中年の男は一瞬だけ眉をひそめた。
「いやぁ、ちょっと知り合いの子でね」
曖昧な笑み。
言葉だけは穏やかだが視線は落ち着かない。
自分と女子生徒を交互に見比べ、面倒事になると判断したのか「じゃあ」とだけ言い残して足早に去っていった。
呼び止める理由はない。
追いかける証拠もない。
人ごみに溶けるようにその背中はすぐ見えなくなった。
小さく息を吐き、振り返る。
二人の女子生徒は顔を寄せ合い、小声で何かを話していた。
内容までは聞き取れない。
だが、派手な髪色の少女だけはどこか不満げな表情を浮かべているように見えた。
眉をひそめ、口元を尖らせるその様子はまるで邪魔をされたと言わんばかりだった。
……いや、気のせいか。
熱で頭がぼんやりしているせいだろう。
そう自分に言い聞かせたその瞬間。
「先生っ!」
弾むような声とともに、少女が勢いよく駆け寄ってきた。
「助けてくれてありがとうございます!」
言い終わるより早くその身体が俺へ飛びつく。
「お、おい……!」
咄嗟に受け止めかけたが、すぐに肩へ手を添えて引き離す。
「こういうことはするな。相手が誰でも簡単に抱きつくもんじゃない。」
教師として、反射的に口をついて出た言葉だった。
「えへへ、ごめんなさーい」
悪びれる様子もなく笑う少女。
先ほど2人で話していた話題は自分だったのか教師である事をこの生徒は知っているようだった。
それだけの会話にしてはやけにコソコソしていたような……
僅かな違和感を覚えるがそれ以上に体調の悪さが思考を鈍らせていた。
「とにかくもう遅い。知らない大人には絶対について行くな。何かあったら塾でも家でもいい、すぐ大人を頼れ」
「はーい、先生」
素直な返事。
隣でうちの生徒も小さく頭を下げる。
それを見届けると、俺は踵を返した。
熱が上がっている。
一刻も早く帰らなければ。
だから気づかなかった。
抱きついた少女と自分の身体で死角になるような位置にうちの生徒が動いていたことも。
その少女の手にはスマートフォンが握られていたことも。
そして、そのレンズが静かにこちらへ向けられすべてを映していたことにも。
最後までそれに気づかないまま雨の中を歩き去った。
◆
休業日を挟み、二日後。
一本の電話で本部への出頭を命じられた。
電話口の声は事務的で、いつものような世間話もなければ「体調は大丈夫ですか」の一言すらなかった。
嫌な予感だけが胸の奥で静かに膨らんでいく。
本部へ着くと会議室へ通された。
そこにいたのは直属の上司だけではない。
人事。
広報。
役員。
普段なら顔を合わせることもない人間まで揃っていた。
異様な空気だった。
「まずは落ち着いて聞いてください」
「現在、あなたが女子高校生と不適切な関係を持っているという内容の動画がSNS上で拡散されています」
……は?
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「動画にはあなたの氏名と所属教室も編集で表示されており、現在、保護者や関係者から問い合わせが殺到しています。」
「内部の人間しか知り得ない情報も含まれているため、生徒との信頼関係や教室運営への影響も含めて極めて深刻な状況です。」
次々と告げられる言葉が、耳を素通りしていく。
何を言っている。
何の話だ。
そんなことをするはずがない。
「……動画です」
ノートパソコンがこちらへ向けられる。
再生ボタンが押された。
映し出されたのは、雨あがりの夕方。
見覚えのある駅前。
そして、唯一その画面の中で加工が外された自分の姿だった。
女子生徒へ抱きつかれ、それを慌てて引き剥がす様子。
画角の切り取り方。
タイミング。
編集された字幕。
その数十秒だけを見れば、教師が女子高生と親密に触れ合っているようにしか見えない。
その場で理解してしまった。
……あの日だ。
熱で早退した帰り道。
男と二人の女子生徒。
そして――。
撮影していたのは。
うちの生徒だった。
派手な女子生徒が身体を密着させて抱きついてきたのも。
やけに距離が近すぎると感じたのも。
全てはこの画角を作るためだった。
そこから先の記憶は曖昧だ。
何かを説明した気がする。
違う、と何度も口にした気もする。
本部の誰かが「現時点では自宅待機です」と言っていた気もする。
だが、それ以外は思い出せない。
気づけば自宅の玄関に立っていた。
鍵を開ける音だけが妙に大きく響く。
リビングには彼女がいた。
テレビは消えている。
スマートフォンだけを見つめたまま、俺の帰宅を待っていたらしい。
「……見た」
その一言で十分だった。
もう騒動を知っている。
すぐに否定しようとした。
けれど彼女は静かに首を振った。
「信じてないわけじゃない」
震える声だった。
「でも……少しだけ、待ってほしい」
その言葉を残し、彼女は足元にまとめてあった荷物を持って出ていった。
責める言葉はなかった。
泣き叫ぶこともなかった。
だからこそ、その背中が痛かった。
決定的な別れの言葉は口にしなかった。
きっと彼女も分かっていたのだろう。
自分がそんなことをする人間ではないと。
それでも。
世間はそう見てくれない。
二つ年下の彼女にこの終わりの見えない騒動を背負わせ続けるのは、1人の女性の将来に対してあまりにも酷だった。
◆
玄関のドアが閉まる音を聞いてからどれほど時間が経っただろうか。
まだ明るかった筈の外はもう既に暗闇に包まれている。
スマホを手に取って短い文章だけを打ち込んだ。
ーー
ごめん
もう待たなくていい
君ならもっと幸せになれる
新しい人を見つけてほしい
ーー
続けて本部へもメッセージを送る。
ーー
本件の責任を取り、退職いたします。
ーー
返事を待つ気力はなかった。
電源ボタンを長押しする。
画面が暗くなる。
部屋も静まり返る。
数日前までこの部屋には二人分の音があった。
今はもう、時計の針だけがやけに大きく鳴り続けるだけだった。