熱力学とたくあん 作:カルボナーラに牛乳はいらない
宇宙は広い。広すぎる。
なのに煙草の煙だけは、いつだって行き場をなくして、俺の顔の周りをうろついている。この船の循環装置は優秀すぎるんだ。吐き出した煙が三秒で消える。感傷に浸る暇もねえ。まったく、銀河系ってやつは、どうにもタバコが煙すぎる。
中立宙域会議船〈カルネアデス〉、第七会議室。
扉は内側からロックされていた。壁は分子結合レベルで密閉されている。窓の外では、名前もつけられていない星が三つ、他人事みたいに光っていた。
そして床に、男がひとり分、落ちていた。
正確に言えば――男の「外側」だけが。
緑がかった鱗が、背中から尻尾の先まで一直線に裂けている。まるで内側から何かが、我慢の限界を迎えて暴れ出たみたいに。周囲には琥珀色の粘液が広がっていた。生温い。匂いは、雨上がりの爬虫類館。
被害者は爬虫類系外星人ロトポクリス。銀河連合では、そこそこ重要な外交官殿だ。
俺は煙を肺の奥まで落として、低く呟いた。
「……ひでえ殺され方だ。皮だけ残して、中身をどこへやりやがった」
我ながら、いい声だった。トレンチコートの襟を立てる角度も完璧だったと思う。
背後で、助手の日下部がタブレットから顔も上げずに言った。
「先生、船内は禁煙です」
「宇宙には法律より大事なもんがある」
「ありません」
この女は、俺の三十年分の哀愁を、毎回三秒で更地にする。
+++
容疑者は三人。いや、三柱と言うべきかもしれない。
ひとり目、ミゥルナ=カ。半透明の傘を広げた海月みたいな体を、床から二メートル浮かせている。テレパス。声は空気を経由しない。直接、頭の中で鳴る。
〈ハイジマ探偵。あなたの思考、全部読めていますよ〉
やめろ。読むな。今の俺の頭の中は「怖い」「怖い」「早く帰りたい」の三語しかない。
俺は煙を吐いて、ゆっくり笑ってみせた。渋く。あくまで渋く。
「そりゃ助かる。取り調べの手間が省けるってもんだ」
〈……強がりの内訳まで読めますが〉
二人目、ザン・ドラハト。甲殻に覆われた昆虫系の巨躯。瞬きをするたびに部屋の別の場所にいる。空間跳躍。三十メートル先の隣室にも、俺の背後にも、一瞬で立てる。今も気づけば、俺の右肩の真横で顎をカチカチ鳴らしていた。
「ニンゲンの探偵。オマエ、心拍数が速い」
「いい女に会うと、いつもこうなる」
「ワタシはオスだ」
「宇宙は広いからな」
三人目、オ=ルグバ。岩塩の柱みたいな鉱物系。物質分解。触れたものを、分子の粒に還す。握手は絶対に断ることにしている。
「探偵。二時間以内に犯人を示せ。示せぬ場合、この会議は決裂し、辺境宙域で戦争が起こる」
戦争。
俺の口の中がカラカラに乾いた。喉の奥で心臓が跳ねている。ここにいる三人は、その気になれば俺を思考ごと消せる連中だ。俺の武器は、拳銃一丁と、擦り切れたプライドだけ。
だから俺は、こう言うしかなかった。
「二時間? ――一時間で十分だ」
背後で日下部が、興味なさそうに図鑑のページをめくる音がした。
+++
俺は膝をついて、皮を検分した。
裂け目は背中側。刃物じゃない。内側から破裂したような裂け方だ。骨はない。臓器もない。血もない。あるのは大量の琥珀色の粘液だけ。
密室。神クラスの能力者が三人。そして、消えた中身。
ここで凡百の探偵なら匙を投げる。だが俺は違う。俺の脳味噌は、煙と一緒にゆっくり回転を始めていた。
――そうか。そういうことか。
俺は立ち上がった。コートの裾が翻る。決まった。
「全員、集まってくれ。真相を話す」
三柱の視線が――目のない奴も含めて――俺に集中する。俺は煙草を新しく一本咥え、火をつけた。この一本のために生きてきた、という顔で。
「まず、これは単独犯じゃない。あんたら三人全員の能力が、同時に使われた結果だ」
ザン・ドラハトの顎が止まる。
「ミゥルナ=カ。あんたはテレパシーでロトポクリスの意識を落とした。痛みも叫びも封じた。だから密室に物音ひとつ残らなかった」
〈仮定の話ですが、続けて〉
「次にザン・ドラハト。あんたは空間跳躍を、被害者の"内側"に対して行った。外殻はそのまま、中身だけを座標指定で引き抜いた。だから背中が裂けた。内側から、押し出されるようにな」
「ワタシの跳躍は、生体の一部だけを――」
「できるはずだ。理論上は。あんたら三人の能力場が干渉し合えば、通常なら不可能な選択転送が成立する。オ=ルグバ、あんたの分解能力が"境界"を曖昧にしたからだ。皮と中身の間の結合を、分子レベルで一瞬だけ緩めた。三つの神の力が互いを相殺し、打ち消し合った隙間に――ほんの一瞬だけ、殺人が可能な物理法則の穴が開いた」
俺は粘液を指差した。
「この体液は、分解された結合組織の残骸だ。つまりこれは、あんたら全員が共犯でなければ絶対に成立しない、完全犯罪だったんだよ」
沈黙。
部屋の温度が下がった気がした。オ=ルグバの表面が、ジャリ、と鳴る。ミゥルナ=カの傘が、ゆっくりと脈打つ。
俺は膝が笑いそうになるのを、革靴に力を入れて押さえ込んだ。
ここだ。ここで決めろ、灰島。三十年の人生で一番いい顔をしろ。
俺は煙草を指で弾き、低く、静かに言い放った。
「犯人は――」
「あの」
声が、後ろから来た。
「これ、ただの爬虫類系外星人ロトポクリスの脱皮じゃないですか?」
+++
時間が止まった。
日下部は、しゃがみ込んで皮の裂け目を指でつまんでいた。手袋もしていない。タブレットを片手に、抑揚のない声で読み上げる。
「『銀河生態図鑑』第四十七巻、二三〇八ページ。ロトポクリス族。爬虫類系人型種。成体は約六十日周期で脱皮。脱皮直前に体表から脱皮促進液を分泌し、背部正中線から表皮を裂いて脱出する。……促進液、これですね。舐めますか?」
「舐めねえよ」
「脱いだ皮は放置する習性があります。片付ける文化がないそうです」
俺は、まだ「犯人は――」の形のまま口を開けていた。
指に挟んだ煙草から、灰がぽとりと落ちた。
「……いや、待て。じゃあ本人は」
「隣です」
日下部が親指で壁を指した。ちょうどそのとき、第七会議室の扉が――内側からロックされていたはずのそれとは別の、乗員用の小さな扉が――スッと開いた。
真新しい鱗をつやつやと光らせた爬虫類系の紳士が、湯上がりみたいな顔で立っていた。
「ああ、失礼。いやあ、スッキリした。今回は背中が引っかかって時間がかかりましてね。二時間ほど休ませてもらいました」
彼は床の皮を見て、少し恥ずかしそうに尻尾を丸めた。
「お見苦しいものを。後で回収しますので」
三柱の神が、同時にひっくり返った。
厳密には、海月は傘が裏返り、昆虫は跳躍に失敗して壁にぶつかり、岩塩の柱は上半分がずり落ちた。
〈ロトポクリス族って、脱皮するんですか!?〉
「三百年の付き合いだが、初耳だぞ!」
「なぜ、我々に言わなかった」
ロトポクリスは、心底気まずそうに答えた。
「言うことでもないでしょう。極めて個人的なことですし」
〈私はテレパスですよ! なぜ読めなかったんです!〉
「思い出さないようにしていたので。恥ずかしいじゃないですか、あんなもの」
海月がぐったりと床に着地した。神の敗北の音だった。
+++
会議は、五分で再開が決まった。
戦争は起きなかった。誰も死んでいなかったからだ。当たり前だ。
誰も俺を見なかった。誰も俺に礼を言わなかった。俺の「三つの神の力が互いを相殺し、打ち消し合った隙間に開いた物理法則の穴」は、行き場のない煙みたいに、天井のあたりをうろついたまま消えた。ザン・ドラハトが去り際に一言、「オマエの説、面白かったぞ」と言った。慰めというやつは、たいてい銃弾より深く刺さる。
俺は誰もいなくなった第七会議室で、新しい一本に火をつけた。
銀河系は広い。神が三人いても、真実はいつだって、図鑑の二三〇八ページに載っている。俺たちは推理する。宇宙は、ただ生きているだけだ。俺は結局のところ、物理法則の被害者ってわけだ。
「先生」
日下部が、皮を回収用の袋に詰めながら言った。
「被害者ぶらないでください。強いて言うなら、生物学の被害者です」
「うるせえ」
「あと、船内は禁煙です」
俺は煙を吐いた。三秒で消えた。
まったく、銀河系ってやつは、どうにもタバコが煙すぎる。
トリックが思い浮かばないと推理モノを書いてはいけないという道理はない