召喚士ワイ、召喚物が強すぎて最強だと勘違いされている 作:夢女子サクラ
湿り気を含んだ冷たい空気が、肌を激しく撫でていく。
カビと腐臭、そして微かに混ざり合う魔力の臭い。薄暗い迷宮の通路で、俺――一条蓮は泥の浮いた石畳に膝を折り、荒い息を吐き出していた。
「はぁ、はぁ、つっ、痛たた」
打撲した背中を撫でながら、何とか体を起こす。
手にしていた安物の電灯を照らすが、光は暗闇に吸い込まれるばかりで、自分の周囲数メートルしか状況を教えてくれない。
汚れた手の甲で頬の泥をぬぐいながら、俺は暗闇に向かって小さく吐息を漏らした。
冷たく湿った空気が喉を掠め、嫌な感覚とともに現実を引き戻してくる。
そもそも俺が探索者なんて危険な資格を取り、このダンジョンへ足繁く通うようになったのは、ちょうど去年の春のことだった。
大層な野心や正義感があったわけじゃない。目的はどこまでも現実的で、切実すぎる理由――日々の貧しい生活費と、大学の学費を稼ぐためだ。
親からの金銭的な援助はなく、頼れる身寄りすらない貧乏学生の身。一人暮らしを始めてすぐに、世の中の厳しさを思い知らされた。
居酒屋とコンビニのバイトを掛け持ちして寝る間を削ったところで、毎月のように押し寄せてくる家賃や跳ね上がる光熱費、そして容赦なく迫る大学の納付金の波を叩き伏せることなどできはしないのだ。
支払いに追われ、銀行口座の残高と睨めっこする日々に限界を感じていた俺は、藁にもすがる思いでダンジョンへ挑む決断をした。
一獲千金の夢を見て意気揚々と潜り始めた迷宮だったが、突きつけられたのは残酷な現実だった。俺の探索者としての才能は、あまりにも平庸だったのだ。
この一年間、俺が安全に探索できたのは初心者向けの低級ダンジョンであり、それも命の危険が少ないごく浅い上層領域だけ。
強いモンスターと戦う度胸も力もない俺にできたのは、他の優秀なパーティーが通り過ぎた後を追いかけ、泥にまみれて小さくて安い魔石や拾い残された素材をかき集めることくらい。
そうやってプライドを捨てて這いずり回り、なんとか今日を生き延びるためのわずかな日銭に変えるのが関の山だったのだ。
それなのに――。
「なんで上層の浅い通路に、最下層行きのトラップなんて仕掛けられてるんだよ」
ガチガチと歯の根が合わなくなる。
足元の落とし穴。いや、正確には空間の歪みを利用した悪質な転移トラップを踏み抜いてしまったのだ。
この低級ダンジョンには浅層の平和さとは裏腹に、不穏な噂が常に付きまとっていた。
上層こそ駆け出しの訓練場だが、中層以降は急速に難易度が跳ね上がり、ベテランのB級探索者ですら足を取られる危険地帯へと変貌する。そして噂の最たるものが、このダンジョンの最深部――最下層に関する都市伝説だった。
かつて、この街で名を馳せた有名探索者パーティーであるシルバーエレンが最下層へ足を踏み入れ、そこに潜む三つ首の邪龍に半壊させられて敗走したという話。
B級の上位に数えられた彼らですら手も足も出なかった悪夢の領域。
俺はいま、その都市伝説の真っ只中に放り出されてしまったのだ。
足元から伝わる振動が、徐々に大きくなっていくのが分かった。地鳴りだ。巨大な何かが、この暗闇の奥からこちらに向かって歩みを進めてくる。
空気が重く、息を吸い込むことすら苦しい。視界の端で、濃密な紫色の魔力が渦を巻いている。
闇の奥から、ヌリと姿を現したのは、山と見紛うほどに巨大な三つ首の邪龍だった。
三つの頭部がそれぞれ異なる眼光を放ち、俺という矮小な存在を冷酷に見下ろしている。
「グルオオオオオオオオッ!!」
空間全体を震わせる咆哮。
それだけで物理的な衝撃波となり、俺の体は岩壁へと激しく吹き飛ばされた。背中に走る激痛に息が詰まる。
死ぬ。こんなところで、家賃の支払いすら残したまま終わるのか。
死の恐怖が、麻酔のように頭の中を真っ白に染めていく。
ポケットに突っ込んだ手が、なけなしの魔石や触媒の類を探すが、手応えは何もない。
15歳で覚醒した俺のスキル、霊装召喚。
召喚する対象の格に応じた高価な触媒を必要とする、超巨大な欠陥スキルだ。触媒を買う金などあるはずもなく、去年探索を始めてから今日に至るまで、俺はこのスキルをただの一度も発動させたことがなかった。
「来るな、来ないでくれええええええっ!!」
俺は地面に伏せ、狂乱しながら床を叩いた。
なりふりなど構っていられない。失敗続きだった欠陥スキルに、体内に残ったすべての魔力を、一滴残らず注ぎ込む。
「——ああもうどうにでもなれ! 霊装召喚ッ!」
無我夢中で叫んだその瞬間、いつもなら何も起きずに空回りするはずの魔力が、恐ろしい勢いで俺の体から抜け出していった。
それだけではない。最下層の広大な空間に充満していた紫色の魔力が、まるで巨大な渦のように暴風を巻き起こしながら、俺のもとへと一気に収束し始めたのだ。
突如として、俺が座り込んでいる足元の地面に、直径二メートルほどの精巧な黄金の魔法陣がまばゆく展開された。
光の奔流が暗闇を一瞬で塗りつぶし、迫り来ていた邪龍がその異常な光の密度に思わず足を止める。
激しい光と放電のような音が収まったとき、俺の膝の上にずっしりとした温かい重みが乗っていた。
「ふあぁ……。ん? ここ、どこ……?」
魔法陣の中心、俺の膝の上にべったりと体をあずけ、小さな手で眠そうに目をこすりながらポカンと周囲を見回す小さな女の子。
赤髪のツインテールを揺らし、ダボついた服の隙間からは小さな赤いしっぽが見え隠れしている。頭からは、ちょこんと可愛らしい竜の角が生えていた。
見た目は十二歳前後。ダンジョンになどいるべきではない、場違いにもほどがある少女の姿だった。
美少女? 俺のスキル、召喚に成功したのか? でもなんで膝の上で寝てるんだ。
状況のあまりの飛躍に、俺の思考は完全にフリーズしていた。
少女は俺の膝の上でゴロゴロと体勢を変えながら、寝ぼけ眼で目をパチパチとさせた。
小さなあくびをひとつ漏らし、まだ半分眠気に溶けた黄金色の瞳で俺の顔をジロジロと見上げ、小さく鼻を鳴らす。
「んむ……。きみは、にんげん?」
「え? あ、ああ、俺は人間だけど」
「ふあぁ。本物の人間かぁ。フレアはね、なんとかっていうドラゴンだよ」
「ドラゴン……?」
確かに、爬虫類っぽい尻尾や、小さな角は生えているが、どうみてもただの幼女にしか見えない。しかし、どうやら彼女は、丁度目の前にいる三つ首と同じ龍種らしい。
頭の横のツインテールを引っ張りながら寝癖を気にしつつ、直前まで眠っていたのか、まだ半分ぼーっとしている。
特別に安息しているわけでもなければ、警戒しているわけでもなく、寝起きの生返事で俺を見つめている。
だが、まどろみに浸っている余裕など一秒もない。
「——グルルルル」
俺たちのやり取りを不快そうに見下ろしていた三つ首の邪龍が、長い首をしならせ、口元に禍々しい紫色のブレスを溜め込み始めていた。
忘れていた死の恐怖が、一瞬で背筋を駆け上がる。
「しまっ! 逃げろ!」
俺は咄嗟にフレアを庇おうと手を伸ばしたが、彼女は俺の手をすり抜け、膝の上からするりと抜け出して、身を起こして頭上の巨大な影を見上げた。
その瞬間、目をこすっていたフレアの琥珀色の瞳からすっと眠気が引いていき、パッと輝きを放つ。
「——美味しそう」
「へ?」
思わず間抜けな声が出た。
美味しそう? この、B級パーティーを壊滅させた悪夢のモンスターが?
フレアはまだ少し寝ぼけた足取りで俺の膝から降りると、獲物から目を離さないまま俺に問いかけた。
「ねえ、人間! あれ、フレアが食べてもいい?」
「た、食べるって、相手はドラゴンだぞ!? 逃げないと、」
「どうして? フレアの方が強いよ?」
「は、は?」
目の前の巨大な肉の塊が、たまらなく美味しそうな獲物に見えたらしい。
フレアが少し気怠げに、だが楽しそうに小さな両手を前へと掲げた。
次の瞬間、空間そのものが激しく鳴動した。
彼女の眼前に、ダンジョンの天井から床までを覆い尽くすほどの、巨大な赤と金の三重魔法陣が瞬時に展開される。
瞬間、爆音が鼓膜を破らんばかりに響き渡り、世界が真っ白な熱風に包まれる。
「ぎゃああああああああっ!?」
一瞬にして周囲の酸素が爆発的に消費され、絶望に満ちていた最下層全体が、まるで太陽の内部のような灼熱の世界へと変貌した。
かつて無数の探索者を絶望させ、シルバーエレンすら退けた三つ首の邪龍は、反撃どころか悲鳴を上げる隙すら与えられず、一瞬にして香ばしい匂いを漂わせる黒焦げの丸焼きへと変えられてしまったのだった。
熱風が収まり、周囲に沈黙が戻る。
見渡す限り黒焦げになった巨大な洞窟の中央で、山のような邪龍は、見事なまでに美味しそうな煙を上げる巨大な肉塊へと姿を変えていた。
「わぁあ」
黒煙がたなびく中、すっかり目が覚めた様子のフレアは嬉しそうに手を叩くと、俺のことなど気にも留めず、ホクホクと湯気を立てる巨大な丸焼き肉へとトコトコ駆け寄っていった。
「え、えぇ……?」
俺は石畳の上にへたり込んだまま、ただ口を開けて呆然とするしかなかった。