熱力学とたくあん 作:カルボナーラに牛乳はいらない
宇宙的規模において、既存の知的生命体が生存する惑星を侵略し、自種族用に環境改変(テラフォーミング)を行う行為は、経済的・工学的に見て完全なる狂気の沙汰である。
第一に、エネルギー収支の観点だ。
平均的なG型主系列星のハビタブルゾーンに位置する岩石惑星の気候システムを書き換えるには、最低でも 10^26{J} のエネルギーを要する。これは恒星のダイソン球から直接取り出したエネルギーを数年単位で投射し続ける計算になる。他方、主星から適度に離れた無人の氷惑星や小惑星帯から水と揮発性物質を調達し、環境構築を行うコストは、その約0.003%に過ぎない。わざわざ「すでに深い重力井戸の底にあり、独自の複雑系バイオマスが完成している大気圏」を浄化・再構築する合理性は、銀河系のいかなる経済モデルにおいても存在しない。
第二に、情報資源としての不可逆性である。
宇宙において「物質」や「エネルギー」はありふれているが、「生命進化のプロセス」および「知的生命体の文化的コンテキスト」は再現不可能な極小確率の統計的奇跡である。これを熱核兵器や軌道爆撃で灰に帰す行為は、ルネサンス期の絵画コレクションを「暖炉の薪として効率が良いから」という理由で燃やし尽くすのと等しい。
故に、高度文明における対外進出の鉄則は一貫している。
【無人星は改変して利用し、有人星はそのまま観察せよ】
侵略はコストの無駄であり、殲滅は資源の破壊である。ゆえに我々は、この青く泥臭い第三惑星に対して、極めて理性的かつ謙虚な「生態観察者」としてアプローチを開始した。
──という、熱力学と宇宙経済学に基づいた極めて厳密な結論の果てに。
「……おい。固まってないで、たくあん食うなら早く取れよ」
ぱちん、とプラスチック容器の縁を箸で叩く甲高い音が響いた。
わずか0.02秒。
数千光年規模のエネルギー収支計算と情報エントロピーの多次元解析を展開していた私の意識は大気圏を垂直落下し、築38年アパートの低い天井と、卓上に鎮座する198円の「つぼ漬けたくあん」の黄色へと収束した。
視線をゆっくり上げると、向かい側で茶碗を持った地球人個体──サトウが、心底心もとないという顔でこちらを見ている。
「なんだよ。また変なこと考えてたのか?」
「……いいえ。あなたという存在が我が文明にもたらす経済損失と学術的価値の相殺計算を行っていただけです」
「ご飯時にする計算じゃねえな」
「ところでサトウ。先ほどあなたが発した『ちょっと待って』という構文について異議を唱えたい」
「たくあん食う前に異議申し立てかよ」
「『ちょっと』は数量および時間における僅少を示す形容表現です。しかしあなたがそれを発した際、実際の待機時間は347秒に及びました。これは初期予測の約1100%の乖離です。さらに問題なのは、語尾の否定述語が完全に欠落している点です」
私は箸を正しく持ち直し、つぼ漬けを一切れ口へ運びながら告げる。
「なぜ日本語は、動作の主体(主語)や明確な数値を省略し、受信側(私)の脳内補完リソースに処理を丸投げするのですか? 『ちょっと』と言いながら拒絶を示し、『大丈夫』と言いながら肯定と否定の双方を発生させる。このような真偽値が未定義の暗号プロトコルで、よく文明が崩壊せずに維持できていますね」
「それが『察する』って文化なんだよ。いちいち『私はこれこれの理由で347秒待機を要求する』なんて言われたら角が立つだろ」
「角が立つ……物理的損傷の発生ですか? 事実を正確に伝達することが、なぜ構造物のせん断破壊に結びつくのですか」
サトウはめんどくさそうに溜息をつき、お茶を啜った。その非合理的な挙動に、私の言語処理ループは再び不必要なベイズ推定を強要される。
「……そもそも、観察開始から◯日が経過しましたが、私のメインプロセスにおけるリソース配分に深刻なエラーが発生しています」
「エラー? 宇宙船と通信でも切れたか?」
「いいえ。全球規模の気候データおよび生態系バイオマスの解析に割り当てるべき演算能力の31.4%が、なぜか『サトウが明日風邪を引く確率の試算』および『あなたが好む夕食の献立予測』に占有されています」
サトウがピクッと眉を動かした。
「……それ、ただ俺の心配をしてるだけじゃないのか?」
「不可解な推論を停止してください。これは地球側の未知の精神的干渉攻撃によるシステムの機能低下、あるいは観察対象の行動パターンを事前予測することで観測精度を維持するための『正当な投資』です。決して、個人的な感情などという未定義のノイズではありません」
「はいはい、投資ね。じゃあ明日の夕飯の予測結果はどうなったんだよ」
「……ハンバーグです。肉汁の保持効率を最大化させた個体です」
「完全に自分の食いたいもんだろうが」
+++
そして、観察期間の暫定的な区切りとなる夜が訪れた。
「……で、お前さ。いつまでもここに居座るわけにもいかないんだろ? 観察任務は終わったのか? それとも母星に報告して帰るのか? どっちなんだよ」
サトウはどこか気まずそうに、けれど探るような視線を投げかけてくる。
それまでの私は、日本語の曖昧さを「情報伝達における欠陥」「摩擦回避のための非効率な暗号」と徹底的に糾弾してきた。明確なファクトと数値こそが、知性体の示すべき誠実さであると信じて疑わなかった。
私は静かに立ち上がり、完璧なお辞儀の角度(45度)を保ったまま、寸分狂わぬ滑らかな発音で告げた。
「──『いいですよ』」
「……え?」
「本日の観察ログの送信を完了しました。では、失礼」
それだけを言い残し、私は奥の部屋へと姿を消した。
残された6畳間で、サトウは固まっていた。
「……待て。『いいですよ』って何だ!?」
頭を抱える彼の声が、襖越しに響いてくる。
「『居座っていい(肯定)』のか!? それとも『もう十分だから帰る(拒絶)』なのか!? 表情の解析データを見せろ! どっちの意味で言ったんだよおい!!」
暗闇の中、私は自身の心拍数が通常値より7%上昇しているのを確認する。
この言語の「曖昧さ」は、確かに極めて非効率で、非論理的だ。
……だが、相手の脳内処理システムを無限の思考ループに叩き落とす武器としては、これ以上なく優秀なプロトコルであると認めざるを得なかった。