残飯が駄目なら水はどうだ。
幸い、昨夜は雨が降っていた。
路地裏のあちこちには濁った水たまりが残っている。
泥が混じり決して綺麗とは言えない。
それでも腐った食べ物よりは口にできる気がした。
ふらつく足取りで近づき、一つの水たまりの前にしゃがみ込む。
ゆっくりと顔を近づけた、その時だった。
「……」
水面に映っていたのは、見慣れない少年だった。
伸び放題で絡まった焦茶色の髪。
淡い茶色の瞳。
頬は痩せこけ、栄養失調なのか鎖骨まで浮き出ている。
元の世界ならば、そこそこ持て囃されそうな顔立ちもこの世界の基準で見れば並といったところ。
アキト。
流れ込んできた情報がその名前を告げる。
この世界では焦茶色の髪も茶色い瞳もごくありふれた色彩。
元の世界で言う黒髪黒目のようなものだ。
つまり、どこにでもいる平凡な少年。
それが今の自分だった。
こうして自分の姿をまともに見るのは、これが初めてだった。
水たまりに映る頼りない姿。
思わず目を逸らしかけて、踏みとどまる。
その幼い顔を見つめているうちに胸の奥で何かが疼いた。
教師だった頃の自分。
生徒を見るたび、自然と浮かんでいた感情。
――この子は、守り導かれるべき存在だ。
それが八歳の子どもを見た時のごく当たり前の感覚だった。
それなのに。
今、その子どもの身体には自分の諦めきった心が入っている。
何もする気が起きない。
生きることすら放棄しかけている。
そんな大人の心にこの幼い身体を巻き込んでいいのか。
「……」
答えは出ない。
ただ水面の少年だけが自分に合わせるように眉を寄せる。
睨み合っているようだった。
沈黙だけが流れる。
やがて、小さく息を吐こうとして――
「……あ」
ようやく気づいた。
少年の唇は乾き切り、ひび割れて白くなっている。
頬は痩せこけ、肩で荒く息をしている。
それでも、その身体はまだ生きようとしていた。
空腹を訴え。
喉の渇きを訴え。
限界まで命を繋ごうと必死にもがいている。
死を躊躇わずにいるのは自分の心だけであって、この八歳の身体は最後まで生きることを諦めていなかった。
……そして、もう一つ。
水面を見つめる俺の視界に淡い光が滲む。
最初は空腹による幻覚だと思った。
だが、その光はゆっくりと形を成し、まるで水面へ文字を書き込むように並び始める。
⸻
筋力 : 普通
耐久 : 普通
敏捷 : 普通
知力 : 普通
幸運 : 普通
⸻
「……は?」
思わず声が漏れる。
誰もいないはずの空間に半透明で緑色の文字だけが静かに浮かんでいた。
ゲームのステータス画面。
生徒たちが「テンプレだ」と笑いながら読んでいた異世界小説、そのままの光景。
だが、そこに並ぶ評価はあまりにも拍子抜けだった。
特別な才能も。
最強の資質も。
特異な能力もない。
どれも一様に――『普通』。
思わず苦笑が漏れる。
「……どこまでも、らしいな」
異世界へ来ても特別にはなれない。
英雄でも救世主でもない。
ただ、どこにでもいる一人の人間。
その事実が妙に可笑しくて、少しだけ肩の力が抜けた。
水面に映る少年もまたほんのわずかに表情を和らげたように見えた。
◆
心は決まった。
相変わらず生きることへの執着は薄い。
輝かしい明日を夢見ているわけでもない。
この世界で英雄になりたいわけでも、名を残したいわけでもない。
それでも一つだけ。
はっきりと思えたことがある。
人生に絶望した一人の男の停滞にこの少年を巻き込むのは違う。
自分は自分だ。
だが、この身体はアキトのものだ。
自分の諦めのせいで一人の少年が朽ちていくことは、どうしても受け入れられなかった。
教師だった頃、生徒へ伝えた言葉がある。
「諦めるのは自分自身が全部やり切ってからでも遅くない」
結局、自分はその言葉どおりには生きられなかった。
理想を貫けず。
現実に折れ。
最後には、生きることすら放棄しかけた。
だからこそ、今度くらいは。
少なくとも、この身体だけは。
アキトだけは。
もっとまともな未来へ導いてやりたい。
それが教師としてなのか。
それとも、ただの大人としてなのか。
そんなことはもうどうでもよかった。
「……よし」
乾いた唇から小さく言葉が零れる。
胸の奥で何かが音を立てた気がした。
長い間、輪郭のぼやけていた何か。
高校時代に恩師へ憧れ。
教師になり。
理想と現実の狭間でもがき続け。
すべてを失ってなお答えが見つからなかった、自分という人間の形。
それが今一つに噛み合った。
教師になりたかったんじゃない。
誰かをより良い方向へ導ける人間になりたかったんだ。
学校でも。
塾でも。
異世界でも。
場所なんて関係なかった。
同級生や先輩後輩、会社の同僚や生徒たち。
今までたくさんの人に言葉をかけてきた。
その相手が今回は自分自身になっただけ。
不思議と胸の奥が軽かった。
身も心もとても万全とはいえない。
それでも。
今なら踏み出せる気がした。
その一歩は自分のためではない。
水たまりに映る一人の少年――アキトの未来のためだ。
◆
――今度こそ諦めない。
そう決めてからは自分でも驚くほど変わっていた。
不思議なものだ。
あれほど拒絶していた泥水も喉を潤すためなら躊躇なく口にできた。
腐りかけた残飯も腹を満たすためなら黙って噛み締められた。
美味いとは思わない。
むしろ吐き気はする。
それでも、もう止まらなかった。
生きるためだ。
路地裏の住人たちを見ていれば、そんな生活を続けても意外なほど健康を害している様子はない。
少なくとも、水や食べ物が原因で倒れている者はいなかった。
「……恐るべし、異世界ボディってやつか」
思わず苦笑が漏れる。
現代の常識ならとっくに腹を壊して寝込んでいただろう。
それなのに、不快な内心とは対照的にこの身体は日に日に力を取り戻していく。
八歳という若さゆえなのか。
それとも、この世界そのものがそういう環境なのか。
理由は分からない。
だが、今は素直に恩恵を受けることにした。
動けるだけの体力を取り戻すと、次は路地裏を出る準備へ取り掛かる。
この世界で生きるための基礎知識は流れこんだ情報が教えてくれる。
身寄りのない子どもがどうやって日銭を稼ぐのか。
断片的ではあるが、生き抜くための道筋は見えていた。
あとはそれを実行するだけだ。
ゴミ山を漁り、穴の空いていない上着を見つける。
まだ刃の残る小型のナイフ。
丈夫そうな革紐。
誰かにとっては捨てるしかないガラクタも今の俺には立派な財産だった。
使えそうなものを選び、汚れを落とし、少しずつ身の回りを整えていく。
その作業は不思議と嫌ではなかった。
一つ準備を終えるたびにこの世界で生きる実感が少しずつ湧いてくる。
そして――。
この世界へ来てから十度目の朝。
路地裏へ差し込む朝日を背に静かに立ち上がった。
もう振り返ることはない。
ここは終わりを待つ場所だ。
自分が目指す場所じゃない。
ゴミ溜めのような路地裏をあとにして石畳へと踏み出す。
こうして。
人生を諦めた男ではなく、一人の少年――アキトとしての物語がようやく本当の意味で幕を開けたのだった。