時間の感覚が曖昧だ。
あの騒動が昨日のことのようにも、一か月前のことのようにも思える。
最初のうちは考えていた。
なぜ、うちの生徒はあんなことをしたのか。
何が目的だったのか。
もう1人に指示されたのか。
それとも、ほんの悪ふざけだったのか。
考えれば考えるほど答えは遠ざかり、やがて疑問そのものが意味を失っていく。
どうでもよかった。
理由が分かったところで失ったものは戻らない。
職も。
信頼も。
大切な人も。
目を閉じる。
眠ろうとしても、まぶたの裏にはあの日の映像ばかりが浮かぶ。
心の休まる場所などどこにもなかった。
重たい身体を引きずるように立ち上がり、台所へ向かう。
冷蔵庫を開けて缶を一本取り出す。
隣の棚の引き出しには仕事をしていた頃から残っていた薬が無造作に入っていた。
睡眠薬。
飲み忘れた風邪薬。
徹夜を誤魔化すための頭痛薬。
使いかけのシートがいくつも重なっている。
その引き出しを見つめたまま手は止まった。
「……もう疲れた」
乾ききった声が誰もいない部屋へ落ちる。
ゆっくりと食卓の椅子を引き、そこへ腰を下ろした。
テーブルの上へ薬を並べる。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
そして缶の封を切り、喉へ流し込む準備を整えた。
指先が震えている。
だが、もう止まれなかった。
とにかくもう休みたい。
ただ安らかに眠れるならそれでいい。
たとえもう2度と目覚めなくても構わない。
そんな考えが静かに頭の奥へ沈んでいく。
薬をまとめて口へ放り込み、すぐに酒で流し込んだ。
苦味とアルコールが喉を焼く。
それでも、もう一口、もう一錠。
理性が薄れていくのをどこか遠くで感じていた。
視界の端が滲む。
部屋の輪郭が揺れる。
椅子の脚が床を擦る音さえ、やけに遠い。
「……これで、いい」
誰に向けたのでもない呟きが漏れる。
本当は終わりたいんじゃない。
本当は元に戻りたいだけだ。
たったそれだけの願いが、どうしてこんなにも遠いのか。
椅子にもたれかかり、ゆっくりと目を閉じた。
呼吸が浅くなる。
鼓動が鈍くなる。
意識が、底のない暗闇へ沈んでいく。
――そのはずだった。
だが次の瞬間、まぶたの裏を突き刺すような光が、容赦なく意識を引きずり上げた。
白い。
あまりにも白い。
暗闇に慣れきった目には暴力的なほど眩しく、思わず顔をしかめる。
同時に、耳へ飛び込んできたのは聞き慣れた静寂ではなかった。
ざわざわと絶え間なく流れる人の声。
笑い声。
怒鳴り声。
誰かが荷車を押す軋んだ音。
馬のいななき。
遠くで鳴る鐘。
足音が石畳を叩く乾いた響き。
それらが幾重にも重なり、頭の中をかき回す。
鼻をつく匂いもまるで違っていた。
湿った土。
獣の汗。
煙。
焼きたてのパンの香ばしさ。
それに混じる、馬糞と革と、どこか酸っぱい人熱れ。
冷房の効いた部屋でも、雨に濡れたアスファルトの匂いでもない。
もっと生々しく、もっとむき出しで、逃げ場のない空気だった。
喉の奥には、まだ薬と酒の苦味が残っているような錯覚がある。
なのに、肺へ入ってくる空気はひどく乾きザラついていた。
重いまぶたを無理やり押し上げる。
視界に飛び込んできたのは見慣れた天井ではなかった。
石造りの壁。
木組みの建物。
頭上には、布を張った屋台の影が揺れている。
人々は衣服あるいは皮や金属でできた鎧を身にまとい、行き交うたびに裾を揺らし、革靴や木靴で石畳を鳴らしていた。
どこかの市場だ。
だが、現代のそれとはあまりにも違う。
色褪せた布。
鉄の鍋。
積まれた野菜。
干された肉。
そして、剥き出しの生活の匂い。
煤けた空気と土臭さが、肌にまとわりつくようだった。
「……は?」
掠れた声が思わず漏れる。
驚きの声は喉の奥から絞り出すような、短く間の抜けた音だった。
それ以外の言葉が出てこない。
身体を起こそうとして、腕に力を込める。
だが、手のひらに触れたのは柔らかな布でも、冷たいフローリングでもなく、無機質な石の感触だった。
ゆっくりと上体を起こし、周囲を見回す。
人混みは絶えず流れ、誰もこちらを気にしていない。
いや、正確には気にしている余裕などないのだろう。
誰もが忙しなく動き、誰もがこの場所に馴染んでいる。
その中で自分だけが完全に浮いていた。
「……どこだ、ここ」
声は震えていた。
だが答える者はいない。
ただ、風に乗ってパンの焼ける匂いと、遠くの鐘の音だけが、現実だとでも言うように何度も繰り返し響いていた。
もう一度、自分の身体を見下ろした。
そこにあったのは見慣れた大人の手足ではない。
細く、短く、頼りない腕。
小さな手のひら。
膝の上に落ちる足もまだ幼く、靴の中でかすかに揺れている。
服もまた粗末な子ども用のものを纏っている。
どう見ても、2桁にも満たない少年の身体だった。
「……え?」
今度こそ声にならない声が漏れた。
喉は高く、細い。
自分のものとは思えないほど幼い響きだった。
慌てて頬に触れる。
柔らかい。
ひげの感触もない。
胸の奥が冷たく沈む。
死を覚悟していたはずだった。
あのまま終わってもよかった。
なのに、どうして。
どうして自分はこんな小さな子どもの身体で、見知らぬ市場の真ん中にいるのか。
呆然としたまま、石畳の上に座り込んでいた。
周囲の喧騒だけが何事もなかったように流れ続ける。
その中で、自分だけが世界から切り離されたように取り残されていた。