荷物が石畳へ散らばるその寸前。
身体は考えるより先に動き、右手で荷物を左腕で倒れかけたハルシアの身体を支える。
「危ないよ」
勢いを殺すようにゆっくりと抱き寄せると、ハルシアはきょとんと目を丸くした。
「……はっ」
「大丈夫?」
できるだけ驚かせないように穏やかな声で尋ねる。
数秒遅れて状況を理解したのか、ハルシアは耳をぴくりと震わせ、慌てて姿勢を正した。
「ご、ごめんなさい! わたしまた……」
「怪我がなくてよかった」
そう言って僕が笑うと、ハルシアは照れくさそうにはにかみ、頬をほんのり赤く染める。
「ありがとう……ございます」
支えていた身体は軽い。
右手に持った荷物よりも軽いのではないかと思うほどだった。
その細い身体は路地裏で目覚めた頃の自分――アキトを思い出させる。
だがハルシアは当時のアキトと同じく八歳というわけではない。
確か十歳はとうに過ぎているはずだ。
獣人は人族とは成長の仕方が異なる。
多くの種族は十五歳前後までゆっくりと身体を育て、ある時期に一ヶ月ほどで一気に成人の体格まで成長する。
そんな生態をしているわけだが、それを知ってもなおこの細さは心配になるものだった。
「今は仕事中?」
「はい!」
返事だけは元気がいい。
「生活課の依頼なんです。午前中はおばあさんのお家まで荷物を運んで、その後は迷子になった猫を探して……」
「ああ、それで街の東側にいたんだ」
「見てたんですか?」
「たまたまだよ」
実際、依頼に向かう際に偶然見かけただけだ。
くすんだ金色が不安定に揺れている様子はどうしたって目につく。
「それで、今はこの荷物を雑貨屋さんまで届ける途中なんです!」
胸を張って答える姿は、どこか誇らしげだった。
「頑張ってるね」
「えへへ……」
褒められることに慣れていないのか、犬耳が嬉しそうにぴこぴこと揺れる。
その姿が何だか微笑ましくて、僕は夕食へ目を落とした。
まだ手をつけていないパンが残っている。
「これ、よかったら持っていきなよ」
「えっ、でも……」
「僕は他にも頼んであるから大丈夫」
もちろん嘘だ。
だが、子どもに遠慮させる理由にはしたくない。
ハルシアは何度も僕とパンを見比べたあと、おずおずと受け取った。
「……ありがとうございます!」
今度は満面の笑みだった。
その笑顔だけで一つくらいパンを譲った価値は十分ある。
「じゃあ、お仕事頑張って」
「はい!」
ぺこりと頭を下げるとハルシアは大事そうにパンを懐にしまい、再び荷物を持って駆け出していく。
……今度は転ばないように。
そんな願いも虚しく、小さくよろめく姿に思わず苦笑が漏れた。
「本当に目が離せないな」
遠ざかる背中を何となく見送っていると、不意に視界の端で文字が揺らめいた。
これまでなかった情報がゆっくりと浮かび上がる。
親交が深まったことで見える範囲が広がったのだろう。
追加された技能は一つ。
⸻
中盾術 : 優秀
⸻
「……優秀?」
思わず目を細める。
初めて会った時には表示されていなかった技能。
その資質は明らかに異常を示していた。
◆
ハルシアの姿が人混みへ溶けていくのを見届けると、僕は動揺を押し殺すため小さく息を吐きそのまま席へ戻る。
「お騒がせしてすみません」
席を立って飛び出した際、店員の人が不審そうにこちらを見ていたのは分かっていた。
食い逃げでもするのかと思わせてしまったのだろう。
店主に事情を簡単に説明し、食事代を支払う。
迷惑をかけたお詫びも兼ねて、少しだけ多めに払った。
「こいつは預かっておくからよ。さっきの子ども連れてまた来てくれよな!」
店主は苦笑しながら硬貨を受け取り、軽く手を振ってくれた。
店を出ると夕暮れの風が頬を撫でる。
本来なら、この後は銀級パーティーをいくつか回る予定だった。
助っ人として何度も同行している仲でもある。
中長期的にどこかへ混ぜてもらえないか。
そんな相談を持ちかけるつもりでいたが……
「……今日は無理かな」
予定変更だ。
今は誰かと話す気分ではなかった。
一人で考えたい。
頭の中を整理する時間が必要だった。
僕はそのまま定宿への道をゆっくりと歩きながら先ほど浮かび上がった文字を思い返していた。
中盾術 : 優秀
間違いなくそう表示されていた。
実のところ、予兆がなかったわけではない。
十年近くの間、確認できていた評価は三段階であった。
数多くの人間を見てきてそれでも他の表記が見つからなかったからこそ至った結論だった。
だがハルシアと出会ったその日、いとも簡単にその結論を覆されてしまった。
幸運 : 劣悪
「不足」より一段下が存在することが証明された。
そうなれば次に考えることはその逆。
「良好」の一段上があるのではないか、そう考えるのも自然な流れだろう。
「劣悪」を見つけ出すのに十年、あるかも分からない次の評価を見つけるのにどれだけの時間が必要になるのか。
そんなことを考えていた矢先だった。
下位評価と上位評価。
その両方を一人の子どもが証明してみせるとは……
「……偶然、か」
思わず苦笑する。
十年間探し続けても見つからなかった答えをたった一人が持っていた。
運命とは案外そんなものなのかもしれない。
宿までもう間もなくといったところで、僕の思考はハルシア個人へ向かっていく。
あの「優秀」という中盾術。
そして、その他にもいくつかの技能と資質がこれまでの交流の中で浮かび上がっている。
僕の中ではすでに一つの展望が形になり始めていた。
それが正しい保証はない。
そもそも本人が受け入れてくれるかも分からない。
それでも、ハルシアの状況が好転することは間違いないと僕は確信していた。
「……まずは」
宿の看板を遠目に見ながら小さく呟く。
「女将さんにもう一部屋借りられないか相談してみるか」
◆
宿へ戻ると早速受付にいる女将さんへ声をかけた。
「アンバーさん、少し相談があるんだけどいいかな」
「おや、珍しいねぇ。あんたから相談なんて」
揶揄うような表情で女将は答えた。
実際、こういった話はあまりしたことがない。
どうしてもと頼みこんで台所を使わせてもらったくらいだろうか。
「あはは、もしかしたらこれからは頼る場面が増えるかも」
「それで相談なんだけど、しばらくの間もう一部屋借りられないかな」
予想外の内容だったのか女将は少し驚きつつも、空き部屋があることを教えてくれた。
「身寄りのない子でも拾ってきたのかい?」
「そういう訳ではない……と思う」
苦笑しながら答える。
今はただ準備をしているだけだ。
近日中にもう一部屋押さえるか決める旨を女将に伝えて僕は部屋に戻った。
◆
それから数日。
必要な備品を揃え、場所を押さえ、生活課への根回しも済ませた。
そして現在は生活課支部の一室。
依頼人との打ち合わせにも使われる小さな部屋で、僕とハルシアは向かい合って座っていた。
「えぇっと……今日はどんなご用でしょうか?」
ハルシアは落ち着かない様子で耳と尾を揺らしながら尋ねる。
お互いを知っているとはいえ、突然銀級の連盟員に呼び出されたのだ。緊張するのも無理はない。
これ以上長引かせるのはハルシアにとって良くないと思った僕は回りくどい前置きはやめて、端的に告げる。
「僕から剣を教わってみないかい?」