――ズンッ。
状況を理解するよりも早く、頭の奥を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
「っ……あ、がっ……!」
思わず呻き声を漏らし、その場へ膝をつく。
頭蓋の内側を無理やりこじ開けられ、何かを流し込まれているような激痛。
それは痛みだけでは終わらなかった。
知らないはずのおびただしい量の情報。
それらが濁流となって、一切の容赦なく脳へ流れ込んでくる。
『アキト』
その名前が、自分のものだと理解する。
『八歳』
数字が意味を持つ。
言葉。
文字。
貨幣。
食文化。
生活様式。
礼儀。
常識。
一つ理解したと思えば、次の情報が押し寄せる。
息をする暇もない。
酒と薬で意識を失いかけた時とは比べものにならない。
身体の隅々までかき回され、骨の髄まで別人へ作り替えられていくような感覚だった。
「ぁ……っ!」
吐き気が込み上げる。
胃の中は空なのに、喉だけが何度も痙攣する。
視界は明滅を繰り返し、耳鳴りは鐘の音のように鳴り響く。
それでも情報は止まらない。
まるで「お前はこの世界の住人だ」と、世界そのものが無理やり刻み込もうとしているかのようだった。
朦朧とする意識の中で、俺はぼんやりと思う。
……これは
生徒たちがよく話していた。
異世界転生。
記憶の継承。
ゲームや小説、アニメで何度も見た展開。
「先生、それ古いっすよ」
そう笑われたことすら、今は妙に鮮明だった。
まさか、自分が。
そんな馬鹿な。
そんなこと、あるわけが――
そこで思考は途切れた。
流れ込む情報と激痛に耐えきれず、意識は完全な暗闇へと沈んでいった。
◆
再び意識が浮かび上がる。
重く閉ざされていたまぶたをゆっくりと開く。
視界に飛び込んできたのは見慣れた天井ではなかった。
薄暗い空。
建物と建物に挟まれた細い路地。
崩れかけた石壁。
鼻を突く腐臭に思わず顔をしかめる。
「……っ」
喉の奥がひりつく。
身体を起こすと、手のひらに触れたのは湿った泥と、生ゴミのような感触だった。
腐りかけた野菜。
割れた木箱。
獣の骨。
雨水が溜まった濁った水たまり。
そこは、ゴミ捨て場と見紛うほど荒れ果てた路地裏だった。
どうやら自分は、このゴミの山と一緒に放り捨てられていたらしい。
ゆっくりと周囲を見回す。
通りの方から人の話し声は聞こえる。
荷車の軋む音もする。
つまり、人通りがない場所ではない。
それでも誰一人、この路地を覗こうとはしなかった。
いや。
気づいていても、気にしていないのだ。
もしこれが元の世界だったなら、路地裏で子どもが倒れていれば誰かが声を掛けていただろう。
救急車を呼ぶ人もいたはずだ。
警察へ通報する人もいただろう。
少なくとも「見て見ぬふり」が当たり前にはならない。
だが、この世界では違う。
子どもが路地裏で倒れていることすら、日常の景色の一部なのだ。
助ける理由もなければ、立ち止まる理由もない。
それがこの世界の当たり前。
胸の奥が静かに冷えていく。
夢ではない。
幻覚でもない。
薬が見せる最期の悪夢でもない。
ここは自分の知る現代ではない。
見知らぬ言葉を理解し、見知らぬ常識が自然と頭に浮かぶ。
八歳の少年――アキトとしての認識も確かに自分の中に存在している。
信じ難い。
信じたくもない。
それでも、もう認めるしかなかった。
自分は本当に別の世界へ来てしまったのだ。
しかし、置かれた状況を理解しても胸が高鳴ることはなかった。
異世界転生。
生徒たちが休み時間になるたび熱心に語っていた小説やアニメそのままの世界。
もしこれが十代の頃だったなら、あるいは目を輝かせていたのかもしれない。
剣と魔法に胸を躍らせ、未知の世界への冒険を夢見ていたかもしれない。
だが、今の自分は違う。
身体は八歳の少年になっても、心の中身までは若返ってくれなかった。
教師として働き。
理想を抱き。
現実に打ちのめされ。
信じていたものを次々と失ってきた。
そんな人間が世界を一つ跨いだからといって、突然前向きになれるほど都合よくはできていない。
今すぐに死にたい訳ではない。
ただ2度目の生を謳歌したいという気持ちも。
何かを成し遂げたいという意欲も。
胸のどこにも見当たらない。
立ち上がる理由すら思いつかなかった。
ぼんやりと路地裏を見回す。
そこには自分だけではなかった。
壁にもたれたまま虚空を見つめる老人。
年齢も分からないほど痩せ細り、歪んだ腕をだらりと垂らしたまま座り込む男。
皆、薄汚れた服をまとい、生気の失われた瞳をしている。
誰も誰かに話しかけない。
誰も何かを奪おうともしない。
怒りも、悲しみも、希望も使い果たし、ただ呼吸だけを続けている。
そんな人間ばかりだった。
……同じだ。
あいつらも。
自分も。
違う世界へ来たくらいで、人間は簡単には変われない。
あそこに座っている老人も。
腕の折れた男も。
そして今の自分も。
ただ緩やかに迎えが来るのを待っているだけなのだ。
恐怖はなかった。
あるのは、どこまでも空っぽな静けさだけだった。
◆
この世界にも時間の概念はあるらしい。
一日の長さは少し違うようだったがそれでも朝日は昇り、やがて沈んでいく。
それに合わせるように鐘の音が鳴り、人々は動き、そして寝静まっていく。
その繰り返しを路地裏から三度眺めた。
三度目の朝日が石壁を照らした頃には身体からの訴えも限界へ達していた。
腹が鳴る。
喉が焼けるように渇く。
飢えも渇きも世界が変わった程度では容赦してくれないらしい。
生き物である以上、その苦しみだけは平等だった。
この数日で路地裏の住人たちの生き方も少しだけ分かった。
雨が降れば、石畳に溜まった泥水を啜る。
市場から流れてきた腐りかけの野菜や、誰かが捨てた食べ残しを漁る。
虫が湧いていようと。
異臭を放っていようと。
ただ生を維持するため。
躊躇などまるでない。
そんな光景を何度も見た。
強烈な飢餓感に突き動かされ自分も真似をしようとは思った。
思ったのだ。
けれど、できなかった。
目の前に転がる腐った果実へ手を伸ばす。
鼻を突く腐臭に顔をしかめる。
「……っ」
あと少し。
あと少しで口へ運べる。
その瞬間、胃の奥が激しく痙攣した。
吐き気が込み上げ、反射的に手を引っ込める。
喉の奥が締めつけられ胃液だけが込み上げた。
駄目だ。
身体は飢えている。
それなのに、頭が拒絶する。
日本で三十年近く積み重ねてきた衛生観念が「それは食べ物じゃない」と叫び続けていた。
理屈ではない。
身体が受け付けないのだ。
この世界で生きるにはこの世界の常識へ順応しなければならない。
そんなことは分かっている。
それでも自分はまだ中途半端だった。
身体はアキト。
心は現代人。
その歪さだけが、今の自分を苦しめていた。
「……情けないな」
自嘲が漏れる。
死んでもいいとまで考えた人間が腐った残飯一つ口にできない。
なんとも滑稽な話だった。