熱力学とたくあん 作:カルボナーラに牛乳はいらない
特撮詳しくないので至らない点はお目溢し何卒
プロローグ 死体③
冷たい。
廃工場のコンクリートは、九月だというのに死人みたいに冷えていた。来栖灯真はそこに仰向けに転がり、目を開けたまま、三時間近く動かずにいる。
「はい、じゃあ死体の方、もう少し不自然に転がってもらえますー?」
助監督の声が飛ぶ。灯真は返事をしない。死体だからだ。代わりに、肩の位置をほんの二センチずらした。首の角度を、生きている人間なら絶対に選ばない方向へ落とす。頸椎が折れて、そこから力が抜けきった人間の重さ。それを、呼吸を殺したまま作る。
「あー、いいですいいです。そのまま」
助監督はもう灯真を見ていなかった。灯真の「そのまま」がどれだけの計算でできているかを、この現場の誰も知らない。知る必要もない。
香盤表に彼の名前は載っていない。〈死体③〉と書かれている。②と④は同じ事務所の後輩で、どっちも今日が初現場だと言っていた。三人とも、同じ血糊を額に塗られ、同じ倉庫の床に転がされている。
ライトが灯る。
カメラが回る。
主役の俳優が――灯真より二つ年下の、去年ドラマで跳ねた男が――この倉庫に踏み込んでくる。彼が息を呑む。彼が拳を握る。彼が、床に転がる三つの死体を見下ろして、震える声で言う。
「……間に合わなかった」
カット、の声。拍手。主役の彼に、監督が歩み寄って何か言い、彼が笑う。スタッフが駆け寄ってタオルを渡す。誰かが「今の芝居、鳥肌立ちました」と言った。
灯真は起き上がった。誰も見ていない。
血糊を拭くためのウェットティッシュは、自分の鞄から出した。
更衣室代わりの資材置き場で私服に着替えていると、後輩の一人が話しかけてきた。
「来栖さん、死体うまいっすね。俺、途中で足つっちゃって」
「三時間動かないのは、慣れだよ」
「慣れ……何年目でしたっけ」
「六年」
後輩は「へえ」と言った。その「へえ」に含まれていたものを、灯真は正確に聞き取った。悪気はない。悪気はないから、余計にこたえる。
六年やって、死体がうまい。
それが、来栖灯真という俳優の到達点だった。
外に出ると雨が降っていた。
傘は持っていない。駅までの十五分を、コンビニのビニール袋を頭に載せて歩く。国道沿いのビルの壁で、巨大な広告が光っていた。
――〈街を守る、鋼の牙〉。
黒い装甲。獣を思わせる複眼。都市防衛協力企業のイメージ広告に使われている、この街で最も有名な男の姿。
仮面ライダーガルム。
その真下で、小学生くらいの男の子が二人、傘を放り出して戦いごっこをしていた。片方が「変身!」と叫んで腰に手を当てる。もう片方が「うわあああ」と倒れる。倒れたほうが、すぐに起き上がって言った。
「次、俺がガルムな」
「えー、じゃあ俺は?」
「お前は……怪人でいいじゃん」
「やだよ、怪人つまんねえもん」
灯真は足を止めた。
雨に打たれながら、子どもたちのやりとりを聞いていた。
――怪人はつまんない。
じゃあ、名前もない役は?
台詞もなくて、香盤表に番号でしか載らなくて、六年やっても「へえ」で終わる役は?
答えを出す前に、信号が変わった。灯真はビニール袋を被り直し、歩き出す。
この夜から二日後、来栖灯真は仮面ライダーになる。
そして、この街で最も名前のない男に殺されかける。
第一章 通行人A
朝八時。灯真はコンビニのバックヤードで、廃棄弁当を三つ、リュックに詰めていた。
「来栖くん、また持ってくの」
「はい。夕方まで持ちます」
「冷蔵庫あるの、家に」
「あります。……ちっちゃいけど」
深夜勤明けの店長は、それ以上何も聞かなかった。この店で灯真が三年働いていることも、たまに現場が入ると急にシフトを空けたがることも、そのくせちっとも売れないことも、全部知っている。何も聞かないのは、優しさというより慣れだった。
電車に乗る。オーディション会場に着く。
番号札は四十七番。壁際に並んだパイプ椅子に、同じような顔をした男が三十人ほど座っている。全員が同じ資料を持ち、同じところに指を挟んでいる。
役名は〈青年〉。台詞は二つ。
『あの……大丈夫ですか』
『いや、こっちの話です』
灯真はこの二行を、家で四百回読んだ。四百回のうち、三百八十回は違うやり方を試した。心配している青年。心配しているふりをしている青年。本当は自分がいっぱいいっぱいなのに、他人を気遣ってしまう青年。声を張る青年。声が出ない青年。
番号を呼ばれ、部屋に入る。長机の向こうに四人。
「四十七番、来栖灯真です。よろしくお願いします」
プロデューサーらしき男が資料をめくり、顔を上げずに言った。
「じゃ、二行お願いします」
灯真は息を吸った。三百八十通りの中から、今日のために選び抜いた一つを――
「はい、ありがとうございます」
――言い終わる前に、止められた。
いや、正確には、言い終わっていた。二行しかないのだから。ただ、灯真の一行目と二行目の間に置いた〇・八秒の沈黙を、この部屋の誰も待っていなかった。
部屋を出る。廊下で、次の番号の男が呼ばれる。
エレベーターの中で、灯真は自分の手のひらを見た。汗をかいている。二行の台詞で。
携帯が鳴った。事務所のマネージャー、大場からだ。四十代半ば、腹の出た、いつも眠そうな男。
「来栖、どうだった」
「……たぶんダメです」
「そうか」大場は少しも驚かなかった。「なあ来栖、来月な、二時間サスペンスの現場がある」
「役は」
「死体だ」
「……」
「悪い」
「いえ」灯真は笑おうとした。「得意なんで」
電話を切ってから、灯真は駅のホームのベンチに二十分座っていた。
六年前、演劇部で主役をやった。県大会で賞をもらった。顧問の先生が「お前は本物だ」と言った。あの言葉を信じてこの街に出てきて、劇団に入って、三年で潰れて、今は死体がうまい。
電光掲示板の下に、ニュースの字幕が流れていた。
〈江東区で異形災害体〈黒衣〉出現 特災課が対応 負傷者3名〉
〈黒衣〉。
十年ほど前から、この国に現れるようになったもの。人の執着が――誰かへの恨み、何かへの妄執、消えない後悔が――ある臨界を超えたとき、その人間の内側から黒い影が滲み出して、形になる。最初に確認された個体が、顔のない黒い人型だったことから、現場ではそう呼ばれるようになった。歌舞伎の舞台で、いないことになっている黒子。
そして、それに対抗するために作られたのが、仮面ライダーだった。
いまや彼らは、公の存在だ。警視庁特異災害対策課――通称〈特災課〉――に籍を置き、記者会見に出て、企業広告に使われ、子どもたちに戦いごっこの役をやらせる。
この街には、五人の仮面ライダーがいる。
そのうち一人が、去年のうちに引退した。もう一人は、二年前に殉職した。
残った三人。その筆頭が、仮面ライダーガルムだ。
灯真はホームの掲示板を見上げながら、ぼんやり思った。
あの人たちの香盤表には、ちゃんと名前が書いてあるんだろうな。
電車が来た。灯真は立ち上がる。
この時、来栖灯真は、自分の人生に「役名」がつく日が来るとは、一ミリも思っていなかった。
第二章 アクション
その日の夕方、灯真は駅前の商店街を歩いていた。
廃棄弁当のうち一つを、いつも同じ場所に座っている老人に渡すのが習慣になっていた。今日はもう帰ろうと思っていた。思っていたところに、音がした。
金属が捻じ切れる音。次いで、悲鳴。
商店街のアーケードの向こう側で、白い車体のバンが横倒しになっていた。特災課の輸送車だ。その周りに、黒いものが立っている。
人型だが、人ではない。
全身が濡れたような黒。顔にあたる部分に目も口もなく、代わりに、無数の細い糸が垂れている。腕が長い。指が、六本ある。
〈黒衣〉。
灯真は、生まれて初めて実物を見た。
テレビで見るのとは、まったく違った。何がと言われれば、空気だ。あれがいる場所の空気は、明らかに重い。息を吸うたびに、肺の底に何か沈んでいくような。
商店街は逃げ惑う人であふれていた。誰かがぶつかり、灯真は転びかけた。体勢を立て直したとき、視界の端に、動いていないものが映った。
女の子だった。
七歳くらい。赤いランドセルを背負ったまま、倒れた自転車の陰にしゃがみこんでいる。逃げていない。逃げられていない。足がすくんで、そこから一歩も動けなくなっている。
黒衣が、ゆっくりとそちらを向いた。
灯真の体は、頭より先に動いていた。
人混みを逆走する。誰かの肩にぶつかる。転ぶ。膝が擦れる。立ち上がる。
――間に合え。
その言葉が頭の中で鳴った瞬間、灯真は、二日前に自分が転がっていた倉庫の床を思い出した。主役の彼が言った台詞。間に合わなかった。
冗談じゃない。
女の子の前に滑り込む。抱きかかえる。黒衣の腕が振り下ろされる。
背中が焼けた。
そのまま二人で吹き飛び、横倒しの輸送車に叩きつけられた。灯真は女の子を胸に抱えたまま、コンクリートを転がった。口の中が鉄の味でいっぱいになる。
視界が揺れる中で、何かが目の前に落ちてきた。
輸送車の後部ハッチが衝突で歪み、中の積荷が投げ出されていた。銀色のアタッシュケース。その蓋が、地面に落ちた衝撃で弾け飛んでいる。
中に、ベルトがあった。
黒とクロームの、金属の塊。中央に円形の空洞。側面に、映写機のような手回しのクランクがついている。
そして、そのベルトの隣に、六本の円筒が散らばっていた。透明なケースに巻かれた、赤い映画フィルム。青い映画フィルム。紫。藍。金。そして――何も写っていない、白い一本。
黒衣が近づいてくる。
女の子が灯真のシャツを掴んでいた。震えている。声も出ていない。
灯真は、ベルトに手を伸ばした。
なぜかは分からない。ただ、それが自分に向かって落ちてきたように見えたからだ。
指が触れた瞬間、ベルトが光った。
【COMPATIBLE.】
電子音声。ベルトが独りでに灯真の腰に回り込み、光の帯となって固定される。
灯真は呆然と自分の腰を見下ろした。それから、散らばったフィルムのうち、いちばん手近にあった赤い一本を掴んだ。
なぜ掴んだのか。それも分からない。ただ、赤いフィルムのラベルに、こう印字されていたからかもしれない。
――ACTION。
灯真はそれを、ベルト中央の空洞に押し込んだ。
【ROLL IT!】
カチリ、と嵌る。フィルムが回転を始める。灯真の手が、勝手にクランクへ伸びた。
まわす。
カラカラカラ、と乾いた音が鳴った。古い映写機の音だ。腰から放たれた光が、灯真の周囲に円形のスクリーンを描き出す。
そのスクリーンに、映画が流れた。
誰も見たことのない映画だ。爆炎。疾走。跳躍。転がり、立ち上がり、また走る男の後ろ姿。フィルムに焼き付けられた「アクション」という概念そのものが、光の粒になって灯真に降り注ぐ。
【Lights. Camera.】
声が出た。自分の声だった。
「――変身」
【ACTION!!】
光が弾けた。
赤い装甲。白いライン。額から後頭部へ抜ける、映写機のレンズを模した銀色の意匠。複眼は、フィルムのコマのように四角く区切られている。
仮面ライダーACT・アクションフォーム。
黒衣の腕が振り下ろされた。
灯真は、避けた。
自分でも信じられなかった。体が、勝手に動いた――いや、違う。動き方を「知っていた」。何百回と見た映画の中で、主人公たちが同じ場面をどう切り抜けてきたか。その全部が、体の中に流し込まれている。
拳を握る。踏み込む。
殴った。
黒衣が吹き飛び、商店街のシャッターを突き破った。灯真は自分の右手を見た。装甲の指が震えている。
「……マジか」
声が漏れた。
その瞬間、灯真は完全に浮かれていた。
黒衣が起き上がる。糸のような顔面が波打ち、長い腕が伸びる。灯真は跳んだ。跳べた。看板の上に着地して、そこからまた跳ぶ。
殴る。蹴る。爆発が起きる。
――すごい。
――俺、すごくないか。
黒衣の一撃が、灯真の脇腹を掠めた。装甲が削れる。痛みはある。だが、いま灯真の頭を支配していたのは痛みではなかった。
商店街の物陰から、逃げ遅れた人々がこちらを見ている。誰かがスマホを構えている。
見られている。
六年間、一度も向けられたことのなかった数の視線が、今、自分に集まっている。
灯真は――ポーズを取った。
黒衣に向き直り、腰を落とし、右手を前に突き出した。舞台で、幕が上がった瞬間にやるように。
その〇・五秒が、致命的だった。
黒衣の腕が伸び、灯真の首を掴んで、地面に叩きつけた。アスファルトが陥没する。装甲の中で、内臓が跳ねた。
「ぐ、あ……!」
もう一撃。腹。
視界がホワイトアウトする。フィルムの回転が止まりかける。灯真の脳裏に、さっきの女の子の顔がよぎった。
――あの子は。
首を捻じって探す。いた。まだ自転車の陰にいる。逃げていない。今度は足がすくんだからではなく、灯真を見ていたからだ。
黒衣が、灯真を投げ捨てて、その子のほうへ歩き出した。
「まっ……!」
立ち上がれない。
その時だった。
夜空を裂くように、黒い影が降ってきた。
着地の衝撃で、アスファルトが円形に砕ける。
黒。艶のない、光を吸うような黒の装甲。狼を思わせる鋭角の面。肩から背にかけて、鎖のような装飾が走っている。右手には、幅広の直刃。
仮面ライダーガルム。
現れた瞬間、空気の重さが変わった。
黒衣が振り向くより早く、ガルムの刃が動いた。灯真には、動作が見えなかった。一閃、という言葉が現実になった音だけがした。
黒衣は、上半身と下半身に分かれてから、崩れた。
黒い塵になって溶けていく残骸の中に、ぼろぼろの人影が残った。四十代くらいの男が一人、意識を失って倒れている。宿主だ。黒衣は、人から生まれる。
ガルムは刃を鞘に収めることもせず、まっすぐ灯真のほうへ歩いてきた。
灯真はよろよろと立ち上がり、変身を解いた。光が散り、ベルトだけが残る。
「あ、あの、ありがとうございま――」
言い終わらないうちに、胸倉を掴まれた。
両足が地面から浮く。灯真の顔の三十センチ先に、ガルムの複眼があった。
ガルムの変身が解けた。
現れたのは、四十手前くらいの男だった。短く刈った髪。深い眉間の皺。左の顎から首にかけて、白く盛り上がった古い傷跡。眼は、灯真がこれまでの人生で見たどんな眼とも違っていた。冷たいのではない。疲れきっているのに、まだ燃えている眼だった。
「――名前は」
「え」
「名前を言え」
「く、来栖……来栖灯真です」
男は灯真を掴んだまま、値踏みするように顔を眺めた。それから、灯真の腰のベルトを見た。
「特災課、開発中止案件。〈シネマティックドライバー〉。実験段階の代物だ」男の声は低く、平坦だった。「今日、廃棄処分場に運ぶ途中だった」
「は、廃棄……?」
「適合率が、誰も出なかったからだ」
男は灯真を放した。灯真は尻もちをついた。
男は背を向け、歩き出しながら言った。
「来栖。三つ教えてやる」
灯真は座り込んだまま、その背中を見上げた。
「一つ。お前は今日、二回死んだ。一度目は最初の一撃をまともに食らったとき。二度目は、決めポーズを取ったときだ」
灯真の背中が、冷たくなった。
「二つ。お前が構えている間、あの子どもは死ぬところだった」
喉が詰まった。
「三つ」
男は立ち止まり、首だけで振り返った。
「カメラは、回ってない」
その言葉が、灯真の胸のいちばん柔らかいところに、正確に突き刺さった。
「ここは撮影現場じゃない。ここで死ぬやつは、本当に死ぬ。二度と起き上がらない。血糊は拭けば落ちるが、こっちは落ちない」
「……」
「そのベルトは、明日特災課に返せ。お前には荷が重い」
男は歩き去った。
灯真は、しばらく動けなかった。
やがて、小さな足音が近づいてきた。
あの女の子だった。赤いランドセル。膝に擦り傷。震えは、まだ止まっていない。
女の子は灯真の前に立ち、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「……ありがとう」
灯真は、その言葉を、うまく受け取れなかった。
六年間で、初めて。舞台の上でも、現場でも、一度ももらったことのない言葉だった。
「おにいさん、なまえは」
「……え」
「なまえ」
灯真は口を開いた。
喉から出てきたのは、掠れた音だった。
「――来栖、灯真」
「くるすとうま」女の子は、噛み締めるように繰り返した。「わたし、美奈」
その夜、来栖灯真は、生まれて初めて、自分の名前を誰かに覚えてもらった。
第三章 適合者
警視庁特異災害対策課の地下三階は、灯真が想像していた「秘密基地」とはまるで違った。
蛍光灯は白すぎて、床はリノリウムで、壁際にはスチール棚が並び、そこに書類のファイルがぎっしり詰まっている。区役所の倉庫みたいだ、と灯真は思った。
「はい、これ着けて。動かないで」
白衣の女がそう言って、灯真の額に電極を貼り付けた。三十前後だろうか。ひっつめた髪。目の下のクマ。手つきは、機械を扱うときのそれだった。
「あの、俺、何を」
「適合率の測定。三分で終わる」
「適合率って」
「ドライバーが装着者を『主演』として認識できるかどうかの数値」女は端末を叩きながら、面倒くさそうに言った。「〈シネマティックドライバー〉は、装着者の情動と身体制御の相関から役割適合度を算出する。低いと変身できない。低すぎると、変身した瞬間に心臓が止まる」
「止まる!?」
「止まったやつは、まだいない。誰も変身できなかったから」
女は端末から顔を上げ、初めて灯真をまともに見た。
「――姫野遥。技術官。このドライバーを作った責任者」
姫野は、七年かけてこのベルトを組み上げた、と言った。
既存の仮面ライダーシステムは、装着者の肉体を強化し、耐性を与え、武装を展開する。単純で、堅牢で、そのぶん装着者の資質を選ぶ。適合できる人間は、この国におよそ二千人に一人。
「〈シネマティックドライバー〉は、そこを別のアプローチで解こうとした」
姫野はモニターを叩いた。フィルムの構造図が表示される。
「肉体を強化するんじゃなくて、役を憑依させる。記録されたアーキタイプ――映画というフォーマットが百年以上かけて洗練させてきた『戦う者の型』を、装着者の神経系に流し込む。だから理論上は、身体能力がゼロでも戦える」
「じゃあ、なんで廃棄に」
「誰も『憑依』できなかったから」
姫野は肩をすくめた。
「候補者を四十七人試した。全員、拒絶した。理由は簡単。人間は、自分じゃないものになるのを、本能的に嫌がる。特に肝が据わってて、自我が強くて、ライダーに向いてる人間ほど拒絶した」
端末が電子音を鳴らした。
姫野の手が止まった。
彼女はモニターを二度見して、それから灯真を見て、もう一度モニターを見た。
「……適合率、九十四パーセント」
「それって」
「四十七人の最高記録が、十一パーセント」
姫野は椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。それから、乾いた笑い声を漏らした。
「七年だよ。七年かけて、答えは『役者を連れてくればよかった』」
その時、部屋の扉が開いた。
牙城剛が入ってきた。灯真は反射的に立ち上がった。
「姫野。数値は」
「九十四」
「――冗談だろう」
「本人に言って」
牙城は灯真を見た。あの疲れた眼が、灯真の全身を上から下まで一往復する。灯真はそれだけで、喉がからからになった。
「特災課、牙城剛だ。仮面ライダーガルム」牙城は名乗った。「来栖。返しに来たんじゃないのか」
灯真は、ベルトの入ったケースを抱えたまま、答えられなかった。
昨日、家に帰ってから一睡もしていない。何度も返そうと思った。何度も、美奈という子の「ありがとう」を思い出した。
「……返します」
灯真はそう言った。
言ってから、続けた。
「返します。けど、その前に――一回だけ、ちゃんと戦わせてください」
「なぜだ」
「昨日、俺、ポーズ取りました」
牙城の眉が動いた。
「あれが、恥ずかしくて。……六年間、誰にも見られてない人生やってきて、初めて人に見られて、それで嬉しくなって、女の子を放り出してポーズ取ったんです。自分でも最悪だと思ってます」
灯真は、ケースを握る手に力を込めた。
「だから、あれを最後の記憶にしたくないんです。あれで終わったら、俺、一生あれを思い出します。一回だけでいいんで、ちゃんとやらせてください。ちゃんとやって、それでダメだったら、返します」
沈黙が落ちた。
牙城は、長いこと灯真を見ていた。
「――理由が全部、自分の話だな」
牙城は言った。
「お前は、救けたい人間がいるから戦うんじゃない。恥をかいたのが嫌だから戦いたいんだ」
灯真は、何も言い返せなかった。
「その動機で戦った奴を、俺は二人知っている」牙城は背を向けた。「二人とも死んだ。片方は、庇った民間人ごと死んだ」
扉が閉まった。
姫野が、椅子を回して灯真のほうを向いた。
「……許可、下りたよ」
「え?」
「あの人、反対なら『ふざけるな』って言う。無言で出てったってことは、上に文句言いに行ったってこと。で、上は絶対に許可を出す。適合率九十四パーセントを廃棄するバカはいない」
「じゃあ」
「言っとくけど」姫野は指を一本立てた。「あの人の言ったこと、九割正しいから。覚えといて」
その日、来栖灯真は正式に特災課の協力者として登録された。
登録名は〈仮面ライダーACT〉。
人生で初めて手にした、名前のある役だった。
+++
地下三階を出たロビーで、灯真は男に声をかけられた。
「あの、失礼します。来栖さんですよね」
中肉中背。よれたグレーのジャケット。四十過ぎくらい。手にはくたびれた革の手帳と、ボールペン。首から下がった記者証には、「日和新聞社会部 鵜飼誠」とあった。
「あ、はい」
「ああ、よかった。日和新聞の鵜飼と申します。あの、昨日の商店街の件、少しだけお話を伺えたらと」
鵜飼はぺこぺこと頭を下げた。低姿勢というより、卑屈と言ったほうが近い。人当たりのいい顔をしているのに、なぜか目を合わせるとこちらが落ち着かなくなる。視線が、少しだけ長い。
「いや、俺、まだ何も分かってなくて」
「もちろん、もちろんです。差し支えない範囲で結構です」
断る理由も思いつかず、灯真は近くのベンチに座った。鵜飼は嬉しそうに隣に腰かけた。
「まず、おめでとうございます」
「……はい?」
「新しいライダーの誕生です。これは事件ですよ。この街に新しいライダーが立つのは、四年ぶりだ」鵜飼は手帳を開いた。「実は私、この分野をずっと追ってまして。十二年になります」
「十二年」
「ええ。〈黒衣〉の第一号発生からです。全部見てきました。仮面ライダーヴィジル、仮面ライダーグレン、仮面ライダーサイス。……全員、記事にしました」
鵜飼は、少年のような顔で笑った。
その笑い方だけは、卑屈ではなかった。
「来栖さん。昨日、あなたはあの子を庇いに走ったそうですね。変身する前に」
「あ、はい。というか、変身できるとか知らなかったんで」
「素晴らしい」
鵜飼はペンを走らせた。
「素晴らしいですよ。丸腰で走った。それはね、来栖さん、資質です。ライダーってのは、ベルトで決まるんじゃない。走るか走らないかで決まるんだ」
灯真は、少し面食らった。
六年間、誰にも褒められなかった男に、この言葉はよく効いた。効きすぎるほど効いた。
「あの、俺、素人なんで」
「素人が走ったから価値がある。玄人が走るのは仕事だが、素人が走るのは意志だ」鵜飼は身を乗り出した。「来栖さん、失礼ですがご職業は」
「……俳優、です」
鵜飼のペンが、止まった。
その一瞬、灯真は、隣の男の呼吸が変わったのを感じた。
「俳優」
「はい。あの、全然売れてないんですけど」
「俳優」鵜飼はもう一度言った。「俳優が、仮面ライダーになった」
彼は手帳を閉じ、両手で顔を撫でた。それから、ゆっくりと灯真のほうを向いた。
目が、光っていた。
「――完璧だ」
「え?」
「あ、いや」鵜飼は慌てて手を振った。「すみません、興奮してしまって。いや、良い記事になります。本当に。ありがとうございます」
彼は何度も頭を下げながら、去っていった。
灯真は、その後ろ姿を見送りながら、なぜだか少し寒気がした。
寒気の理由を、彼はこの時、言葉にできなかった。
できたのは、それから三ヶ月後のことだ。
第四章 主役
翌週、来栖灯真の人生は、一夜で変わった。
鵜飼誠の記事が、日和新聞の社会面に載った。
〈素手で走った青年――新ライダー〈ACT〉誕生〉
内容は誠実だった。誇張はほとんどない。ただ、事実の並べ方が異様に上手かった。丸腰で子どもを庇いに走ったこと。全身に打撲を負っていたこと。翌日、ベルトを返しに行こうとしたこと。
記事は、こう締められていた。
――この街には、すでに強いライダーがいる。だが、弱いままで走った者は、彼が初めてだった。
記事はネットで拡散した。
三日でテレビが動いた。灯真の顔と名前が、朝の情報番組に出た。事務所の電話が鳴り止まなくなった。大場マネージャーは、生まれて初めて灯真に「先生」と言いかけて、自分で吹き出した。
「来栖! バラエティ二本と、CMの話が来てる!」
「……CM」
「保険だ。『いざというとき、走れますか』ってやつ」
街を歩けば、振り返られるようになった。コンビニのバイトは辞めた。オーディションに行けば、番号ではなく名前で呼ばれた。
そして――現場に呼ばれた。
夕方の連続ドラマ、第七話。役名は〈青年〉。台詞は二つ。
あのオーディションで落ちた役だった。落ちたはずの役に、後から声がかかった。
「来栖さん、こちらへどうぞ! 椅子、ご用意してます!」
助監督が走ってくる。灯真の名前を、フルネームで呼ぶ。パイプ椅子ではなく、背もたれのあるディレクターズチェアが用意されている。背中に「KURUSU」とテープで貼ってある。
灯真は、その椅子に座った。
座って、震えた。
六年だ。六年かかった。
――違う。
六年じゃない。一週間だ。
ベルトを拾ってから、一週間で全部が変わった。
その事実を、灯真は、この時ちゃんと直視できなかった。
+++
三週間で、灯真は四体の黒衣を倒した。
勝てた。フォームが強かった。
赤い〈アクション〉。青銀の〈サイファイ〉――レーザーと推進装置で、空を飛べた。藍の〈サムライ〉――抜刀の一閃で、鉄骨を斬った。
変身するたび、灯真の中に「型」が流れ込む。百年分の映画が蓄積した、戦う者の所作。
そして、そのたびに、周りにスマホが並んだ。
動画は再生数を伸ばした。切り抜きが出回った。〈ACTの居合が美しすぎる件〉。〈新人ライダー、空を飛ぶ〉。
灯真は、それを見ていた。夜、布団の中で、何度も見ていた。
コメント欄を、上から下まで読んでいた。
「――来栖」
四体目を倒した現場で、牙城が言った。
灯真は変身を解いたところだった。背後で、住民が拍手をしている。灯真は反射的に、そちらへ小さく手を挙げていた。
その手首を、牙城が掴んだ。
「三十二秒だ」
「え?」
「今の戦闘、お前が最初にあいつを倒せた瞬間から、実際に倒すまで、三十二秒かかっている」
「……」
「サイファイのブースターで、開始十四秒で背後を取れた。あそこで撃てば終わっていた。お前は撃たずに、正面に回り込んだ」
灯真は、答えられなかった。
背後から撃つ絵は、地味だからだ。
それを、自分でも、あの瞬間に考えていた。
「あの建物」牙城は顎で示した。三階建ての雑居ビル。「二階の窓に、逃げ遅れた老人が二人いた。三十二秒の間に、天井の梁が二本落ちてる。当たっていたら死んでいた」
「……」
「お前は今日、二人殺しかけた。構図のために」
灯真の唇が動いた。反論の形に動いて、音にならなかった。
「言い訳があるなら聞く」
牙城は待った。
灯真は、地面を見ていた。
言い訳は、いくらでも思いついた。判断が遅れた。ブースターの残量が不安だった。角度が悪かった。
どれも、嘘だった。
「……絵が、良くなると思いました」
灯真は、正直に言った。
牙城は、灯真の手首を放した。
そして――何も言わなかった。
何も言わずに、背を向けて歩き出した。
その無言が、殴られるより痛かった。
「牙城さん」
灯真は呼び止めた。
「俺、どうすればいいですか」
牙城は立ち止まった。
「教えてください。俺、あんたみたいに強くない。判断も遅い。でも――」
「教えることは何もない」
牙城は振り向かなかった。
「お前がやってるのは、戦闘じゃない。仮面ライダーごっこだ」
その言葉が、アスファルトに落ちた。
「ごっこにコーチはいらん。相手役がいればいい。お前の相手役は、街の人間だ。奴らはお前が格好つけてる間、無償で人質役をやってくれてる」
「――っ」
「命懸けの人質役だ。ギャラは出ない」
牙城は歩き去った。
灯真は、その場に立ち尽くした。
後ろで、まだ拍手が続いていた。
その拍手が、この時初めて、耳障りだった。
+++
同じ夜、鵜飼誠は、雑居ビルの向かいの歩道橋の上にいた。
小型のビデオカメラを構えていた。仕事用ではない。私物だ。
彼はレンズ越しに、牙城が去っていくのを見ていた。灯真が立ち尽くしているのを見ていた。
カメラを下ろし、手帳にメモを取る。
――牙城剛、また潰しにかかっている。
――あの男は、育てるということを知らない。
――あれでは、物語が始まらない。
鵜飼はペンを止め、しばらく夜の街を眺めた。
やがて、彼はもう一行、書き足した。
――誰かが、書いてやらないといけない。
第五章 ホラー
十月の終わり、午前二時。
連絡が入ったのは、灯真が眠れずに天井を睨んでいたときだった。牙城に「仮面ライダーごっこ」と言われてから、十一日が経っていた。
現場は、廃業した総合病院だった。
取り壊し予定のまま三年放置された建物。窓は割れ、廊下に埃が積もっている。中に、警備員が二人と、肝試しに入った大学生が四人。全員、連絡が取れなくなっている。
「――〈黒衣〉の反応、地下一階。ただし移動してる」
インカムから姫野の声。
「灯真くん。今回は〈アクション〉じゃ無理。視界がない」
「じゃあ」
「紫のフィルム。使ったことないでしょ」
灯真は、ベルトのホルダーから紫のフィルムを抜いた。ラベルには、こう書かれている。
――HORROR。
装填する。
【ROLL IT!】
クランクを回した瞬間、灯真は「間違えたかもしれない」と思った。
流れ込んできたのは、これまでとまるで違うものだった。
〈アクション〉が跳躍と爆炎なら、これは――沈黙だった。
息を殺すこと。物陰にいること。見つからないこと。見られている側ではなく、見ている側であること。百年分のホラー映画が積み上げてきた「怖がらせる者」の作法が、灯真の神経に降りてくる。
【Lights. Camera.】
「変身」
【HORROR!!】
装甲は、黒に近い紫だった。表面が濡れている。手の指が、爪のように伸びている。複眼は、暗い。
そして、灯真の体は――影に溶けた。
病院の廊下に、足音がしない。灯真は自分の足元を見た。装甲の下半身が、床の影と繋がっている。
「うわ」
「〈ホラー〉は隠密特化。影を伝って移動できる。暗いほど強い」姫野の声。「その代わり、殴り合いには向かない。正面から殴られたら二発で解ける」
地下一階。
非常灯だけが赤く点いている。灯真は影を伝って進んだ。
角を曲がったところで、足元に何かがあった。
人間だった。警備員の制服。動いていない。
灯真は膝をついた。手袋越しに首筋に触れる。冷たい。
――遅かった。
喉から、勝手に音が出た。うめき声のような。
「灯真くん、状況」
「……一人、死んでます」
インカムの向こうが、一瞬静かになった。
「――続けて。まだ五人いる」
進む。
次の角で、灯真は三人を見つけた。大学生。ロッカー室に押し込まれて、震えていた。生きている。
「静かに。外に出ます」
灯真が影を伸ばして三人を包み、非常階段まで運ぶのに、四分かかった。
残り、警備員一人と大学生一人。
地下の奥、旧・霊安室の前で、灯真は〈黒衣〉を見た。
それは、天井に張り付いていた。
これまで見たどの個体とも違う。細長い。関節が多い。表面が濡れていて、糸のような繊維が全身から垂れている。その中心に――
人間が、埋まっていた。
女だった。二十代半ばくらい。黒衣の胸の部分に、上半身だけが浮き出るように埋まっている。目は閉じている。口が、わずかに動いている。
灯真は、凍りついた。
「姫野さん」
「……見た?」
「これ、人が」
「〈宿主〉」姫野の声は硬かった。「〈黒衣〉は人から生まれる。生まれた後も、宿主は個体の中に残る。心臓みたいなものだと思って」
「じゃ、じゃあ、あの人は生きてるんですか」
「生きてる」
灯真の心臓が跳ねた。
「――今のところは」
「助けられますよね!? 引っ張り出せば」
「灯真くん、聞いて」姫野の声が、早口になった。「〈黒衣〉から宿主を分離できた例は、十二年間で三件しかない。全部、発生から六分以内。この個体はもう四十分以上経ってる。神経系が完全に統合されてる。今引き剥がしたら、宿主は死ぬ」
「なら、どうやって」
「――倒すの」
「倒したら、その人は」
「死ぬ」
灯真の視界が、ぐらりと傾いた。
「じゃあ、牙城さんは」
声が震えていた。
「牙城さんが今まで倒してきた〈黒衣〉って、全部」
姫野は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
――あの人は、人を斬ってる。
商店街で、灯真が助けられたあの一閃。黒衣が真っ二つになった、あの美しい一撃。
あの時、あの中に、人がいた。
いや。
あの時、あの中から倒れてきた男は生きていた。灯真はそれを見た。
「……姫野さん。商店街のとき、宿主、生きてました」
「発生から三分だったからよ。牙城さんは、発生から時間が経ってない個体は、宿主を切り離す斬り方をする。あの人にしかできない」姫野は言った。「でも、四十分経った個体には、その斬り方は通じない」
天井の〈黒衣〉が、動いた。
その足元――床に転がっていた何かが、呻いた。
警備員だ。まだ生きている。腕を〈黒衣〉の糸に絡め取られて、引きずられている。糸が、彼の首に巻きつき始めた。
「灯真くん! 三十秒!」
灯真は動けなかった。
目の前に、二つある。
糸に巻かれていく男。〈黒衣〉の中で眠っている女。
どちらかを選ぶという構図ですらない。片方を助けるには、片方を殺す。
灯真は、六年間、他人の書いた台本を読んできた。
台本には、必ず答えが書いてあった。ここで主人公はこうする、と。
今、手元に台本はなかった。
「――うああああああああ!」
灯真は跳んだ。
影を伝い、天井の〈黒衣〉の背後を取り、その胸に――女が埋まっている胸に――手を差し込んだ。
引き剥がそうとした。
姫野が「やめて!」と叫んだ。
女の口から、糸が溢れた。
〈黒衣〉が痙攣し、全身の糸を暴発させた。灯真は壁まで吹き飛ばされた。装甲が砕ける。
そして、糸の暴発は、床の警備員も巻き込んだ。
彼の首に巻かれた糸が、一気に締まった。
音がした。
乾いた、小さな音だった。
灯真は、その音を、一生忘れないことになる。
+++
牙城が来たのは、その二分後だった。
黒い影が地下に降り、迷わず〈黒衣〉の中心を貫いた。個体が崩れる。埋まっていた女が床に落ちる。牙城は膝をついて、彼女の脈を取った。
そして、静かに首を振った。
灯真は、壁にもたれたまま変身を解いていた。装甲の破片が、床に散らばっている。
「牙城さん」
灯真の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「俺が、殺しました」
「そうだ」
牙城は否定しなかった。
「あの人、助けようとして。それで、遅れて。それで――」
「そうだ」
「あの人も、死にました」
「そうだ」
灯真は笑った。笑うつもりはなかったのに、口の端が勝手に上がった。
「二人とも死んだ」
「そうだ」
牙城は立ち上がり、灯真の前に立った。
殴られる、と灯真は思った。
殴られたかった。
牙城は、殴らなかった。
代わりに、しゃがみこんで、灯真と目線を合わせた。
「来栖。今日、お前がやったことには名前がある」
「……」
「欲張りだ」
灯真の喉が鳴った。
「両方助けたいと思うのは正しい。だが、両方助けられると思ったのは間違いだ。お前は自分の力を過大評価して、その差額を人の命で払った」
牙城の声は、静かだった。責めてすらいなかった。
「この仕事は、そういう仕事だ。俺は八年やってる。八年で、俺が救けられなかった人間は、二十九人だ」
「……二十九」
「全員、名前と顔を覚えてる。忘れる権利はない」
牙城は立ち上がった。
「今日で三十一人になった」
彼は、自分の数として数えた。
灯真は、その意味を理解するのに、数秒かかった。
「なんで、あんたが」
「現場の責任は先任にある。俺が二分早く着いていれば済んだ話だ」
「そんなの――」
「だから、辞めるなら今言え」牙城は遮った。「お前が続けるなら、次に死ぬ人間の分も、俺が数える。それが嫌なら、今日で降りろ。誰も責めん」
灯真は、口を開いた。
何も出てこなかった。
牙城は待った。三十秒ほど待って、それから背を向けた。
「……返事は、明日でいい」
牙城が去った後も、灯真は動けなかった。
地下一階の赤い非常灯の下で、灯真は自分の両手を見ていた。
この手で、人を引き剥がそうとした。
そして、後ろで人が死んだ。
この日、来栖灯真は、初めて「カメラが回っていない」の意味を、体で理解した。
第六章 牙城剛
八年前、この街には〈仮面ライダーヴィジル〉がいた。
鷹取涼。牙城剛より三つ下の、よく笑う男だった。
牙城は寡黙で、鷹取は喋った。牙城は先に行き、鷹取は必ず後ろから来た。二人はコンビとして四年組んで、この街で百七体の〈黒衣〉を処理した。
鷹取には、口癖があった。
「――ゴウさん、俺ら、ちゃんとヒーローっぽくやろうぜ」
「くだらん」
「くだらなくねえって。子どもが見てんだから」
鷹取は、現場に子どもがいると、必ず変身したまま手を振った。牙城は一度もやらなかった。
八年前の十二月、繁華街で大型個体が出た。
鷹取は、逃げ遅れた親子を庇って、正面から食らった。装甲ごと。
病院に運ばれたとき、彼はまだ意識があった。牙城の手を握って、こう言った。
「ゴウさん。あの親子、無事?」
「無事だ」
「よかった」
鷹取は笑った。それから、少し考えるように天井を見て、こう言った。
「なあ。俺、名前、残るかな」
「――残る」
「そっか」
鷹取涼の名前は、残らなかった。
仮面ライダーの殉職は、公表されなかった。当時の特災課は「街の不安を招く」という理由で、彼の死を伏せた。〈ヴィジル〉は「引退した」ことになった。
葬儀は、親族と特災課の関係者八人だけで行われた。
牙城剛は、そこから八年間、一人で街を守っている。
+++
「――牙城さん。少しだけ、お時間よろしいですか」
特災課の庁舎裏の喫煙所で、鵜飼誠は声をかけた。
牙城は煙草を咥えたまま、視線だけを動かした。
「日和新聞の鵜飼と申します。以前から何度か、取材のお願いを」
「断ったはずだ」
「ええ、七回」鵜飼は笑った。「今日で八回目です」
牙城は答えなかった。煙を吐いた。
鵜飼は手帳を開かないまま、話し始めた。
「私、あなたのことを十二年見てきました。〈黒衣〉が最初に出た年から、ずっとです。あなたが〈ヴィジル〉と組んでいた頃も、その後も」
牙城の指が、わずかに止まった。
「あなたは、この街で一番強い。それは間違いない。ただ――失礼を承知で申し上げると、あなたは、足りない」
「ほう」
「あなたは強すぎて、物語にならない。あなたが出れば黒衣は死ぬ。それだけです。そこに葛藤がない。挫折がない。成長がない。街の人間はあなたに感謝しますが、あなたに憧れない」
「そうか」
「来栖くんは違う。彼には、それがある」
鵜飼は、熱を帯びた声で言った。
「彼は弱い。だから、彼が勝つと、人は自分のことのように嬉しくなる。彼は間違える。だから、彼が立ち直ると、人は自分も立ち直れる気がする。あれがヒーローです、牙城さん。あなたは兵器で、彼はヒーローだ」
「言いたいことはそれだけか」
「いえ」鵜飼は身を乗り出した。「私はあなたに、彼を潰さないでいただきたい。あなたは彼を叱りすぎる。あの子はまだ二十四です。あの年で、あんなことを言われたら――」
牙城は、煙草を灰皿に押し付けた。
そして、初めて鵜飼をまっすぐ見た。
鵜飼の言葉が、そこで止まった。
牙城の目は、怒っていなかった。
もっと悪いものが、そこにあった。興味のなさだ。
「鵜飼、と言ったな」
「はい」
「あんた、俺を取材したいわけじゃないだろう」
「……と、いいますと」
「あんたが喋ってる間、一度も手帳を開かなかった」牙城は言った。「取材する人間は、まずこっちに喋らせる。あんたは十二分間、自分だけが喋った」
鵜飼の顔から、笑みが消えた。
「あんたがやりたいのは取材じゃない。演出だ」
「――」
「あんたは、来栖をどうしたい、俺をどうしたい、街をどうしたい、という話しかしてない。全部、あんたの好みの話だ」
牙城は喫煙所を出ようとして、扉の前で足を止めた。
「一つ、聞いていいか」
「……はい」
「あんた、適合検査を受けたことがあるな」
鵜飼の顔が、白くなった。
「なぜ」
「そういう目をしてる奴を、何人か見た」牙城は言った。「落ちた奴は、みんなその目になる。ライダーの話をするときだけ、目が濡れる」
「……」
「悪いことじゃない。この国に二千人に一人しか適合しない。落ちるのが普通だ」
鵜飼は、動かなかった。
牙城は、扉を開けながら、最後にこう言った。
「だが、忠告しておく。あんたは、こっち側に立たないほうがいい」
「……なぜです」
「あんたは、憧れが強すぎる」
牙城は、少しだけ声を落とした。
「憧れが強い奴は、現場で人を見ない。絵を見る。俺はそれで死んだ奴を知ってる」
扉が閉まった。
喫煙所に、鵜飼誠一人が残された。
彼は、しばらく身動きしなかった。
やがて、震える手で内ポケットから手帳を出し、開いた。
ペンを構えた。
書けなかった。
三分間、白紙を睨んでから、彼は手帳を閉じた。
そして、笑った。
声を出さずに、口の端だけで、長い時間、笑い続けた。
――あんたは、こっち側に立たないほうがいい。
その言葉を、彼はこの日から千回以上、頭の中で再生することになる。
第七章 演出家
鵜飼誠のアパートは、六畳一間だった。
四十一歳。独身。日和新聞社会部、契約記者。契約更新は一年ごと。同期は全員、正社員になっている。
部屋には、テレビも冷蔵庫もある。あるが、それらは壁に埋もれている。
壁の全面が、切り抜きで覆われていた。
十二年分の新聞記事。雑誌のグラビア。ネットからプリントアウトした画像。〈仮面ライダーヴィジル〉。〈仮面ライダーグレン〉。〈仮面ライダーサイス〉。そして――圧倒的な面積を占める、〈仮面ライダーガルム〉。
その中心に、一枚の紙が画鋲で留めてある。
黄ばんだA4の書類。十二年前の日付。
〈特異災害対策要員 適合性検査結果通知書〉
〈氏名:鵜飼 誠〉
〈適合率:0.0%〉
0.0。
小数点以下、切り捨てではない。測定不能ですらない。ゼロだった。
検査を受けたのは二十九のときだ。〈黒衣〉の第一号が出た年、国が広く適合者を募集した。鵜飼は真っ先に応募した。会社を辞める気でいた。
結果通知は、郵送で来た。
封筒には、パンフレットも同封されていた。〈適合されなかった皆様へ〉。
――適合率は個人の価値を示すものではありません。
――皆様の日常こそが、この国の基盤です。
鵜飼はそのパンフレットを、十二年間、捨てられずにいる。
+++
彼は「なりたかった」わけではない、と自分では思っている。
彼が耐えられなかったのは、もっと単純なことだ。
――自分の人生に、名前がついていないこと。
鵜飼誠には、何もなかった。
高校では帰宅部だった。大学ではサークルに三ヶ月いた。就職して、地方支局を五年回って、東京に来て、社会部に配属されて、それから十年、一度も一面を書いていない。
結婚はしなかった。したいと思う相手には、思われなかった。
親は死んだ。兄がいるが、五年連絡していない。
もし明日、鵜飼誠が死んだとして。
誰が困るだろう。
答えは、はっきりしていた。誰も困らない。
0.0%。
あの数字は、ライダーへの適合率ではなかった。鵜飼にはそう思えた。あれは、この世界が自分に付けた点数だ。
+++
鵜飼が〈黒衣〉と「話せる」ことに気づいたのは、四年前だった。
話す、という言い方は正確ではない。
現場を追い続けた十二年で、彼は誰よりも〈黒衣〉を見ていた。学者よりも、特災課よりも。彼は現場に立ち会った回数だけで言えば、この国で三本の指に入る。
そして、法則を見つけた。
〈黒衣〉は、人の執着から生まれる。生まれた後も、その執着を追い続ける。恨んでいた相手のいる方向へ向かう。行けなかった場所へ向かう。
つまり――情報を与えれば、進路が変わる。
鵜飼は試した。
最初は、ただの好奇心だった。発生直後の〈黒衣〉の前に立ち、宿主の名前を呼んだ。宿主が何に執着していたかを、取材で調べた上で、その名前を叫んだ。
〈黒衣〉は、向きを変えた。
鵜飼は、震えた。
彼には超人的な力は何もない。変身もできない。適合率0.0%。
だが、彼には十二年分の取材ノートがあった。
誰が誰を恨んでいるか。どの会社でどんなハラスメントがあったか。どの家庭が壊れかけているか。どの人間が、あと一押しで臨界を超えるか。
彼はそれを、全部知っていた。
記者だから。
彼は、四年かけて、それを使い始めた。
最初は小さかった。発生しそうな人間に、匿名で「あなたは悪くない」というメッセージを送る。それだけで、二週間後に〈黒衣〉が生まれた。
彼は、その現場を、いちばんいい位置から撮った。
+++
だが、それでも、鵜飼は自分を悪人だと思っていない。
彼の望みは、世界征服ではない。人類の滅亡でもない。金でもない。
彼が欲しかったのは、たった一つだ。
――最高の仮面ライダーを、最高の舞台で見たい。
それだけだった。
牙城剛は、強い。だが、あの男は物語を拒む。あの男は舞台に立つのを拒み、ただ淡々と処理して帰る。あんなものは映画ではない。記録映像だ。
来栖灯真は、違う。
あの青年には、全部ある。弱さがある。挫折がある。そして何より――彼は、見られることを知っている。
鵜飼はデスクの上に、大判の白い紙を広げた。
定規で線を引き、三つの枠を作った。
左の枠に書いた。〈主人公〉。その下に、来栖灯真。
中央の枠に書いた。〈壁〉。その下に、牙城剛。
右の枠には、まだ何も書かなかった。
ペンを持ったまま、鵜飼は長いこと右の枠を見ていた。
やがて、彼は左と中央の枠に、矢印を書いた。互いに向かい合う、二本の矢印。
その横に、こう書いた。
――衝突させる。
王道だ、と鵜飼は思った。
新人と先達は、必ず一度、殴り合わなければならない。殴り合って、認め合って、そこから本当の共闘が始まる。
それが正しい構成だ。それが面白い。
牙城剛は、来栖灯真を潰そうとしている。あのままでは、来栖は折れて終わる。折れて、消えて、誰の記憶にも残らない。
そんな終わり方を、鵜飼は許せなかった。
――誰かが、書いてやらないといけない。
彼はペンを置いた。
それから、資料の山から一冊のファイルを引き抜いた。表紙に、こう書いてある。
〈発生予備軍・調査記録 二〇XX〉
中には、四十七人分の名前があった。
全員、鵜飼が取材の過程で見つけた、「臨界に近い人間」たちだ。
鵜飼は、そのうちの一人にページを開いた。
名前の横に、こうメモしてある。
――四十代男性。娘を交通事故で失う。加害者は不起訴。現在、無職。会話可能。
鵜飼は、その名前を指でなぞった。
そして、静かに言った。
「――すみません。あなたの人生を、少しだけ使わせてください」
それは、祈りに近い声だった。
第八章 サイファイ
十一月十二日、午後四時十分。
港湾倉庫街に、大型の〈黒衣〉が出現した。
通報から十分で、灯真と牙城が現場に着いた。
この一ヶ月、二人はほとんど口をきいていない。灯真は病院の一件の後、三日休み、四日目に戻ってきた。牙城は何も言わなかった。ただ、それ以来、灯真を「新人」と呼ぶようになった。名前では呼ばなくなった。
現場は、異様だった。
「……姫野さん、これ」
「見えてる。ちょっと待って」
〈黒衣〉は、倉庫の屋根の上に立っていた。
巨大だ。これまで見たどの個体より大きい。三メートル近い。だが、暴れていない。
待っているように見えた。
そして、その足元――倉庫の入り口に、人が集められていた。
十七人。近隣の工員たちだ。全員、黒い糸で足を絡め取られ、逃げられない状態になっている。
「灯真くん、聞いて。人質の配置がおかしい」姫野の声が緊張していた。「〈黒衣〉は人を捕まえるけど、並べない。あれは知性のある配置。誰かが指示してる」
「誰かって」
「わかんない。でも――」
その時、〈黒衣〉が動いた。
巨体が屋根から跳び、灯真の前に着地した。
そして、灯真は見た。
その胸に埋まった宿主の顔を。
四十代くらいの、痩せた男。目を閉じている。左手に、何かを握りしめている。
――写真だった。
小学生くらいの女の子が写った、色褪せた写真。
「……!」
灯真の体が硬直した。
「牙城さん! 宿主が!」
「見えている」
牙城は既に変身していた。刃を抜き放つ。
「離れろ。斬る」
「待ってください!」
灯真は、その前に飛び出した。
両手を広げて、牙城の前に立ちはだかった。
「あの人、まだ生きてる!」
「生きている」
「なら!」
「発生から五十二分だ」牙城の声は氷だった。「分離は不可能。お前も先月学んだはずだ」
「でも!」
「どけ」
「――嫌です」
灯真は、動かなかった。
牙城の複眼が、灯真を捉えた。
「新人。後ろを見ろ」
灯真は振り返った。
十七人の工員。糸に縛られ、震えている。〈黒衣〉の腕が、そのうちの一人に伸びかけている。
「あの中に、五十二分前まで普通に働いていた人間が十七人いる」牙城は言った。「そいつらは、あと三分で死ぬ。確実にだ」
「……」
「宿主一人を助けられる確率はゼロだ。十七人を助けられる確率は、俺が今斬れば百パーセントだ」
「そんな計算」
「計算だ」牙城は言い切った。「この仕事は最初から最後まで計算だ。感情を入れると人が死ぬ。先月、お前が証明した」
灯真の膝が、震えた。
牙城は正しい。灯真にもわかっていた。わかっていて、それでも、体が退かなかった。
あの男の握った写真が、目に焼き付いて離れなかった。
――あの人にも、名前がある。
その時。
インカムから、姫野の悲鳴のような声がした。
「灯真くん! 牙城さん! 今、通信に割り込みが」
ノイズが走った。
そして――〈黒衣〉が、喋った。
「――ゴウ、さん」
牙城の動きが、止まった。
その声は、〈黒衣〉の口から出ていた。だが、〈黒衣〉の声ではなかった。
男の声だ。若い。よく笑う男の。
「――俺ら、ちゃんとヒーローっぽくやろうぜ」
牙城の刃が、下がった。
わずかに。ほんの数センチだけ。
だが、それで十分だった。
〈黒衣〉の腕が、閃いた。
牙城の装甲を、真横から捉えた。ガルムの巨体が倉庫の壁に叩きつけられ、コンクリートを砕いて埋まった。
「牙城さん!」
灯真は駆け寄ろうとした。
だが、〈黒衣〉は牙城を追わなかった。
その巨体が、十七人の工員のほうへ、まっすぐ向き直った。
「――!」
灯真は青いフィルムを引き抜いた。
【ROLL IT!】
「変身!」
【SCI-FI!!】
青銀の装甲。背部のブースターが火を吹く。灯真は地面を蹴り、〈黒衣〉と工員たちの間に割り込んだ。
右腕の砲門が展開する。撃つ。
〈黒衣〉の肩が焼け落ちた。だが、止まらない。
灯真は工員たちの前に立ち、姫野に叫んだ。
「糸! この糸、切れますか!」
「熱で溶ける! でもレーザーの出力を下げないと人ごと」
「下げます!」
灯真は出力を絞り、糸を焼き切っていった。一本、二本、三本。
十七本。
その間、〈黒衣〉の攻撃を、背中で受け続けた。
装甲が砕ける。肩から血が出る。灯真は撃ち続けた。
「走って! 早く!」
工員たちが逃げていく。
最後の一人が倉庫を出た瞬間、灯真は膝をついた。
〈SCI-FI〉のフォームが解けかける。ノイズが走る。
〈黒衣〉が、灯真の頭上に腕を振り上げた。
その腕を、黒い刃が斬り落とした。
牙城が、壁から這い出していた。装甲の左半分が砕けている。
「――新人」
「牙城さん」
「離れろ」
「でも」
「離れろ」
牙城が踏み込んだ。
一閃。
〈黒衣〉が縦に割れた。
崩れていく黒の中から、痩せた男の体が落ちてきた。牙城が受け止め、地面に横たえる。
男の手から、写真が滑り落ちた。
灯真は、それを拾った。
小学生の女の子。前歯が抜けている。笑っている。
裏に、鉛筆で書いてあった。
〈ゆい 7さい うんどうかい〉
牙城が、男の脈を取った。
そして、目を閉じた。
灯真は、変身を解いた。
地面に膝をついたまま、写真を握りしめていた。
しばらくして、灯真は言った。
「牙城さん」
「……」
「なんで、止まったんですか」
「――」
「さっき。あの声で。刃、下げましたよね」
牙城は答えなかった。
灯真は、顔を上げた。
「牙城さん。あんた、計算だって言いましたよね」
「言った」
「じゃあ、なんで下げたんですか」
牙城は、灯真を見た。
その目には、灯真が初めて見るものがあった。
――動揺だ。
「……お前には関係ない」
「関係あります!」灯真は立ち上がった。「俺があそこで退いてれば、あんたは五秒早く斬れてた! そしたらあんたは吹き飛ばされてなかった! なのに、俺が退かなかったから――」
「違う」
「なにが」
「俺が止まったのは、お前のせいじゃない」
牙城は、そこで言葉を切った。
そして、これまで一度も見せたことのない仕草をした。
彼は、自分の顔を、片手で覆った。
「……八年、聞いてない声だった」
その言葉の意味を、灯真はまだ知らなかった。
+++
三百メートル離れた立体駐車場の最上階で、鵜飼誠はビデオカメラを下ろした。
撮れていた。全部撮れていた。
牙城が止まった瞬間。灯真が立ちはだかった瞬間。二人が並んで〈黒衣〉に向かった瞬間。
鵜飼は、震える手でカメラの録画を停止した。
そして――顔を歪めた。
「……違う」
彼は言った。
「違う、違う、違う。共闘するな」
彼が仕込んだのは、〈黒衣〉に鷹取涼の音声を再生させることだった。八年前の記者会見の音声から、AIで合成した。それを小型スピーカーで宿主に憑かせた。
目的は、牙城を止めることではなかった。
目的は、牙城が宿主を斬るところを、灯真に見せつけることだった。
牙城が冷酷に人を斬る。灯真が絶望する。二人は決裂する。そして殴り合う。
それが、鵜飼の書いた構成だった。
なのに。
「なんで、あんたが揺らぐんだ」
鵜飼は、駐車場の手すりを掴んだ。
「あんたは兵器だろう。冷酷な壁だろう。八年間、一度も揺らがなかったじゃないか。なんで、今日に限って」
彼は、そこで気づいた。
――牙城剛にも、失ったものがある。
その事実に、鵜飼は打ちのめされた。
打ちのめされたのは、同情したからではない。
羨ましかったからだ。
牙城剛には、名前を呼んでくれる相棒がいた。死んでもなお、八年後に彼の刃を止められるほどの相棒が。
鵜飼誠には、いない。
生きている間も、いなかった。
「……ああ」
鵜飼は、笑った。
「じゃあ、脚本を変えないと」
彼は手帳を開き、震える字で書いた。
――牙城剛を、退場させる。
第九章 決闘
十一月十九日、朝刊。
日和新聞、社会面トップ。
〈仮面ライダーは三十二人を「処理」していた――〈黒衣〉宿主死亡の実態〉
署名は、鵜飼誠。
記事は正確だった。それが最も残酷だった。
〈黒衣〉には宿主がいる。宿主は個体内部で生存している。特災課は分離技術の開発を事実上凍結している。そして、仮面ライダーガルムこと牙城剛は、八年間で三十二人の宿主を、生存状態のまま斬っている。
全部、事実だった。
昼にはテレビが追った。夕方には「ライダー処刑問題」という言葉ができた。夜には、庁舎前に人が集まった。
特災課は、午後八時に牙城剛の現場活動を無期限停止した。
+++
「――くだらねえ」
灯真は、テレビを消した。
姫野の研究室だった。姫野は端末に向かったまま、振り返らずに言った。
「くだらなくない。あの記事、全部本当だから」
「でも、あの人がやらなかったら、もっと死んでます!」
「そうだね」
「じゃあ!」
「灯真くん」姫野は椅子を回した。「じゃあ聞くけど。三十二人の家族に、それ言える?」
灯真は、口を閉じた。
「私は言えなかった。八年間、一度も」姫野の声は疲れていた。「牙城さんは、三十二回とも自分で報告に行ってる。全部一人で。私は一度も同行しなかった」
「……」
「あの記事の最悪なところはね」姫野は言った。「書いた奴が正しいこと」
その時、緊急警報が鳴った。
+++
現場は、灯真がよく知る場所だった。
あの商店街だった。
「〈黒衣〉発生! アーケード中央! 発生から――二分!」
姫野の声が飛ぶ。
「二分!?」灯真は走りながら叫んだ。「じゃあ、分離できる時間ですよね!」
「理論上は六分以内。でも実例は三件しかない。しかも三件とも、超小型個体」
「今回は」
「――大型。かなり」
灯真がアーケードに飛び込んだとき、そこには地獄があった。
商店街の屋根が、内側から破られていた。
その中心に、〈黒衣〉が立っていた。四メートル近い。両腕が三対ある。周囲の店舗から人が逃げ惑い、そのうち六十人ほどが、崩れた屋根に退路を塞がれて閉じ込められている。
そして、灯真は見た。
〈黒衣〉の胸に、女が埋まっていた。
三十代。エプロン姿のまま。近くの惣菜屋の――
灯真の視界の端で、小さな影が動いた。
赤いランドセル。
「――お母さん!」
美奈だった。
灯真の全身が凍った。
「美奈ちゃん! 下がって!」
「おかあさん! おかあさんが!」
美奈は、瓦礫の隙間から〈黒衣〉に向かって走ろうとしていた。灯真は駆け寄って抱き上げ、無理やり物陰に押し込んだ。
「ここにいて。絶対に出ないで」
「おにいさん、おかあさん――」
「助ける」
言ってしまった。
言った瞬間、灯真は自分がとんでもない約束をしたことに気づいた。
その時、頭上から黒い影が降ってきた。
仮面ライダーガルム。
停止処分中の男が、そこにいた。
「牙城さん!」
牙城は答えず、刃を抜いた。
迷いのない動作だった。
「――待って!」
灯真は、その前に立った。
「発生から三分四十秒です! まだ間に合う!」
「どけ」
「分離できます! 姫野さんが!」
「姫野の分離理論は、三十グラム以下の個体でしか成立していない」牙城の声は平坦だった。「あれは二トンある」
「やってみないと!」
「やってみて失敗した場合、あの個体は暴走する」牙城は瓦礫の向こうを指した。「あそこに六十人いる。暴走した大型個体が閉鎖空間で暴れれば、全員死ぬ」
「じゃああの人は!」
「死ぬ」
「――娘がいるんだ!」
灯真は叫んだ。
「あそこに、七歳の子がいる! お母さんが助かるのを待ってる!」
「三十二人全員に、誰かがいた」
牙城は言った。
その一言が、灯真の言葉を全部叩き落とした。
「息子がいた奴もいる。八十の母親がいた奴もいる。結婚式が三週間後だった奴もいる」牙城は刃を構えた。「全員だ。例外はない」
「……」
「どけ、新人。六十対一だ」
灯真は、動かなかった。
動けなかったのではない。動かなかった。
彼は、腰のホルダーから、一本のフィルムを抜いた。
金色のフィルム。
ラベルには、こう書かれていた。
――DRAMA。
インカムから、姫野の息を呑む音がした。
「……灯真くん。それ、どこで」
「今朝、あんたの引き出しから」灯真は言った。「勝手に見ました。すいません」
「返して」
「これ、何ですか」
「――返して!」
「何ですか!」
沈黙。
そして、姫野は、絞り出すように言った。
「……〈DRAMA〉。武装ゼロ。装甲強度、他フォームの八分の一。攻撃手段なし。飛行なし。加速なし」
「じゃあ、何ができるんですか」
「届く」
姫野の声が震えていた。
「あれは、映画の中で人が人に届く瞬間だけを集めたフィルム。宿主の意識に、直接、届く。理論上は、宿主本人に〈黒衣〉を内側から手放させることができる。……理論上は」
「なんで、隠してたんですか」
「死ぬからよ!」
姫野は叫んだ。
「殴られたら一発で解ける! 届くまで最低四十秒、宿主の目の前に立ってなきゃいけない! そんなの、四十秒間、無防備で怪物の懐にいるのと同じ!」
「――やります」
「灯真くん!」
「やります」
牙城の刃が、灯真の喉元に突きつけられた。
「新人。最後だ。どけ」
「嫌です」
「――そうか」
牙城が、踏み込んだ。
+++
その戦いを、後に灯真は「一方的だった」と振り返っている。
実際、一方的だった。
【ACTION!!】
赤の装甲。灯真は殴りかかった。牙城は避けもせず、拳を左手で受け止め、右の刃の峰で灯真の側頭部を打った。
装甲が砕けた。三秒。
立ち上がる。
【SCI-FI!!】
青銀。ブースターで背後を取る。撃つ。牙城は振り返りざま、レーザーを刃で弾いた。そのまま懐に入り、灯真の胴を蹴り上げた。
シャッターを突き破って、灯真は店舗の中まで吹き飛んだ。九秒。
立ち上がる。
【SAMURAI!!】
藍。抜刀。牙城の刃と噛み合った。噛み合ったのは〇・四秒だった。灯真の刀は根本から折れた。
顎を打たれ、灯真は宙を舞った。十四秒。
立ち上がる。
【HORROR!!】
紫。影に沈む。背後を取る。
牙城は、振り向かずに刃を突き出した。灯真の腹を貫通しかけて、装甲が悲鳴を上げた。
「――影の位置が甘い。足音が響いてる」
二十一秒。
立ち上がる。
立ち上がる。
立ち上がる。
灯真は、四つのフォームを、二巡した。
全部負けた。一秒も勝てなかった。
九分後、灯真はアーケードの中央で、変身も解けたまま、四つん這いになっていた。
鼻から血が垂れている。左肩が上がらない。肋骨が二本、確実に折れている。
それでも、彼は膝を立てた。
立ち上がった。
牙城の刃が、また突きつけられる。
「――もう変身できないだろう」
「……できます」
「フィルムが焼け付いてる。ドライバーが限界だ」
「じゃあ、素手で」
灯真は、拳を上げた。
構えになっていなかった。ただ、腕を上げただけだった。
牙城は、その拳を見た。
長い時間、見ていた。
「……なぜだ」
牙城が言った。
「なぜ、退かない。お前は間違っている。数字が示している。お前は六十人を殺そうとしている」
「わかってます」
「わかってて、なぜ」
灯真は、血を吐いた。
そして、笑った。
「牙城さん」
「なんだ」
「あんた、三十二回、一人で謝りに行ったんですよね」
牙城の刃が、揺れた。
「姫野さんが言ってました。三十二回、全部一人で。……誰も、ついて行かなかったって」
「……関係ない」
「あんた、八年間、一人ですよね」
「――」
「相棒が死んで。その人の名前も公表されなくて。それから八年、ずっと一人で、正しい計算だけして、正しく人を斬って、正しく謝りに行って」
灯真の声が、掠れた。
「その八年で、誰か一人でも、あんたにありがとうって言いましたか」
牙城は、答えなかった。
答えられなかった。
商店街の埃が、光の中で舞っていた。
「言ってないでしょう」
灯真は、腕を下ろした。
「言うわけない。だってあんた、人を斬ってるんだから。感謝なんかされるわけない。あんたはそれをわかってて、八年やってきた」
灯真は、一歩前に出た。
「牙城さん。俺、あんたが正しいのわかってます。数字も、経験も、全部あんたが正しい」
もう一歩。
刃の先が、灯真の胸に触れた。
「でも――誰も賭けなかったから、あんたは一人なんだ」
牙城の呼吸が、止まった。
「八年間、誰もあんたの隣に立って、一緒に賭けてくれなかった。だから、あんたは一人で全部背負って、一人で計算して、一人で謝りに行った」
灯真は、刃を掴んだ。
素手で。
手のひらが切れて、血が刃を伝った。
「今日、俺が賭けます」
「――」
「失敗したら、六十人死にます。俺のせいです。俺が全部背負います。あんたは何も背負わなくていい」
灯真は、牙城の複眼をまっすぐ見た。
「だから―― 一回だけ、俺に賭けてください」
+++
牙城剛は、その日、八年ぶりに計算をやめた。
彼は刃を引いた。
そして、灯真に背を向け、〈黒衣〉のほうへ歩き出した。
「牙城さん?」
「六分だ」
「え」
「発生から六分まで、俺が全部受ける」牙城は刃を構えた。「六本の腕、全部だ。お前には一撃も通さん」
「――!」
「残り、五十四秒」
「牙城さん!」
「行け、来栖」
その瞬間、灯真は泣きそうになった。
三週間ぶりに、名前で呼ばれた。
灯真は金色のフィルムを装填した。
【ROLL IT!】
流れ込んできたものは、これまでのどれとも違っていた。
爆発がない。剣がない。跳躍がない。
あるのは――目の前の人間を見つめることだけだった。誰かの手を握ること。名前を呼ぶこと。「大丈夫だ」と言うこと。百年分の映画が積み上げてきた、それだけ。
【Lights. Camera.】
「変身!」
【DRAMA!!】
金色の光が、アーケードを満たした。
装甲は薄かった。武器はどこにもなかった。灯真は、丸腰で〈黒衣〉に向かって歩き出した。
〈黒衣〉の六本の腕が振り下ろされる。
その全部を、黒い刃が受け止めた。
「――行け!」
牙城の装甲が、削れていく。一撃ごとに、破片が飛ぶ。
灯真は走った。〈黒衣〉の胸まで。
埋まっている女の、目の前に立った。
両手で、その頬を包んだ。
そして――名前を呼んだ。
「美奈ちゃんのお母さん」
女のまぶたが、痙攣した。
「聞こえますか。俺、来栖です。二ヶ月前、あの子を助けた」
〈黒衣〉の全身が、波打った。
「あの子、今そこにいます。あなたを待ってます。お母さんって呼んでます」
女の口が、動いた。声にならない。
灯真は、額を彼女の額に押し付けた。
「――帰りましょう」
金色の光が、爆ぜた。
〈黒衣〉の胸が、内側から割れた。黒い塵が四方へ散り、その中から、エプロン姿の女が滑り落ちてきた。
灯真が、抱き止めた。
脈があった。
温かかった。
背後で、〈黒衣〉の残骸が崩れ落ちた。牙城の刃が、それを最後まで斬り伏せた。
+++
救急車のサイレンが遠ざかった後。
商店街の瓦礫の上に、二人の男が並んで座っていた。
どちらも、立てないほどボロボロだった。
「……牙城さん」
「なんだ」
「ありがとうございました」
牙城は、しばらく黙っていた。
それから、ぼそりと言った。
「――八年ぶりだ」
「え?」
「なんでもない」
牙城は空を見上げた。
商店街の破れた屋根から、十一月の青が見えていた。
「来栖」
「はい」
「お前、三十七回立った」
「……数えてたんですか」
「先任の仕事だ」牙城は言った。「三十七回目に、まだ拳を上げた。あれで決めた」
彼は、初めて灯真のほうを向いた。
装甲越しでも、その目が笑っているのが、灯真にはわかった。
「――俺の隣に立て。足りない分は、俺が斬る」
第十章 脚本
十二月に入って、この街の空気が変わった。
商店街の一件で、〈黒衣〉から宿主が生還した。十二年で四件目、大型個体からは史上初だった。
姫野遥の〈分離理論〉は正式に予算が下り、彼女は七年ぶりに部下をもらった。
牙城剛の停止処分は、二週間で解除された。解除の決め手になったのは、六十人の閉じ込められた人々の証言だった。〈黒衣の腕を全部受けていた黒いライダーがいなければ、自分たちは死んでいた〉。
そして、来栖灯真と牙城剛は、組んだ。
+++
「――右!」
「見えている」
十二月八日、駅前ロータリー。
中型個体。両腕が刃状に変異した個体で、動きが速い。
牙城が正面から入る。灯真が〈SCI-FI〉で上を取る。
「発生、四分!」姫野の声。「分離、いけます!」
「来栖、七秒だ!」
「七秒!?」
「七秒でこいつの腕を落とす。お前は八秒目に前に立て」
「無茶な」
「やる」
牙城の刃が閃いた。一、二。左腕が落ちる。三、四、五。個体が体勢を崩す。六、七。右腕が飛んだ。
八秒目。
灯真は既に〈DRAMA〉に切り替え、宿主の目の前に立っていた。
二十二秒で、分離が成った。
崩れ落ちる宿主を、灯真が受け止め、牙城が残骸を斬り伏せる。
二人は、一度も相手を見ずに、それをやった。
ロータリーの人々から、拍手が起きた。
灯真は――今度は、手を振らなかった。
変身を解いて、宿主の呼吸を確認して、救急隊員に引き渡した。それだけをやった。
「来栖」
「はい」
「手、振らなくていいのか」
「え」
「振れ」
灯真は面食らった。
「……いいんですか」
「鷹取は振っていた」牙城はそう言って、背を向けた。「子どもが見てる」
+++
その夜、灯真は姫野の研究室にいた。
壁一面のモニターに、四年分の〈黒衣〉発生記録が並んでいる。
「――四十七件」
姫野が言った。
「この四年で、この街の発生件数は八十九件。そのうち四十七件に、説明のつかない異常がある」
「異常?」
「進路。〈黒衣〉は宿主の執着に沿って動く。だから進路は予測できる。でも、この四十七件は、途中で不自然に曲がってる」
姫野は地図を重ねた。赤い線が四十七本。全部、途中で折れ曲がっている。
「曲がった先には、必ず人がいた。しかも、その日その時間にそこにいる理由が薄い人が」
「……誰かが呼んでる」
「呼んでる、というより――動線を引いてる」
灯真は、モニターを見つめていた。
そして、ふと、変な感覚に襲われた。
この感覚を、彼は知っていた。
六年間、何百本の台本を読んできた。読めば、わかるようになる。この台本は誰かが手を入れている、とか。ここは書き直された、とか。
今、モニターの赤い線を見て、灯真は同じものを感じていた。
「姫野さん」
「なに」
「これ、構成されてます」
「え?」
「ここ。九月の商店街。俺が初めて変身した日」灯真は指した。「その次が、十月の廃病院。俺が初めて人を死なせた日」
「……」
「その次が、十一月の倉庫。牙城さんが揺らいだ日。その次が、先月の商店街。俺と牙城さんが殴り合った日」
灯真は、指を止めた。
「起承転結です」
姫野の顔から、血の気が引いた。
「主人公が力を得る。挫折する。壁が揺らぐ。ぶつかって、和解する」灯真は言った。「これ、教科書どおりの構成なんです。俺、六年これを読んで生きてきたから、わかります」
「……偶然じゃなくて?」
「四回続いたら、偶然じゃないです」
灯真は、椅子から立ち上がった。
手が、震えていた。
「誰かが、俺の物語を書いてる」
姫野は、震える手で端末を叩いた。
「――十一月の倉庫。あの音声。鷹取涼さんの声」
「合成でしたよね」
「元データを特定した。八年前の特災課の記者会見。未公開の音源」姫野はキーを叩き続けた。「あれは記者クラブ限定で配布されて、公開されなかった。配布先は、十四社」
「十四社」
「その十四社のうち、四年間で四十七件の現場すべてに記者を出していたのは、一社だけ」
姫野の指が止まった。
モニターに、社名が表示された。
――〈日和新聞社〉。
灯真は、その社名を見た。
そして、思い出した。
三ヶ月前、特災課のロビーで、よれたグレーのジャケットの男が、自分の隣に座った。
俳優だと答えたとき、その男の呼吸が変わった。
彼は、手帳を閉じて、両手で顔を撫でて、それから、こう言った。
――完璧だ。
「……姫野さん」
灯真の声は、掠れていた。
「その記者、俺、知ってます」
第十一章 黒幕
十二月十四日、午後七時二十分。
鵜飼誠は、彼らを待っていた。
場所は、この街でいちばん古い映画館の前だった。
名画座〈シネマ・アーク〉。三年前に閉館し、そのまま取り壊されずに残っている。剥がれかけた看板。埃を被ったガラス扉。
鵜飼は、その前の路上に、パイプ椅子を一脚だけ置いて、座っていた。
膝の上に、革の手帳。足元に、黒いスポーツバッグ。
「――こんばんは、来栖さん」
灯真は、十メートル手前で足を止めた。
隣に牙城がいた。姫野の車は、二百メートル後方に待機している。
「鵜飼さん」
「ああ、名前を覚えてくださっていたんですね」
鵜飼は、心底嬉しそうに笑った。
「嬉しいな。私、名前を覚えられることが、あまりないもので」
「……あんたが、やったんですか」
「はい」
即答だった。
言い訳も、否定も、間もなかった。
鵜飼は立ち上がり、手帳を胸に抱いた。
「四年前からです。四十七件。全部、私が動線を引きました」
「なんで」
「見たかったからです」
「――なにを」
「最高の仮面ライダーを、最高の舞台で」
鵜飼の目が、光った。
その光り方に、灯真は寒気を覚えた。三ヶ月前、ロビーで感じたのと同じ寒気だった。
「来栖さん。あなたが商店街で丸腰で走ったとき、私は震えました。ああ、来た、と思った。十二年待った」
「人が死んでます」
「はい」
「二十九人だ」牙城が言った。「四年で、お前が引いた動線の先で死んだ人間は二十九人」
「三十一人です」鵜飼は訂正した。「牙城さん、二件、把握漏れがあります。三年前の八月と、去年の二月。どちらも記事にならなかった」
牙城の拳が、鳴った。
「あんた……」
「怒っていらっしゃいますね。当然です」鵜飼は頷いた。「でも聞いてください。私は、無駄には使っていない。三十一人は、全部、あなたたちの物語のために必要な人でした」
「――ふざけるな!」
灯真が叫んだ。
「必要な人!? あの子のお母さんも!? 廃病院の警備員も!? 娘さんの写真持ってた人も!?」
「ええ」
「あの人たち、名前があるんだよ! 全員!」
「知っています」鵜飼は静かに言った。「全員、私が調べました。全員の名前と、家族構成と、何に苦しんでいたかを、私は知っています。この世界で、私だけが知っています」
灯真は、言葉を失った。
鵜飼は、革の手帳を開いた。
「私は記者です。誰も見ない人を見るのが仕事です。四年間、私は、この街のいちばん暗いところにいる人を、一人ずつ見つけてきました」
彼はページをめくった。びっしりと字が埋まっている。
「そして、その人たちに、役をあげた」
「……役」
「そうです」
鵜飼は、顔を上げた。
その顔は――泣きそうだった。
「誰にも知られずに死んでいく人生と、仮面ライダーの物語の一部になって死ぬ人生と。どっちがマシですか」
「――」
「私は、後者だと思った」
沈黙が落ちた。
冬の風が、閉館した映画館の看板を鳴らした。
灯真は、この時、ようやく理解した。
目の前の男が、何を言っているのかを。
この男は、他人の話をしていない。
自分の話をしている。
「鵜飼さん」
「はい」
「あんた、適合率、いくつだったんですか」
鵜飼の顔が、固まった。
そして、ゆっくりと崩れた。
「――ゼロです」
彼は言った。
「0.0パーセント。全国候補者三十三人のうち、私だけが小数点以下まで完全なゼロでした。担当官が、測定機器の故障を疑って、三回測り直しました」
彼は笑った。
「三回とも、ゼロでした」
「……」
「私は、なれなかった。ライダーにも――」
鵜飼は、足元のスポーツバッグを蹴った。
「怪人にも」
バッグが倒れ、中身が転がり出た。
黒い、金属の箱だった。ケーブルが伸び、鵜飼の胸元へ続いている。彼はジャケットを開いた。皮膚に、電極が貼り付けられている。
「四年間、〈黒衣〉を誘導していれば、いつか自分にも憑くと思っていました。臨界を超えるほどの執着なら、私にだってあった。毎日測りました」鵜飼は言った。「一度も、憑きませんでした」
「なんで」
「わかりません」鵜飼は首を振った。「たぶん――私の執着は、私自身に向いていなかったからでしょうね。私は誰も恨んでいない。私はただ、混ざりたかっただけです」
彼は、箱を指した。
「これは爆弾です。市の地下配電幹線に、同型のものを六基設置しました。起動しています」
牙城が動いた。灯真がその腕を掴んで止めた。
「解除条件は一つ」
鵜飼は、自分の胸を叩いた。
「私の心拍の停止。それだけです」
彼は、両手を広げた。
「さあ」
冬の夜の路上で、その男は、はっきりとこう言った。
「私を、殺してください」
+++
灯真は、動かなかった。
「来栖さん。これはあなたの役です」鵜飼の声が、熱を帯びた。「あなたは今から、街を救うために、人間を一人殺す。ヒーローが越えてはいけない一線を越える。そして一生それを背負って生きる。――最高の結末だ」
「……」
「私の名前は、記録に残ります。仮面ライダーACTが唯一手にかけた男として、永遠に。あなたの物語がある限り、私は消えない」
鵜飼の頬を、涙が伝っていた。
「お願いします。来栖さん。私に、名前をください」
灯真は、その男を見ていた。
一分近く、何も言わなかった。
やがて、彼は口を開いた。
「鵜飼さん」
「はい」
「その台詞――俺のじゃない」
鵜飼の表情が、止まった。
「……え?」
「あんたが書いた台本にある台詞は、俺のじゃない」
灯真は、ベルトに手をかけた。
外した。
カチリ、という音がして、シネマティックドライバーが彼の腰から離れた。灯真はそれを、片手にぶら下げた。
「な、何を」
「俺、六年間、他人の書いた台詞を読んできました」
灯真は言った。
「一行ももらえない日のほうが多かった。もらえたら嬉しくて、家で四百回練習した。台本に書いてあるとおりにやるのが、俺の仕事でした」
彼は、鵜飼のほうへ歩き出した。
「でも」
三歩。
「それは、現場だからです」
五歩。
「ここは現場じゃない」
灯真は、鵜飼の目の前に立った。
そして、静かに言った。
「カメラは、回ってない」
鵜飼の唇が、震えた。
「――ま、待って」
「あんたは、悪の組織の首領じゃない。改造人間でもない。〈黒衣〉でもない」
「待ってください」
「あんたは――」
灯真は、はっきりと発音した。
「ただの一般人だ」
鵜飼誠の顔が、崩れた。
「そして、仮面ライダーは人を殺さない」
「ちが……違う、私は、四年かけて、三十一人を」
「三十一人殺した犯罪者です。だから、警察に捕まって、裁判を受けて、刑務所に入ってください」灯真は言った。「それだけです。それ以上でも以下でもない」
「そんな! そんな終わり方が」
「爆弾は、俺たちが止めます」
「無理だ! あれは私が四年かけて!」
「じゃあ、四年かけて止めます」
灯真は、そう言い切った。
そして――背を向けた。
「まっ……!」
鵜飼は、手を伸ばした。
灯真は、振り返らなかった。
歩き出した灯真の背中に、鵜飼は叫んだ。
「なんでだ! なんで拾わない! 私はあなたの敵だぞ!」
灯真は、立ち止まった。
背中を向けたまま、言った。
「鵜飼さん」
「……」
「一般人って、悪いことですか」
「――え」
「俺も一般人でした。ずっと。名前も呼ばれなくて、香盤表に番号でしか載らなくて、誰も俺のことなんか見てなかった」
灯真は、そこで少しだけ振り返った。
「でも、俺、それでも毎日メシ食って、バイト行って、台詞を四百回練習してました」
「……」
「それ、十分だと思うんです」
鵜飼の膝が、折れた。
「あんたにも、それができたはずだ」
その言葉が、鵜飼誠の四十一年を、真っ二つに割った。
彼は、パイプ椅子の脇に崩れ落ちた。
そして、獣のような声で、泣きはじめた。
第十二章 オリジナル
鵜飼誠が泣きながら手を伸ばした先には、パイプ椅子の脚に立てかけた、古い携帯電話があった。
彼はそれを掴んだ。
震える指で、送信ボタンを押した。
四十七通のメッセージが、同時に送信された。
宛先は、四年かけて集めた四十七人。「臨界に近い人間」たち。
文面は、たった一行だった。
――〈あなたは、誰にも見られていない〉。
三分後、この街の十一箇所で、〈黒衣〉が同時に発生した。
+++
「――発生! 城東三丁目! 中央駅北! 港湾第二! 東雲橋!」
姫野の声が、悲鳴に近かった。
「まだ増える! 六、七、八――十一件、同時!」
灯真と牙城は、既に走り出していた。
背後で、鵜飼が叫んでいる。
「見ろ! 見ろ、来栖さん! 私はまだ書ける! まだ終わってない!」
灯真は、振り返らなかった。
「牙城さん」
「わかっている」
「あいつは」
「放っておけ」
牙城は、走りながら言った。
「あれはもう、事件じゃない。ただの犯人だ。あとで警察が拾う」
「はい」
「今やることは一つだ。目の前の人間を救う」
二人は路地を曲がった。
鵜飼誠の声は、もう聞こえなくなっていた。
+++
地下配電幹線、第三分岐点。
姫野遥は、防護服を着た六人の技術者とともに、その前にいた。
黒い金属箱が、太いケーブルに固定されている。
「――開けて」
技術者がカバーを外した。
姫野は、中を覗き込んだ。
そして、三秒間、動きを止めた。
「……姫野さん?」
「これ」
「はい」
「ホームセンターで売ってる」
「え」
姫野は、指を差した。
「タイマー、量販品。起爆回路、電子工作キットの流用。ケーブル、家庭用の延長コード切ったやつ。心拍センサー――」姫野は小さなクリップを摘まみ上げた。「スポーツ用の脈拍計」
技術者たちが、顔を見合わせた。
「本人の心拍で解除、っていうのは本当。でも、心拍信号は無線でこの受信機に届いてるだけ。中継の暗号化がゼロ」
姫野は、端末を叩いた。
「偽の心拍信号、流して」
「い、いいんですか」
「四十秒でいける」
実際には、三十六分かかった。
六基すべての解除が完了したのは、午後八時七分だった。
姫野は、防護服のフードを脱ぎ、地下の壁にもたれて、天井を見上げた。
そして、誰にともなく、こう呟いた。
「……四年かけたのに」
その声には、憐れみが混じっていた。
+++
午後八時二十分。
城東三丁目の交差点は、崩壊寸前だった。
三体の〈黒衣〉が同時に暴れている。周囲のビルから避難した住民が、逃げ場を失って歩道に押し込まれていた。二百人近い。
灯真は〈ACTION〉で殴り、〈SCI-FI〉で撃ち、〈SAMURAI〉で斬った。
牙城が背中を守り続けた。
二体まで削った。
三体目が、ビルの外壁を掴んで引き剥がし、群衆に向かって投げた。
「――!」
灯真が飛び込んだ。
外壁を素手で受け止めた。
装甲が軋む。膝が沈む。
「くっ……そ!」
支えきれない。
その時、隣に黒い影が並んだ。
牙城が、灯真の隣で、同じ壁を支えていた。
「牙城さん!」
「押せ!」
二人で、投げ返した。
瓦礫が〈黒衣〉を潰し、動きを止めた。
「灯真くん! フィルムの熱量が限界! あと一回しか変身できない!」
姫野の声。
「あと十一体――いや、九体! 各所で他のライダーが二体処理! でも残りは全部こっちに向かってる!」
「九体!?」
灯真は、周囲を見た。
交差点の四方から、黒い影が近づいてくる。
九体。
その全部の胸に、人が埋まっている。
九人の、名前のある人間が。
――一回しか、変身できない。
灯真は、腰のホルダーを見た。
赤。青。紫。藍。金。
どれも焼け付いて、リールが変形していた。
そして、その隣に。
一度も使っていない、白いフィルムがあった。
ラベルには、何も書かれていない。
「……姫野さん」
「なに」
「この白いの、なんですか」
姫野は、一瞬黙った。
「――未記録リール」
「未記録?」
「〈シネマティックドライバー〉は、映画の型を読み込んで再生する装置。でもね、装置には記録機能もあるの」姫野は言った。「装着者の行動を、全部、あのリールに焼いてる。三ヶ月分」
「じゃあ、これに入ってるのは」
「あなたが今までやってきたこと」
灯真の呼吸が、止まった。
「言っとくけど、使えないと思ってた。だってあれは、誰かが作ったフォーマットじゃない。参照する型がない」姫野は言った。「素材が足りないの。あなたが三ヶ月で撮った映像なんて、映画一本にもならない」
「――足りますよ」
灯真は、白いフィルムを引き抜いた。
「え?」
「三ヶ月で、四百回くらい死にかけました」
彼は、それをドライバーに叩き込んだ。
【NO TITLE.】
電子音声が、初めて戸惑ったように鳴った。
【NO SCRIPT.】
灯真は、クランクに手をかけた。
「上等だ」
まわす。
カラカラカラ、と、あの乾いた音が鳴った。
光のスクリーンが、灯真を包んだ。
そこに流れたのは、映画ではなかった。
商店街で、女の子を庇って転がる青年。
ポーズを取って、殴り飛ばされる青年。
廃病院の床で、拳を握りしめて動けない青年。
写真を拾って、名前を読む青年。
三十七回、立ち上がる青年。
金色の光の中で、誰かの頬を両手で包む青年。
――下手くそだった。
灯真は、思った。
全部、下手くそだった。かっこよくもなかった。誰の台本にもない、めちゃくちゃな三ヶ月だった。
でも。
これは、俺のだ。
【Lights. Camera.】
「変身」
【ORIGINAL!!】
白い光が、交差点を焼いた。
装甲は、白と銀だった。派手な装飾はどこにもない。ただ、全身の継ぎ目から、金色の光が線になって流れていた。フィルムのコマ送りのように。
複眼は、透明だった。
仮面ライダーACT・オリジナルフォーム。
九体の〈黒衣〉が、一斉に襲いかかってきた。
灯真は、動いた。
跳んだ。〈ACTION〉のように。
影に沈んだ。〈HORROR〉のように。
撃った。〈SCI-FI〉のように。
斬った。〈SAMURAI〉のように。
そして――手を伸ばした。
〈DRAMA〉のように。
一体目の胸から、宿主が滑り落ちた。牙城が受け止めた。
二体目。三体目。
「牙城さん!」
「受ける!」
四体目、五体目、六体目。
灯真の装甲が、削れていく。オリジナルフォームには、防御の型がなかった。彼が三ヶ月で覚えたのは、避け方ではなく、受け方だったからだ。
七体目。八体目。
九体目が、両腕を振り上げた。
灯真は、その正面に立った。
【FINAL REEL!】
ドライバーが、最後の回転を始めた。
「牙城さん、合わせてください!」
「――言ってみろ!」
灯真は、跳んだ。
牙城が、同時に踏み込んだ。
黒い刃が〈黒衣〉の腕を両断し、その隙間に、白い光が飛び込んだ。
灯真の右脚に、三ヶ月分の光が集まった。
【FINAL REEL!】
その瞬間、交差点の空に、光の帯が流れた。
文字だった。
名前が、流れていた。
美奈の母親の名前。廃病院の大学生三人の名前。倉庫の工員十七人の名前。駅前の宿主の名前。今日、九体の中から助け出された、九人の名前。
そして、いちばん最後に、小さく。
――〈警備員 三十九歳〉
――〈女性 二十六歳〉
――〈男性 四十二歳〉
救えなかった人たちの、名前が。
灯真の蹴りが、〈黒衣〉の中心を撃ち抜いた。
黒い塵が、光の中に散った。
+++
午後九時十四分。
全個体、鎮圧。
死者、ゼロ。
灯真は、交差点のアスファルトに大の字に倒れていた。装甲は完全に砕け、変身はとうに解けている。息をするたびに、肋骨が悲鳴を上げた。
その横に、牙城が座り込んだ。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
「……牙城さん」
「なんだ」
「あの技」
「ああ」
「名前、あとで考えます」
牙城が、鼻から息を漏らした。
笑ったのだ、と灯真が気づくのに、数秒かかった。
「――来栖」
「はい」
「悪くなかった」
灯真は、夜空を見上げた。
街の光で、星は一つも見えなかった。
それでも、彼はこの夜のことを、一生忘れないだろうと思った。
第十三章 モブ
鵜飼誠が最後に見たのは、閉館した映画館の看板だった。
午後七時四十一分。彼が四十七通のメッセージを送った十九分後。
城東三丁目とは反対側の路地から、一体の〈黒衣〉が現れた。
宿主は、四十七人のうちの一人だった。名前を、鵜飼は覚えている。三十四歳、女性、介護職。父親の介護で八年間家に縛られ、その父を看取った翌月に職を失った人だ。
鵜飼は、その〈黒衣〉に向かって、両手を広げた。
「――こっちだ」
声が震えていた。
「こっちを見ろ。私がやったんだ」
〈黒衣〉は、彼を見なかった。
鵜飼の三メートル手前を、通り過ぎようとした。
その巨体が向かっているのは、路地の先――かつて彼女が八年間通った、介護施設の方向だった。
「待て」
鵜飼は、〈黒衣〉の前に飛び出した。
「私を見ろ! 私が動線を引いた! お前をここまで連れてきたのは私だ!」
〈黒衣〉の腕が、動いた。
払ったのだ。
道端の看板をどけるように。目の前の邪魔なものを、なんとなく。
鵜飼誠は、六メートル吹き飛んだ。
閉館した映画館のガラス扉に叩きつけられ、ガラスごと中に転がり込んだ。
〈黒衣〉は、一度も振り返らなかった。
+++
息ができない。
鵜飼は、劇場のロビーの床に倒れていた。
埃の匂い。三年分の埃。剥がれかけたポスター。壊れたポップコーンの機械。
腹に、ガラスの破片が深く刺さっていた。
抜こうとして、指が滑った。手のひらが、真っ赤だった。
「……あ」
声が出た。
自分の声とは思えなかった。
鵜飼は、腕を伸ばした。ジャケットのポケット。携帯電話。
取り出せた。
画面を、血で汚れた指でなぞる。
――誰に。
鵜飼は、連絡先の一覧を、上から下までスクロールした。
二百八十七件。全部、取材先だった。
兄の番号があった。五年、かけていない。
鵜飼は、その名前をしばらく見ていた。
かけなかった。
――なんて言えばいい。
「今から死ぬ」とは言えない。「助けてくれ」とも言えない。五年ぶりの電話で、何を言えばいいのか、彼にはわからなかった。
わからないことが、そのまま、彼の四十一年の答えだった。
鵜飼は、電話を閉じた。
代わりに、メモ帳のアプリを開いた。
記者だから。
最後に、記事を書こうと思った。
自分の記事を。
指が動いた。
〈十二月十四日、〉
そこで、止まった。
次の一行が、出てこなかった。
十二年書いてきた。八千本の記事を書いた。人が死んだ現場を、四十七回見た。そのたびに、遺族の言葉を拾って、経歴を並べて、その人がどんな人だったかを書いてきた。
自分の番になって、書けなかった。
鵜飼誠には、書くことがなかった。
趣味がない。家族がない。功績がない。誰かに与えた影響がない。四年かけて三十一人を死なせたが、それを書けば、彼はただの犯罪者になる。
――〈日和新聞社会部・鵜飼誠さん(41)〉
彼はそこまで打って、消した。
もう一度打った。
――〈男性(41)〉
合っている、と彼は思った。
携帯電話が、指から滑り落ちた。
+++
寒い。
鵜飼は、天井を見ていた。
劇場のロビーの天井には、色褪せたシャンデリアがぶら下がっている。昭和のものだ。この映画館は、六十年やっていた。
彼は、この映画館に、一度だけ来たことがあった。
六歳のときだ。
父親が、日曜に連れてきてくれた。何の映画だったかは覚えていない。ただ、平日の昼で、客席には自分たちしかいなかった。
映画が終わって、エンドロールが流れているとき、父親が言った。
「――誠。あそこに出てくる名前な。ぜんぶ、この映画作った人の名前や」
「ぜんぶ?」
「ぜんぶや。何百人おる」
六歳の鵜飼は、暗い客席で、流れていく文字を見ていた。
読めない漢字ばかりだった。
でも、彼は、その全部が誰かの名前なんだと思うと、なんだかすごいことのように感じた。
「――お父さんの名前も、ある?」
「あるかい」
父親は笑った。
「わしの名前は、どこにも出えへん」
「なんで」
「なんでやろな」
父親は、少し考えて、それから、こう言った。
「まあ、出えへんでええねん。名前が出えへん人が、いちばんぎょうさんおるんやから」
鵜飼誠は、その言葉を、三十五年間、一度も思い出さなかった。
今、天井のシャンデリアを見ながら、初めて思い出した。
――お父さん。
彼は、口を動かした。
声は、出なかった。
――そこ、いちばん、ぎょうさんおるとこ、しんどいで。
鵜飼誠は、そこで、笑った。
埃だらけの映画館のロビーで、たった一人で、彼は笑った。
誰も、それを見ていなかった。
午後八時三十三分。
鵜飼誠の心臓が、止まった。
その二十六分前に、地下の爆弾はすべて解除されていた。
だから、彼の死は、何も起こさなかった。
+++
来栖灯真がその場所に戻ったのは、午後十時過ぎだった。
救急車のサイレンが遠くで鳴っている。街の九割は無事だった。
灯真は、割れたガラス扉を跨いで、劇場のロビーに入った。
男は、そこにいた。
仰向けに倒れて、天井を見ていた。目は開いたままだった。
牙城が、後ろから入ってきた。しゃがみこんで、脈を取った。
そして、首を振った。
「……いつ」
「一時間半くらい前だ」
灯真は、その場に立ち尽くした。
言うべきことが、いくつも浮かんだ。
――ざまあみろ。
――あんたのせいで三十一人死んだ。
――あんたは何も残せなかった。
どれも、口から出てこなかった。
灯真は、しゃがみこんだ。
男の顔を、しばらく見ていた。
よれたグレーのジャケット。伸びかけた髪。眉間の皺。三ヶ月前、ロビーのベンチで隣に座った男。
「素晴らしい」と言った男。
六年間、誰にも褒められなかった灯真を、初めて褒めた男。
灯真は、震える手で、男の目を閉じてやった。
それから、小さな声で言った。
「――映画、好きだったんですね」
それだけだった。
それ以外に、灯真には、この男について語れることが何もなかった。
彼は、四年かけて、この街のいちばん暗いところにいる人たちの名前を、全部調べた。
誰も、彼の名前を、調べなかった。
+++
翌日、特災課の内部報告書に、こう記載された。
〈城東地区多発案件・関連死亡者 一名〉
〈鵜飼誠(41) 男性 日和新聞社会部契約記者〉
〈死因:外傷性ショック 〈黒衣〉個体との偶発的接触によるものと推定〉
〈当該人物と一連の事件との関連は認められない〉
最後の一行は、上層部の判断だった。
四年間、記者一人に街全体が誘導されていたという事実は、公表されなかった。公表すれば、特災課の機能不全が明らかになる。〈黒衣〉が人為的に誘導可能であるという情報が広まれば、模倣者が出る。
だから、隠された。
鵜飼誠が四年かけて書いた脚本は、上演されなかった。
批評もされなかった。
誰にも、読まれなかった。
終章 無名の英雄
三月。
来栖灯真は、オーディション会場のパイプ椅子に座っていた。
番号札は、三十二番。
役名は〈通行人A〉。台詞はゼロ。
壁際に、同じような顔をした男が二十人ほど並んでいる。全員が同じ資料を持ち、同じところに指を挟んでいる。
誰も、灯真の顔を見ていない。
三ヶ月前、〈黒衣〉の発生件数は激減した。四十七人の「予備軍」が全員処理された結果だった。そして、街が平和になれば、ライダーはニュースにならない。
テレビの仕事は、二月の頭に全部断った。事務所は反対したが、灯真は譲らなかった。
保険のCMも、断った。
――「いざというとき、走れますか」。
あのコピーを声に出して読んだとき、灯真は吐き気がした。走れなかった日のことを、彼はまだ全部覚えている。
「三十二番」
名前を呼ばれた。番号だった。
灯真は立ち上がり、部屋に入った。
「三十二番、来栖灯真です。よろしくお願いします」
長机の向こうに、四人。誰も顔を上げなかった。
「じゃ、歩いてください」
台詞がないから、歩くだけだ。
灯真は、部屋の端から端まで歩いた。
役の設定は、〈事件現場の脇を通り過ぎる会社員〉。三行の説明があった。〈残業帰り。少し疲れている。事件には気づかない〉。
灯真は、その三行を、家で四百回読んだ。
歩いた。
部屋を出て、エレベーターに乗った。
落ちるだろうな、と思った。
実際、落ちなかった。
+++
「――取れたぞ、来栖!」
大場マネージャーの電話は、いつも通り眠そうだった。
「通行人Aだ。三日拘束、ギャラは……まあ、聞くな」
「ありがとうございます」
「なあ、来栖」
「はい」
「お前、本当にいいのか」大場は言った。「去年、あれだけ話が来てたのに。今からでも戻れるぞ。ライダーの人ってことで――」
「大場さん」
「ん」
「俺、あれで役をもらうのは、違うと思うんです」
電話の向こうで、大場が黙った。
「あれは、俺の芝居じゃないんで」
長い沈黙のあと、大場は「そうか」と言った。
それから、鼻をすすった。
「……お前、いい役者になったな」
「まだ通行人ですけど」
「知ってるよ」
+++
三月の第三土曜、灯真は牙城と飲んだ。
牙城が指定したのは、特災課の裏にある、カウンター五席の焼き鳥屋だった。
「――名前、決まったのか」
「え?」
「技だ」
「ああ」灯真はビールを置いた。「〈エンドロール〉です」
「エンドロール」
「はい」
「終わりのやつか」
「終わりのやつです」灯真は言った。「でも、あれ、映画で言うと終わりですけど、映画館だと違うんですよ」
「どう違う」
「エンドロールが流れてる間って、みんな立ち上がって、帰り支度して、家に帰るじゃないですか」
灯真は、串を一本取った。
「あれ、日常に戻る時間なんです」
牙城は、しばらく黙って灯真を見ていた。
それから、ぐい飲みを空けた。
「――悪くない」
「でしょう」
牙城は、二杯目を頼んでから、ぽつりと言った。
「来栖。俺の相棒の名前は、鷹取涼という」
灯真は、串を持つ手を止めた。
牙城が、その名前を口に出したのは、初めてだった。
「〈仮面ライダーヴィジル〉だ。八年前に死んだ。公表されていない」
「……はい」
「先月、特災課の資料室に、殉職者名簿を作らせた」牙城は言った。「非公開だ。誰も見ない。だが、そこに名前が載った」
「載ったんですね」
「載った」
牙城は、それだけ言って、串を噛んだ。
灯真は、何も言わなかった。
言わないほうがいい、とわかっていた。
しばらくして、牙城が言った。
「来栖」
「はい」
「――ありがとう」
灯真は、危うくビールを吹くところだった。
「な、なんですか急に」
「あの時、お前が言った」牙城は前を向いたまま言った。「八年で誰かがありがとうと言ったか、と」
「……言いました」
「言われていなかった」
牙城は、ぐい飲みを置いた。
「だから、俺が先に言う。次に誰かが言うのを待っていたら、また八年かかる」
灯真は、うつむいた。
カウンターの木目が、少しにじんで見えた。
+++
四月の頭、灯真は一つの部屋を訪ねた。
鵜飼誠のアパートだった。
管理会社が遺品整理業者を入れる日で、姫野が特災課として立ち会っていた。灯真は無理を言って同行させてもらった。
六畳一間。
壁一面が、切り抜きで埋まっていた。
十二年分の記事。写真。プリントアウト。〈ヴィジル〉。〈グレン〉。〈サイス〉。そして、圧倒的な面積を占める〈ガルム〉。
その隅に、灯真自身の写真もあった。九月の商店街。ボロボロのアクションフォーム。
業者が、それを剥がしていく。段ボールに放り込む。
「――兄が一度来ました」姫野が言った。「三十分いて、何も持たずに帰った。『引き取るものはない』って」
「……」
「葬儀は済んでます。二人でした」
灯真は、壁の中心を見ていた。
黄ばんだA4の紙が、画鋲で留めてある。
〈適合率:0.0%〉
その隣に、三つ折りのパンフレットが、同じ画鋲で留められていた。
〈適合されなかった皆様へ〉
灯真は、それを外した。
開いた。
紙は、十二年分の指の脂で、端がすり切れていた。何百回も開かれた紙だった。
中に、こう印刷されていた。
――適合率は、個人の価値を示すものではありません。
――皆様の日常こそが、この国の基盤です。
灯真は、その二行を、長いこと読んでいた。
業者が「それ、持っていかれますか」と聞いた。
灯真は、頷いた。
それを四つに畳んで、財布に入れた。
+++
撮影は、五月の連休明けだった。
都内の交差点。深夜の封鎖ロケ。
灯真の出番は、四シーン目。事件現場の脇を通り過ぎる会社員。カメラは主役の後ろ姿を追っていて、灯真は画面の左端を、二秒だけ横切る。
「はい、じゃあ通行人の方、そこから歩いてー」
助監督の声。名前ではない。
灯真は、スタート位置に立った。
残業帰り。少し疲れている。事件には気づかない。
三行。
灯真は、その男の名前を、勝手に決めていた。
この男には、家がある。明日も仕事がある。冷蔵庫に昨日の残りがある。誰も彼の名前を知らないが、彼が明日出社しなければ、少なくとも三人が困る。
――それで、十分だ。
「よーい、アクション」
その言葉に、灯真の胸が、少しだけ鳴った。
彼は、歩いた。
二秒。
カットの声。
「はい、OKです」
誰も、拍手しなかった。
誰も、灯真の名前を呼ばなかった。
スマホを構える人も、一人もいなかった。
灯真は、スタート位置に戻る途中で、ふと空を見上げた。
五月の夜空は、街の光で、星が一つも見えなかった。
灯真は、笑った。
+++
その映画が公開されたのは、翌年の二月だった。
興行成績は、可もなく不可もなく。三週目で上映館が半分に減った。
平日の昼、都心から少し離れたシネコンの、いちばん小さいスクリーン。
客席には、男が一人しかいなかった。
左の顎から首にかけて、白く盛り上がった古い傷跡のある、四十前後の男だった。
映画が終わり、エンドロールが流れ始めた。
男は、立たなかった。
照明が少し明るくなり、清掃員が扉から顔を出しても、彼は座っていた。
文字が、流れていく。
監督。脚本。撮影。照明。録音。美術。何百人分の名前が、下から上へ。
やがて、いちばん下のほうに、いちばん小さな活字で、それは現れた。
〈通行人A 来栖灯真〉
二行下には、こうあった。
〈死体③ (クレジットなし)〉
牙城剛は、その一行を、最後まで見届けた。
スクリーンが暗くなり、場内の照明が完全に点いてから、彼は立ち上がった。
誰もいない客席を出て、ロビーを抜けて、二月の街に出た。
空は、灰色だった。
特災課から着信が入っていた。城南地区、〈黒衣〉発生。発生から一分。
牙城は、歩き出しながら、電話をかけた。
三コールで、相手が出た。
「――来栖」
『はい』
「仕事だ」
『行きます』
通話が切れた。
牙城剛は、走り出した。
この街には、五人の仮面ライダーがいる。
そのうちの一人は、名前をほとんど知られていない。
彼の名前は、映画の終わりに、いちばん小さな字で流れる。
誰も、そこまで見ていない。
それでも、彼は毎日、そこにいる。
仮面ライダー見たことあるのは555から電王がラストかな?
年齢バレそう
こいつ書くのにお盆の空き時間まるまる使ったのでネタはあるけど次の投稿は空きます