熱力学とたくあん 作:カルボナーラに牛乳はいらない
一 灰
灰は色を選ばない。
月の裏側に立てば、いずれ誰の肌もおなじ色になる。降りやまないレゴリスの粉が毛穴に食い込み、爪の間に棲みつき、どれだけ擦っても剥がれない。作業着の縫い目にも、寝床の毛布にも、濾過したはずの水の底にも灰は溜まる。ケインの肌は、もう十五年その色をしていた。
月は、正式には合衆国第五十二州ルナと呼ばれている。だがその名で呼ぶのは、いつも太陽の当たる表側の人間たちだけだった。裏側に、州の恩恵などない。あるのは降り注ぐ石と、掘り尽くせないレアメタルと、灰にまみれて生きる者たちだけだ。彼らは自嘲を込めて、自分たちをアッシャーと呼んだ。灰被り、という意味だった。
裏側には、地球が昇らない。
表側の居住区なら、窓を開ければ青い故郷が見える。観光案内にも教科書にも、そのことが必ず書いてある。だが裏側の空にあるのは、凍りついた星と、落ちてくる石だけだ。地平線の向こうに何があるのかを、ここの子供たちは映像でしか知らない。シェイという娘は十七になるまで、海というものを水槽の大きいやつだと思っていた。
ケインの住む第七採掘区は、ツィオルコフスキーと呼ばれる巨大なクレーターの南の縁にへばりついていた。旧世紀のロシア人技師の名前がついた窪地で、二千人ほどのアッシャーがヘリオン社の掘削許可のもとに暮らしている。暮らしている、という言い方は正確ではないかもしれない。息をしていた、というほうが近い。
裏側では、空気は買うものだった。
居住区に供給される酸素には、一立方メートルごとに料金がかかる。ヘリオン社はそれを供給維持費と呼び、アッシャーたちは呼吸税と呼んだ。眠っている間も、風邪をひいて咳き込んでいる間も、赤ん坊が泣いている間も、数字は増えていく。掘った鉱石は会社が買い上げるが、値をつけるのも会社だった。差し引きがどちらに傾くかは、生まれる前から決まっている。裏側で生まれた子供は、最初の一呼吸をした時点ですでに借金を背負っていた。
ケインの母は、その借金の下で肺をやられて死んだ。二十年前のことだ。医者は呼ばなかった。呼べる医者がいなかったからではない。呼ぶ金がなかったからでもない。裏側に医者を呼ぶという発想そのものが、ここには存在しなかった。誰かが倒れれば、隣にいた誰かが縫合し、骨を接ぎ、それで治らなければ埋める。それが手順だった。
ケインは十九のときから、落ちてくる石を拾って生きている。
操縦席のモニターには、白く光る点が幾つも明滅していた。速度、質量、自転周期、予測軌道。数字が流れるたび、彼の指は考えるより先にスロットルを動かす。これが仕事だった。降ってくる石を読み、避け、価値のあるものだけを拾う。裏側で会社に首根っこを掴まれずに生きる方法は、それ以外にない。
彼が乗っているのは、メテオライトフリゲートと呼ばれる船だった。もとは月面護衛艦の旧式で、二十年前に退役して屑鉄置き場に転がっていたものを、ケインが十年かけて継ぎ接ぎした。外殻には磁性を帯びた隕石の欠片が何百枚も貼りつけてある。おかげでレーダーに映れば、ただの漂流岩にしか見えない。軌道保安隊エンプレスの哨戒網をかいくぐるための、彼なりの偽装だった。
「ケイン。三群目、来るぞ」
無線からしゃがれた声がした。マーロウだ。六十を越えた老アッシャーで、ケインに石の読み方を教えた男だった。今は目が悪くなって船に乗れないが、地上の観測小屋から仲間の軌道を見てやっている。
「見えてる」
「見えてるじゃねえ。見えてるつもりが一番死ぬんだ」
「わかったよ、じいさん」
石の群れが視界の端をかすめていく。ケインは船体をわずかに傾け、いちばん大きな塊の影に入った。隕石を避けるいちばん確実な方法は、別の隕石の後ろに隠れることだ。これもマーロウに教わった。
三群目をやり過ごした直後だった。異物に気づいたのは。
岩にしては、軌道が綺麗すぎる。
自然に落ちてくる石は無骨に回転する。表面のアルベドはまだらで、レーダーの反射が呼吸するように揺れ、酔っ払いのように軌道を乱す。ケインの目は十五年かけて、その汚さを覚え込んでいた。だがレーダーの端で明滅しているそれは、まっすぐに、まるで誰かに投げ捨てられたように落ちていた。
「投棄物にしちゃ、形が残ってるな」
彼は舵を切った。
近づいてわかった。それは投棄物ではなく、緊急脱出ポッドだった。表側の型式。地球か、月の表の富裕区画でしか見ないものだ。片側が大きく凹み、外殻の半分が焼け焦げている。生命維持の警告灯だけが、まだ弱く点滅していた。
中に、誰かがいる。
拾うかどうかに、迷いはなかった。降ってきたものを拾うのが、ケインの仕事だった。
二 白
ハッチをこじ開けると、白い顔があった。
血と煤で汚れてはいたが、それでもわかる白さだった。表側の連中特有の、人工太陽の光だけで育てたような、陶器みたいな肌。ケインの知る誰の肌とも違う。
意識はない。だが息はしていた。かすかに、しかし確かに。
「贅沢な死に方をしようとしてたな、お前」
独り言のように呟きながら、彼は彼女の首筋に指を這わせ、脈を確かめた。灰にまみれ、傷だらけの黒い指が、白い頬に触れる。その瞬間、灰色の指跡が一筋、磁器のような頬に残った。
汚れた手が、綺麗なものに触れた跡。ただそれだけの光景だったが、ケインはなぜか、その指跡から目を逸らせなかった。
断熱シートに乗せ、フリゲートの狭い医療区画まで運ぶ。応急処置は手慣れたものだった。肋骨が二本折れていた。左の肩に、減圧による内出血。額の裂傷は縫った。裏側の人間なら誰でもできる程度の処置で、彼女は死ななかった。
二日目の夜、マーロウが船倉に上がってきた。
「表側の人間を匿うのは、賢い判断とは言えねえな」
「賢い判断で生きてきた覚えはねえよ」
「あの型のポッドを追ってくる連中がいる。エンプレスがここに降りたら、死ぬのはお前だけじゃない。区画ごとだ」
「追ってきてねえ」
「なぜわかる」
「もう表側の記録を見た。あの船は大気圏で燃え尽きたことになってる。乗員は全員死亡だ。追ってこねえ。追ってきたら、死んだことにした奴らが嘘をついたことになる」
マーロウは黙った。それから、深く息を吐いた。裏側の人間の息の吐き方だった。金のかかった空気を、惜しむような吐き方。
「死んだことにされた人間ってのはな、ケイン。生きてるより厄介だ」
「知ってる」
三日目の夜、彼女は目を覚ました。
「ここは」
掠れた声だった。だがその声には、掠れていてもなお隠しきれない、命令することに慣れた響きがあった。
「月の裏側だ。あんたの脱出ポッドが降ってきた」
ケインは工具の手入れをする手を止めずに答えた。彼女が体を起こそうとして、痛みに顔を歪めるのが視界の端に映る。
「表側に、連絡を」
「できない」
「できないんじゃない。あなたが、しないだけでしょう」
「表側じゃ、あんたの船は大気圏で燃え尽きたことになってる。乗員名簿も出た。もう調べた」
彼女が息を呑む音がした。ケインは工具から顔を上げ、初めてまともに彼女を見た。血の気の引いた白い顔。汚れてなお、生まれつき人を従わせることに慣れた目。そして今、その目には、隠しきれない怯えが滲んでいた。
「あんたを表側に突き出せば、報奨金くらいは出るだろうな」
「なら、そうすれば」
投げやりな声だった。自分の値段を、自分で言い当てるような響きがあった。表側の人間は、自分に値札がついていることを知っている。裏側の人間は、値札があることすら知らされない。どちらがましなのか、ケインにはわからなかった。
「興味ない」
彼は短く言って、また工具に視線を戻した。
「あんたが誰で、何をしたかなんて興味ない。ただ」
灰にまみれた自分の指を見つめる。彼女の頬に残った、あの指の跡を思い出しながら。
「自分の終わり方くらい、自分で決めろ。他人に勝手に決めさせるのは、性に合わない」
それが、ケインの持っている、たった一つの流儀だった。
彼女は長いこと黙っていた。それから、名前を言った。
「エレナ」
姓は名乗らなかった。表側での役職も。ただ、エレナ、とだけ。
ケインも訊かなかった。
三 手
翌週、居住区の集会で、彼女の処遇が議題になった。
集会といっても、崩れかけた圧力隔壁の前に六十人ほどが集まり、順番に喚くだけのものだ。エレナは連れて行かれなかった。ケインが一人で立った。
「表側の女を置いとくのか」
「エンプレスが嗅ぎつけたらどうする」
「あんたの船に乗せてるんだろう。じゃあ、あんたの区画から酸素を割け」
最後の意見が、いちばん現実的だった。裏側の議論は、いつも最後には空気の勘定に帰着する。ケインは頷いた。
「割く。俺の分から」
「一人分の呼吸税を、あんた一人で払うのか」
「ああ」
「三ヶ月ももたねえぞ」
「もたなかったら、そのとき考える」
誰かが笑った。嘲笑ではなく、諦めに近い笑いだった。裏側の人間は、この手の男を知っている。長くは生きないが、いなくなると困る種類の男だ。
結局、追い出すという決議は出なかった。出せなかった、というほうが正しい。ここでは誰も、誰かを追い出す権限を持っていない。持っているのは会社と、エンプレスだけだった。
最初の数日、エレナは使い物にならなかった。
プライドだけは高く、指示されることに慣れておらず、慣れない手つきで工具を握っては切り傷を作った。低重力での動き方を知らないから、物を置こうとして跳ね上げ、跳ね上げたものを追いかけてまた転んだ。彼女は一度、無意識に誰かへ命令口調を使い、その相手にじっと見つめられて言葉を失った。裏側では、誰も彼女の命令を聞く理由がなかった。
ケインは何も言わなかった。手を貸しもしなかった。
ここでは誰も、誰かの代わりに働いてはくれない。それが裏側の掟だった。冷たいからではない。全員が自分の呼吸の勘定で手一杯だからだ。
七日目に、彼女は初めて自分から質問をした。
「この数字は、何」
居住区画の壁に、緑色の表示が浮かんでいた。四桁の数字が、ゆっくりと増えていく。
「呼吸税だ」
「呼吸に、税」
「この区画に流れてる酸素の勘定。寝てても増える。全員分の合計だ」
エレナは長いこと、その数字を見ていた。それから、小さな声で言った。
「わたしの分も、入っているの」
「入ってる」
「誰が払っているの」
ケインは答えなかった。答えないことが答えだった。彼女はそれきり何も言わず、その日から、誰にも言われないうちに働きはじめた。
十四日目、彼女は初めて、誰の手も借りずに配管の接合を終わらせた。
溶接痕はひどく醜かった。マーロウがそれを見て、鼻を鳴らした。
「三十点だな」
「合格点は」
「五十だ。だが五十点の溶接は、五十回やらねえと出ねえ。三十点を四十九回やってからだ」
老人はそれだけ言って、去っていった。エレナは血の滲んだ指先を見つめていた。その顔に、ケインは初めて、命令する側の女ではなく、ただの人間の表情を見た気がした。
シェイが彼女に懐いたのは、その頃からだった。十七の娘で、船に乗りたがっていた。マーロウの孫ではないが、マーロウが育てたようなものだった。
「表側って、どんななの」
「わたしがいたのは、表の中でも上のほうだから、参考にならないと思う」
「いいから。空はどんな色」
「青い」
「なんで」
エレナは言葉に詰まった。理由は学校で習ったはずだった。だが、この娘に説明できる言葉が出てこない。
「空気があると、青くなるの」
「空気があると青くなるんだ」
シェイは真面目な顔で頷いた。裏側の娘にとって、空気は買うものであり、色を持つものではなかった。
「雨って、どんな感じ」
「上から水が降ってくる」
「痛くないの」
「痛くない」
「石は痛いよ」
エレナは、それに返す言葉を持たなかった。
肌の色は、少しずつ変わっていった。
洗っても取れない灰の粉。作業着の袖から覗く腕は、日に日に薄い灰色を帯びていく。表側にいた頃なら悲鳴を上げただろう変化を、彼女はもう、鏡を見ても何も言わなくなっていた。
正確には、鏡を見る回数が減っていった。
四 石の読み方
ある日、ケインは彼女を船に乗せた。
理由は説明しなかった。彼女も訊かなかった。狭い操縦席に二人で座り、居住区の灯りが小さくなっていくのを、エレナは黙って見ていた。
「これが仕事だ」
モニターに、無数の光点が浮かんでいる。
「落ちてくる石の九割五分は、屑だ。残りの五分に価値がある。だが、拾いに行くには軌道を読まなきゃならん。読み違えれば、拾いに行った石に潰される」
「どうやって読むの」
「汚いかどうかで読む」
「汚い」
ケインはモニターの一点を指した。不規則に明滅している光だ。
「これは自然の石だ。回ってる。表面がでこぼこだから、反射が呼吸してる。軌道もふらついてる。汚い動きだ」
指を移す。もう一つの光点は、静かに、規則的に光っていた。
「これは、綺麗すぎる」
エレナが顔を上げた。
「どういう意味」
「自然に落ちてくるものは、こんな動き方をしない」
彼は数値を呼び出した。過去六年分の記録が、モニターを流れていく。日付、座標、質量、軌道要素。彼はそれを、目が悪くなるまで見続けてきた男の目つきで見ていた。
「六年前、第四採掘区に十一個の石が落ちた。ヘヴィ・レインって呼ばれてる。二百三人死んだ。表側の発表じゃ、防衛網が九割を迎撃して、これでも被害は最小限だったってことになってる」
「覚えている。追悼式典があった」
「その十一個は、全部、綺麗な軌道だった」
沈黙が落ちた。
「三ヶ月後、その場所から新しい鉱脈が見つかった。地表を吹き飛ばされたおかげで、掘削の手間が省けたわけだ。表側は、悲劇のなかの幸運と書いた。俺は、順番が逆だと思ってる」
エレナの唇が、わずかに動いた。
「爆薬の代わりに、石を使っている」
「そうだ。鉱脈の上に落ちる。人が住んでても落ちる。落ちたあとは、事故として処理される。誰も掘削許可を申請しなくていいし、誰も補償金を払わなくていい。天災には、責任者がいねえからな」
「二百三人」
「弟も、その中にいた」
彼は表情を変えずに言った。表情を変えないための訓練を、十五年かけてきた男の言い方だった。
「シドっていった。十九だ。俺と同じで、船に乗りたがってた。第四採掘区に女がいて、その週は向こうに泊まってた。それだけだ」
「あなたは」
「俺は、その日、別の石を追ってた。綺麗すぎる軌道の石を一つ、目で見てた。おかしいと思った。だが、おかしいと思うことと、それが弟の上に落ちると気づくことは、別だ」
エレナは何も言えなかった。
「だから読むんだよ、俺は。今でも」
彼は数字の海を見つめたまま言った。
「読んで、避けて、拾う。それしかできねえ。読めても、止められねえ。誰かに言っても、証拠がなけりゃただの陰謀論だ。裏側の人間なら、みんな薄々気づいてる。気づいたまま、死ぬ」
五 父の遺したもの
その夜、共同区画の隅で、エレナはぽつりと話しはじめた。
「父は、兵器設計者だった。旧ソ連の」
ケインは黙って聞いていた。
「わたしが四つのときに亡命した。母は、その前に死んでいる。父はわたしを表側で育てて、英語を叩き込んで、名前の発音まで直させた。ヴォルコワという姓が、どうしても消せなかったけれど」
彼女は自分の手を見ていた。灰の入った爪を。
「学校では、裏切り者の娘と呼ばれた。父の亡命が国にとってどれだけ有益だったかなんて、子供には関係ない。だからわたしは、誰よりも働いた。誰よりも忠実な官僚になった。三十五で、防衛予算の査定に関わる部署にいた。婚約者もいたけれど、経歴に傷がつくと言われて切った。切ったのはわたしのほう」
「そのはずだった、って顔をしてるな」
「そのはずだった」
彼女は笑おうとして、失敗した。
「父が死んで、遺品を整理した。地下の保管箱に、古い資料があった。父が設計に関わった、旧ソ連の質量兵器。軌道上から質量を落として地表を叩く兵器の、誘導理論。冷戦期に途中で放棄された計画だと、わたしは思っていた」
「思っていた」
「同じ箱に、新しい書類が入っていた。父が死ぬ二年前の日付。アルテミス・シールドの運用データの写しだった。父が晩年、顧問として呼ばれていたのは知っていた。名誉職だと思っていた。だから見た瞬間、意味がわからなかった」
彼女の声が、初めて震えた。
「迎撃の記録と、投射の記録が、同じ帳簿に載っていたの。同じ部署が、同じ人間の判子で、落とす石を選んで、落として、それを迎撃していた。予算要求書には、脅威の増大が根拠として添付されていた。増大させているのは、彼ら自身」
「なぜ、そんなことを」
「予算だけなら、まだ理解できる。理解はできないけれど、想像はできる。でも、それだけじゃない」
彼女は顔を上げた。
「アルテミス・シールドがある限り、裏側は戒厳下に置かれる。防衛作戦区域だから。だから労働協約が適用されない。だから呼吸税に上限がない。だから鉱石の買い上げ価格を会社が決められる。石が落ちてこなくなったら、その全部が崩れる。裏側を安く使い続けるために、脅威が必要なの」
ケインは工具を置いた。長い沈黙のあと、口を開いた。
「知ってたよ、そんなことは」
エレナが息を呑む。
「証拠はなかった。だが、順番が逆だってことは、ここの人間はみんな知ってる。石が落ちて、鉱脈が出て、また掘る。三十年、同じことの繰り返しだ。知ってても、どうにもならねえ。知ってるってことと、証明できるってことの間には、地球と月ぐらいの距離がある」
「わたしは、上司に報告した」
彼女はそこで言葉を切った。
「正規の手続きで。監察部門に、写しを添えて。三日後に、視察の名目で船に乗せられた。その船が、大気圏で燃え尽きた」
「あんたの父親が遺した資料は」
「原本は、父の名義の古い保管庫にある。表側の連中はまだ見つけていない。わたしが持ち出したのは、写しの一部だけ」
「たぶんそれが」
ケインは言った。
「初めての、消えない証拠だ」
その夜、彼女は初めて、ケインの隣で眠った。恋人としてではなく、ただ、他に頼れる体温がなかったからだ。灰にまみれた天井を見上げながら、彼女は自分の白かった肌を思い出そうとして、できなかった。もう、思い出せなかった。
それから幾晩か過ぎたころ、見張りに立っていたアッシャーの一人が、血相を変えて船倉に駆け込んできた。
「哨戒網に動きがある。エンプレスの部隊規模が、いつもと違う」
ケインは短く舌打ちした。エレナの顔から、みるみる血の気が引いていく。彼女にはわかっていた。それが自分のせいだということが。
六 降下
表側のニュースでは英雄として讃えられる部隊が、ここでは死神と同義だった。
軌道保安隊エンプレス。表向きの任務は、隕石迎撃網の地上部門警備。実態は、裏側の管理だった。彼らが降りてくるのは、いつも何かが消される前触れだ。
手動の警報が、鈍い金属音で居住区画に鳴り響いた。電子機器はとうに壊れている。裏側では、いちばん古い技術がいちばん長く生き残る。
「エンプレス、降下してくる。数は四十以上」
これまでにない規模だった。通常の見回りなら、二機か三機。四十というのは、警備ではない。作業だった。
ケインは船倉から飛び出し、空を見上げた。漆黒の空に、無数の降下艇の噴射光が星のように散っていた。地球の昇らない空で、それは久しぶりに見る、動く光だった。
「証拠隠滅、だな」
呟きながら、彼は迎撃用に改造した採掘ドローンを起動させる。二十二機。全部合わせても、降下艇一機を落とせるかどうかだった。多勢に無勢なのは、誰の目にも明らかだった。
「非戦闘員を第三坑道に下ろせ。坑道の隔壁は厚い。あいつらも坑道は壊さねえ。壊したら掘り直しになるからな」
「ケイン、あんたは」
「上にいる」
戦闘は、長くは続かなかった。
居住区画の半分が崩れ、灰の中に火柱が立った。真空に近い場所での火柱は、地球のそれとは違う。音がなく、色が薄く、あっという間に潰れて消える。人が死ぬときも、似ていた。
シェイは、坑道の入口で死んだ。
最後の一団を押し込もうとして、隔壁の外に残った。ケインがそれに気づいたのは、崩落の音が止んだあとだった。娘は、まだ船に乗ったことがなかった。空が青くなる理由を、教わったばかりだった。
マーロウは、崩れた梁の下から引きずり出された。両脚が潰れていたが、息はあった。老人は意識のないまま、それでもまだ何か文句を言おうとしているような顔をしていた。
その頃、居住区の中央広場では、指揮官の徽章をつけた男が、エレナの前で足を止めていた。
「ヴィクトル・ヴォルコワ技師のご息女、エレナ・ヴォルコワ。生きていたか」
「ヴォーン」
エレナが息を呑む。表側で、何度も同じ会議室にいた男だった。
ヴォーンは兜を外した。四十半ば。灰の降る中で、その肌だけが妙に清潔に見えた。表側の人間の白さとも違う。徹底的に洗い上げた、という白さだった。
「あなた、ここの生まれね」
言ったのは、ほとんど反射だった。エレナ自身、なぜそう思ったのかわからなかった。
ヴォーンは、少し笑った。
「ツィオルコフスキーの南縁だ。この区画の、そこの三番坑で生まれた。二十年前に出た」
「出られるの」
「肌は、洗えば落ちる」
彼は自分の頬を親指でこすってみせた。
「落ちないと思っているのは、落とす気のない連中だけだ。ここの人間は、落ちないことを誇りにしている。誇りにしていれば、出ていかなくて済むからな」
エレナは、その言葉の中にある傷を聞き取った。だがそれを聞き取ってやる義理はなかった。
「父君の遺産を、まだお持ちですか。渡していただければ、この場所は見逃してもいい」
嘘だとわかっていた。渡した瞬間、この場所も、ケインも、消される。エレナは一瞬でそれを計算した。かつて上り詰めた官僚としての癖が、まだ体に残っていた。
原本の在処は、彼女しか知らない。彼女が生きている限り、彼らは彼女を追う。追う先がここでなければ、ここは残る。
「わたしが、ここを離れれば」
「賢明だ。部隊は撤収しましょう」
これも、半分は嘘だ。だが、賭ける価値はあった。
「エレナ」
叫ぶケインの声が、瓦礫の向こうから聞こえた。彼女は振り返らずに、待機していた小型艇に飛び乗った。旧ソ連の残存勢力が、以前から接触を図ってきていた連絡先がある。生きるためではなく、父の資料を武器に、この国家ごと道連れにするために。
「お前が謝る理由なんかない。戻ってこい」
その声が届く距離で、彼女は一瞬だけ振り返った。灰にまみれたその顔を、目に焼きつけるように。
「わたしのせいで、これ以上」
言葉は終わらなかった。小型艇の扉が閉まり、噴射光とともに、彼女の姿は瓦礫と炎の向こうに消えていった。
ケインは追わなかった。追えなかった。マーロウを担ぎ上げなければならなかったからだ。
エンプレスは、宣言どおり撤収した。壊すだけ壊して、拾うものだけ拾って、去っていった。壊れた居住区の修復費用は、後日、区画の共同債務に加算される旨の通知だけが届いた。防衛作戦に伴う損耗であり、補償の対象外である、と書かれていた。
全てが収まったあと、灰の積もった瓦礫の上に立ち、ケインは声もなく毒づいた。
また誰かが、勝手に、誰かの終わり方を決めた。
シェイの終わり方も。マーロウの脚も。
そして今度は、他の誰でもない、エレナ自身が。
七 赤
赤の残党たちは、エレナを歓迎した。少なくとも、最初の三日間は。
彼らの拠点は、地球と月の重力が釣り合う点に係留された、旧世代の補給艦だった。オクチャブリという名がついていた。十月、という意味だと、彼女は父から聞いたことがある。旗を降ろした国の名残が、四十年、そこに浮かんでいた。
「ヴォルコワ技師の娘か。資料は」
彼女が差し出したのは、父の遺した資料の写しだった。全てではない。全てを渡せば、価値がなくなると同時に、殺される理由がなくなる。奇妙な計算だったが、表側の官僚時代に培った習性が、今も彼女を生かしていた。
三日目の夜、ザハロフという老人が彼女の船室を訪ねてきた。父と同年代の、痩せた男だった。
「ヴィクトルの娘御に、こうして会う日が来るとはな」
「父をご存じでしたか」
「同じ設計局にいた。あれは優秀だったよ。優秀すぎて、自分の設計が何に使われるかを、いちいち考えてしまう男だった。だから逃げた」
老人は笑った。歯が数本欠けていた。
「わしは考えなかった。だから残った。残って、この鉄の棺桶で四十年、昔の切符が使える日を待っている。どちらが賢いか、いまだにわからん」
だが、歓迎は長く続かなかった。
彼女はすぐに理解した。この組織にとって自分はエレナではなく、ヴォルコワ技師の娘というカードでしかないと。会議室に呼ばれるたび、彼女の意見は誰も聞かなかった。資料の中身と、その利用価値だけが検討された。どの国のどの勢力に、どの順番で流せば最も高く売れるか。誰も、その資料が二百三人の死体の上に載っていることを話題にしなかった。
一週間後、事態は暗転した。
表側のメディアが、一斉に報じた。亡命兵器技師の娘が母国を裏切り、旧勢力に合流した、と。彼女の顔写真と、父の顔写真が並べて出された。血は争えない、という趣旨の論説が、いくつも出た。
誰が漏らしたのか、考えるまでもなかった。エンプレス、あるいは政府そのものが、意図的に流したリークだ。彼女がこれから何を言おうと、その全ては裏切り者の弁明になる。証拠を出す前に、証人を汚す。手順としては初歩的で、そして完璧だった。
組織内は、瞬く間に疑心暗鬼に陥った。彼女はスパイではないか。最初から仕組まれていたのではないか。エレナを匿っていた者たちが、次々と距離を置きはじめる。
ある夜、彼女は薄い壁越しに、自分の処遇を巡る議論を聞いた。
厄介払いすべきだ。いや、まだ利用価値はある。売るなら早いほうがいい。売り先はどこだ。
誰も、彼女自身がどう思っているかなど、尋ねなかった。
独房のように狭い船室に一人残され、エレナは初めて、心の底から一人だと感じた。表側でも、こちらでも、彼女は誰かにとっての価値でしかなかった。娘として。カードとして。証拠として。
ただ一人を除いて。
灰にまみれた黒い指が、頬に触れた夜のことを思い出す。あの男は、彼女の姓も、父の功績も、リークの真偽も、一度も尋ねなかった。自分の終わり方くらい自分で決めろ、と、ただそれだけを言った。
彼女がエレナ・ヴォルコワであろうと、ヴォルコワ技師の娘であろうと、どちらでもよかったのだ、あの男には。ただ、灰に汚れた手で工具を握り、隣で不器用に眠る一人の人間として、彼女を見ていた。
三十点の溶接を、四十九回やってからだ、とマーロウは言った。彼女はまだ十七回しかやっていない。
涙が出るとは思わなかった。官僚として上り詰めた十年間、一度も泣いたことはなかった。だが今、独房のような船室で、エレナは声を殺して泣いた。
自分が、あの男に恋をしていたことに、こんな形で気づくとは思わなかった。
そして同時に、悟った。もう二度と会えないだろう、と。彼女がこれから選ぶ道は、生きて帰る道ではなかったからだ。
彼女は計画を立てた。
オクチャブリの中枢には、この四十年で集められた資料の保管庫がある。父の写しも、そこに移された。そこへ忍び込み、内部から起爆装置を作動させる。組織の中枢と、証拠と、自分を、まとめて葬る。
彼女が死ねば、原本の在処は永久に失われる。エンプレスが第七採掘区に戻る理由も消える。彼女を売ろうとしている組織も消える。誰も、彼女で儲けられなくなる。
それは、彼女が生涯で立てた計画の中で、いちばん効率のいいものだった。
八 迎え
決行の前夜、船体を叩く音がした。
規則的な、まるで合言葉のような音。三つ、二つ、四つ。裏側の隔壁越しに使う、古い連絡の打ち方だった。ケインが、居住区の壁を叩いてマーロウを起こすときの叩き方。
まさか、と思いながら気密扉を開けると、そこには、見覚えのあるボロボロの船影があった。レーダーに映れば、ただの漂流岩にしか見えない船。メテオライトフリゲート。
「どうやって、ここが」
「軌道を読んだ」
ケインは、あの夜と変わらない無愛想な顔で、船倉に降り立った。
「あんたの逃げた艇の噴射痕。そのあと三日以内に補給を受けられる場所は七つ。そのうち、旧ソ連系の登録が残ってるのは二つ。片方は去年の記録で係留を解いてる。消去法だ」
「そんな読み方を」
「石を読むのと同じだ。綺麗すぎる軌道を探せばいい。あんたは逃げるのが下手だ。まっすぐ逃げるからな」
彼は周囲を見回した。
「迎えに来た。それだけだ」
エレナは、自分でも驚くほど強い声で言い返した。
「帰れない。わたしには、まだやることが」
「知ってる。保管庫に忍び込んで、道連れにするつもりなんだろう」
情報網の中で、彼女の計画は既に噂になっていた。売られる直前の人間の計画ほど、漏れやすいものはない。ケインはそれを、皮肉でも咎めるでもなく、ただ事実として口にした。
「それの、何がいけないの。世界は変わらない。どうせ誰も味方じゃない。だったら、せめて」
「終わり方が気に入らない」
ケインが遮った。短く、まるで工具の使い方を指摘するような口調で。
「あんたが選んだ死に方なら、文句を言う筋合いはねえ。だがな、それは結局、どうせ誰も自分の味方じゃないっていう結論に、あんたを追い込んだ奴らの、思う壺じゃねえのか」
エレナは言葉を失った。
「あんたの親父さんは、娘に、道連れの爆弾になってほしくて資料を遺したのか」
「わからない。でも、他に方法が」
「ある」
ケインは、投げやりなくらい簡単に言った。
「隠して、爆発させて、証拠ごと消えるんじゃなくて、全部、世界中に同時にぶちまければいい。あんたが、生きたまま、証拠そのものになればいい」
「殺されるだけよ」
「同時に、世界中が見てる場で殺せるか」
彼は続けた。
「消せば消したで、それが答え合わせになる。あんたを消したがってる連中が、一番それを嫌がる。奴らが強いのは、天災には責任者がいねえからだ。人が撃ったら、責任者ができる」
単純な理屈だった。だが、単純だからこそ、エレナが官僚として積み上げてきたどんな戦略よりも、鋭く核心を突いていた。
「わたしを、道具として使っていない」
思わず呟いた言葉に、ケインは片眉を上げた。
「あんたのことなんて、そもそも大して分かっちゃいない。ただ、あんたが勝手に一人で死ぬのが、気に入らねえだけだ」
その不器用な言葉が、どんな愛の言葉よりも、エレナの胸を打った。
彼女は、久しぶりに笑った。あの灰の指跡がついた夜以来、初めてだった。
背後で、足音がした。ザハロフだった。
「ザハロフさん」
「今夜、あんたを売る相手が決まった。明日の朝、決議が出る
老人は筒を彼女の手に押しつけた。
「ヴィクトルは、娘に爆弾になれとは言わなかったろうな。わしはあれに一度も勝てなかったが、それくらいはわかる」
「あなたはどうなるの」
「四十年、この棺桶にいる男だ。今さら出ていく先もない。それに、逃がしたのが誰かなんて、誰も本気では調べんよ。調べたら、売り損なったことを認めることになる」
老人は背を向けた。それから、一度だけ振り返った。
「行きなさい。青いほうへ」
「なら、手を貸して」
エレナはケインを見た。
「ホワイトハウスまで」
九 壁
地球を守る防衛網は、幾重にも張り巡らされていた。表向きは、隕石の脅威から人類を守るための盾。実態は、都合の悪いものを近づけないための壁。
メテオライトフリゲートは、その壁に向かって、まっすぐ突っ込んでいった。
「識別信号、旧世代のフォーマットで送る」
ケインの指が、船に眠っていた旧ソ連時代の制御コードを叩き込む。この船の中枢は、二十年前に退役した護衛艦のものだ。そしてその護衛艦の系譜をたどれば、冷戦期に鹵獲された設計に行き着く。表側の最新鋭システムは、まさか博物館入りした型式の信号を、本気で警戒などしない。
「奴らのシステムは、ソ連製の遺物までは律儀に警戒対象にしちゃいない。皮肉なもんだ」
「父の世代のものね」
「あんたの親父さんが逃げた国が、今、あんたを地球まで運んでる」
哨戒網の一層目を、まるで漂流岩のようにすり抜けていく。二層目で、ようやく警報が上がった。
「エンプレス、追跡艇多数。ヴォーンの部隊だ」
「わかってる」
隕石の群れの中を縫うように、ケインは船を走らせた。自然な軌道と、不自然な軌道。その違いを誰よりも読み慣れた男が、追っ手の裏をかくのは造作もないことだった。彼は追跡艇の予測進路上に、わざと大きな石の影を置き続けた。追う側は、必ず安全な軌道を選ぶ。安全な軌道は、読める軌道だ。
「エレナ、時間だ」
エレナは頷き、端末を起動した。父の遺した全データ、そして彼女自身の証言。それを、表側のあらゆる公開回線に、同時に流し込む。装置に細工をする時間はなかった。ただ、一度に、全部に送るだけだ。
彼女は録画ではなく、生身で回線の前に座った。
「わたくしはエレナ・ヴォルコワ。合衆国防衛予算査定局に十年勤務し、三ヶ月前に死亡が公表された人間です。今、生きて、月と地球の間にいます」
灰色の顔で、彼女は喋りつづけた。
「父ヴィクトル・ヴォルコワが遺した資料により、以下を証言します。アルテミス・シールドは、隕石の脅威から人類を守る防衛網ではありません。脅威を作り出し、それを迎撃して見せる装置です。落とす場所は、選ばれています。多くは、月の裏側の鉱脈の上です。六年前のヘヴィ・レインで死んだ二百三人は、天災の犠牲者ではありません」
「これから流す帳簿を見てください。迎撃の記録と、投射の記録に、同じ決裁番号が振られています。専門知識は要りません。番号を照合するだけです」
「わたしは裏切り者の娘と呼ばれ、今は裏切り者と呼ばれています。それでかまいません。番号を、照合してください」
数秒後、船内の傍受装置が、地球全土のニュース速報が沸騰するのを拾いはじめた。
追跡してきたヴォーンの艇が、目前に迫った。武装管制官の声が、通信越しに響く。
「射線に入りました。撃墜命令を」
沈黙があった。
「待て」
制止したのは、指揮系統の上、地球側の誰かの声だった。
「今、世界中が見ている。ここで消せば、消した理由を誰もが勘繰る。妄言だと切り捨てたばかりの主張を、我々自身が、身をもって証明することになる」
誰も、その通りだと言えなかった。だが、誰も、それに反論もできなかった。
ヴォーンの艇は、それ以上近づかなかった。距離を保ったまま、ただ、見送るように旋回した。
回線が切れる直前、ヴォーンの声が、個別の周波数で短く入った。
「洗っても、落ちなかったな」
それだけだった。相手が誰に向けて言ったのか、エレナにはわからなかった。おそらく、本人にもわからなかっただろう。
メテオライトフリゲートは、誰にも撃たれることなく、ホワイトハウスの上空を通過した。撃たれずに到達すること、生きて見せつけること、それ自体が答えだった。
窓の外で、地球が青かった。
エレナは何も言わなかった。ケインは、生まれて初めてその色を見た。
十 灰
世界は、変わらなかった。少なくとも、大きくは。
政府は否定した。専門家は反論した。決裁番号の一致は事務処理上の慣行であると説明され、その説明を信じる者と信じない者に世界は割れ、三週間で別の話題に移った。エレナ・ヴォルコワは訴追されなかった。訴追すれば、証言を法廷で扱うことになるからだ。彼女は起訴もされず、公式には死亡したままだった。死亡した人間を裁く手続きは存在しない。
それでも消えない証拠と証言だけが、いつまでもインターネットの片隅で燻りつづけた。世界という巨大な構造は、結局、誰にも救えなかった。
だが、三つだけ、変わったことがある。
一つ。裏側の呼吸税に、上限が設けられた。額は据え置きに近かったが、上限という言葉が条文に入った。
二つ。アルテミス・シールドの次期予算審議が、一年遅れた。理由は説明されなかった。
三つ。第四採掘区の跡地に、慰霊碑が建った。二百三人の名前が刻まれている。建てたのは政府ではなく、アッシャーたちだった。彫るのに七ヶ月かかった。
そして、エレナ・ヴォルコワという一人の人間は、もう誰にも使い潰される側に引きずり戻されることはなかった。
数ヶ月後、月の裏側。
灰の積もった居住区画の片隅で、エレナは工具を握っていた。かつて磁器のようだった肌は、もうすっかり灰色に馴染んでいる。日焼けと、レゴリスの粉と、幾つもの小さな傷跡。ケインの肌と並べても、見分けがつかないほどに。
溶接痕を、マーロウが車椅子から覗き込んだ。老人は脚を失ったが、口だけは元通りになっていた。
「五十点だ」
「やっと」
「五十一回目だったな。一回多くかかった」
彼女は笑って、また手を動かした。壊れた居住区の修復は、まだ半分も終わっていない。共同債務は増えたままだ。何も解決していない。ただ、彼女がここにいることだけが、以前と違っていた。
作業を終えて外に出ると、ケインが空を見上げていた。星と、落ちてくる石しかない空を。
「肩書き、捨てちまったな」
「あなたが最初に言ったのよ。誰にも終わり方を決めさせるな、って」
「恋人になった覚えはねえけどな」
「わたしも」
彼女は少し考えた。
「戦友でいいわ。共犯者、でも」
ケインは何も言わず、手を伸ばして、彼女の頬に触れた。灰にまみれた黒い指で。
跡は、残らなかった。
二人は、それ以上何も言わなかった。灰の降る空の下、並んで座り、次に落ちてくる隕石の軌道を、ただ黙って読んでいた。
灰は、色を選ばない。
もう二人には、それがどういう意味か、痛いほどわかっていた。
ただの独りの人間風情が世界を変えるご都合主義への反感で書いた
たまにはラブコメ書かなきゃ可哀想かなって