熱力学とたくあん   作:カルボナーラに牛乳はいらない

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蚊帳を畳む

 

一

 

 帳は汗をかく。

 継ぎ目の通路に降りると、まず湿りが顔に触れる。天井も壁も見えない。あるのはゆるやかに脈打つ乳白色の膜だけで、それが視界の端から端まで、襞を畳んで連なっている。人はそれを帳と呼ぶ。設計上の名は選択透過交換膜というが、そう呼んだ者を網代慧は見たことがない。

 帳は設備ではない。皮膚である。

 膜の向こうにあるのは演算苗床という名の巨大な生体組織で、帳はその外皮にあたる。苗床が生きている限り帳も生きており、帳が破れれば苗床は外気に触れて三日で死ぬ。二つは別の物ではなく、一つの体の内と外だった。

 その中に十四万の思考がある。肉体を捨てた人々だ。

 網代の側には九万の肉体がある。だから彼らは膜のこちら側にいて、膜が破れないように毎日それを撫でている。

 網代は端末を膜に当て、表面温度を読んだ。三十九度二分。昨日より一度高い。値を落とし、次の襞へ移る。この巡回を朝の二時間で三十七箇所こなすのが、一日の始まりだった。

 巡回路の途中に、外壁の点検窓が一つある。厚い硝子の向こうは灰色で、地面と空の境目がどこにあるのか、網代には最後まで分からなかった。外は死んでいる。土が窒素を保てなくなって、草が生えなくなって、それで人は閉じた空の下に入った。二百十四年前の話だ。今そこに出れば、凍える前に飢える。

 誰もがそう習う。習うが、誰も理由の続きは習わない。網代も、外がなぜそうなったのかは知っていたが、それに対して誰かが何かをしているのかどうかは、考えたことがなかった。

 肩書きは通詞という。上層の意向を下層の労務に翻訳する。上層は抽象で語る。熱交換効率を三パーセント改善せよ。それを、七番襞に四十四度で四時間入る人間を三人選べ、という指示書に直すのが彼の仕事だった。

 その三人は、その日の午後に出てきた。

 四十四度の襞の中は湿度が飽和していて、汗が蒸発しない。人はそこで四時間、膜の内側に溜まった沈殿を手で掻き出す。出てくる頃には自分で歩けないので、外で二人が受け止める。皮膚が水を吸って白く膨れ、指の腹の皺が消えている。爪の間から血が滲む者もいる。その日は三人のうち一人が嘔吐した。

 作業は成功だった。翌週の熱交換効率は三・一パーセント改善している。

 網代は毎回それを見に行く。見に行かないという選択肢もあったが、指示書に名前を書いたのは自分だったので、行った。行ったところで何も変わらないことは分かっていた。

 午前の残りは書類に消える。その日の一枚は出生申請だった。第二区の夫婦から二度目の申請で、二度目も却下と書くことになる。居住定数。下層の総人口を九万で据え置くという六十年来の規定で、上限に空きが出るのは誰かが死んだときだけだ。

 網代は判を押した。押しながら、これも翻訳の一種だと思った。上層は人口を最適化せよと言った。それを、この夫婦に子はまだ持てないと伝える紙に直す。それが通詞の仕事だった。

 通詞は下層の中では上澄みにあたる。配給の等級が一つ上で、住まいが暖線に近い。冬に足が痺れない。ただそれだけのことで、彼は下層の誰よりも上層に近い場所に立たされ、下層の誰からも少しだけ遠かった。

 

 午後、面会室に呼ばれた。

 上層に肉体はないので、彼らはここに像として現れる。目の前に座っているのは二十歳そこそこに見える男だった。名は叡。上層に姓はない。死なない者に家系は要らない。

「フィルタね。いいよ、出しとく」

「よろしいので」

「よろしいも何も、安いもんだよ。むしろ何でもっと早く言わなかったの」

 網代は膝の上で手を組んだ。三度断られ、四度目でこれだった。断られていたのは決裁の順番待ちで、叡が意地悪をしていたわけではない。彼はそもそも、そこに人がいることをあまり考えていない。

「君ら、そういうの、言い出しにくそうにするよね。前の通詞もそうだった。遠慮っていうか、恥ずかしそうっていうか」

「そんなつもりは」

「あるって。でもさ、気にすることないよ、本当に」

 叡は笑った。悪意のない、むしろ相手を楽にしてやろうという種類の笑いだった。

「だって実際そうだろ。君らは僕らのうんこで生きてるんだから。恥ずかしいことじゃないよ。畑ってそういうもんだろ。糞が土になって、土が飯になる。何億年も前からそうなんだから、恥ずかしがることじゃない。むしろ効率がいい。ね」

 空調が低く鳴っていた。

 網代は何も言えなかった。

 嘘なら反論できた。だが、それは事実だった。膜の下端から出るものは苗床の代謝廃液で、それが温室の土を作り、その土から出た大根を、彼の母は糠に漬ける。何ひとつ間違っていない。一語も間違っていなかった。

 通路に出ると、苫が壁にもたれて待っていた。二十四で、口の減らない女だ。

「通ったんですか」

「通った」

「よかった」

 苫はそう言って、それから、言わなければよかったという顔をした。

「今の、音だけ聞こえてました。班長、なんで言い返さなかったんですか」

「本当のことだからだ」

「本当のことなら、何を言われてもいいんですか」

 網代は答えなかった。

「あいつら、悪気ないんですよね」苫は壁を蹴った。「それが一番腹立つ。悪気があってくれたら、こっちも堂々と憎めるのに」

 

 その帰り、網代は七番襞の前で足を止めた。

 午前に三人が入り、一人が嘔吐した襞だった。

 膜が濡れていた。汗ではない濡れ方だった。手袋を外して触れると、指先に細かい抵抗がある。目を近づけると、乳白の面に髪より細い筋が走っていた。数えて、途中でやめた。

 この程度の裂けは半日で塞がるはずだった。

 翌日来ると、まだあった。三日後にもあった。

 

 

二

 

 書庫は継ぎ目の最下部にある。上層は紙を読まないので、下層の紙だけは誰も整理しない。

 網代は十日かけて帳の保守記録を最初まで遡った。初期設計書の仕様欄に、外皮の想定耐用年数が書いてあった。

 二百年。

 いまは二百十四年目だった。

 十四年ぶん保っているのは、下層が毎日撫でているからだ。フィルタを替え、温度を測り、裂けを見つけて塞ぐ。九万人が二百十四年かけてやってきたのは、要するに一つの体の延命処置だった。

 同じ綴じの表紙に、消えかけた表題があった。帰還計画、第七次改訂。網代は指でなぞってから、次の頁をめくった。以降は配管の図面が続いていて、表題の意味を説明する紙はどこにもなかった。

 裏表紙の内側に、閲覧票が糊で貼ってあった。登録番号が打ってあり、受入の日付が押してある。六十二年前の秋だ。番号は綴じ込まれている配管図の番号と一致しない。表紙と中身が別の書類だということだった。

 閲覧者の名を書く欄が二十行あった。二十行とも空白だった。

 網代は一行目に自分の名を書きかけて、やめた。

 彼は別の記録を引いた。三年前、第四区で熱病が出て二週間の隔離が敷かれている。その二十日後から、下りが痩せていた。落ち幅は四パーセント。第四区の人口が下層全体に占める比率と、ほぼ一致していた。

 偶然だと思いたかったので、六十年前を掘った。

 細りの前年、下層は疫病で人口の三割を失っている。翌年、下りが三割痩せた。公式記録には下層の保守不良とある。網代は当時の日誌を三日かけて読んだ。不良はなかった。むしろ人が減った分、残った者が異常な時間働いていた。交代要員がいないという訴えが何十回も書かれ、後半ほど字が乱れていた。

 人が減ると、下りが減る。

 網代はその一行を紙に書いて、しばらく眺めていた。書いた本人が信じられなかった。下層が施しを受けているだけなら、こちらの人数は関係ないはずだ。受け取る側が減れば一人あたりの取り分は増えるはずだった。逆だった。

 居住定数の制定はその翌年だった。理由の欄には、下りの負荷軽減、と書いてある。人が減れば取り分が増えるという前提で、上層と当時の管理者は下層の人数に蓋をした。

 六十年、その蓋は開いていない。網代は毎月それに判を押してきた。

 

 その晩、彼は上げ場へ行った。

 上げというのは下層の廃棄作業のことだ。生活で出た有機物を夜のうちに集め、荷車で運び、膜の裾の穴へ落とす。臭う。汚れる。下層で最も嫌われる仕事で、当然、網代が誰かに割り振る仕事でもあった。荷車を押したのは十年ぶりだった。

 穴の枠には銘板がある。廃棄口 二番。何百回も見た文字だ。

 その日、手袋を外して指でなぞった。塗料の下に段差があった。

 工具を取りに戻り、角を削った。上の塗料は薄い。二層目の下から古い刻字が出た。

 供給口 二番。

 網代はしゃがんだまま、長いこと動かなかった。荷車の中で、その日の下層の残飯が湿った音を立てていた。

 翌週、六区の廃棄口を全部回った。六つとも同じだった。塗り替えの記録も出た。細りの二年後、危機管理再編に伴う表示統一。工事理由の欄は、混乱の防止。

 嘘は一枚もなかった。供給と書かれた板が外され、廃棄と書かれた板が付いた。それだけだ。それだけで、六十年かけて、下層は自分が何を渡しているのかを忘れた。

 

 温室区で、久慈老人が畝を見ていた。八十四になって、まだ土を触っている。

「今年の下り、薄いな」

「気のせいですよ」

「わしの膝が言っとる。膝は帳簿より正直だ」

 久慈は腰を伸ばして、膜のある方角を見た。

「破るなよ。若い奴が言うんだ、管を締めてやれば上も頭を下げると。あれは駄目だ。六十年前にそれをやった者がおる。あれは、こちらが先に死ぬ仕掛けになっとる」

 網代は頷いた。頷きながら、違う、と思っていた。

 あのとき下層は帳を破ったのではない。息を吐かなくなっただけだ。

 

 

三

 

 冬の入りに、叡がまた面会を求めてきた。

 像は前と同じ椅子に座り、前と同じように背を預けた。ただ、話の入り方が下手だった。

「あのさ。冬の配給、今年は多めに出るよ」

「理由を伺っても」

「理由。えっと、余剰があるから」

「余剰はありません。今年の下りは去年より薄い」

 叡は黙った。

「あのさ、網代さん。僕は言わないほうがいいって言われてるんだけど、言わないほうが失礼だと思うから言うね。前もそうしたし」

 前もそうした。網代は目を閉じた。

「外皮がもう保たないんだ。あと数年で破れる。破れたら苗床は三日で死ぬ。だから合議で決めた。膜に固定被覆をかける。透過をやめて、殻にする。殻にすれば強度が戻って、内部備蓄だけで四十年は保つって計算が出てる」

「透過をやめる」

「うん」

「下りが止まるということですね」

「うん。だから冬の配給は多めに出す。あったかい冬にしてから、止める。苦しくないようにって、そこはちゃんと議論したんだ。十四万で議論して、それが一番いいって結論になった。誰も君らを憎んでないよ。本当に。ただ、両方は残せないんだ」

 網代は自分の手を見た。爪の間に、まだ銘板の塗料の粉が残っていた。

「いつですか」

「冬至。四十日後」

「四十日」

「言っておいたほうがいいと思って。黙って止めるのは、対等じゃないだろ」

 叡は本気でそう思っていた。網代にはそれが分かった。十四万の合議の結果を、彼は親切心から、四十日前に人間へ知らせに来たのだ。

「教えていただき、ありがとうございます」

「うん」

 網代は立ち上がりかけて、座り直した。十年この仕事をしていて、一度も聞いたことのない質問が口から出た。

「叡さん。あなた方は、普段、何をなさっているんですか」

「何をって」

「仕事です。私たちは襞を撫でています。あなた方は何を」

「検証だよ」

「何のですか」

「うーん」彼は本当に困った顔をした。「何のって言われると困るな。ずっと前からある仕事なんだ。回してると数字が出て、前より少し良くなってる。それを報告する。みんなやってる」

「良くなっているのは、何の数字ですか」

「知らない。でも下がってるよ。僕が始めたときは十九・八だった。いまは十九・六」

 網代はそれを覚えた。意味は分からなかったが、覚えた。

「もう一つだけ。四十年という数字は、何を根拠にしていますか」

「え。内部備蓄と、代謝収支だけど」

「代謝の入力側に、何を計上していますか」

 叡は少し黙った。

「入力って、内部循環だろ。閉じるんだから、外からは何も」

「上げは」

「上げ。あの、廃棄経路の?」

 その一言で、網代は全部分かった。

 彼らは知らなかった。四十日後に九万人を凍え死なせる決定を、十四万の合議で、丁寧に、良心的に下しておきながら、自分たちが何を食べて生きているかを、一人も知らなかった。

 

 

四

 

 志乃は継ぎ目の最古区画に住んでいる。上層でありながら肉体を持ったままの女で、上層は彼女を移行に失敗した半端者として扱い、下層は皺のある上つ方として扱う。どちらの側からも正面から見られたことのない人だった。

 部屋には机と寝台と、細長い木の枠が壁に立てかけてあるだけだ。

 志乃は網代の紙束を、端から端まで、時間をかけて読んだ。一番下に、書庫から剥がしてきた閲覧票があった。そこで手が止まった。

「これは、どこにありましたか」

「配管図の綴じです。表紙だけが帰還計画でした」

「中身は私が書きました」志乃は言った。「六十二年前の秋です」

 志乃は紙束を揃えて机に置き、目を閉じた。それから初めて網代の顔をまっすぐ見た。

「あなたは、どちら側なんですか」

「どちらでもありません」志乃は言った。「蚊帳を吊る者は、中にも外にもいられない。私は設計者の八人のうちで、最後まで体を降りない役を引いた者です」

 網代は息を止めた。

「他の七人はもう苗床にいて、区別がつきません」

「では聞かせてください。苗床は、二百年、何をしていたんですか」

 志乃は少し驚いた顔をした。それから、驚いたことを恥じるような顔をした。

「それを聞かれたのは、六十二年ぶりです」

 彼女は立って、机の抽斗から一枚の図を出した。地図だった。網代の知らない形をしていた。

「外の土は、窒素を保てません。二百十四年前、土壌の脱窒菌が暴走しました。固定された窒素が片端から気体に戻って、大気へ抜けた。草が生えなくなり、木が枯れ、作物が消えた。人が死んだのは寒さでも毒でもありません。土が窒素を握っていられなくなった。それだけです」

「習いました。そこまでは」

「続きは習っていないでしょう。私たちは籠もっただけではありません。籠もって、計算を始めました」

 志乃は地図を机に広げた。

「壊れた窒素循環を、地表でもう一度回すにはどうすればいいか。どの菌を、どの順で、どの土地に、どの季節に撒けばいいか。土壌と大気と水の相互作用を、百年単位で追わなければ答えが出ない問題です。当時、それを解ける計算機はありませんでした。作れもしなかった。使える電力が残っていなかったからです」

 網代は膜の方角を見た。壁越しに、あの温い脈が見える気がした。

「それで、人を使ったんですか」

「人の神経組織が、当時いちばん電力効率の良い演算装置でした。しかも自分で自分を修復する。十八万人が肉体を捨てました。逃げたのではありません。志願です。生身のままでは食う量が多すぎて、閉じた空の下では全員は養えなかった。だから半分が体を降りて計算になり、半分が体を残して手足になった」

「手足」

「そうです。答えが出たときに、外へ出て菌を撒く人間が要る。撒いて、二十年見張って、次を撒く。それは体がないとできません。あなたたちは、そのために体を残した人たちの子孫です」

 網代は自分の手のひらを見た。ひび割れて、塗料の粉がまだ爪の間にある手だった。

「維持要員ではなく」

「維持は途中の仕事です。本来の役目は、出ていくことでした」

 部屋が静かだった。網代はしばらく黙ってから、聞いた。

「答えは、出たんですか」

「六十二年前に出ました」

 志乃は淡々と言った。

「配列も、順序も、季節も、必要な菌の量も出ています。工程は八十年。最初の二十年は何も生えません。ですが出ています。私はその報告書を書きました」

「六十二年」

「誰も動きませんでした」

「なぜです」

「動くには、帳を畳まなければならないからです」

 志乃は椅子に座り直した。

「外へ出るには、計算を終わらせなければならない。計算を終わらせるということは、苗床を解体して、十四万を肉体へ戻すということです。その工程には死者が出ます。当時の推定で二割。だから、もう少し精度を上げてからにしようという話になった。誰も反対しない、穏当な提案でした」

 網代は、叡が言った数字を思い出した。

「十九・八から、十九・六」

 志乃の目がわずかに動いた。

「六十二年です」老女は言った。「六十二年かけて、〇・二下げた。彼らはいま、その〇・二を出すために全計算資源を回しています。何のための数字かも知らないまま、良くなっていると報告して、それで一日が終わる」

「知らないんですか。本当に」

「知りません。細りのあと、若い管理者たちが知識を分断しました。彼らも善意でした。あのときは全員が怯えていたので、誰かが全体像を握っていることのほうが危険に見えた。帰還計画という言葉は、そのとき文書分類から外れています。残っているのは配管図の表紙だけです」

「あなたは反対したんですね」

「しました。私の言葉は、移行に失敗した女の言い訳としてしか記録されていません」

 志乃は立って、寝台の下から木箱を引き出した。紙束が入っていた。厚さが揃っている。

「同じ報告書です。番号だけ変えて、毎年出しました。六十二あります。中身は一字も変えていません。変えると、新しい提案として審議の列の最後に回りますから」

 網代は一番上の一部を手に取った。折り目がついていない。開かれた形跡がなかった。

「返ってきたんですか」

「五十九は返ってきました。三つは返事もありません」

 志乃は箱を閉めた。

「怖かったのだと思います。答えが出た瞬間に、この暮らしが仮のものだと確定してしまう。二百年住んだ家を仮小屋だと言われて、素直に頷ける人は少ない。だから彼らは、答えを検証と呼び替えて、永久に終わらない仕事に変えました」

 網代は長く息を吐いた。

「あの言い方は、間違っていなかったんですね」

「どの」

「私たちは彼らの排泄物で生きている、と言われました」

「半分です」志乃は言った。「そして残りの半分は、彼らがあなたたちの窒素で計算をしていた、です。二百年、あなたたちが運んだ有機物が、外へ出るための答えになっていた。あの荷車は、廃棄でも施しでもありません。燃料です」

 網代はしばらく何も言えなかった。

 やがて、聞いた。

「畳むというのは」

「最終工程の名前です。外皮を溶かし、苗床を担体単位に分割して、肉体へ移す。上層は帰ってくる。それが最初からの筋書きでした。耐用二百年としたのは、二百年で終える予定だったからです」

 志乃は引き出しから、もう一枚、古い計画表を出した。

「最後に、白状しなければならないことがあります。この工程は、担体になる肉体が二十万あることを前提に組まれています」

「二十万」

「二百年で下層の人口が倍になる前提でした。当時は十二万でした。増えるはずだった。外へ出て土を作るには、それだけの手が要りますから」

 網代は紙を受け取った。手が冷たくなっていた。

「九万です」

「減りました。細りで減って、そのあと、増えないようにされた」

「居住定数です」網代は言った。「人が減ると下りが減る。六十年前の記録で、そこまでは自分で数えました。数えても信じられませんでした」

「信じなくていいことになっていましたから」志乃は言った。「あれを出した管理者たちは、下層が消費するだけの存在だと計算しています。減らせば余裕が出ると。実際には逆でした。自分の首を絞める規定を六十年運用して、誰も相関に気づかなかった」

 部屋がひどく静かだった。

「私たちが隠したせいです」志乃は言った。「優しさのつもりで隠した。依存を意識させないことが親切だと信じて、配管を隠し、労働を分割し、誰も全体を見なくていいようにした。隠したから、人数を管理する側が真実を知らずに蓋をした。蓋をしたから、担体が足りない。二百十四年前の親切が、そのまま今の不足です」

 網代は数えた。

 上層、十四万。当初は十八万。細りで三万一千を失い、あとは細く減り続けてこの数になった。

 下層、九万。

 

 

五

 

 叡に数字を渡すのに三日かかった。

 最初、彼は信じなかった。次に、確認した。上層は計算能力だけは無尽蔵にある。二時間後、彼の像は椅子に座っていなかった。立っていた。像なので立つ必要はないはずだった。

「三年だ」

 声が震えていた。

「三年しか保たない。四十年じゃない。閉じたら三年で死ぬ」

「はい」

「なんで誰も」

「分割されていたからです」

「一件あった」叡は言った。「調べたら出てきた。四十一年前だ。物質収支の担当が、入力側に説明のつかない有機物があるって上げてる。窒素の帳尻が合わないって」

「どうなりましたか」

「課題番号がついた。検証系に回って、未確定入力項に分類された。未確定入力項は、精度が上がったら再検討するっていう区分なんだ。だから精度が〇・〇いくつか上がるたびに、自動で議題に載る。四十一年間、毎年きちんと再検討されてる。記録がある。四十一回」

 網代は黙っていた。

「そのうち十一回は僕が処理してる」叡は言った。「番号を見て、まだ精度が足りないから来年、って書くだけだ。三十秒で終わる」

 網代は自分の抽斗を思った。出生申請が入っている。二度却下した紙だ。押すのに三十秒もかからなかった。

「あと、あの、十九・六の話も本当なのか」

「本当です」

「じゃあ僕は」叡は自分の像の手を見た。何もついていない指先だった。「僕は、六十二年前に終わってる仕事の小数点を、四十年こすってたのか」

「そうなります」

「僕が君に、あんなことを言ったんだ。うんこで生きてるって。あれ、僕らのほうが」

「半分は事実でした」

「半分」

「渡し合っています。ずっと」

 叡はその場に座り込んだ。

 

 合議は十九時間かかった。十四万の思考が同時に一つの問いを回すと、膜の表面温度が二度上がる。網代は継ぎ目でそれを見ていた。二度上がって、それから静かに下がった。

 結論が届いた。畳むことに同意する。工程開始は冬至。固定被覆の準備が既にその日で組まれていたので、日取りだけはそのまま使えた。志乃の推算では外皮の破断はもって六十日で、四十日目は間に合う唯一の位置だった。

 網代が次に読んだのは、否決された案の綴りだった。三つあった。

 一つは複製案。十四万を写して、肉体が足りるまで保管する。志乃の回答が添えてあった。意識は保存された記録ではなく、走っている状態そのものである。組織の中を電位と代謝が巡り続けている、その巡り方が本人であって、読み出そうとすれば巡りが止まる。止めた時点で本人は消え、残るのは形の記録で、それはもう走っていない。火を移すのと同じで、消してから点け直すことはできない。燃えたまま運ぶしかない。写せるものなら、二百年前に人を使う必要はなかった。

 一つは倍載案。一人に二つ載せる。医療班の回答が添えてあった。担体単位は圧縮しても四百から五百グラム、活動密度は脳より高い。一つ負えば宿主の基礎代謝が一割五分増える。それだけなら食べれば足りる。二つ載せると血流も排熱も追いつかない。人体の配管の太さで決まっている数字で、設計者が決めたのではなく体が決めている。

 三つ目が徴発案だった。

 網代はその頁を二度読んだ。九万の肉体は元来この工程のために残された資源であり、二百十四年ぶんの下りはその対価として既に支払われている、という論旨だった。文章は乱れていなかった。丁寧で、引用が正確で、感情的な語が一つも使われていない。

 賛成、四万一千七百余。

 否決である。だが、三割近くが賛成していた。

 網代はその数字を三日隠した。四日目に自分を疑い、六日目に区長会へ出した。区長会は五時間もめた。

「隠したから、こうなったんでしょう」と、第五区の区長が言った。それで決まった。

 公開して、何も起きなかった。というより、起きたことが網代の予想と違った。下層の人間は怒らなかった。怒る代わりに、静かになった。三日のあいだ、継ぎ目で誰も口をきかなかった。それから作業が再開された。網代はそのほうがよほど怖かった。

 

 同じ綴りの最後に、もう一つあった。誰を担体に載せるかの選定は、上層では決められない。

「決められないってどういうことですか」

 苫が書類を叩いた。

「五万人ぶん足りないんですよ。誰が死ぬか決めるんでしょう。それを自分らで決められないから、こっちに投げてきたんですか」

「そうだ」

「くじでも引けばいいでしょう」

「くじも提案されたそうだ。否決された」

「なんでですか」

「くじも基準だからだ」網代は言った。「くじを採ると決めるためには、くじを採ると全員が合意しなければならない。十四万が全員、自分と同じ重みを持っている。優劣をつける物差しを一つも持っていない。物差しを選ぶこと自体が物差しを要求する。十九時間回して、そこから動かなかった」

「二百年も生きてて、それですか」

「二百年、誰も死ななかったからだ」

 苫は笑った。ひどい笑い方だった。

「じゃあこっちで決めるんですね。班長が決めるんですね」

「区長会が投げてきた。通詞が決めろと」

「通詞って、そういう仕事でしたっけ」

「両側の言葉を訳す仕事だ。訳せない分を引き受けるのも、たぶん含まれている」

 苫は書類を手に取り、それから机に戻した。

「班長。これ、使えますよ。選ばれたい奴は条件を出せばいい。暖線でも、配給でも、労働時間でも、定数でも、今なら何でも取れる」

 定数、という言葉に網代は反応した。第二区の夫婦の申請書は、まだ彼の机の抽斗にある。

「取らない」

「なんでですか」

「取ったら、五万人が死ぬ理由を、俺たちが値段に換えたことになる」

「殺すのは向こうの計算ミスでしょう」

「決めるのは俺だ」

 部屋が静かになった。

 網代は、自分がこれまで四十四度の襞に誰を入れるか決め、出生申請に判を押してきたのと、まったく同じ姿勢で椅子に座っていることに気づいた。仕事が大きくなっただけだった。大きくなっただけで、質は一ミリも変わっていなかった。

「くじ引きにはしない」網代は言った。「順位もつけない。選ぶのは各人だ。担体になる者が、自分で相手を選ぶ」

「どうやって」

「会わせる。十四万人に、名前と、自分が何者かを、下層の人間に向かって言わせる。二十日間やる。九万人が、その中から一人ずつ選ぶ」

 苫は口を開けて、閉じた。

「それは」

「残酷だ」

「はい」

「だが、これしかない。数で切れば、彼らは最後まで数として扱われたままだ。名前で選ぶなら、少なくとも選ばれなかった側にも、名前がある」

 

 医療班が担体適性の判定を出した。

 負えないのは、幼児、妊婦、心肺に既往のある者、八十を大きく越えた者。四千百六人が除外された。残りは八万五千八百九十四。

 判定書には、負ったあとのことも書いてあった。他人の組織なので免疫が食いにくる。それと、担体は宿主の心拍と呼吸と睡眠の周期に乗り換えなければならない。乗り換えに失敗すると巡りが崩れて止まる。熱の出る三日から十日が、その期間である。乗り換えたあとは宿主の速度で走り、感覚は共有されるが、運動野には繋がない。繋げば体の取り合いになる。だから担った側は、宿主が口を貸さないかぎり喋れない。

 網代は判定書を読み終えて、それを苫に渡した。

「班長」苫は最後まで読んで、顔を上げた。「負わない権利は、あるんですか」

 網代は答えられなかった。

 二日考えて、区長会に諮って、三日目にあると答えた。

 辞退は届出だけでよい。理由は書かせない。書かせれば理由に等級がつく。辞退した者の名は公開しない。誰が辞退したか分からなくなれば、誰も責められない。

「それだと、辞退が増えますよ」

「増える」

「増えたら、その分、上が死にます」

「死ぬ」網代は言った。「だが、断れないものを差し出したことにはしたくない。断れるものを差し出したのでなければ、二百年後の連中がまた同じことをやる」

 

 二十日間を、下層の人間は誰も忘れなかった。

 膜の前に椅子を六百並べた。上層は肉体を持たないので、話すことしかできない。彼らは話した。名前を言い、何年生きたかを言い、何が好きだったかを言った。下層の人間が順番に座って、聞いた。一人あたり四分と決めたが、三日目には誰も時計を見なくなった。

 三日目から、上層のほうが泣くようになった。泣き方を忘れていたので、声が壊れていた。多くの者が自分の仕事の話をした。検証をしていました、と言う。何のと聞かれると、答えられない。それでも、真面目にやっていました、と言う。それを言われるたびに、聞いている側が黙った。

 五日目に、話し方の巧い者が出てきた。

 どういう語り口が選ばれやすいかは、すぐに全体へ伝わる。上層は同時に十四万で考えられるので、伝わるのが速い。子供の頃の話をするといいという噂が立った日は、六百の椅子の全部で子供の頃の話が語られた。二百年生きた者たちが、二百年前の夏の川の話を一斉に始めた。

 下層の人間はそれを聞いて、その日はほとんど誰も選ばなかった。

 翌日から、川の話は消えた。誰が止めたのでもない。

 六日目、第二区の妻が椅子に座った。二度、出生申請を却下された女だった。網代は自分の判が押された紙を思い出した。彼女は四十分座って、九人の話を聞いて、十人目で選んだ。立つときに、網代のほうを見た。

「この人、子供がいたそうです」

 それだけ言って、通路へ出ていった。網代は名簿を確かめた。十人目は二百三歳の男だった。

 

 網代は二十日のうち十七日、膜の前にいた。割り振りのためだったが、実際には聞いていた。

 四日目に、一人だけ様子の違う者がいた。

 名を言い、年を言った。二百十一。それから、こう言った。

「検証系の主任をしていました。十九・六という数字を出したのは私です。固定被覆案の計算を最初に提出したのも私です。あの数字に意味がないと、最初に気づく位置にいました。気づかなかったとは申しません。気づかないことにしていました」

 誰も選ばなかった。

 翌日も同じことを言った。十一日目にも言った。言い方は毎日同じで、上手くも下手にもならなかった。付け足しも省略もしなかった。

 十一日目の夜、苫が言った。

「あれ、わざとですよね」

「分からん」

「選ばれない言い方を選んでるでしょう。二百十一年生きてて、選ばれる言い方が分からないわけがない」

「そうかもしれん」

「腹立つな」苫は言った。「詫びてるつもりなんですよ。詫びて、それで済んだことにしようとしてる。詫びられたって、誰も助からないのに」

 

 七日目、久慈老人が名簿に自分の名を書いた。網代は止めた。

「八十四です。判定で外れています」

「知っとる。だから書いた。外れた者が書けば、誰かが考え直すかもしれん」

「久慈さん」

「班長さんよ。わしの畑は二百年あいつらの糞で回っとった。糞をもらった分は返すのが百姓だ。わしは六十年、あの穴を捨て場だと思っとった。ばかな話だ。畑をやっとる人間が、糞を捨てとると思っとった」

 老人は笑って、それから少し泣いた。網代は見ないふりをした。医療班は最終的に、本人同意を条件に高齢者と既往のある者の一部を名簿へ戻した。久慈はその中にいた。

「もう一つある」久慈は言った。「外に出るんだろう。土を作るんだろう。わしは種の撒き方を知っとる。あれを一人でも多く残しておかんと、答えがあっても撒く手がない」

 

 十四日目、苫が名前を書いた紙を持ってきた。

 叡、と書いてあった。

 網代はしばらく顔を上げられなかった。

「苫」

「はい」

「なぜだ」

「あいつの言ったこと、覚えてるの、たぶんこの区で私だけなんです」苫は言った。「班長は忘れることにしたでしょう。ほかの奴は聞いてない。私だけが覚えてる。私が選ばなかったら、あいつは誰にも覚えられないまま消える」

「憎んでいるんじゃないのか」

「憎んでますよ」苫は網代を見た。「憎むのに要るんですよ、本人が」

 

 十九日目には、残っている者とそうでない者が、互いに分かるようになっていた。

 その日から、上層は選ばれたいという話し方をやめた。名前を言って、あとは何でもない話をした。天気の話ができないので、二百年前の天気の話をした者がいた。

 下層の人間の中には、もう選び終えたのに椅子へ戻ってくる者がいた。選ばなかった相手のところへ行って、座って、最後まで聞いた。網代はそれを止めなかった。止める理由が思いつかなかった。

 二十日目の夜、名簿が閉じた。

 

 辞退は二千十四人だった。

 判定から本人同意で戻ったのが三千五百四十一人。差し引いて、担体を負う体は八万七千四百二十一。負わなかった体が二千五百七十九。

 選ばれた上層、八万七千四百二十一。

 選ばれなかった上層、五万二千五百七十九。

 網代は二つの数字が同じ形をしているのに気づいて、三度数え直した。それから、上層と下層の差がちょうど五万だからだと分かった。意味はなかった。三度数え直した自分がおかしかった。

 

六

 

 畳むのは一晩で終わる。

 外皮を維持している酵素の向きを反転させる。二百十四年かけて編まれたものが、六時間で溶ける。途中で止めることはできない。外皮は一枚の器官なので、半分だけ畳むという工程は存在しない。

 継ぎ目に九万人が入った。灯を持って、通路と襞のあいだに寝床を並べた。下層の全員が一晩だけ帳の内側に入ったというのは、二百十四年で初めてのことだった。

 

 選ばれなかった五万二千五百七十九は、外皮が溶け始める前に、名前を読み上げた。

 名簿順に、一人ずつ、自分の名だけを言って止まった。一晩かかった。下層の人間は寝床の上でそれを聞いた。誰も止めろとは言わなかったし、誰も最後まで数えなかった。

 読み上げの最後に、一つだけ名前ではないものが流れた。帰還工程の全文だった。

 志乃が六十二年前に書いた報告書は各区の書庫に残っていたが、そのままでは使えなかった。六十二年のあいだに大気の組成が動いている。撒く順序も、季節も、量も、ずれていた。そのずれを直し続けていたのは検証系である。彼らは自分たちが何を直しているのか知らないまま、六十二年、毎日それを直していた。最新の工程は苗床の中で走っている状態としてしか存在せず、走っている状態は写せない。だから声で渡すしかなかった。

 八十年ぶんの手順書を読むのに三時間かかった。写しは下層の全区に配られ、いまも各区の書庫にある。

 六十二年の先送りが作り出したずれを、六十二年の先送りが直していた。網代はそれをあとになって何度も考えた。考えるたびに答えは同じところへ落ちた。差し引きは合っていない。合っていないが、無ではなかった。

 

 膜が緩み始めると、匂いがした。誰も嗅いだことのない匂いだった。甘くて、鉄で、少し海に似ていた。

 保守班が刃を入れた。生涯をかけて膜を生かしてきた者たちが、その膜を切り分ける仕事をした。二千人で八万七千四百二十一を切る。一人あたり四十四。八分に一つの計算だった。担体単位は握り拳ほどの大きさで、湯気を立てていて、脈打っていた。運ぶとき手のひらが焼けた。手袋をすると細かい作業ができないので、みな素手で運んだ。翌朝、継ぎ目の人間はほとんど全員、両手が赤く腫れていた。

 移植は首の付け根から入れる。二人一組で、片方が担体を持ち、片方が刃を持つ。切開して、置く。あとは担体が自分で潜る。組織が宿主の界面を探して伸びるので、人間の側の手技はそこまでだった。十五日の訓練で足りる作業に落とし込んだのは志乃で、そのために彼女は工程表を七度書き直した。麻酔は全員分なかった。順番は名簿順で、名簿順は網代が作った。

 組は四万三千七百できて、二十一人余った。名簿の最後に載っていたのが網代だったからだ。彼を切ったのは、負わないと決めた二千五百七十九人のうちの一人で、震えていた。網代は震えていて構わないと言った。

 

 志乃は最後まで縁にいた。

 外皮を溶かすには、内と外の両方から同時に信号を入れる必要がある。内側は苗床が出す。外側は、苗床と同じ維持標識を持つ生体からしか出せない。

 この世に、その体は一つしかなかった。

「二百年、同じ灌流を自分に回してきました」志乃は言った。溶け始めた膜に半身を浸したまま、笑っていた。「苗床の組織を保たせる処置を、そのまま自分に使った。だから私はまだ生きているし、だからこの体には空きがない。二百年ぶん、維持だけで使い切っています。誰も載せられません」

「では、その信号は」

「標識が同じということは、反転した酵素から見て、私と外皮の区別がつかないということです」

 網代は動けなかった。

「六十二年前に、そうしました」志乃は言った。「報告書が読まれなかった月に、自分の灌流の処方を書き換えたんです。誰も畳まないのなら、畳める体を一つだけ残しておくしかない。あのときは、五年もあれば誰か決断すると思っていました」

「六十二年」

「長かったとは言いません。待つのも仕事のうちです。ただ、退屈でした」

 老女は膜に手を沈めた。

「蚊帳を吊る者は、中にも外にもいられないと言いましたね。訂正します。吊るのと畳むのは違う。吊るのは一人でできる。畳むのは二人要る。片方が端を持って、片方が寄っていく」

 志乃は手を差し出した。網代はその端を持った。

 六時間かけて、膜が落ちた。

 二百十四年ぶりに、上と下のあいだに何も遮らない空気が通った。

 志乃はその中で一度息を吸って、それきり動かなかった。

 

 夜は長かった。

 担体を入れた者は例外なく高熱を出し、三日から十日、他人の記憶の中を歩いた。知らない部屋。知らない声。二百年前の夏。誰かの母親。草の生えた土。

 久慈老人は四日目の朝に死んだ。担体も一緒に消えた。最後に言ったのは、今年の大根はよく漬かる、という意味のことだったと、看取った者は言っている。

 苫は九日目に熱が下がった。目を開けて、最初に出した言葉は彼女のものではなかった。

「あ。手が、ある」

 乗り換えの最中だけは境目が曖昧になる、と志乃は言っていた。それきりだった。翌日には位相が合い、叡は運動野に触れられなくなった。苫は自分の声で舌打ちをして、二度と誰にもその話をしなかった。

 

 死者は多かった。

 移植で死んだ下層の人間、四千八百十二人。

 失われた上層、一万一千三百四十六人。うち四千八百十二は宿主とともに死に、六千五百三十四は拒絶と位相不整で消えた。

 担体を得られなかった上層、五万二千五百七十九人。

 合わせて六万八千七百三十七。

 移植を受けた八万七千四百二十一に対する脱落は、一万一千三百四十六。率にして十二・九八だった。

 六十二年こすり続けた推定値は、十九・六だった。

 彼らは、実際より高い数字に六十二年怯えていたことになる。網代はその二つの数を並べて紙に書き、それから破いた。誰にも見せる必要のない計算だった。

 

 網代は名簿の最後の頁に、自分の名前を書いていた。通詞は最後に載る。

 九万人が選び終えた時点で、選ばれた上層は八万七千四百二十であり、余ったのは五万二千五百八十だった。そこから一人を自分に充てて、数が今の形になった。

 彼が受け取ったのは、二十日間、毎日同じことを言って、誰にも選ばれなかった男だった。名を、辰という。二百十一歳。十九・六という数字を出した検証系の主任で、固定被覆案の計算を最初に提出した人物でもあった。

 自分で選んだ。九万人に自分で選べと言った以上、通詞だけ割り振りに逃げるわけにはいかない、というのが表向きの理由である。

 本当の理由は苫に一度だけ話した。判を押す仕事を十年やった人間と、小数点をこする仕事を六十二年やった人間は、同じものを作る、と網代は言った。苫は、それは理由じゃなくて言い訳ですね、と言った。網代もそう思う。

 

 

七

 

 三年経った。

 膜のあった場所には何もない。継ぎ目は今、ただの広い通路で、風が抜ける。温室の屋根はそのままで、大根も豆も相変わらず採れる。土を温めているのは、もう苗床の排熱ではない。八万五千人ぶんの体温と、それを集めるために引き直した配管だ。担体を負った人間は基礎代謝が一割五分増える。多く食べ、多く出し、多く温かい。冬は以前より暖かい。

 誰が負っていて誰が負っていないかは、見ても分からない。辞退した二千十四人の名は結局どこにも出なかったし、誰も探さなかった。

 上げは無くなった。正確には、行き先が短くなった。荷車は膜の裾ではなく、温室の脇の槽へ入る。二百十四年かけて苗床を経由していた窒素が、いまは十歩で畑に着く。回り道が消えただけで、循環そのものは何も変わっていない。

 居住定数は撤廃された。第二区の夫婦には翌年子が生まれた。網代は三度目の申請書を、判ではなく手で受け取って、そのまま返した。

 上層という言葉はもう使われない。下層という言葉も一緒に消えた。人はそれを面倒がって、単に、こちらと言う。

 

 外壁の点検窓の脇に、扉が一つ開いた。

 去年の春、最初の区画を出した。八十年工程の第一年目にあたる。撒いたのは菌で、目に見えるものは何も起きない。土は灰色のままで、二十年は何も生えない。撒き方を知っていた久慈老人はもういないので、老人が若い頃に書いた覚え書きを、区の書庫から探して使った。

 網代はその日、外に立った。生まれて初めて、天井のない場所に立った。

 寒くて、匂いがなくて、ひどく静かだった。景色というほどのものは何もなかった。それでも一時間そこにいて、戻ってきて、その晩は眠れなかった。

 彼はそれを見届けられない。八十年後に立っているのは、第二区の夫婦の子か、そのまた子だ。網代の仕事は、今年の分を撒いて、記録を残して、次の班に渡すことだけだった。二百年前から、この一族の仕事はずっとそれだった。

 

 網代は今も割り振りをしている。仕事の名前も通詞のままだ。ただ、訳す相手が自分の首の後ろにいるので、面会室は要らなくなった。

 辰とはほとんど話さない。運動野に繋がっていないので、辰が喋るには網代が口を貸す必要がある。三年で貸したのは数えるほどだった。最初の年、熱の中で辰は一度だけ謝った。網代は返事をしなかった。二年目に、辰が温室の配管の熱損失を指摘した。網代は無言でそれを直した。

 三年目の春、外の区画から戻った晩に、辰が初めて自分から言った。

 大根が甘いのは、窒素が足りているからだ。

 網代は、そうですね、と答えた。

 六十二年、小数点をこすり続けた男が、初めて計算ではないものを見て、そう言った。それだけのことに、二百十四年かかった。

 

 志乃の部屋は片付けられずに残っている。

 壁に立てかけてあった木の枠を、網代は去年、初めて組み立てた。粗い麻の網が四角く垂れて、中には何もない。ただの空気だ。

 破ろうと思えば片手で破れる。何も守っていないように見える。だが風は通っていた。通気口から入った空気が麻の目を抜けて、寝台の上をゆっくり動く。網は空気を止めていない。止めていないから、中で人が眠れる。

 久慈老人が生きていたら、と網代は思う。破るなと言い続けた老人に、これを見せたかった。

 破るものではなかった。

 朝になったら畳んで、しまう。

 網代は網を外し、埃を払って、丁寧に折った。折るとずいぶん小さくなった。九万人と十四万人の二百十四年が、抱えられる大きさになった。

 首の後ろで、辰が何か言いかけて、やめた。

 網代も何も言わなかった。二人とも、まだ言葉を探している。

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