ある日、ふと上司の顔を見た瞬間、胸の奥に嫌な予感が走った。
その男は管理者としてまとめる立場にあり、口を開けば決まって「生徒のため」「一人ひとりに寄り添うことが大切だ」と耳障りのいい言葉ばかりを並べていた。
立派な理念だ。
表向きだけを見れば、何ひとつ間違っていない。
けれど、その言葉の裏にあるもの自分は察してしまった。
面談件数。
継続率。
合格実績。
紹介数。
結局はそういう数字だ。
生徒の成長を語りながら、実際に見ているのは成果表と売上の推移ばかり。
現場の負担や生徒一人ひとりの事情よりもどれだけ数字を積み上げられるか。
どれだけ「結果」を出したように見せられるか。
そのためなら綺麗事をいくらでも口にする。
理想論を掲げて人を動かそうとする。
教員時代に何度も見せつけられたあの嫌な空気と同じだった。
胸の奥で何かが静かに軋む。
また同じなのではないか。
違う場所を選んだはずなのに結局は似たような綺麗事に縛られ、その裏で数字だけを追わされるのではないか。
そんな不安が、まだ何も起きていないうちから、じわじわと自分の中に広がっていった。
◆
気づけばあれから数年が経っていた。
最初は胸の奥で燻り続けていた不安も忙しい毎日の中で少しずつ薄れていった。
正確には消えたわけじゃない。
見ないようにしていただけだ。
それでも、この場所では確かに手応えがあった。
自分は勉強を教えるだけの講師ではなかった。
学生時代から少しだけ得意だった、人の話を聞いてその人自身も気づいていない長所や適性を見つけること。
その特技は塾という環境で思った以上に生きた。
進路に迷う生徒。
家庭の事情を抱えた生徒。
成績ではなく、自分自身に自信を持てない生徒。
そんな子どもたちの話を聞き、一緒に考え、ときには授業が終わったあと何十分も雑談を続けることも珍しくなかった。
「先生だから相談できた」
その一言をもらえるたび、教師を辞めたことは間違いではなかったのかもしれないと少しだけ思えた。
授業だけではない。
人と人との関係を築けているという実感がそこにはあった。
そんなある日だった。
教室長から面談に呼ばれた。
「管理職をやってみないか」
突然の打診だった。
教室をまとめる立場。
講師を育て、売上や運営にも責任を持つ、今の上司と同じ管理者としての役割。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが小さく軋んだ。
また現場から離れることになるのではないか。
数字を追い、人を管理し、いつしか生徒を見る時間より書類を見る時間の方が長くなるのではないか。
そんな記憶が一瞬だけ脳裏をよぎる。
断ろうかとも思った。
けれど、その頃は自分一人の感情だけで決めていい人生ではなかった。
隣には彼女がいた。
相手も働いているとはいえ、将来を考えれば収入も立場も安定した方がいい。
そう自分に言い聞かせるうちに、小さな抵抗は現実という重さに押し潰されていった。
「……やらせてください」
気づけばそう答えていた。
その選択が再び自分を過去と向き合わせることになるとはこのときはまだ知らなかった。
◆
管理職となった自分はこれまでとは別の担当地区へ配属された。
生徒も講師も、保護者も地域性も、何もかもが一からだった。
積み上げてきた信頼は置いてきた。
また最初から関係を築き直す日々。
それ自体は苦ではなかった。
だが立場が変われば時間の流れも変わる。
講師だった頃は、一人の生徒に長い時間向き合うこともできた。
進路の悩みを聞き、雑談をして時には人生相談にまで付き合った。
それが今は違う。
教室全体を見なければならない。
講師の育成。
保護者対応。
シフト管理。
本部への報告。
売上管理。
気づけば、一人の生徒に割ける時間はごくわずかになっていた。
古くから教室を支えてきたベテラン講師たちからは「新しく来た教室長」として値踏みされる。
保護者は結果を求める。
本部は数字を求める。
教室を維持するには売上が必要だ。
理想だけでは生徒も講師も守れない。
その現実が日に日に俺の肩へ重くのしかかっていく。
そしてある日。
会議で数字を見ながら講師へ指示を出している自分に気づいた。
「継続率をもう少し意識して授業に向かってください」
「面談は今月中に全件終わらせることを優先に」
口にした瞬間、胸の奥が冷えた。
――ああ。
今ならあの上司の態度も理解できてしまう。
現場を知らなかったわけじゃない。
現場を知っていたからこそ教室全体を守るためには数字を見ざるを得なかったのだ。
綺麗事だけでは教室は潰れる。
理想だけでは誰も食べていけない。
その現実を理解してしまった自分が、たまらなく嫌だった。
恩師の背中を追っていたはずなのに。
気づけば自分が最も嫌悪していた大人へ近づいている。
そんな錯覚が日に日に強くなっていった。
そして、管理職になって二年目。
雨が上がった後の嫌な湿気をはらんだ夕方だった。
朝から熱っぽさを感じていた身体は限界を迎え、着任以来初めて早退することにした。
残りの授業はベテラン講師へ任せる。
「今日は休んでください」
その言葉に甘え重い身体を引きずるように教室をあとにした。
日はすでに沈みかけ、濡れたアスファルトが街灯の光を鈍く反射している。
ぼんやりと帰路を歩いていると、駅前の一角で三人組が目に入った。
一人は四十代半ばほどの男。
その隣には二人の女子高生。
それだけなら気にも留めなかっただろう。
今どき珍しい光景ではない。
だが、そのうちの一人を見た瞬間足が止まった。
派手に染めた髪。
制服の着崩し方。
いかにも遊び慣れていそうな少女。
その隣で、居心地悪そうに周りを見回しているもう一人。
どこか無理に付き合わされているような、そんな態度だった。
――待て。
あの子は……
胸の奥がざわつく。
見覚えがある。
間違いない。
あれはうちの生徒じゃないのか。
その確信と共に反射的に一歩を踏み出した。
「おい――」
声を掛けようとして喉が止まる。
名前が出てこない。
顔は覚えている。
保護者との面談もした。
成績も、志望校も、家庭環境も知っている。
なのに、一番大切な名前だけが思い出せなかった。
講師だった頃ならあり得なかった。
一人ひとりの名前も癖も夢も、全部頭に入っていたはずなのに。
恩師になりたかった自分。
現実を受け入れ始めた管理者の自分。
理想と現実。
過去と現在。
そのすべてが胸の中でぐちゃぐちゃに絡み合い、吐き気にも似た感情が込み上げる。
それでも。
踏み出した足だけは止まらなかった。
一歩。
また一歩。
雨を踏みしめるたび靴底に力がこもる。
この怒りは誰へ向けたものなのか。
目の前の男か。
名前すら思い出せなくなった自分自身か。
もう分からない。
だが、生徒の前で感情に飲まれるわけにはいかなかった。
二人の女子生徒を背中へ庇うように立ち位置を変え、男の真正面へ立つ。
「……あなた、この子たちとどういう関係ですか?」