、お二人のことを何と呼べばよろしいでしょうか?」
「そうだな……俺は『エス』、こいつは『ハン』とでも呼んでおいてくれ。他の奴は……ま、おいおい考えるさ」
「承知いたしました」
さすがに往来で〈処刑人〉だの〈女狩人〉だの呼び合いたくはない。勝手に自分のコードネームを省略されて、〈女狩人〉の視線がやや冷たくなったような気がしたが。
軽い電子音が鳴り、澤がハンドルを握ったままスマートフォンを耳に当てる。
「失礼します。……どうした?」
〈処刑人〉は、澤が顔の筋肉を微かに動かすのを見た──漣のように目立たない反応だが、初めて彼が見せた表情らしい表情だ。
「……わかった。脇坂さんには俺から話しておく」
「トラブルか?」
「そんなところです。込み入った話になりますので、到着後にまた改めて」
この男らしくない言い方だった。気にはなったが、〈処刑人〉はあえて追求しなかった。後で話すと言っているのだから、それを待てばいいだろう。
【現在──白浜商店街】
「あの脇坂って男には、シロタ化学の経営戦略部長って肩書きがある。その肩書きは本物だけど、それが彼の全てじゃない。元々は関西系列広域暴力団・荒神会の
龍一とあさひは暮れなずむ街を歩き出していた。脇坂たちの追手を充分に撒いただろう、と地上に降り立ったのは、ほんの数分前である。
「……シロタ化学って、
あさひはつい、傍らを歩く龍一の横顔をまじまじと見てしまった。
「君が言っているのが
「うん、私のクラスにもお父さんがシロタの重役だって人が何人もいるよ。
「簡単な理由だよ。シロタが彼のような人間を必要としているからさ」
「会社って、確か暴力団と関わりを持ったらダメなんだよね? 法律違反になるし、破ったらすごいペナルティがあるって聞いたよ」
「うん、間違いなく会社がやっていけなくなるくらいの社会的制裁があるだろうね。刑事罰に問われなくても」
「だったらどうして?」
「誰も罪を問わないからさ」
また龍一の顔をまじまじと見てしまった。通りすがりの主婦が、あら、と口元に手を当てて通り過ぎる。もしかして仲睦まじいカップルとでも思われているんだろうか。
「〈
警視庁の犯罪予測システム〈虚空〉が諸手をあげて歓迎されたのは、これから起こる犯罪だけでなく、犯罪を知りながら見過ごす警官をも摘発したからである。事実、これによって犯罪自体も、そして警察全体の不祥事も激減した。
「犯罪予測システムが察知するのは、強盗や殺人みたいな『わかりやすい』犯罪で、どういうわけか詐欺や金融犯罪みたいな『わかりにくい』犯罪には
龍一の顔に冷たい笑いが浮かんだ。今までに見たことのない寒々とした笑みだった。
「置き引きや強盗みたいなわかりやすい犯罪が減っただけで、犯罪そのものは無くなっちゃいない。よりわかりにくく、より陰湿な形態に移行しただけだ。俺はヨハネスに追われて世界中を逃げ回りながら、そういう欺瞞を嫌になるほど目にしてきた。本当に嫌になるほどに」
「じゃ、この街で……ううん、全国的に犯罪が減っていっているっていうのは?」
「
あさひの手前か、トーンこそ抑えてはいたが──龍一の言葉には、隠し切れない怒りが籠っていた。
彼の本物の怒りを、初めて見た気がした。
あの頃の龍一は常に泰然自若としていて、どんな陰口を叩かれようと、苦笑するばかりで怒ることはなかったのに。
「平沼さんにはあまり知ってほしくないけど……この世には、警察やヤクザとは比べ物にならないくらい怖い連中がいるんだよ」
「信じられないけど、相良くんが言うんなら信じるよ。でもそのことと、あの脇坂って人を拐ったのは、君のお母さん探しとどう関係があるの?」
当然の疑問だな、と龍一は頷く。
「
「う、うん」
改めて聞くとヘビーな話題である。龍一の態度に救われてはいるけど。
「調べたところ白木透子と、シロタの創立者の娘は、どうも遠い親戚らしいんだ。彼女の名は
「へえ……」
思わぬところで思わぬ名前が出てきて、あさひはつい感心してしまったが、
「待って。じゃあ、もしかして相良くんは、その白田っていう人が
龍一は破顔した。これまた昔の彼からは想像もできなかった表情だ。
「さすが平沼さんだな、その通りだよ。ついでに言うと、白木透子と白田紗枝は同じ大学の同じ学部で、かなり親しかったんだそうだ。もっとも、遠い親戚という以外に接点のなさそうなあの人とシロタの社長令嬢がどう親しくなったのか、具体的にはわからないけど」
何だか、そんなふうに家族以外の他人から褒められたのはいつぶりだったのだろう──そんな場合じゃないのにどきどきしてしまう。
「要するに彼女の行方を探すことは、そのままシロタの社史を紐解くこととイコールでもある。あの脇坂が居場所を聞かれただけで、大慌てしたのがその証拠だ」
「うーん……」
頭の中を整理するだけでも一苦労のあさひである。信じがたくはあるが……信じないと先へ進まない類の話だ。
「それじゃ、探すにも方法を考えないと……」
「待った」
手で制されてまたもやあさひの心臓がびくりと跳ね上がる。龍一の顔を見ると──表情に遊びがない。
「平沼さん。何も聞かず、今から俺が言う方向を顔を向けずに見て。左手30メートルくらい、理髪店とパン屋の境だ」
「うん……」
言われた通りに視線だけ向けるのは一苦労だったが、あさひは絶句した。
まともな連中ではない、といちいち断るのも馬鹿馬鹿しい男たちだった。どこで求めればそんな代物が買えるのか不思議に思えるほど趣味の悪い、どぎつい柄のシャツを着た男たちが数名、じろじろと通行人に不躾な視線を投げかけている。通行人たちは居心地悪そうに足早に通り過ぎていく。
「何あれ……もしかして、私たちを探してるの?」
「急に方向を変えると怪しまれる。こっちだ」
急に肩に手を置かれて飛び上がりそうになるが、そんな場合ではないと思い直す。
気がつけば、まともではない風体の男たちが往来にだいぶ増えた気がする。
龍一の苦笑する気配が伝わってきた。「手を出さなければ、お巡りさんにしょっ引かれることもない。利口だな。……俺に歩調を合わせて。経験から言うと、
「う、うん」
不思議だ。身長が頭一つ違う龍一と歩幅を合わせるのは容易ではなかったが……歩いているうちに、何だか落ち着いてきた。あの男たちが視線を投げかけてきた時は悲鳴を上げそうになったが、すぐに興味なさそうに逸らされた。
「皆のところへ、あんなヒモを付けて直行はできない。どこかで撒かないと」
「皆って、相良くんの……仲間のこと? なんか凄い人たちが一緒にいるって聞いたけど」
元女子アーチェリーのオリンピック候補の人とか、世界最高の暗殺者だとか、聞くだけで潰しの効かなそうな経歴の人ばっかりだ。そんな人たちと毎日を過ごすのは、一体どんな気分なんだろう。
「ああ、君にもおいおい紹介するさ……うん?」
龍一の視線の先、商店街の一角に、何か人だかりができている。
「どうしたんだろ? 何かあったのかな?」
「……誰か来てください! 具合の悪い人がいるんです!」
切実な叫び声に、龍一とあさひは顔を見合わせた。
今の自分たちは探索中で、何より逃亡中だ。知らない顔をして通り過ぎるのが一番利口だろう。
だが二人は互いの顔を見つめ、そして頷き合っていた。
「行ってみよう」
「うん。……あれ、でもこの声、どっかで聞き覚えがあるような?」
──少し前。
「平沼先輩、今日もありがとうございました!」
「お疲れ様。あんたたちも気をつけて帰ってね」
手を振る後輩たちに別れを告げてから、まひるはさてこれからどうするか、と思案した。まっすぐ家に帰るのは無難ではあるが、面白くない気もする。
(お菓子でも買って帰るか……)
あんまりたくさん買うと姉が全部食べてしまうから程々にしないと、と自分に言い聞かせる。特にスナック菓子。まひるもスナックは嫌いではないが、姉のそれは少々度が過ぎている気がする。それで食べた分だけ運動するんならまだしも、食っちゃ寝食っちゃ寝でころころしているんだからどうしようもない。駄目姉め。
空の彼方に目を凝らしてはみたが、今日は曇天のためか未真名市上空の〈割れ目〉はよく見えない。天気さえ良ければ、ここからでも観測できるのだが。
(日本の名物、富士山よりもすっかり〈割れ目〉になっちゃったね……)
おかげで海外からも物見高い観光客が殺到しているらしい。よかったとも悪かったとも判断しづらい話だ。
観光名物になっているくらいなら、まだマシかも知れない。
(カンブンが『世も末だ』って嘆くの、愚痴ばかりでもないよね)
やたらマナーにうるさくて古代に思い入れのありすぎる漢文の教師(思い入れがありすぎて自らが口にした漢詩の美しさに陶然となり、クラスの全員から『授業は?』と苛立ちの籠った視線を向けられる)は皆の嫌われ者だったが、言うことが間違っているわけでもない。
空に別世界への〈割れ目〉が現れ、〈竜〉が艦隊一つを海底に沈める。これ以上何が起きるんだろう……自分でも意味のわからない寒気に、まひるは身を震わせる。
──それを感じ取ったのは、勘としか言いようのないものだった。
何とも言えない嫌な予感──クラスの男子たちがいつものように悪ふざけをしていたら、いきなり先生が教室に入ってきて見たこともないような勢いで怒り出す寸前のような。
(悲鳴……?)
何かの──あるいは誰かの。
まさか、と思う。警視庁の犯罪予測システム〈虚空〉が稼働して以来、全国的に殺人や強盗はおろか、スリや置き引きでさえ大幅に減少しているのだ。唯一の例外は隣の未真名市ぐらいで──まあ、あの街は犯罪よりも〈割れ目〉で大変なのだが。
(まさかだよね……猫か何かの悲鳴だよね)
だが、もしその
曲がり角を曲がったまひるは、そこで信じられない──そして信じたくないものを目撃した。
人気のない──人気がないというだけで砂場と滑り台、それにベンチがある程度の小さな公園である。公園はどこにでもありそうだが、起こっている出来事は尋常ではなかった。
まひると同年代の女生徒を、二人組の男が近くに停まっているワゴンに引きずり込もうとしていた。男たちの顔は妙にのっぺりとした灰色のマスクで隠されており、そのせいでまひるは出来の悪い舞台劇を見ているような錯覚に陥った。
(嘘でしょ!? あいつら、犯罪予測システムが怖くないの……!?)
愕然としたまひるの耳に、男たちの声が聞こえてくる。
「急げよ! このマスク、5分間しか効かねえんだぞ!」
「わかってるって……くそ、暴れるんじゃねえ! それより、カップルじゃなくっていいのか?」
「知るかよ! ろくに前金さえ寄越されねえ仕事だぞ。このくらいの役得なくてやってられるかよ! 〈虚空〉を出し抜けるってんだったら、やらねえ手はねえだろうが! おい、エンジンかけとけよ!」
最悪だ──前後すらろくに考えられない行き当たりばったりの犯行なのに、使っている道具は本物だ。
(こいつら、犯罪予測システムを欺く用意がある……!)
通報──通報しないと、だが間に合わない。男たちは既に女生徒を引きずりながらワゴンのドアを開け放っており、今にも発進しそうだ。
迷っている暇はなかった。女生徒を捕らえている男の顔面に向けて、思い切り鞄を投げつける。男が怯むが、手を離すには至らない。一か八か、まひるは全力で男に体当たりした。
「逃げて! 誰か呼んできて!」
「何だ、こいつ……この!」
不意打ちが功を奏し、男たちは反射的に女生徒を放してしまった。
女生徒は蹴飛ばされたように駆け出していく。あとは自分が逃げれば万々歳だ──走り出そうとして、
「いっ……!?」
「このガキ……ふざけやがって!」
ポニーテールを掴まれて、思い切り引き戻された。防犯ブザーは──投げつけた鞄の中だ。拾い上げようにも髪を掴まれていてはどうしようもない。
「間抜けが! 逃がしちまったじゃねえか。仕方ねえ、代わりにこのガキを拐ってくぞ」
「嫌だ! 放して! 誰か助けて!」
叫ぼうとして、掌で口を塞がれた。そのまま力任せにずるずると引きずられていく。
「さっさと車ん中に引っ張り込め! おい、エンジンかけとけって言ったろうが!」
まひるがいくら体力に自信があっても、相手は大の男二人組だ。力比べになったら勝てるはずがない。
目の前が真っ暗になりそうだった。毎日のニュースで他人事のように消費していた凄惨な事件の数々が脳裏をよぎる。こんな形で、自分がその犠牲者になるなんて……絶望が手足の先から全身にじわじわと広がっていく。
救いは意外なところから来た。
唸りを上げて飛んできた拳が、まひるを車内に引きずり込もうとしていた男の顔面に深々とめり込んだ。男がまるでボウリングのピンのように吹き飛び、割れたマスクの破片と、血混じりの唾液と、折れた歯が冗談のようにゆっくりとまひるの眼前で舞う。
男を殴り飛ばした誰かの動きは止まらない。驚きで硬直している運転席の男の後頭部を掴み、その顔面を力一杯ハンドルに叩きつけた。硬めの果実でも叩きつけるような音と、状況から考えれば間が抜けて聞こえるクラクションの音。
「んだ、てめえ……!?」
最後の男はある程度格闘技の心得でもあるのか、まひるを突き飛ばして拳を繰り出す。だがその影は軽くスウェーバックして拳を交わし、事もなげに男の足を払って転ばせた。立ち直る隙すら与えず、右足首を掴んで思い切り捻る。
人間の足首がドアノブのように回るところなど、まひるは生まれて初めて目にした。
「ぎ……!」
絶叫の形に開かれた口に向けて、軍靴のように頑丈そうなブーツの靴底が叩き込まれた。歯の折れるくぐもった音が聞こえ、男は完全に黙る。
ものの数秒で男たちは気絶するか、意識はあっても悲鳴すら上げられない状態になっていた。少なくとも自力で立ち上がれないのは確かだった。
へたり込んだまま、まひるは呆然とその巨大な影を見上げていた──空手、柔道、テコンドー、中国拳法……まひるが今まで見てきたどんな格闘技とも違う。格闘というより、人間の肉体をどれほど速く効率的に壊せるかに特化した機械の動きを見ているようだった。
「立てますか?」
静かな声だった。巨大な影が、まひるに向かって大きな掌を差し出していた。
燃えるような緑色の両眼を持つ、漆黒の肌の女が。
本物の雌虎と向かい合っているような緊張感があった。女の目も声色も穏やかだったが、その気になればあの男たちのように容易くまひるを八つ裂きにできることは確かだった。何しろ、雌虎なのだから……。
手を握り返そうとして──まひるは躊躇った。女の掌には、生々しい鮮血がこびり付いていた。
女もそれに気づいたのだろう、ややばつの悪そうな顔で掌を引っ込めた。
「ご無事ならいいんです。もうすぐ警察も来るでしょう。ではこれで」
「え……待ってください! 私、まだお礼も言ってません!」
まひるは弾かれたように顔を上げた。あのまま誰も来なかったら本当に車内へ連れ込まれていたところを、それでは、で見送るのはいくら何でも情がなさすぎる。
「お礼を言われるようなことは何もしていません。あなたの危機を褒められない方法で救っただけです」
「そ、それはそうですけど……」
まひるは困ってしまった。目の前の女が、名前さえ告げず本当に立ち去りそうだったからである。ここまで劇的に危機を救ってくれて、かつ礼を聞く間も惜しいとばかりにふらりと去ろうとする相手など、生まれて初めてだった──そもそもまひるに頼まれて、なおかつそれを拒絶する相手など、両親や姉も含めて初めてだった。
かと言って無理やり引き止めるのも、これまた礼儀知らずではある……困り果てていたまひるは、そこで女の様子のおかしさに気づいた。
彼女は棒立ちになっていた──まるで凍りついたように。
「どうしました?」
まひるは女の視線の先を追ったが、ちっぽけな遊具があるだけで何もない。
だが女は一秒たりともそこから目が離せないようだった。まるでそこに恐ろしい獣がうずくまっているかのように。
「メアリ・バーキンズ……」
女の食い縛った歯の間から漏れた言葉は、確かにそう聞こえた。
エレオノーラ・シェルストック、親しい者からは「ノーラ」と呼ばれている女の目には、確かに滑り台にもたれかかり、にやにやと笑っている女が見えていた。本当はそこに誰もいないと頭ではわかっているのに、ノーラはその女から目を離せなかった──非機械的仮想現実。
その女が口の端からだらしなくぶら下げた、恐ろしく太い葉巻の独特の芳香まで漂ってくるようだった。
『おやおや、ずいぶん情感たっぷりに私の名前を呼んでくれるもんじゃないかい? 私はあんたの頭の中の幻じゃなかったのかい?』
燃えるように逆立つ黄金色の頭髪。そして密林の雌虎を思わせる、鮮やかな緑の両眼。
一度も会ったことはない女なのに、ノーラは彼女が誰なのかを知っている。
メアリ・バーキンズ。米国第6特殊作戦軍・心理作戦遂行ユニット、通称〈
「
少女ゲリラ〈ヴィヴィアン・ガールズ〉を率いて武装蜂起し、警察・自衛軍の合同掃討部隊を壊滅させ、六本木を燃やし尽くした女。米特殊作戦軍発足以来の伝説──そして永遠に醒めない悪夢の象徴。
ずいぶんな言われようだね、とメアリは肩をすくめる。まるで本物の生きた人間のように。
「あなたは……私の脳が生み出す……幻に過ぎない」
ノーラが軋るように歯の間から絞り出したその言葉は、メアリに鼻で笑われただけだった。
『その通り。私はただの幻だよ、
「家賃? 私の母さんの命は……家賃とやらの対象外か?」
メアリは──メアリの幻は腕組みこそしていたが、やや神妙な顔になった。
『あれに関しちゃ、私も気が咎めないでもないよ。私がもっと早く目を覚ましてりゃ、もしかしてあんたの母親は生きてたかも知れないからね。もっとも……』
メアリの目が細くなる。狩りをする寸前の獣の目。
『私に言わせりゃ、あんたの母さんとやらも〈
「言うな……!」
ノーラの苦鳴をメアリはまたも鼻で笑い、そして呆気に取られているまひるの方を見た。
『それにしても、何て
「……こっちです、お巡りさん! 早く来て!」
路地の入り口で足音が入り乱れた。
『時間切れのようだね。それじゃ、逃げるなり殺すなり好きにしな』
「しっかりして! 私の手を握って!」
──いつの間にか、ノーラの手をまひるが懸命に引っ張っていた。
「ついてきて! 走って!」
よろめくようにして、まひるとノーラは陽光の下へ這い出た。
「す、少し休憩しましょう。もう走れない……」
二人は息も絶え絶えになって手頃なベンチに座り込んだ。埃まみれの制服を着た女子中学生と、見上げるほど背が高い黒人女性の組み合わせは嫌でも人目を引くのだが、もう構っていられなかった。一休みしなければ一歩も動けない。
「ごめんなさい。あなたまでお尋ね者になってしまった」
女は別人のようにしょげかえっていた。その様子と「お尋ね者」という大仰な言い回しがおかしくて、まひるはつい吹き出してしまう。
「謝らないでくださいよー。まあ、お巡りさんから逃げたのは後々面倒になりそうですけど……あなたは私を助けてくれただけなんだし、私だって別に悪いことしてないんですから。最悪でも厳重注意くらいで済むでしょ。えーと」
「ノーラ」
「え?」
「エレオノーラ・シェルストック。親しい者はノーラと呼びます」
「ノーラさんね。私は平沼まひる。助けてくれてありがとう」
まひるは改めて手を差し出し、ノーラはそれに応じた。大人と子供ほどもサイズの違いがある握手だった。
──まずいことになった、がその時のノーラの正直な心象だった。
行きがかり上つい助けてしまったが──あのクズどもは顔面を叩き潰しでもしない限り、止まりはしなかっただろう──これから取るべき行動を考えれば、あまり親しくなるのも考えものだ。かと言ってこの雛鳥のような、ノーラがその気になれば片手で捻り潰せそうな娘と何を話せばいいのかなど、さっぱりだった。
「ノーラさんは何しに日本へ来たんですか? 観光?」
一番答えにくい質問が来た。適当に煙に巻いて誤魔化せば問題ないのだろうが、悲しいかな、ノーラはその手の話術が最も苦手だった。
「……悪を滅ぼすためです」
「あくをほろぼす」
まひるは目を丸くし……次の瞬間、ぷっと吹き出した。
「ごめんなさい、笑ったりして。ノーラさん、うちの姉と話が合いそうだなって思ったんです」
「お姉さんがいるんですか? あなたのように勇敢な娘さんのお姉さんなら、きっと素晴らしい人なんでしょうね」
「とんでもない!」
まひるはぶんぶんと頭を振って否定した。犬が尾を振るような勢いでポニーテールが揺れる。「本当にどうしようもない人なんですよ! 馬鹿でビビリでヘタレで、何かあるたんびに『私なんか……』とか言って周りをイライラさせるくせに、変なところで自信家でしょっちゅう無謀な挑戦をしては失敗して半分ベソをかいて帰ってきて、趣味と言えば頭のパックリ割れたゾンビが襲ってくるような趣味の悪いゲームか、怪獣や巨大ロボがたくさん出てくる変なアニメばっかりで、食べてばかりで運動もせずころころして寝てばっかりで……」
そこまで一息に喋ったまひるは、呆気に取られたノーラの顔を見て我に返った。瞬時に顔を伏せて小声で付け加える。
「……でも私のたった一人のお姉ちゃんなんです」
「お姉さんのことが好きなんですね」
「大っ嫌いです。あんなどうしようもないお姉ちゃん」
伏せた顔は真っ赤になっていた。ついでに頬までぷっくりと膨れている。
「私は母一人、子一人の家で育ったので、少し羨ましくはあります」
「いやいや。いたらいたで、結構うっとおしいですよー」
「……かも知れませんね。私も生前の母とは、あまり仲が良くありませんでした」
まひるは平手打ちを喰らったような顔になった。いや、本当に平手打ちを喰らってもそうはならなかっただろう──あの男たちでさえ、彼女にそんな顔をさせることはできなかったのに。
「いなくなればいいと思っていたら、その通りになってしまいました。想像していたよりも、ずっと早く」
「ごめんなさい。私、そんなつもりで……」
「お気遣いなく。ずっと昔の話ですから、心の整理はついています」
嘘である。思い出にするにはあまりにも生々しい記憶だ。だが別人のようにしょげ返っているまひるをそれ以上落胆させる気にはなれなかった。
「あの……ノーラさん」
「はい」
「私も、あなたのお手伝いができませんか?」
「どうして?」
「私、力になりたいんです。助けてくれたお礼に」
ノーラは一瞬だけ口元を緩め、しかしすぐに引き締めた。
「お礼など考える必要はありません。私がこれから戦おうとしている相手は、あなたが考える何倍も強く、狡猾で、邪悪なんです。あの男たちとは比べ物にならないほど」
「でも」
まひるは何か言おうとして、黙った。ノーラの手で優しく頭を撫でられたからである。ノーラ自身が驚くほどにそっと。
「むしろ、私があなたに礼を言うべきなのかも知れません」
少なくとも自分の進む方向は間違っていない──そう確信させてくれたのだから。
「そろそろ行きます。あなたもそろそろ家にお帰りなさい。これ以上おかしなことが起こらないうちに」
そう言って立ちあがろうとして。
不意に違和感を覚え、ノーラは掌を見た。傷ひとつないはずの掌に、生々しい鮮血がべっとりとこびりついている。
「何だ……?」
呆然とそれを見るノーラの掌に、さらに大量の血が滴り落ちた。全てノーラの鼻から溢れ出た血だった。
あっという間に掌からこぼれ落ちた大量の血が、足元にばしゃばしゃと音立ててこぼれ落ちる。目の前を通り過ぎようとしていた人々が、悲鳴を上げて彼女から飛び退いた。
「ノーラさん!?」
血が止まらない。まるで蛇口でも捻ったかのような勢いだった。ノーラはたまらずその場に膝をついた──急速に血を失いすぎて視界が暗くなっていく。鼻の穴が完全に塞がって息ができない。
『具合が悪いみたいだね。
暗くなる視界の中でまたしても──あのメアリ・バーキンズが、恐々と遠巻きにこちらを見ている通行人に混じってせせら笑っていた。
「あなたの……仕業か!」
さも不当な言いがかりを聞いたと言わんばかりに、メアリは片眉を上げた。『もう自分でもわかっているんだろう? 私とあんた、メアリ・バーキンズのスペアとしての肉体と〈竜〉の心臓。今のあんたの身体は、4人だか5人だかが内側で一度に暴れ回っているようなもんなんだ。鼻血ぐらいで済めば、むしろ儲け物なんじゃないかい?』
抗議しようにもどうにもならなかった。何しろ相手は脳が生み出す幻影なのだ──私は自分の血で溺れかけている。
「……しっかりしろ! これを飲んでくれ!」
暗くなる一方の視界で、誰かが何かを握らせてくれた──ペットボトルの冷たい感触。
一息に飲み干した。むせて大半を盛大に吐き出してしまったが、息はできるようになった。
井戸の底から空を見上げたように、視界がクリアになる。
そこにノーラは、憎んでも憎み足りない男の顔を見出した。
「……相良龍一」
「えっ?」
幸か不幸か、傍らのまひるたちはその会話を聞いてはいなかった。
「ノーラさん、しっかりしてください! ……誰か来てください! 具合の悪い人がいるんです!」
まひるは必死でノーラの鼻血をタオルで押さえようとしたが、そんなもので止まる量でもなかった。布切れが見る見るうちにどす黒く染まっていく。
「こ、これ使ってください!」
もう少しで泣きそうになっていたところへ、傍らからハンカチが差し出された。
「ありがとうございます……え?」
見覚えのあるハンカチだな、と思いながら顔を上げて目に入ってきた顔は、見覚えがあるどころではなかった。
呆気に取られて、二人の少女は見つめ合う。
「まひる?」
「……お姉ちゃん?」
全くの余談ですが、まひるを拐おうとした男たちの着けていたマスクは「素顔よりは犯罪予測システムに摘発される時間を遅らせられる(逃れられるとは言っていない)」程度の効力しかない、言わば犯罪業界の詐欺グッズです。
倫理なき集団は身内をも食い物にするのです…