熱力学とたくあん 作:カルボナーラに牛乳はいらない
榊が黒瀬亘の記録を最初から読み直したのは、八年で四度目だった。
記録は人間の一生ではなく、部品の履歴書に似ていた。事件から半年で両腕。十か月で下肢と骨盤。一年二か月で胸郭、心肺系、循環系。闇市の施術記録には術者の署名がなく、代わりに製造ロットと交換日だけが淡々と並んでいる。二年目に入ると記録の粒度が変わった。交換の間隔が短くなり、部位が細かくなり、そしてある時期を境に、生体組織を指す語がほとんど消えた。
三年目、脳。
生体脳の完全人工化は当時も違法だったが、闇市では珍しくもなかった。問題はその後だ。黒瀬は人工脳に移した記憶を、何度も圧縮した。捜査資料の言い方をすれば、記憶領域の最適化。実態としては切り捨てである。追跡を振り切るために必要な情報だけを残し、それ以外を消した。地形、逃走経路、身分証の偽造手順、接触してよい業者の識別子。残ったのはそういうものだった。
家族の顔も、生まれた土地も、四人を殺した夜のことも、順番に落とされていった。
榊は、資料のその部分をいつも同じ速度で読む。読むたびに同じ疑問が浮かぶからだ。どこかに、黒瀬亘がいなくなった日付があるはずだ。記録はそれを教えてくれない。記録が教えてくれるのは、いつ何が交換されたかだけで、いつ誰がいなくなったかではない。
法医部は年に一度、追跡対象の推定構成と、犯行現場に残された生体試料および遺留物との照合をかけていた。一致率は一年目で四割を切り、二年目で二割を割り、三年目の脳の一件のあとに、初めてゼロになった。四年目、ゼロ。五年目、ゼロ。以後、数字は一度も動いていない。動きようがなかった。ゼロより下はない。
八年目の照合結果には、こう書かれている。犯行時に採取された生体試料および現場遺留物と、現時点で追跡対象が使用していると推定される構成要素との間に、同一性を示す一致は認められない。一致率、ゼロ。
榊が持て余していたのは、その最新の一枚ではなかった。五年前から同じ数字だけが並んでいる、その列のほうだった。事件はまだ続いているのに、体のほうはとっくに終わっていた。
そのゼロが人の形を失ったのは、雨の夜だった。
高架の連絡路で追い詰めたところまでは、計画どおりだった。黒瀬は下に降りようとして手すりを越え、支柱の作業足場に飛び移ろうとして、金具を掴み損ねた。榊は落ちていく背中を見ていた。三十メートル下は資材搬入路で、無人の貨物軌道が定時運行していた。
回収されたものは、人の形をしていなかった。
現場に立った郡司警部補が、雨の中で言ったことを榊は覚えている。
「まだ死んでない」
死んでいた、と技術的には言えたはずだった。人工脳の中枢モジュールは三つに割れ、記憶領域の七割以上が物理的に失われていた。電源系も断裂していた。だが法的な意味での義体の死は、登録された基幹シリアルの完全喪失によって定義される。基幹シリアルは、砕けた胸郭の破片の一つに残っていた。
上は、犯人死亡での幕引きを許さなかった。八年である。八年かけて四人の被害者遺族に説明し続け、三度の捜査体制縮小を跳ね返し、二度の国会質疑を経て、最後が転落死では格好がつかない。逃げ切られたのだと、そう書かれることになる。
再建の指示が下りたのは、事故から十九時間後だった。
技術部の塩見は、榊にだけは正直に説明した。
「無理です、と言いました。三回」
「聞いてもらえなかったか」
「聞いてはもらえました。そのうえで、やれと」
「どのくらいかかる」
「まともにやるなら三か月です。適合部品を正規で調達すれば、それだけかかります」塩見は端末を叩いた。「二週間でと言われました。だから調達しません。押収品保管庫から出します。あそこには五百点近く寝ています。今日出せます」
構成表が表示された。再建に使われた部品は七十八点。うち押収品保管庫からの流用が三十一点、廃棄予定の官給品が二十点、残る二十七点は正規調達が間に合わず、非正規の代替品で埋めた。技術部は三交代で回した。十一日目に電源系が通った。
「人工脳は」
「欠損部に汎用の補正プロセッサを三基。記憶領域の空白は、規格を合わせるために標準の初期データで埋めました」
「標準の初期データというのは何だ」
「工場出荷時の状態です。言語、常識、時候の挨拶、丁寧語の使い方。数の数え方。あとは、まあ、性格の初期値のようなものが入っています」
「性格」
「厳密には反応傾向です。従順で、素直で、あまり怒らない。そういうふうに出荷されます。持ち主が困らないように」
榊はしばらく黙っていた。
「じゃあ、埋めた部分は、誰でもないわけか」
「誰でもない、というのは、たぶん正確です」塩見は少し考えてから続けた。「ただ、そこにあるものは必ず何かの顔をします。空白は、空白のままではいられません」
「わかりやすく言ってくれ」
「残ったものより、埋めたもののほうが多いです」
榊は構成表をしばらく見ていた。
「事故の前の時点で、犯行当時と一致する部品はゼロだった」
「はい」
「そのゼロだったものが、また壊れて、また別のもので埋められた」
「そうなります」
「じゃあ今、あそこに寝てるのは何だ」
塩見は答えなかった。答えるのが仕事ではなかったからだ。
十一日後、東部管区第二取調室で、それは目を覚ました。
榊はマジックミラー越しに見ていた。最初に動いたのは指だった。右手の指が一本ずつ、確かめるように動いた。次に首がゆっくりと回り、蛍光灯を見上げ、まぶしそうに目を細めた。そして泣きそうな顔で、部屋を見回した。
同席していた郡司が声をかけた。
「黒瀬亘だな」
反応がなかった。郡司がもう一度、強い声で名前を呼んだ。三度目でようやく、それは自分が呼ばれているのだと気づいたようだった。
「それは、私のことですか」
声は若かった。義体の音声出力は事故前の設定を引き継いでいるはずだったが、話し方が違えば、声はまるで別のものに聞こえる。
「私の名前は、黒瀬亘というんですね」
郡司は答えなかった。
それは自分の両手を見て、それから机の縁に触れて、また榊のいる鏡のほうを見た。誰かがそこにいると気づいたわけではない。ただ、光っているものを見ただけだ。
「すみません、あの、ここはどこですか。私は何かしたんでしょうか」
その日の記録には、被疑者は取り調べに対し混乱した様子を見せた、とだけ書かれた。
榊が最初にその部屋へ入ったのは、四日目だった。
四日のあいだに、榊はいくつかのことを知った。それは字が読めた。数を数えられた。標準的な語彙を持ち、丁寧語を使い、季節の名前を知っていた。だが自分の生まれた場所を知らず、親の顔を知らず、この街の名前を知らなかった。空白は、知識ではなく経歴の側にだけあった。
塩見の言ったとおりだ、と榊は思った。出荷時のものは全部そろっている。そこから先だけが、ない。
そして、榊が入っていくと立ち上がろうとした。手錠で止められて座り直し、すみません、と言った。
「立たなくていい」
「はい」
「体はどうだ。痛むところは」
それは少し考えてから答えた。
「痛くはないです。時々、腕が遠いです」
「遠い」
「うまく言えません。自分の腕なんですけど、少し離れたところにあるみたいで。すみません、変なことを言って」
榊はメモを取らなかった。取れなかった、というほうが近い。
三日目に郡司が、第二の現場の記録映像を見せていた。榊は同席していなかったが、記録は残っている。榊はそれを見た。
映像が始まって十秒ほどで、それは目を逸らし、それから見ていられなくなって顔を伏せた。肩が震えていた。郡司が顔を上げさせると、頬に涙が伝っていた。
義体は本来、涙を流さない。涙腺ユニットは対人交渉用の付属機能で、事故前の黒瀬の構成には入っていなかった。逃げるだけの体に、泣く機能はいらない。それの顔に収まっているのは、再建のときに、廃棄予定だった官給義体から外して移植されたものだった。前にどこの誰が使っていたのかは、構成表に書かれていない。
榊はあとで塩見に聞いた。あれは演技で出せるものかと。
「出せません。情動系の出力に連動します」塩見は言った。「ただ」
「ただ、何だ」
「その情動系も、事故のあとに入れたものです」
映像の中で、それは言った。
「この人は、助からなかったんですか」
郡司が答えた。
「お前が殺した」
「私が」
「そうだ」
長い沈黙があった。記録の時間表示で、四十二秒。
「覚えていません」
それは、嘘のつき方を知らない人間の言い方をした。榊は取調室でその種の声を、二十年で数えるほどしか聞いたことがない。
四日目、榊は向かいに座って、こう尋ねた。
「君は、自分が誰だと思う」
それは長く黙ってから、正直に答えた。
「わかりません。名前は教えてもらいました。でも、名前を教えてもらっただけです」
二人だけで会う許可を取ったのは、六日目の夜だった。
正式な取り調べではないので、記録装置は動いていない。手続き上、褒められたやり方ではなかった。榊はそれを承知で入った。
「弁護人のことは聞いてるか」
「はい。明日、来られるそうです」
「その前に、俺の考えを言っておきたい」
榊は、自分がこの八年で追ってきたものの話をした。部品の話をした。五年前から動かない数字の話をした。逃げるために記憶を捨て続けた男の話をした。そして事故の話と、再建の話をした。
「俺は、君を別人だと思ってる」
それは、榊の顔をじっと見ていた。
「弁護でそれを主張する。同一性の断絶だ。前例は少ないが、ゼロじゃない。争点にできる。裁判所がどう判断するかはわからん。だが、少なくとも情状の余地はある。死刑を回避できる可能性はある」
「私は、殺したんじゃないんですか」
「黒瀬亘が殺した。君じゃない」
「同じ体です」
「同じじゃない。一つも残ってない」榊は言った。「聞いてくれ。君のその話し方も、その素直さも、黒瀬のものじゃない。技術部が空白を埋めるのに使った初期データだ。工場出荷時の設定なんだ。あいつは八年逃げ回った男で、そんなふうにはしゃべらない」
それは、少しのあいだ考えていた。
「それは、私のものでもないんですね」
榊は答えられなかった。
それは、また自分の手を見た。四日目からその癖がついていた。自分の手を、他人のもののように見る癖だ。
榊には、確かめておきたいことがあった。
「一つ、聞かせてくれ。三件目の現場の話だ。公表されてない細部をいくつか言う。もし君の中に何か残っているなら、引っかかるはずだ」
榊は、階段の踊り場のことを話した。止まっていた時計のことを話した。傘立ての裏に落ちていた鍵のことを話した。四人目の被害者が最後に握っていたものの話をした。捜査本部の外に出したことのない情報だった。
それは、真剣に聞いていた。聞き終えて、しばらく黙って、それから首を横に振った。
「すみません。何も浮かびません」
榊は、自分でも意外なほど深く息を吐いた。
「それでいい。それが証明だ」
「証明ですか」
「君の中に、あいつはいない」
それは、そこで初めて榊の言葉を否定した。
「それは、違うと思います」
「何が違う」
「私が何も思い出せないことは、私の中に何もいないことの証明にはならないと思います」
榊は言葉に詰まった。
「私、ずっと考えていました」それは机を見ながら言った。「あの映像の人を、誰かが殺しました。その誰かは、たぶん、自分がそういうことをする人間だと思っていなかったんじゃないでしょうか。少なくとも、生まれた日には思っていなかったはずです」
「それは」
「それをやったものが、体の中で眠っていられるようなものなら、それはたぶん、この体の中にいます。私には見えません。私からは、何も見えないんです」
それは顔を上げた。
「あなたは、私の中にそれがいないと、証明できますか」
榊は答えられなかった。
八年追ってきた男について、榊は誰よりも詳しかった。部品の一つ一つ、交換の日付、切り捨てられた記憶の量まで知っていた。それでも、この問いに答える方法を持っていなかった。
「私を、外に出さないでください」
「そういう問題じゃない」
「私にとっては、そういう問題です」それは静かに言った。「もし出て、それでまた誰かが同じことになったら、そのときにはもう、止める人がいません」
「君は自分が怖いのか」
「はい」
「怖がる必要はない」
「怖がらなくていい理由を、誰も教えてくれません」
榊は、その夜のことをあとで何度も思い返すことになる。自分は救おうとしていた。それは間違いない。だが救おうとして、榊はその部屋で、三件目の現場の詳細を、公表されていない細部を、四十分かけて丁寧に話して聞かせたのだった。
空白は、空白のままではいられません。塩見はそう言っていた。
七日目から、郡司が取り調べの体制を変えた。
義体の被疑者に対する取り調べには、生身とは別の規定がある。眠らせないことはできない。義体は眠らないからだ。代わりに稼働がある。連続稼働の上限があり、上限を超えると熱と演算負荷で処理が落ちる。落ちた状態を、診断モードという。規定上、診断モードは休息として扱われる。休息として扱われるので、取り調べを中断する理由にはならない。
八日目、十四時間。九日目、十六時間。十日目からは、時間の記録が二つの調書に分けて記載されるようになった。
榊は外された。理由は、被疑者に対する態度に中立性を欠くというものだった。
郡司のやり方は、暴力ではなかった。郡司は一度も手を上げていない。郡司がやったのは、話して聞かせることだった。
再現映像を作らせた。四件、それぞれ十二分。技術部が現場資料から起こしたもので、犯人の姿は輪郭だけの人型で表現されている。郡司はそれを繰り返し再生した。再生しながら、二人称で説明した。
お前はここから入った。ここで待った。この人はここで振り返った。お前はこう掴んだ。お前はこう動いた。この人はここで、お前の名前を呼ぼうとした。
反論の材料が、それには一つもなかった。
普通の被疑者なら持っているものを、それは持っていなかった。その夜どこにいたかという記憶を持っていなかった。誰といたかも、何をしていたかも、そもそも自分がその時期に存在していたかどうかも知らなかった。突きつけられた物語と照らし合わせるための、自分の側の物語がなかった。
空白は、否定の材料にならない。空白は、何を入れても矛盾しない。
十三日目の調書に、最初の変化が現れる。わかりません、が、そうかもしれません、に変わっている。十六日目、そうかもしれません、が、たぶんそうです、になっている。十九日目、初めて、はい、と答えている。
二十二日目の調書には、それが自分から供述を始めたと記載されている。細部が加えられている。階段の踊り場のこと。止まっていた時計のこと。四人目の被害者が最後に握っていたもののこと。
榊がその調書を読んだのは、二十三日目の朝だった。
その日のうちに、榊は管区長室に立った。郡司も同席していた。
「傘立ての裏の鍵は、俺が話した」
榊は言った。
「六日目の夜、記録のない面会で、俺が三件目の現場の細部を全部話した。あいつの中に何も残っていないことを確かめるためだ。俺の落ち度だ。処分は受ける。だがあの供述は、秘密の暴露にはならない」
長い沈黙のあと、郡司が言った。
「それで」
「それで、とは」
「お前が言ったとして、それが何になる」郡司は疲れた顔をしていた。「鍵の一件は落とせばいい。落としても、供述は残る。あいつは四件全部、自分から話してる。泣きながら話してる。俺が言わせたと思ってるなら、調書を全部読め。俺が言ってない細部が入ってる」
「入るだろうな。二十二日もあれば」
「榊」郡司は初めて声を荒らげた。「じゃあ聞くが、記憶が入れ替わったから別人だと。寝て起きたら別人か。酔って覚えてなけりゃ別人か。器が続いてるなら、そいつが続いてるんだよ。俺たちが追ってたのは体だ。体はそこにある」
「体は一つも残ってない」
「連続してるだろうが。途切れてないんだよ。あいつは自分で選んで部品を替えたんだ。逃げるために替えたんだ。替えたやつが替えた結果に責任を負わないなら、この国に責任を負うやつは一人もいなくなる」
「中身は工場の初期値だ。技術部がそう言ってる。あの素直さも、あの泣き方も、あいつのものじゃない」
「初期値だろうが何だろうが、それを着てるのはあいつだ」郡司は言った。「服が新しけりゃ別人か」
榊は反論しようとした。だが、郡司の言っていることが完全に間違っていると証明する方法もまた、榊は持っていなかった。
内部の審査は十日で終わった。結論はこうだった。榊警部補の供述内容には信憑性が認められるため、三件目の現場に関する一部供述については、いわゆる秘密の暴露としての証拠価値を認めない。ただし、当該部分を除外しても、被疑者の自白の任意性および信用性を疑わせる事情は認められない。
一行で処理された。榊が差し出した真実は、書類の上で正しく受理され、正しく仕分けされ、そして結論を一ミリも動かさなかった。
公判前、被害者遺族との面会が設定された。望月という女性が来た。三人目の被害者の母親だった。榊は八年間、この人に説明を続けてきた。
面会室で、それは深く頭を下げた。頭を下げたまま、長いあいだ動かなかった。そして顔を上げて、泣きながら謝った。私がやりました。本当に申し訳ありませんでした。
望月は、しばらく黙って見ていた。
出てきたあと、望月は榊にこう言った。
「ずっと、憎む相手がいなかったんです」
榊は何も言えなかった。
「やっと、憎めました」
望月の目は乾いていた。八年ぶんの何かが、そこでようやく行き場を見つけたようにも見えたし、行き場を見つけそこねたようにも見えた。榊にはどちらとも判断がつかなかった。
判決は、榊が予想したとおりだった。
弁護人は同一性の断絶を主張した。裁判所はそれを検討し、退けた。判決文の該当箇所は三段落あり、要旨はこうだ。被告人の身体を構成する部品が犯行時と異なることは認められるが、被告人は自らの意思により継続的に交換を行ったものであり、その過程に断絶は認められない。事故後の再建についても、基幹シリアルの同一性が保たれている以上、法的人格の連続は失われない。加えて、被告人自身が公判廷において犯行を認め、詳細に供述している。
被告人自身が認めている。判決文の中で、その一文がいちばん重かった。
それは法廷でも、一度も否認しなかった。弁護人が同一性の主張をするたびに、それは困った顔をした。証言台で、こう言った。
私はやりました。覚えていないことは、やっていないことにはなりません。
傍聴席がざわめいた。翌日の記事は、その一言を見出しにした。悔悛の情を示したと書いた社もあった。都合よく人格が変わったふりをしていると書いた社もあった。どちらの記事も、それを黒瀬亘として書いていた。
刑の執行方法には、事務的な問題があった。生体を持たない被告人に対する死刑は、身体刑としては執行できない。手続きは義体登録の抹消と、基幹シリアルの機能停止処分によって代行される。書式は、老朽義体の廃棄処分と同じものが使われた。様式が一つしかないからだ。
榊は執行に立ち会った。立ち会う義務はなかった。
処置室は、取調室より明るかった。それは椅子に座り、技官が接続端子を確認するのを、いつものように自分の手を見ながら待っていた。榊が入っていくと、顔を上げて少し笑った。
「来てくださったんですね」
「ああ」
「あなたにだけは、言っておきたかったことがあります」
榊は黙っていた。
「あなただけが、最後まで、私を別の人だと言ってくれました。うれしかったです。本当です」
「俺は」
「でも、思い出したんです」それは穏やかに言った。「全部ではないです。でも、思い出しました。だから、これでいいんだと思います」
榊は、傘立ての裏の鍵の話をしようとした。六日目の夜のことを、四十分かけて自分が何を話したかを、この部屋で言おうとした。言ってどうなるかは、わかっていた。
それは、榊が何か言いかけたのを察して、先に言った。
「あなたは優しい人ですね。でも、もう大丈夫です」
技官が榊を見た。榊は下がった。
処置は四十秒で終わった。停止の瞬間に、特別なことは何も起きなかった。義体は前のめりにならず、姿勢を保ったまま、動くのをやめた。技官が基幹シリアルの照合を行い、抹消コードを入力し、確認欄に署名した。
榊も署名した。立会人の欄に、自分の名前を書いた。
三週間後、榊は自分の机に戻っていた。
管区は忙しかった。八年続いた事件が終わって、人が回せるようになったからだ。榊には新しい事件が三件割り当てられた。どれも、部品の履歴書のような資料はついていなかった。
榊は時々、あの問いに戻る。
あれは別人だったのか。記憶を失っただけの黒瀬亘が、最後に自分の罪を思い出したのか。それとも、もともと誰でもなかったものが、二十二日かけて黒瀬亘の形に固まっただけなのか。三つ目がいちばん質が悪い、と榊は思う。三つ目なら、殺した者はもうどこにもおらず、殺された者だけが四人残り、代わりに罰を受けたものは、罰を受けるために作られたことになる。
確かめる方法は、ない。確かめる方法がないことだけが、確かだった。
処置室で、それは思い出したと言った。あの声には嘘がなかった。榊は取調室で二十年、嘘のつき方を知らない人間の声を数えるほどしか聞いたことがなく、あれはその一つだった。だからこそ、榊にはわからない。本当に何かが戻ってきたのか、それとも、榊自身が六日目の夜に置いてきたものが、二十二日かけて根を張っただけなのか。
空白は、空白のままではいられません。
その日、榊は新しい事件の書類を作っていた。
被疑者の氏名を書く欄に、ペンを置いたまま、しばらく手が止まった。
欄は、一つしかなかった。