熱力学とたくあん   作:カルボナーラに牛乳はいらない

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地下を掘って、一番高いところへ

 

 部室のモニターは右下の四分の一が死んでいて、そこだけ深い緑に濁っている。だから中継を見るときは、全員が自然と画面の左側に寄る。

 

 映っているのは第四層拡張本線、第十二工区。プロの試合だ。

 

 白い大断面機が二機、岩盤の中で並走している。直径十二メートル。カッターヘッドが一回転するたびに切羽から泥と粉塵が噴き上がって、坑内灯の光が濁る。実況が数字を読み上げた。先行する翠雲重機、掘進速度、時速八百二十メートル。プロの世界では、これがとんでもない速さということになっている。

 

 俺たちの機体は直径二・四メートルで、条件がよければ時速三十六キロで走る。

 比べる意味はない。あっちは道を造っていて、こっちは道の上を走っているようなものだ。断面積が小さいほど速い。この競技の理屈は、それだけで九割が説明できる。

 

 地上に空があった時代のことを、俺は知らない。今もあるにはあるが、人間が吸える種類のものではないらしい。曾祖父の世代が最後に地上で暮らした人間で、それ以降、人類はテラリウムに住んでいる。

 

 地下百メートルから始まって、下へ下へと掘り足されてきた巨大なシェルター都市だ。上の層ほど古く、下の層ほど新しい。俺たちの高校は第九層にある。第九層は五十年前まで、ただの岩盤だった。

 

 人が増えれば部屋が要る。部屋が要れば穴を掘る。テラリウムの歴史はそのまま掘削の歴史で、掘削の歴史はそのまま金の話だ。掘るのには途方もない金がかかる。

 だから昔、誰かが考えた。どうせ掘るなら、掘る速さを競わせればいい。掘った跡はそっくり都市になる。競技場が翌年には住宅区になり、コースの分岐が配管坑になり、観客席の裏が学校になる。人はいずれ、自分の住む場所が造られる瞬間を見物することになる。

 

 それがジオ・レーシングだ。

 テラリウムには他に娯楽がない。誇張ではなく、本当に何もない。空のない街では、見上げるものは自分たちで用意した天井しかない。だから人は、天井の向こう側で起きていることに熱狂する。

 

 プロは大手ゼネコンの実業団が走る。大断面、精密施工。掘りながら規定のセグメントを組み立て、真円度と沈下量を計測され、基準を外せば記録ごと無効になる。彼らの一メートルは都市の背骨になるから、速さより正しさが上に来る。中継の解説も半分は品質管理の話で、実況がいちばん興奮するのは掘進速度ではなく施工誤差が一ミリを切ったときだ。

 

 ユースは違う。

 高校生の大会は断面が小さい。吹付ライニングだけで通るから、規定がとにかくゆるい。ゆるいというより、崩さなければ何をしてもいいという設計思想だ。追い越しのために他校の掘った坑へ割り込んでもいい。相手のセンサーを潰すために圧縮泥水を噴きつけてもいい。無茶なラインを取って死にかけてもいい。実際、毎年何人か死にかけている。

 

 観客はそっちを見たがる。プロの真円度より、高校生が岩の中で殴り合っているほうが面白いに決まっている。だから予算がつく。だから大会が続く。

 ついでにあれはスカウト会場でもある。実業団のスタッフが観客席の上段に陣取っていて、上位に食い込んだ機体の乗員に声をかける。ユースで勝つというのは、そういう意味を持っている。

 

 ただ、俺たちには関係がない。

 

 画面が切り替わって、中継の合間に来週のユース大会の告知が流れた。有力校の紹介だ。翠雲学園、相良第一工業、南嶺高専、三菱台工業。去年の上位校が順に並んで、機体の写真と、パイロットの顔と、卒業生の実業団入り実績が添えられる。

 

 三十二校が出るのに、紹介されるのは八校だった。残りの二十四校は、画面の下端を右から左へ流れていく文字列の中にだけある。灰坂工業の名前は、そこにあった。

 

 「先輩、映りましたよ」

 「どこに」

 「今の、下のところです。一瞬」

 

 一瞬でも、映るには映るらしい。

 

 部室の壁には、歴代の記録が貼ってある。三十一年分ある。予選落ち、予選落ち、予選落ち、ときどき本戦。本戦最高順位は十九年前の六位で、その年の写真だけが妙に大きく引き伸ばして飾ってある。写っている先輩たちは、俺の父親より年上のはずだ。

 

 その下に、代々の引き継ぎノートが積んである。表紙の年度がだんだん薄くなっていく。中身はほとんど機体の話だ。どこが壊れやすいか、どの部品が代用できるか、どの業者が安いか。恋愛の話も進路の話もない。三十一年分、ずっと機械の話だけをしている。

 

 うちは、そういう学校だった。

 

 灰坂工業高等学校は、来年の三月で消える。

 

 生徒数が定員の四割を切って、第九層の再編計画に引っかかった。相良第一工業高等学校に吸収されて、校舎は資材倉庫になるらしい。合併というのは言い方の問題で、実際には片方の名前が消えるだけの話だ。どちらが消えるかはとっくに決まっている。うちだ。

 

 三年の俺たちは、どのみち今年で卒業する。だから失うものは何もない。名前以外には。

 

 ユースの本戦で三位までに入った学校の坑は、そのまま第九層の拡張計画に採用される。坑口には施工校名の銘板が打たれる。金属の板に、校名と年度とタイムが彫られて、都市が生きているかぎり残る。校舎よりずっと長生きする。

 

 俺たちが欲しいのはそれだ。それだけだ。

 

 「先輩、モニター落としますよ。明日、予選です」

 

 通信士の芝が電源に手を伸ばした。二年。うちで唯一の下級生で、来年からは相良第一の生徒になる。

 

 「まだ見る」

 「見ても速くなりません」

 「見なくても速くならない」

 「それはそうですね」

 

 あっさり認めて、芝は電源を落とした。緑に死んだ四分の一だけが、数秒遅れて消えた。

 

 部室の隣がピットだ。四号がいる。

 

 灰坂工業四号機。十二年落ちの型落ちで、うちが中古で買った時点ですでに七年落ちだった。以来、代々の先輩が壊れたところをジャンクで埋めてきた。駆動系は解体された他校の機体から、油圧ポンプは工事現場の払い下げから、冷却系にいたっては誰かの家の空調の部品が入っている。設計図はもう意味をなさない。四号の設計図は、四号そのものしかない。

 

 全長六・五メートル、直径二・四メートル。先頭にカッター駆動部、その後ろが機械室、次がパイロット席、いちばん後ろがナビ席。人間は三人しか乗れない。這って移動するのが前提の寸法で、背の高い奴はそもそも乗員になれない。

 

 その機械室で、釜谷が仰向けに寝ていた。うちのメカニックだ。上半身が油で黒く、手の甲に新旧の火傷が地層みたいに重なっている。

 

 「早瀬。鬼歯、載せるぞ」

 「予選で使うのか」

 「使う。ここで一回焼いておかねえと、本戦で当たりが出ねえ」

 

 鬼歯は七年前の先輩が造ったビットだ。超重量の打撃式で、単体で四十キロある。標準のローラービットの倍以上ある。

 仕組みは頭が悪い。掘っていればカッターの軸受が熱を持ち、作動油が膨張する。まともな機体はそれを逃がして冷やす。鬼歯は逃がさない。膨らんだ油の圧をそっくり打撃機構へ送り込んで、岩を叩く。熱いほど強く打つ。

 つまり、機体が壊れかけているときにいちばんよく掘れる。

 

 設計者は卒業前の引き継ぎ書にこう書いている。使用中は必ず誰かが機械室に張り付いて温度を見ること。それができないなら使うな。

 

 うちには張り付く人間がいる。釜谷だ。

 

 「御堂、聞いてたか」

 

 ナビ席のハッチから、御堂が顔を半分だけ出した。

 

 「聞いてない。四号の音を聞いてた」

 「どうだった」

 「左の軸受が笑ってる」

 

 御堂の言うことは半分わからない。ただ、たいてい当たる。

 

 

 予選は第九層B地区の試験坑で行われる。全三十二校。規定断面で硬岩盤を百五十メートル掘り抜くだけのタイムアタックだ。妨害もなければ駆け引きもない。機体と腕と地質だけの、正しい競技。

 つまり、うちが世界でいちばん苦手なやつだ。

 

 発進の合図で、四号のカッターが唸りを上げた。座席の背もたれ越しに、軸の回転が背骨に直接入ってくる。加速。前方の岩盤が砕けて、切羽の泥が排土管に吸い込まれていく音。

 

 「二十二キロ。上がる」

 御堂の声が背中側から飛んでくる。

 「軸受、六十四度。まだ寝てる」

 機械室から釜谷。

 「先輩、十五秒経過。トップの翠雲学園、すでに三十メートル」

 

 外の芝の声は無線ごしで、少し遅れて届く。岩盤は電波を食う。深く掘るほど、俺たちは外の世界から切り離されていく。

 

 三十メートル過ぎで層が変わった。砂岩から硬い凝灰岩に。四号の鼻先が明らかに嫌がった。速度が落ちる。

 

 「早瀬、鬼歯」

 「まだ早い」

 「早くない。今ここで当てとけ」

 

 釜谷が油圧の切り替えレバーを機械室側から蹴った。作動油の逃がしが閉じる。カッター室の温度が跳ね上がる。そして、鬼歯が仕事を始めた。

 

 打撃の衝撃は、掘るというより殴るという感触だ。一打ごとに四号全体が後ろへ跳ね返り、俺の内臓まで揺れる。凝灰岩が砕けて前へ開けていく。速度が戻る。二十六、二十八、三十一キロ。

 

 「軸受、八十二度」

 「まだいける」

 「いけるけど、いけてはいない」

 

 釜谷の言い方は昔からそうだ。

 

 百五十メートルを抜けたとき、四号は自分の吐いた蒸気の中にいた。

 

 タイムは二十四秒六。

 

 うちの持ちタイムとしては上出来だった。去年より三秒速い。三年間で一番速い。掘り上がった坑から出てきたとき、釜谷は本気で拳を握っていたし、御堂ですら少しだけ口の端を上げていた。

 

 問題は、上出来では足りないということだった。

 

 三十二校の記録が出そろうまで四十分かかる。その四十分を、俺たちはピットの床に座って過ごした。芝が集計を読み上げるたびに、うちの順位が一つずつ下がっていく。十二位。十三位。まだ十四校が走っていない。十四位。十五位。あと五校。十六位。あと四校。

 

 最後の四校のうち、三校がうちより速かった。

 

 結果は十七位だった。

 

 十六位の松尾工業とは二秒一の差。百五十メートルで二秒一なら、距離にすれば二十メートルとちょっとになる。今日のうちの走りで言えば、四秒分の判断ミスと、二十度分の遠慮だ。

 

 本戦に進めるのは十六校。俺たちは一つ足りなかった。

 

 ピットに戻ってから、誰も何も言わなかった。

 

 釜谷が黙って鬼歯を降ろした。四十キロの塊が台車に載る音が、やけに響いた。御堂はナビ席のシートに座ったまま、機体の中の音を聞いていた。もう聞く必要のない音を。

 

 「先輩」

 芝がヘッドセットを外しながら言った。

 「タイム表、印刷しておきますね。銘板は無理でも、記録は残るので」

 「残るか、そんなもの」

 「残ります。私が持っていきます。来年、向こうの学校に」

 

 それはやめてくれと言いかけて、やめた。二年に言わせる台詞ではなかった。

 

 撤収は二十一時までだった。二十時四十分に、大会本部から通知が来た。

 

 予選十四位の二上工業が、機体故障により本戦を棄権。繰り上げで、十七位の灰坂工業高等学校が十六位として本戦出場。

 

 芝が三回読み上げた。三回目でようやく、意味が部室に届いた。

 

 釜谷が最初に動いた。台車に載せたばかりの鬼歯を、また持ち上げようとして、腰をやりかけた。

 

 「早瀬。おい、早瀬」

 「聞こえてる」

 「運がいいな、俺たち」

 「底辺の運だ」

 

 実際そうだった。速かったから拾われたのではない。落ちた奴がいたから、その席に転がり込んだだけだ。誰かの故障を踏み台にして本戦に立つ。格好のつかない話だが、うちは元から格好がついたことがない。

 

 御堂がナビ席から下りてきて、俺の顔を見た。

 

 「早瀬。明日、無茶するでしょう」

 「する」

 「うん。じゃあ寝る」

 

 それで話は終わった。うちはそういうチームだった。

 

 

 本戦のコースは、第九層西部の未開発区に掘られる。

 

 全長五千八百メートル。十六校がそれぞれの発進坑口から扇状に散って掘り進み、二千メートル地点で四本の主坑に合流する。四千メートル地点でさらに一本になり、そこから先の千八百メートルは単線の終端坑だ。ゴールは終端坑の突き当たり、上向きに掘り上げられたゴールドームの天端。

 

 コースは全体として下る。スタート地点よりゴールのほうが百二十メートル深い。

 地下を掘り下げながら、俺たちはこの大会で一番高いところを目指している。ばかみたいな話だが、この街ではだいたいのことがそうだ。

 

 順位は実時間で計算される。誰がどこにいるかは、坑内に打ち込まれた測点が拾って外に送る。観客は上のドームで、十六個の光点が岩の中を這うのを見ている。

 

 予選順位でポータルが割り当てられる。一位の翠雲学園が一番ポータル。最内周だ。

 

 十六位の俺たちは、十六番ポータル。最外周。合流点までの距離が全校中いちばん長い。予選の二秒一の差が、ここでは三百四十メートルの差になって返ってくる。

 

 「差、三百四十です」

 ヘッドセットの向こうで芝が言った。

 「先輩、正規ラインだと合流時点で最下位のままです。前が詰まって、そこで終わります」

 「知ってる」

 「知ってて聞きました。どうしますか」

 

 俺は前方地質図を呼び出した。十六番ポータルの正面、七百メートル先に、太い黒帯が走っている。

 

 「玄武岩の岩脈。厚さ、六十メートル」

 御堂が読み上げる。

 「一軸圧縮強度、二百二十メガパスカル。全校の走行想定ラインは、これを南へ迂回してる。迂回で稼がれる距離は四百二十メートル」

 

 迂回すれば四百二十メートル。突っ切れば六十メートル。

 

 誰も突っ切らない理由は単純だ。ローラービットで二百二十メガパスカルの玄武岩に当たると、ビットのほうが先に死ぬ。掘れないのではなく、掘りきる前に機体が終わる。

 

 「釜谷」

 「もう答え出てんだろ」

 機械室から声が返る。

 「鬼歯だ。硬いほど打撃が効く。玄武岩は殴るには最高の相手だぞ」

 「軸受はどうする」

 「俺が見る。九十度までは俺が持つ。それ以上は俺が持たねえけど、そのときは俺が怒鳴る」

 

 「御堂」

 「岩脈の中に節理面が三本ある。二本目が広い。そこを狙えば十メートル分は楽できる」

 「聞こえるのか、そんなの」

 「まだ聞こえない。近づけば鳴く」

 

 俺は無線に向かって言った。

 

 「芝。ピットから見て、これは無茶か」

 少し間があった。

 「無茶です。でも、正規ラインで最下位のままゴールするのと、無茶をして途中で壊れるのと、どっちが灰坂工業らしいかと言われたら」

 「言われたら」

 「後者です」

 「よし」

 

 発進三十秒前。

 

 四号の中は、狭くて、暑くて、油の匂いがする。前に釜谷、真ん中に俺、後ろに御堂。三人で肘が当たる。この筒の中に、七年前の先輩が造ったビットと、十二年前の駆動系と、誰かの家の空調と、消える学校の名前が全部詰まっている。

 

 合図。

 

 カッターが咬んだ。

 

 最初の七百メートルは砂質泥岩だった。柔らかい。四号は面白いように進んだ。時速三十六キロ。四号の最高速がこれだ。前を走る誰かの掘進音が、岩盤を伝って響いてくる。

 

 「二時方向、四百。翠雲。速い」

 御堂が言う。彼女はセンサーの数字より先に音を聞く。岩盤を伝ってくる駆動音の高さと濁りで、どこの学校が、どのくらいの回転数で、どの程度ビットを痛めているかまで当てる。うちのナビ席には、他校の秘密が全部聞こえている。

 

 「十時方向、二百二十。南嶺高専。歯が一枚欠けてる」

 「もう欠けてるのか」

 「欠けてる。まだ気づいてない」

 

 七百二十メートル地点で、切羽の手応えが変わった。

 

 殴られた。そういう感触だった。四号の全体が前から押し戻されて、速度計が三十六から一気に八まで落ちる。玄武岩だ。

 

 「鬼歯、行くぞ」

 釜谷が逃がしを閉じた。

 

 カッター室の温度が上がる。作動油が膨らむ。膨らんだ圧が逃げ場を失って、打撃機構へ流れ込む。

 そして四号が、岩を殴りはじめた。

 

 一打。四号が跳ねる。二打。座席のフレームが軋む。三打目で玄武岩の面が割れた。

 

 「回るぞ」

 俺はカッターの回転を落とし、その分をトルクに回した。速さを捨てて、打つ力に変える。速度計は十二キロ。だが確実に前へ進んでいる。誰も掘らない六十メートルを、俺たちだけが真正面から削っている。

 

 「軸受、七十八度」

 「まだいける」

 「七十九」

 「まだ」

 「八十四。上がり方が急だ、早瀬、水を回す」

 

 冷却水が回った。カッター室で蒸気が破裂する音がする。前で釜谷が何か叫んだが、蒸気の音でかき消された。

 

 コクピットの温度が四十度を超えた。カッター室との隔壁が熱くて、素手では触れない。釜谷はその向こう側にいる。隔壁の温度計は表示が振り切れていて、何度なのかわからない。わからないほうがいいと思った。

 

 汗が計器盤に落ちて、そのまま蒸発した。

 

 三十メートル。半分。

 

 「節理、鳴いた」

 御堂の声。

 「二時方向、やや上。角度十一度。今」

 

 俺は舵を切った。四号の鼻先が節理面に沿って滑り、抵抗が半分になる。十二キロが十九キロに戻る。岩の中に、たった数センチだけ都合のいい隙間がある。それを聞き当てる人間が、うちのナビ席に座っている。

 

 六十メートルを抜けたのは、発進から二分四十秒後だった。

 

 抜けた先は再び泥岩だった。四号が水を得た魚みたいに加速する。三十四キロ。

 

 「順位、出ます」

 芝の声が跳ねた。

 「灰坂工業、十二位。四校抜きました」

 

 二千メートル地点、一次合流。

 

 主坑は四本。俺たちが入るのは第四主坑で、そこにはすでに三校が入っていた。

 

 ここから先は、掘るだけの競技ではなくなる。

 

 他校が掘り終えた坑には、もう岩がない。岩がなければ掘る必要がない。掘る必要がなければ、機体は本来の速度で走れる。だから前の学校の後ろにつくのがいちばん速い。全員がそれを知っているから、全員が割り込もうとして、割り込まれまいとする。

 

 これが割り込みだ。ジオ・レーシングでいちばん行儀の悪い技術で、いちばん観客が沸くところだ。

 

 「前、三菱台工業。距離八十」

 御堂。

 「後ろにつけ、早瀬」

 釜谷。

 「つく」

 

 俺は自分の掘っていた坑を捨てて、斜めに切り込んだ。壁を破って三菱台の坑に頭を突っ込む。抵抗が消えて、四号が加速する。三十六キロ。四号の速度計が振り切れる領域。

 

 三菱台がすぐ気づいた。後方の排土口から、圧縮泥水が噴いてきた。

 

 視界が死ぬ。前方センサーが泥に埋まって、ディスプレイが真っ茶色になる。この距離でこの速度で前が見えないというのは、要するに目をつぶって走っているのと同じだ。

 

 「御堂」

 「聞こえてる。左に寄って。壁まで四十センチ」

 「もっと」

 「三十。二十八。そのまま。今、右」

 

 泥の中を、音だけで走る。御堂が読み上げる数字は、彼女が坑壁の反響で作った地図だ。四号は誰かの掘った穴の中を、誰にも見えないまま走っている。

 

 「三菱台、右へ膨らんだ。今」

 

 俺は左のスキッドを蹴り出して、隙間へ押し込んだ。二・四メートルの機体が二機、二・六メートルの坑の中ですれ違う。装甲が擦れて火花が散った。

 

 抜いた。

 

 「十一位。いえ、十位」

 芝の声。

 「先輩、九位。前の桜堤が単独でスピンしました」

 「勝手に転ぶな」

 「転んでくれました」

 

 第四主坑は、四校分の坑を束ねた分だけ広い。断面三メートル二十。二台なら並べる。並べるということは、押し合えるということだ。

 

 前方に光点が二つあった。八位の白樺工業と、七位の桐原工科。二機はすでに接触していて、坑壁を削りながら喧嘩をしていた。互いに泥水を噴き合って、坑の中央が茶色い霧で埋まっている。

 

 「早瀬、真ん中は無理だぞ」

 釜谷が言った。

 「上か下だ」

 「下は排土が溜まってる」

 「じゃあ上だ」

 

 坑天と機体の間には、規定上二十センチの余裕がある。二十センチというのは、四号の装甲の話をすればほとんどないのと同じだ。

 

 俺はスキッドを坑壁の傾斜に噛ませて、四号を斜めに持ち上げた。壁を走る。装甲が坑天を擦って、削れた吹付材が滝みたいに降ってくる。二機の喧嘩の真上を、俺たちは横向きのまま追い越した。

 

 「早瀬。それ、どこで覚えたの」

 御堂が聞いた。

 「引き継ぎノートの十四冊目だ」

 「成功例だった」

 「失敗例だった」

 

 「七位。先輩、六位です」

 芝の声が固くなった。

 「十九年ぶりです。壁の記録に並びました」

 「並んでどうする」

 「抜きます」

 

 

 三千四百メートル地点で、御堂が急に黙った。

 

 黙るときは、聞いているときだ。俺は口を閉じた。

 

 「天端が痛がってる」

 しばらくして、彼女は言った。

 「三千六百から三千六百五十。上から。地圧が抜けてない。誰かが下を掘りすぎた」

 

 地圧の悲鳴、と先輩たちは呼んでいた。岩は潰れる前に鳴く。人間の耳では聞こえない領域で、微細な破断音が連続する。御堂はそれを聞き分ける。うちのナビは、機体の健康診断だけでなく、地面の健康診断もできる。

 

 「落ちるのか」

 「落ちる。あと五十秒か、六十秒」

 「通れるか」

 「今の速度なら、二十二秒で抜ける」

 

 わざと崩すのは反則だ。ただし、崩れるところを先に通るのは反則ではない。ユースの規則はそこまで面倒を見ない。

 

 「行く」

 

 四号は加速した。三千六百メートル地点の坑天は、すでに髪の毛みたいな亀裂が走っていた。天井から細かい岩片が降ってきて、装甲を叩く音が続く。雨の音に似ていた。地下には雨がないから、これは俺の想像上の雨だ。

 

 抜けた四秒後、後方で天端が落ちた。

 

 衝撃波が坑内を走って、四号を前へ押した。背後の測点が次々に沈黙する。

 

 「後続、三校が停止。う回に入りました」

 芝の声が上ずっている。

 「灰坂工業、五位。四位。先輩、四位です」

 

 四千メートル地点、二次合流。ここから先は単線だ。

 

 前に三機。順に、南嶺高専、相良第一工業、翠雲学園。

 

 南嶺は簡単だった。欠けた歯を抱えたまま無理をして、坑壁との摩擦で速度を落としていた。俺は真後ろにつき、相手が減速したタイミングで坑天側の隙間を抜いた。二・六メートルの坑を、上下に分けて使った。

 

 三位。

 

 そして、前に相良第一の尻が見えた。

 

 うちを吸収する学校だ。来年から芝が通う学校で、たぶん灰坂工業の備品を全部持っていく学校だ。パイロットは柏木という。中学が同じだった。あいつは相良第一へ行き、俺は灰坂へ行った。理由は俺のほうが成績が悪かったからで、それ以上でも以下でもない。

 

 オープンチャンネルに割り込みが入った。ユースの無線は坑内で全校共通になる。挑発のためだけに、そういう仕様になっている。

 

 「早瀬か。まだ生きてたのか、その骨董品」

 「生きてる」

 「予選十七位が三位まで来るなよ。うちの整備班が泣くだろ」

 「泣かせるために来た」

 

 柏木が笑った。次の瞬間、四号の前方が真っ茶色になった。

 

 圧縮泥水。しかも量が違う。相良第一は排土系を強化した新型機で、噴射圧が桁違いだ。前方センサーどころか、坑壁の反響まで泥に吸われて濁る。

 

 「御堂」

 「聞こえない。音が死んでる」

 初めて、御堂の声に焦りが混じった。

 

 「早瀬。壁を叩け」

 釜谷が機械室から怒鳴った。

 「泥は音を吸うが、岩は吸わねえ。四号で壁を殴れ。反射が返る」

 

 俺は右のスキッドを坑壁に叩きつけた。金属が岩を打つ音が坑内を走り、戻ってくる。

 

 「返った」

 御堂が息を吸う音。

 「もう一回」

 

 二回、三回。四号は坑壁を殴りながら走った。装甲が削れて、火花が尾を引く。だが、そのたびに御堂の頭の中で地図が描き直されていく。

 

 「見えた。前、相良第一、距離二十二。坑の中心から右へ寄ってる。左が空いてる」

 「空いてる幅は」

 「六十センチ」

 

 機体は二・四メートル。空いているのは六十センチ。足りない。

 

 「早瀬、鬼歯まだ生きてる」

 釜谷。

 「軸受、八十九度。あと一分は保つ」

 「一分でいい」

 「一分しかねえ」

 

 俺は左のカッターを起こした。

 

 空いている隙間が足りないなら、隙間を広げればいい。俺は左の坑壁を掘りながら追い抜くことにした。既存の坑と新しい坑を、走りながら一本に繋ぐ。教科書には載っていない。載せる価値もない。事故報告書には載っている。

 

 鬼歯が坑壁を殴った。

 

 一打で三十センチ。二打で五十。走りながら、時速二十八キロで、俺たちは横に穴を広げていった。四号の左半身が岩を削り、右半身が相良第一の装甲を擦る。二台の機体の間で火花が連続して、コクピットが橙色に染まった。

 

 無線に柏木の声が入った。今度は笑っていなかった。

 

 「早瀬、やめろ。それ、崩れるぞ」

 「崩れる前に抜ける」

 「そこまでして何が残る。お前んとこの学校、来年ないんだぞ」

 「穴が残る」

 「穴に名前はつかねえよ」

 「つく。銘板が入る」

 

 柏木が黙った。

 

 「来年、お前は普通に卒業して、芝は普通にうちの制服着る。それで終わりだ。今日勝ったって、灰坂工業は消える」

 「消える」

 俺は言った。

 「だから今日走ってる」

 

 救うために走っているのではない。救えないから走っている。

 助からないと決まっているものに、最後に一つだけ勝ちを持たせてやりたい。それだけの話だ。それ以上のことを、俺たちは何もできない。

 

 鬼歯が最後の一打を入れた。坑壁が抜けて、四号の左半身が空を切った。

 

 抜けた。

 

 「三位。いえ、灰坂工業、二位です」

 芝の声が割れていた。

 「相良第一、三位に落ちました。先輩、二位です」

 

 前に一機だけ。

 

 翠雲学園。予選一位。親会社は中継で見たあの実業団。パイロットは一年生だと聞いた。冴島とかいう名前で、来年も再来年もここに戻ってくる人間だ。

 

 差、四百二十メートル。残り、千百メートル。

 

 翠雲は完璧に走っていた。無駄がない。掘り上がった坑の断面が真円に近くて、吹付が均一で、走ったあとをそのまま検査に出せる。プロの走り方だ。あの一年生は来年も再来年もここを走る。今日負けたところで、彼にはあと二回ある。

 

 俺たちには今日しかない。

 

 それは有利でも不利でもなくて、ただそういう条件だった。ぶつけられる日が今日しかないというだけで、ぶつけるものはある。七年前の先輩が造ったビットと、十九年前の六位と、三十一冊の引き継ぎノートがある。

 

 届く。計算上は届く。四号のほうが軽い。翠雲は規定を守って丁寧に走る。うちは何も守っていない。

 

 「釜谷。あとどのくらい保つ」

 返事がなかった。

 

 「釜谷」

 「聞こえてる」

 声がかすれていた。

 「軸受、九十四度。悲鳴を上げている。冷却は回ってるが、水が沸いてる。沸いた水は冷やさねえ」

 「あとどのくらい保つ」

 「保たねえ。もう保ってない。今動いてんのは意地だ」

 

 俺は前を見た。泥の向こうに、翠雲の尾灯がにじんでいる。差は三百に縮んでいた。

 

 「行けるところまで行く」

 「そう言うと思った」

 釜谷が笑った。笑い方が乾いていた。

 「早瀬。俺は今からカッター室に入る。手で押さえる」

 「何をだ」

 「打撃機構の戻り弁。熱で開きっぱなしになる。開いたら鬼歯が死ぬ。俺が塞ぐ」

 「素手でか」

 「軍手が二枚ある」

 

 止めるべきだった。止めなかった。

 

 残り六百。差、二百十。

 

 残り四百。差、百四十。

 

 四号は自分の白煙の中を走っていた。焼けた油の匂いがコクピットに入ってくる。計器の半分が赤い。速度計は三十一キロを指したまま震えている。

 

 「早瀬」

 御堂が言った。

 「四号、もう笑ってない」

 「泣いてるか」

 「うん。左の軸受が」

 

 残り二百。差、六十。

 

 終端坑が上へ曲がりはじめた。ゴールドームの天端に向かって、坑が持ち上がっていく。地下五千八百メートルの果てで、最後の八十メートルだけ、俺たちは上を目指す。

 

 翠雲の尾灯がはっきり見えた。あと三十メートル。

 

 そのときだった。

 

 背中に、聞いたことのない音が来た。金属が金属をやめる音だった。

 

 主軸の軸受が焼き付いた。カッターの回転が一瞬で止まり、慣性で機体全体が右へ振られる。坑壁に叩きつけられて、俺の頭が計器盤にぶつかった。油圧が落ちる。警報が全部鳴って、鳴りすぎて意味がなくなる。

 

 鬼歯が脱落した。四十キロの塊が坑床に転がって、四号の腹をこすっていく音がした。

 

 「釜谷」

 返事がない。

 

 「釜谷」

 「……生きてる。手はもう使えん」

 

 カッターが死んだ。掘れない。だが、あと三十メートルの坑は、翠雲がもう掘り終えている。

 

 掘る必要がない。走ればいい。

 

 俺は残りの油圧を全部スキッドに回した。四号が坑床を蹴って、白煙を引きながら前へ滑り出す。速度計は死んでいた。何キロ出ているのかわからない。ただ、坑が上がっていくのが、腹の感触でわかった。

 

 二十メートル。

 

 翠雲学園の機体がゴールラインを抜けた。

 

 十メートル。

 

 俺は最後に残っていた補助推力を叩いた。

 

 五メートル。

 

 四号は、掘るのをやめた機体のまま、それでも前に進んだ。

 

 

 カッターが止まった。

 

 止まると、こんなに静かなのかと思った。十二分間ずっと骨まで揺すられていたのが、急に何もなくなる。耳の奥だけがまだ回っている。

 

 白煙が充満していた。焼けた油と、焼けた金属と、沸いた冷却水の匂いが混ざって、喉の奥に張りつく。坑内灯は落ちていて、非常灯の赤だけが弱く点いている。暗い。手を伸ばせば計器盤に届くはずなのに、その計器盤が見えない。

 

 誰も何も言わなかった。

 

 三人分の荒い息だけが、狭い筒の中で反響していた。俺の息と、後ろで御堂が吐く息と、機械室から聞こえてくる釜谷の、ひどく浅い息。

 

 無線が生きた。

 

 「先輩。……先輩、聞こえますか」

 芝の声だった。泣いているのを隠そうとして、隠しきれていない声だった。

 「聞こえてる」

 「二位です。灰坂工業高等学校、二位。翠雲学園と、〇・八秒差です」

 

 〇・八秒。

 

 五千八百メートル走って、〇・八秒。

 

 玄武岩を六十メートル殴った二分四十秒のうちの、たった一回のためらい。泥の中で壁を叩いた三回の、二回目。柏木の後ろで迷った一瞬。どこかにその〇・八秒があった。俺が置いてきた。

 

 喉から出かかったものが、何なのかわからなかった。悔しいという言葉は、この場合たぶん正しくない。もっと重くて、もっと形の悪いものだった。届かなかったのではない。届かせられなかったのだ。四号は最後まで走った。あそこで止まったのは四号のせいではない。

 

 俺は座席に沈み込んだまま、天井を見上げた。ゴールドームの天端に向かって、坑はまだ上を向いている。四号の鼻先は、この大会でいちばん高い場所を向いたまま止まっていた。地下五千八百メートル、深度にして百二十メートル下って、それでも、上を向いている。

 

 「早瀬」

 

 御堂が背中側から言った。声がかすれていた。

 

 「四号、まだ音がしてる」

 「どんな」

 「わからない。初めて聞く音」

 

 機械室から、金属が擦れる音がした。釜谷が這い出してきたらしい。軍手が二枚とも焦げて、そこから先を俺は見ないことにした。

 

 「早瀬。何位だ」

 「二位だ」

 「そうか」

 

 それだけ言って、釜谷は狭い床に仰向けになった。しばらくして、笑い声とも咳とも区別のつかない音を立てた。

 

 「先輩」

 無線の向こうで、芝が鼻をすすった。

 「銘板、二位でも入ります。今、確認しました。校名と、年度と、タイム」

 「そうか」

 「彫るのは三月だそうです。……間に合います」

 

 何に間に合うのかを、芝は言わなかった。俺も聞かなかった。

 

 割れたモニターの隅で、文字が明滅していた。表示系はほとんど死んでいて、生き残った一行だけが、電圧が足りないのか、点いては消え、点いては消えを繰り返している。

 

 2位 灰坂工業高等学校

 

 消える。点く。消える。点く。

 

 来年の三月に、この名前は学校名簿から消える。校舎は資材倉庫になる。制服は在庫処分になる。芝は相良第一の生徒になって、俺たちの記録表を鞄に入れて持っていく。何も変わらなかった。俺たちが十六位から二位まで駆け上がったところで、消えるものは消える。

 

 ただ、この坑には銘板が入る。

 

 金属の板に、校名と、年度と、タイムが彫られる。三位までの坑は拡張計画に採用される。ここはいずれ配管坑になるか、通路になるか、誰かの部屋の裏側になる。人が通る。人が住む。その入口に、消えた学校の名前が打たれて、都市が生きているかぎり残る。

 

 救えなかった。救うつもりも、たぶん最初からなかった。

 消えるものに、最後に一つだけ勝ちを持たせてやりたかった。それだけの話だった。そして俺たちは、その一つを、〇・八秒だけ取り損ねた。

 

 暗いコクピットの中で、白煙がゆっくり流れていた。息をするたびに油の味がする。手が震えているのは寒いからではない。

 

 明滅する『2位』の二文字を、俺は下から見上げた。

 

 「……まあ、表彰台には立てるんだな」




面白いか面白くないかはわからんがあまり見ないネタで書きたかった
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