熱力学とたくあん 作:カルボナーラに牛乳はいらない
一
白南風海丘は、水深二千四百メートルにある。
梅雨明けの南風にちなんだ名前だそうだ。つけた奴の顔を一度見てみたい。そこに風は吹かない。太陽も届かない。あるのは三百度の熱水と、硫化水素の匂いを嗅ぎつけて集まる白い蟹と、黒い煙を吐き続ける石の煙突だけだ。
ブラックスモーカー。海底から生えた煙突が、真っ黒な熱水を噴き上げている。あの黒は硫化物で、要するに金だ。銅も亜鉛も、運が良ければ金銀も、あの煙の中から沈んで積もる。だから人間はこんなところまで降りてきて、機械を沈めて、たまに人ごと沈める。
沈んだ機械を拾って売るのが、俺たちの商売だ。
「〈不知火〉の話、聞いたか」
柄本がそう言ったのは、港の東側にある倉庫兼事務所の、油の匂いがする応接椅子でだった。応接椅子といっても、実際はどこかの船から剥がしてきた乗員席で、リクライニングのレバーが折れている。
「十一年前に沈んだやつだろ」深町は言った。俺だ。「もう骨だけだ。三年前に俺たちも一回行った。ケーブル二十メートル分と、腐った予備電池を持って帰った。あれで飯が二週間食えた」
「一枚だけ、まだ開いてない隔壁がある」
俺は缶を口から離した。
「デッドマンズか」
「デッドマンズだ」
柄本は、指で机を二回叩いた。この男がそれをやるときは、値段の話が始まる前触れだ。
「第四区画。作業主任の書斎だ。十一年、誰も開けてない。三組が挑んで、三組とも手ぶらで帰った」
「じゃあ四組目も手ぶらだろ」
「三組はみんな、ただの解錠屋だ」柄本は俺を見た。「元医療技師は一組もいなかった」
俺は缶を置いた。置き方が少し丁寧になったのを、自分でわかっていた。
隣で潮田が身を乗り出す。
「深町、行こうぜ」
「話を最後まで聞け」
「聞いてない方が判断が早い」
この男の判断はいつも早い。早いだけで、正しいと言った覚えはない。
柄本が続けた。
「〈不知火〉は二十六年前の建造だ。旧世代の生体連動隔壁制御系を積んでる。区画ごとに乗員の生体信号を監視して、信号が途絶えたら恒久封鎖する。あれは要するに」
「墓だ」
俺が言うと、柄本は頷いた。
「そう。深海で人が死んだら、区画ごと閉じる。遺体も汚染も出さない。二千メートル下から回収する金より、閉じてしまう方が安いって思想だ。十五年前に廃止された。誤作動で生きてる人間を閉じ込めるからな」
「で、その閉じた区画に何が入ってる」
「わからん」
柄本は正直だった。この男の一番信用できるところだ。
「わからん。だから誰も本気で行かない」
俺は少し笑った。笑うところではなかったが、業界の話というのはたいていそうだ。
この商売には、二種類の仕事がある。中身がわかっていて値段がつく仕事と、中身がわからなくて値段がつかない仕事だ。前者は取り合いになる。後者は誰も手を出さない。
「船体はもう金にならんぞ」
俺は言った。
「二千四百メートルから鉄を引き上げる燃料代を計算したことがあるか。スクラップの相場より高い。切って、括って、上げて、運ぶ。それで赤が出る。〈不知火〉はもう、そういう船だ」
「知ってる」
「積荷も抜かれてる。十一年で、三十組は入ってるはずだ。電装も、予備機材も、可搬式のものは全部消えた。船体サルベージとしては、あそこはとっくに終わってる」
「知ってる」柄本は繰り返した。「だから、行く理由はあの一枚しかない」
俺は黙った。
「書斎だからな」柄本が言った。「今の船に書斎なんかない。二十六年前の船だから、主任にだけ個室がついてた。個室ってのは、私物を置く場所だ。しかも死んだ本人が最後に閉じた個室だ」
「豪華だと言いたいのか」
「豪華かもしれん、というのが正確だ」
柄本は肩をすくめた。
「値打ちのあるものを置いてたかもしれんし、着替えと歯ブラシしか入ってないかもしれん。誰も知らん。だが、十一年開いてないってことは、十一年、誰も持ち出してないってことだ。ほかの区画は便座まで剥がされてる。あそこだけが、沈んだ日のままだ」
「未知数だな」
「未知数だ。だから誰も来ない」
俺は缶の残りを飲んだ。生ぬるかった。
わかっている。この手の仕事は、たいてい空振りだ。開けたら空だった、という話は業界に腐るほどある。三十組が食い散らかしたあとの船の、最後の一枚。期待値だけで言えば、行かない方が賢い。
「深町」
潮田が横から言った。この男は、俺が計算しているときにだけ、声を落とす。
「あれ、名前ついてるらしいぞ」
「なんの話だ」
「白南風の開かずの間。そう呼ばれてる」
俺は潮田の方を見た。
「呼んでるのは誰だ」
「潜ってる連中だ。三組が帰ってから、そう呼ばれてる」
潮田は、実に嬉しそうな顔をしていた。この男は、金の話をしているときにこういう顔をしたことがない。
「開けたって言えるのは、気分がいいだろ」
「気分で燃料は買えない」
「買えないな」
「買えない」
俺はそう言って、缶を潰した。
潰しながら、頭の隅で別のことを考えていた。
三組が帰った。そのうちの誰も、心臓の中身を読める人間ではなかった。
俺は六年前に免許を返している。返してから、自分の腕がまだ残っているのかどうかを確かめる機会は、一度もなかった。確かめる機会というのは、たいてい金にならない形でしかやってこない。
「取り分は」
「六対四。俺が四」
「五対五だ」
「五対五だ」柄本はあっさり譲った。「開けられたらな」
その譲り方が、この仕事の難度を全部説明していた。
二
〈不知火〉は、白南風海丘の南斜面に横倒しになっていた。
十一年、二千四百メートルの水圧の下にいると、船というのは形を保っていても、中身が抜ける。俺たちの潜水艇のライトが当たると、船体の穴という穴から白い甲殻類がぱらぱらとこぼれ落ちた。剥がされた外板の切り口は、どれも人間の仕事だった。工具で切って、持てるものだけ持っていった痕。三年前に俺たちがつけた傷も、どこかに混じっている。
「相変わらず、みっともねえな」
潮田が操艇席で言った。この男は四十を過ぎていて、俺より十年長くこの海にいる。手つきは丁寧なのに口だけが雑だ。逆の人間よりはずっとましだと思っている。
「船か、俺たちか」
「両方だ」
第四区画は、船の奥にある。
これが厄介だった。船首側の外板は先人たちが盛大に剥いでくれているから、入口には困らない。困るのはそこから先だ。〈不知火〉は横倒しになっているので、通路は全部横向きになっている。本来の床が壁になり、壁が床になり、梯子が水平に伸びている。そこを三層ぶん下って、四十メートル、折れ曲がりながら奥へ進んだ突き当たりが、第四区画だった。
潜水艇は入れない。入る隙間がない。
「ゴンズイ、出すぞ」
潮田がハッチの操作盤を叩いた。
子機だ。有線式の小型作業機で、直径六十センチ、アームが一本。潮田がゴンズイと呼んでいる。理由は聞いたが忘れた。この男の名づけには理屈がない。
子機が船体の裂け目に潜っていく。カメラの映像が、俺の膝の端末に流れてくる。
ひどい道だった。
配線が引き抜かれ、内壁が剥がされ、支持部材が持っていかれている。支持部材というのは、要するに船の骨だ。骨を抜かれた船が、それでも形を保っているのは、水圧が均等にかかっているのと、そういう習慣が残っているからにすぎない。
二層目の梯子室で、子機が止まった。
通路が半分潰れている。上から落ちてきた構造材が、通路を斜めに塞いでいる。
「これ、自然に落ちたのか」
潮田が言った。
「二組目だな」
俺は言った。柄本から聞いていた。三組のうちの二組目が、切断で押し切ろうとして、ここで天井を落とした。落として、機材を挟まれて、諦めて帰った。おかげで三組目は、この隙間を通るところから始めることになった。
俺たちは四組目だ。
子機が、斜めになった構造材の下を、腹をこすりながら通り抜けた。
四十メートルを進むのに、十八分かかった。
突き当たりに、それはあった。
周囲の壁は剥がされ、配線は引き抜かれ、床板もない。骨組みだけの通路の先に、その一枚だけが、ぴたりと閉じていた。厚さ十二センチの耐圧隔壁。表面に薄く生物の膜が張っているが、歪みも錆も浮いていない。旧世代の造船は、こういうところだけ律儀だ。
「なあ」
潮田が言った。
「切っちまえばいいんじゃねえのか」
俺は端末から顔を上げなかった。
「何で切る」
「切断機で」
「十二センチの耐圧鋼だ。この深さで切るなら、まともな架台がいる。架台を組むには、機材を持ち込まなきゃならん。機材を持ち込むには、今ゴンズイが腹をこすって通った四十メートルを、もう一回通さなきゃならん」
「通らねえな」
「通らない」
俺は続けた。
「六十センチの子機がぎりぎりだ。切断架台は入らん。仮に入っても、電力が足りない。有線で送れる出力じゃない。発電機を沈めるなら、船が一隻余分に要る」
「じゃあ爆破は」
「一番駄目だ」
俺は今度は顔を上げた。
「二つ理由がある。一つ目。この船は骨を抜かれてる。支持部材が全部持っていかれてるんだ。今、上に乗ってる四十メートルの通路は、なんとなく形を保ってるだけだ。ここで爆薬を使ったら、隔壁より先に、そこまでの道が落ちる」
「落ちたらどうなる」
「埋まる。そのあと誰も来られない。永久にだ」
潮田が、口の端を曲げた。
「二つ目は」
「中身だ」
俺は隔壁の映像を指した。
「厚さ十二センチを吹き飛ばす量の爆薬を、狭い区画の入口で使う。向こう側は三畳あるかどうかだ。中に何が入ってようが、無事じゃ済まない。ガラスなら割れる。紙なら千切れる。機械なら歪む」
「つまり」
「俺たちが取りに来たものを、俺たちが吹き飛ばすってことだ」
潮田は、それきり黙った。
これが、〈不知火〉の最後の一枚が十一年開いていない理由の全部だった。船体そのものは金にならない。中身は未知数だ。壊せば消える。切れば入らない。残っているのは、正面から鍵を開ける方法だけで、その鍵は死んだ男の心臓についている。
誰も来ないわけだ。
隔壁の脇に、認証パネルがあった。
子機のアームが伸びて、保護カバーを剥がした。中から出てきたのは、驚くほど原始的な端子だった。二十六年前の規格。今どき博物館にもない。
俺は持ってきた変換ケーブルの束から、正しい一本を選んだ。子機が咥えて、差し込む。潜水艇の中で膝の上に端末を置いて、屈み込む。この姿勢で四時間やると、翌日は首が回らなくなる。
「仕組みを説明しろよ」潮田が言った。「暇なんだ」
「操艇中だろ」
「浮いてるだけだ」
俺はため息をついた。この男は説明を聞くのが好きだ。理解するのが好きなわけではない。
「デッドマンズスイッチってのは、本来は逆の装置だ。持ってる人間の手が離れたら作動する。電車の運転士が握るやつと同じ理屈だ。生きてる間は何も起きない。死んだら動く」
「じゃあこいつは、死んだから閉じたのか」
「そうだ。第四区画にいた作業主任が死んで、生体信号が途絶えて、隔壁が下りた。それきりだ」
「開けるには」
「登録された本人の心拍がいる」
潮田は少し黙った。
「死んでるじゃねえか」
「だから三組が帰った」
俺は端末に、あらかじめ用意しておいたデータを呼び出した。
黒岩栄一。事故当時、四十六歳。〈不知火〉作業主任。潜航歴十四年。死因は、熱水噴出孔近傍での作業中の外殻損傷による急速浸水。
柄本から買った身元情報と、俺が自分の伝手で引いてきた医療記録。
医療技師の免許は、六年前に返した。返したというのは言い方で、剥がされたというのが正しい。剥がされても、データベースの構造は頭に残る。誰がどこに何を置くかは変わらない。人間の作る棚は、免許では変わらない。
「健康診断の心電図が、十四年分残ってた」
「じゃあ余裕だな」
「型落ちだしな」
俺は言って、合成した波形を送り込んだ。
黒岩栄一の平常時心拍。健診で椅子に座って、上を脱いで、電極を貼られて測ったやつだ。心拍数五十八。整った洞調律。四十六歳の男としては、むしろ健康な部類の心臓だった。
パネルの緑のランプが、二回点滅して、消えた。
隔壁は、動かなかった。
三
「もう一回」
「三回やった」
「四回目だ」
「四回目も同じだ」
俺は五回目をやった。数値をわずかにずらした。呼吸性の変動を足した。ノイズを乗せた。減らした。
全部弾かれた。
「照合が単純な波形一致じゃない」
俺は端末のログを睨みながら言った。返ってくるエラーコードは毎回同じで、内容はほとんど何も言っていない。ただ、拒否された、とだけ言っている。
「旧世代のこの手のやつは、登録セッション照合を使う。登録したその瞬間に測った心拍を丸ごと保存して、それと突き合わせる。心拍数だけじゃない。拍と拍の間隔のゆらぎまで見る」
「ゆらぎ」
「心臓は、機械みたいに正確には打たない。〇・八秒、〇・八二秒、〇・七九秒。ずれる。そのずれ方に、自律神経の状態が出る」
俺はグラフを潮田に見せた。見せても意味がないのはわかっていたが、口に出して整理すると自分の頭が動く。
「緊張してるとゆらぎが減る。落ち着いてると増える。酒を飲んでるときと抜けてるときでも全然違う。同じ人間でも、状態が違えば別人の心臓みたいになる」
「じゃあ、こいつは」
「登録したときの状態を再現しないと開かない」
俺は端末を膝から下ろした。首が痛かった。
「黒岩栄一が、何をしてる最中にこいつを登録したのか。それがわからないと、永久に開かない」
潮田はしばらく黙って、それから、操艇席のスイッチをひとつ切った。ライトの一つが落ちて、隔壁の表面から影が消えた。
「浮上するぞ」
「まだ二時間ある」
「二時間やっても弾かれるんだろ」
その通りだった。俺は何も言わずに、子機にケーブルを抜かせた。
ゴンズイが四十メートルを引き返してくるのに、また十八分かかった。行きと同じ道を、同じように腹をこすりながら戻ってくる。潰れた梯子室を抜けるとき、カメラが揺れて、剥き出しの梁が画面を横切った。
誰も来ない場所というのは、こうやって誰も来ない場所になっていく。
浮上の間、俺はずっと同じことを考えていた。
あの心臓は、どういう状態で止まったんじゃない。どういう状態で、鍵をかけたのか。
黒岩栄一は、そこに何を閉じ込めた。
四
陸に上がって最初に会ったのは、元妻だった。
港の反対側まで、潮田の車で行った。
この車のことは、あとで説明する。今は、冷房が効かないということだけ言っておく。九月の陸だ。俺は窓を全開にして、耳のすぐ横で四気筒が唸るのを三十分聞かされた。
「なあ深町」
「暑い」
「窓開けてるだろ」
「開けても暑い」
「風情ってもんがあるだろ」
この男は、車の話になると急に語彙が変わる。
里村冴子。離婚は十六年前。旧姓に戻っている。今は港の反対側の集合住宅に一人で住んでいて、玄関先で十分だけ、という条件で会ってくれた。
俺は「〈不知火〉の遺留品調査」と名乗った。半分は嘘で、半分は本当だ。
「あの人のこと?」
彼女は、まず笑った。それが笑いだと気づくのに一拍かかる種類の笑いだった。
「何も残ってませんよ。借金以外は」
「借金は」
「わたしが払いました。八年かかって」
俺は口を閉じた。潮田が横で、頭を下げるでもなく、ただ黙って立っていた。この男は、こういうときだけ余計なことを言わない。
「酒でしたね、全部」
彼女は続けた。恨みというより、もう何度も口に出して形が決まってしまった話をする、という調子だった。
「給料日に消える。三日して帰ってくる。金はない。潜って稼いで、また消える。子どもの参観日も、入学式も、来ないんです。来ないって最初から言えばいいのに、行くって言うんですよ。それで来ない」
「その、息子さんは」
「湊。今、三十です。会ってません、わたしも、二年に一回くらい」
彼女はそこで初めて、少しだけ迷う顔をした。
「あの子に、あの人の話はしない方がいいですよ」
結局、俺たちは息子に会いに行った。
黒岩湊は、港湾倉庫の事務所でフォークリフトの伝票を切っていた。三十歳。背が高くて、肩幅があって、顔立ちは母親に似ていた。
名乗って、〈不知火〉の話をした瞬間に、この男の表情が抜けた。怒ったのではない。抜けたのだ。
「あの人の話ですか」
「はい」
「何もないですよ」
湊は伝票を揃えた。手が止まらないままだった。
「金があれば酒、なければ借りて酒です。誕生日に来た試しがない。中学のとき、一回だけ来たことがあって、それは酔ってました。校門の前で。先生に連れて帰られました」
「……そうですか」
「二十歳の誕生日ですか」
俺が何も聞いていないのに、湊はそう言った。誰かに一度は聞かれた質問なのかもしれない。
「あの人が死んだの、その少し前でした。連絡が来て、そのときも、正直なところ何も感じませんでした。悲しくもなかった。ざまあみろとも思わなかった。ただ、ああ、って」
彼は伝票の束を揃え終えて、初めて顔を上げた。
「関係ない人が死んだときの感じでした」
俺は礼を言って、事務所を出た。
外に出てから、潮田が煙草を出して、火をつけずに口に咥えた。この男は禁煙して四年になるが、いまだにこれをやる。
「深町」
「なんだ」
「これ、開けない方がいい種類の扉かもしれねえな」
「金が入ってる可能性はまだある」
「そうだな」
潮田は、火のついていない煙草をポケットに戻した。
五
三人目に会ったのは、郷田という男だった。
黒岩栄一と六年組んだ元同僚で、今は港湾のクレーン運転士をしている。昼休みに、缶コーヒーを二本奢ることで話を聞かせてもらった。
待ち合わせた岸壁に着いて、俺たちが車を降りると、郷田は俺たちより先に車を見た。
クレーン運転士というのは、そういう目をしている。一日中、高いところから物の形を見ている人種だ。
「いい車乗ってるな。高いだろ」
「ただのサルベージ品だ」
潮田はそう言った。実に嬉しそうな顔で。
「サルベージ?」
「八年前に、南の浅場でひっくり返った自動車運搬船から出したやつだ。積荷だよ。三か月海に浸かってた」
郷田が眉を上げた。
「三か月? なら中身は全部死んでるだろ」
「死んでた」
「よく動くな」
「動かした」
この会話が、俺には毎回わからない。動かした、で説明が終わったと思っている顔をしている。
「潮田さん」俺は補足した。「配線を全部引き直してます。三十年前の車で、部品がないので、ないものは作ってます。八年かかってます」
「八年」
「八年です。かかった金は、たぶんこの車の値段の四倍です」
「深町」
「事実だろ」
「事実だが、言い方がある」
郷田は缶コーヒーを受け取りながら、しばらく車を見ていた。それから、少し笑った。
「なるほどね。あんたら、そういう連中か」
俺は訂正しようとした。俺は違う、と言おうとした。言わなかったのは、言ったところで、車に乗せてもらっている以上は説得力がないと気づいたからだ。
この車のことを説明すると、俺は毎回長くなる。
採算に合わないのだ。何ひとつ合わない。三十年前の四気筒で、燃費は現行の三倍悪く、部品は出ず、車検のたびに整備工場と喧嘩になる。売っても金にならない。同じ金があれば、まともに走る車が二台買える。
一度だけ、俺は聞いたことがある。合わないだろ、と。
潮田は、こう答えた。
「合わねえよ」
それだけだった。困った顔も、恥じた顔もしなかった。
俺の商売は、合うか合わないかで全部を決める。合わないものは拾わない。拾ったものは売る。そうやって六年やってきたし、たぶんこれからもそうする。
この男は違う。この男は、合わないと知っていて、八年配線を引き直している。
俺はそれを、ずっと理解できないままでいる。理解できないまま、助手席には乗っている。
「クロさん?」
郷田は最初、心底うんざりした顔をした。
「ひどいもんでしたよ。給料日の翌日は必ず休む。理由は毎回違う。腹を壊した、水道が壊れた、親戚が死んだ。あの人の親戚、六年で九人死んでます」
「よく続きましたね、それで」
「腕が良かったんです。それだけ。熱水域の作業ができる人間って、そう多くないんですよ。三百度の噴出孔の脇でマニピュレータ動かすんです。手が震える人間はできない」
「震えなかったんですか」
「震えなかった」
郷田は缶を傾けて、少し考えるような顔をした。
「不思議なんですけどね。飲むと手が震えるでしょう、普通。あの人、潜航中に震えたことが一度もない」
「酒が抜けてたってことですか」
「そう」郷田は頷いた。「潜る前だけは、絶対に飲まなかった」
俺は缶を持ったまま、動きを止めた。
「絶対に、というのは」
「文字通りです。潜航前二十四時間は飲まない。あの人、それだけは一回も破ってない。六年見てて、一回もです」
「なぜ」
「知りませんよ。聞いたこともない」
郷田は、少し可笑しそうにした。
「聞いても言わない人でしたしね。だらしないことは全部やるくせに、それだけは守るんです。周りは、まあ、命がかかってるからだろうって思ってましたけど。あの人、自分の命なんかどうでもいいって顔してたのにね」
彼は缶を潰して、立ち上がった。昼休みが終わる時間だった。
「あとね、これは変な話なんですけど」
「なんですか」
「潜る前の日、機嫌がいいんですよ」
俺は顔を上げた。
「酒が抜けてるんだから、普通は逆でしょう。イライラして、当たり散らして。実際、最初の頃はそうでした。でもね、途中から変わったんです。飲まない日が、いちばん機嫌が良かった」
「途中から、というのは」
「さあ。最後の何年かですかね」
郷田は行ってしまった。
残された俺は、缶コーヒーを二本ぶんの情報を、頭の中で並べ直していた。
「潮田」
「聞いてた」
「証言が全部、古い」
俺は言った。
「元妻が別れたのは十六年前だ。息子が最後にまともに会ったのは、それより前だ。二人が知ってる黒岩栄一は、死ぬ十四年前までの黒岩栄一だ」
潮田は、火のついていない煙草をまた咥えた。
「後半を知ってる奴が、いない」
六
医療記録を掘り直すのに、三日かかった。
解散した会社の産業医データは、統合先の法人の倉庫サーバーに雑に放り込まれていた。こういうものは、消されるより忘れられる方が多い。俺は自分がまだ免許を持っていた頃と同じ手つきで、同じ棚を開けた。
出てきたものは、いくつかあった。
一つ。黒岩栄一は、死ぬ四年前から、自助グループの出席記録がある。月に四回。ほぼ皆勤。四年間で、休んだのは十一回だけで、そのうち九回は潜航中だった。
二つ。肝機能の数値が、その四年で下がり続けている。γ-GTPが、初年度の三百六十から、最終年度には六十八まで落ちていた。四十代の男としては、もう普通の数字だ。
三つ。給与明細に対して、貯金が合わない。
「合わないって、どっちに」
潮田が聞いた。母船の狭い食堂で、俺は端末を二台並べていた。
「多い方だ」
「借金してたんじゃないのか」
「十四年前に完済してる。元妻が八年払ったって言ってたのは、離婚時に押しつけられた分だ。本人の分は、離婚から二年後に自分で終わらせてる」
俺は数字を指した。
「そこから先、毎月、額は小さいが積んでる。四年で、三か月分の給料に近い額になってる。使途は不明。死んだ時点で、口座は空だ」
「空?」
「死ぬ半年前に、全額引き出されてる。一回で」
潮田は、しばらく黙っていた。それから、俺の顔ではなく、端末の画面の方を見て言った。
「深町。なんか印象と違わないか」
「違う」
俺は認めた。認めたくなかったが、数字は数字だ。俺の商売はそこにしかない。
「四年、断酒してる。まともに働いて、金を積んで、半年前に全部下ろしてる」
「何に使った」
「わからん」
俺は端末を閉じた。
「だが、少なくとも一つはわかった。俺は最初の偽装で、間違ったものを合成した」
「どういうことだ」
「俺が使ったのは、十四年分の健診の平均値だ」
俺は自分のこめかみを指で押した。頭痛の位置がいつも同じところにある。
「平均ってのは、酔ってる時期と、飲んでない時期を混ぜた数字だ。黒岩栄一のどの瞬間でもない心臓を作って、それを送り込んでた。開くわけがない」
俺は二度目の潜航で、断酒期間中の健診データだけを使って波形を作り直した。
最終年度の心電図。肝臓の数字が一番きれいだった年。しらふで、落ち着いて、椅子に座っていた男の心臓。
弾かれた。
三回やった。三回とも同じだった。
「開かねえな」
「開かねえ」
俺は隔壁を見ていた。厚さ十二センチ。表面に、白い生物の膜。二千四百メートル分の水が上に乗っている。
「酔ってもいない。素面でもない」
俺は言った。
「じゃあ、あいつは何をしてる最中に鍵をかけた」
七
里村冴子は、二度目に訪ねたとき、少し驚いた顔をした。
「まだ調べてるんですか」
「はい」
「何が出てくるっていうんです、あの人から」
俺は答えられなかった。潮田が横から言った。
「わからんから調べてるんです」
彼女は、そういうものかしら、という顔をして、それから、ふと思い出したように言った。
「箱、あります」
「箱?」
「あの人の遺品です。会社から送られてきて。捨てようと思って、捨てるのも面倒で、そのまま押し入れに」
段ボール一箱だった。十一年、開けられていない箱。デッドマンズスイッチのかかっていない方の遺品。
中身は、ほとんど紙だった。
作業手帳が六冊。領収書の束。整理されていない写真が数枚。潜航前の点検表の控え。読み終わった文庫本が二冊。それと、封筒が一つ。
俺は手帳から手をつけた。
一冊目、二冊目は仕事の記録しかない。水温、機材番号、交換部品の型番。三冊目の途中から、書き込みの調子が変わる。
欄外に、数字が書いてある。
最初は意味がわからなかった。
〈あと九百八十四〉
次のページ。
〈あと九百八十三〉
毎日、一つずつ減っていく。潜航中も書いている。書き忘れた日は、翌日にまとめて二日分書いてある。
最後の手帳の、途中で終わっているページには、こう書いてあった。
〈あと五十一〉
俺は、その数字を三回読んだ。
「潮田」
「なんだ」
「黒岩栄一の死亡日と、息子の誕生日の差を出してくれ」
潮田が端末を叩いた。時間がかかった。この男は指が太い。
「……五十一日だ」
俺はカレンダーの綴じ込みを開いた。
五年分の、同じ日付に丸がついている。年ごとにペンの色が違う。最後の年の丸だけ、二重になっていた。
その隣に、はっきりした字でこう書いてある。
〈湊 二十歳〉
領収書の束を、俺は最後まで確かめた。
一枚だけ、金額が桁違いのものが挟まっていた。
酒屋の領収書。死ぬ半年前の日付。口座から全額が消えた日と、同じ日だった。
品名は、六本ぶん書いてあった。上から五本は、俺でも名前を知っている程度には値の張る酒だ。
一番下の一行だけ、蒸留年が書き添えてあった。
三十年前。黒岩湊が生まれた年だった。
封筒には、便箋が四枚入っていた。
四枚とも、書きかけだった。
一枚目は三行で止まっている。二枚目は一行。三枚目は、書いてから全部消してある。鉛筆で、何度も塗り潰してあって、下の紙が薄くなるほど消されている。
四枚目には、二行だけ残っていた。
〈二十歳になったら〉
〈一緒に〉
そこで終わっていた。
俺は便箋を封筒に戻した。戻す手が、思ったより丁寧になっているのに気づいて、少し腹が立った。
里村冴子は、玄関の框に座って、それを見ていた。
「その人、そんなこと書いてたんですか」
「書いてました」
「……書くだけなら、誰でもできますね」
彼女はそう言った。俺は否定しなかった。実際、その通りだ。書くだけなら誰でもできる。四年断酒するのは、書くだけの人間にはできないが、それを彼女に言う権利は俺にはなかった。彼女は八年払ったのだ。
箱を借りて、俺たちは帰った。
帰り道、潮田が言った。
「五十一日か」
「五十一日だ」
「あと五十一日で、二十歳だった」
俺は何も言わなかった。
八
潜航ログを手に入れるのに、柄本に一割余計に渡した。
解散した会社の運航記録は、十四年分あった。潜航のたびに、乗員の生体モニタが動いている。心拍、呼吸、体温。深海作業では義務づけられている。一日八時間、毎秒サンプリング。全部当たったら、俺の人生が先に終わる。
だが、日付があった。
俺はカレンダーの丸を拾って、五年分の日付を抜き出した。黒岩湊の誕生日。断酒を始めた年から、死ぬ年まで。
そのうち四つの日に、黒岩栄一は潜っていた。
一つ目を開いたとき、俺は椅子から少し身を起こした。
二つ目で、俺は端末を潮田の方へ回した。
「見ろ」
「見てもわからん」
「わからなくていい。並んでるってことだけわかれば」
四つの波形は、恐ろしいほど似ていた。
心拍数は七十前後。平常時より十上がっている。だが上がり方が違う。恐怖でも、緊張でもない。
「深町。説明してくれ」
潮田が言った。今度は暇つぶしの声ではなかった。
俺は自分の指で、画面の上をなぞった。
「人が怖がってるときの心臓は、ゆらぎが死ぬ。間隔が一定になる。体が全部そっちに寄るからだ」
「うん」
「酒が切れかけてる人間の心臓も、似た形になる。渇いてる。求めてる。似てるが、もっと汚い。乱れる」
「じゃあこれは」
「これは、上がってるのに、ゆらぎが残ってる」
俺は自分の声が、少し変わっているのに気づいた。
「上がってるが、乱れてない。交感神経が働いてるのに、体は緊張してない。医学的にこの形が出るのは、限られてる。楽しみにしてるときだ」
潮田は、画面を見た。それから、俺を見た。
「四回とも、息子の誕生日か」
「四回ともだ」
俺は四つのグラフを重ねた。ぴたりとは重ならない。人間の心臓だから、当たり前だ。だが、形は同じだった。同じ形のものが、四年、同じ日に出ている。
俺はもう一つ、確かめるべきものを開いた。
隔壁の登録ログ。第四区画。生体連動制御系の基準セッションが登録された日時。
最後の年の、その日だった。
時刻は、潜航開始から二時間十四分後。
その日の心拍データと、隔壁の登録セッションを突き合わせる。当然、一致する。同じ瞬間なのだから。
俺はしばらく、椅子の背にもたれていた。
「わかったか」
潮田が聞いた。
「わかった」
俺は言った。
「この鍵は、酔っ払いの心臓じゃ開かない」
「うん」
「飲みたくてたまらない人間の心臓でも開かない」
「うん」
「息子と飲むのを楽しみにしてる人間の心臓じゃないと、開かない」
潮田は、何も言わなかった。
俺は続けた。続けなくてもよかったのに、口が止まらなかった。
「あいつは、自分を締め出したんだ」
家に置いておけば飲む。それは自分が一番知っている。四年断酒したところで、自分は信用できない。だから、船に持ち込んで、二千四百メートルの下に置いて、鍵を自分の心臓にかけた。
しかも、ただの心臓ではない。
しらふで、落ち着いていて、息子の二十歳を待っている自分の心臓。
飲みたくなった夜の自分には、その鍵は作れない。
「よく考えたな」
潮田が、ぼそりと言った。
「よく考えた」俺は認めた。「俺が今まで見た金庫の中で、一番よくできてる」
九
三度目の潜航は、天候待ちで四日遅れた。
俺は四つの波形を合成した。平均を取るだけでは駄目だ。個々のゆらぎまで含めて、四つのセッションを重ね合わせ、共通する構造を抽出する。ここは俺の商売の芯の部分で、説明しても仕方がない。要するに、俺は他人の心臓を組み立てている。
「一つ聞いていいか」
潜航中、潮田が言った。
「なんだ」
「お前、なんで免許取られたんだ」
俺はケーブルを繋ぐ手を止めなかった。
「患者の心電図を書き換えた」
「なんで」
「保険が下りる形にしろって言われた。断ればよかったんだが、断らなかった」
「金か」
「金だ」
潮田は、それきり聞かなかった。
俺はときどき思う。あのとき俺が書き換えたのは、他人の心臓の記録だ。今やっているのも、他人の心臓の記録だ。やっていることは何ひとつ変わっていない。変わったのは値段と、行き先だけだ。
三度目の四十メートル。三度目の梯子室。三度目の端子。
ゴンズイが潰れた通路を腹でこすって抜けるとき、俺は毎回、この子機が挟まったら終わりだと思う。挟まったら、切り離して帰るしかない。切り離した瞬間、この扉は誰にも開けられなくなる。四十メートル先で行き止まりになった通路に、それを回収しに来る酔狂は、たぶん俺たちが最後だ。
抜けた。
「行くぞ」
「行け」
俺は送り込んだ。
黒岩栄一の心臓が、十一年ぶりに動いた。
毎分七十二。ゆらぎを残したまま、少しだけ速い。しらふの、四十六歳の男の、あと五十一日で息子が二十歳になる日の心臓。
パネルの緑のランプが、二回点滅した。
三回目が、点いたまま消えなかった。
隔壁の中で、何かが外れる音がした。子機のマイクが拾って、四十メートルと三層ぶんの水を越えて、俺の耳まで届いた。十二センチの鋼が、十一年ぶりに海の方へ動いた。
「開いた」
潮田の声が裏返っていた。
俺は、なぜか、すぐには顔を上げられなかった。
十
第四区画は、思ったより狭かった。
書斎、と船の図面には書いてある。三畳あるかどうかだ。二十六年前の設計者が、深海に潜る主任のために用意した、たった三畳の私物置き場。今の船には、こんなものはついていない。
横倒しになっているから、机が壁から生えていた。造りつけの書棚も、横を向いたまま残っている。棚板の間に、灰色の綿のようなものが詰まっていた。本だ。十一年、二千四百メートルの水の中にいた紙が、そういう形になる。
中は、水で満たされていた。当たり前だ。隔壁は水を止めるためのものじゃない。空気は十一年前に抜けている。
棚の一番下に、耐圧ケースが一つあった。
樹脂製の、業務用の輸送ケース。留め具が四つ。それだけ、周りのものより新しかった。
子機のアームが、それを掴んだ。
帰りの四十メートルが、いちばん長かった。
ゴンズイのアームは一本しかない。ケースを抱えたら、体を支える手がなくなる。潰れた梯子室の斜めの構造材を、片手の塞がった子機が、腹だけで越えていく。俺は端末の画面を見ながら、たぶん十八分間まばたきをしなかった。
もし今、ここで挟まったら。
もし今、ここで落としたら。
四十メートル先の暗がりに、それを取りに行ける人間は、この世に一人もいない。
外板の裂け目から、子機の白い体が出てきたとき、潮田が操艇席で短く息を吐いた。俺も吐いた。
俺たちはそれを抱えて、浮上した。
母船の甲板で開けたとき、潮田は膝をついていて、俺は立っていた。どちらも黙っていた。
中は、乾いていた。
緩衝材の中に、ボトルが六本。
五本は、俺でも知っている名前だった。祝いの席で開けるような、まともに買えば一本で潜航燃料が数日分になる種類の酒だ。
六本目は、ラベルの意匠が違った。古い。三十年前の蒸留年が入っている。
そのラベルの上に、紙が一枚、粘着テープで貼ってあった。
テープは黄ばんで、端が浮いていた。だが剥がれてはいなかった。
黒いペンで、四文字。
〈湊 二十歳〉
その下に、グラスが二つ入っていた。
安物だった。どこの家にもあるやつだ。緩衝材にくるまれて、二つだけ。
潮田が、そのグラスを長いこと見ていた。
「深町」
「なんだ」
「二つだな」
「二つだ」
俺は、六本のうち五本を数え直した。数え直す必要はなかった。最初から、五本の値段しか計算していなかった。
潮田が、六本目に手を伸ばした。
「これは売るもんじゃねえ」
「売らないとは言ってない」
「深町」
「五本でも足は出ない」
俺は言った。言ってから、自分がずいぶん前からその計算をしていたことに気づいた。潮田はたぶん、それに気づいていた。この男は理屈がわからない代わりに、そういうところだけ勘が働く。
「柄本の取り分が五割だ。五本でも、俺たちの手元には三か月分残る」
「そうか」
「そうだ」
潮田は六本目を持ち上げて、グラス二つを緩衝材ごと抱えた。
「じゃあ、俺が持っていく」
「どこへ」
「墓だろ」
俺は何も言わなかった。
止めるつもりも、最初からなかった。この男が、合わない方を選ぶのを見るのは、これが初めてではない。八年、配線を引き直してきた男だ。今さら一本くらいで驚く方が失礼だろう。
潮田は俺の返事を待たなかった。
十一
潮田は、三日空けて帰ってきた。
港の事務所で、俺は五本の値をつけ終わって、柄本と最後の交渉をしているところだった。柄本は最初、六本と聞いていた話が五本になったことに文句を言い、俺は一本は割れたと言い、柄本は割れた酒の破片を見せろと言い、俺は海に捨てたと言った。柄本は、それ以上聞かなかった。この男の一番信用できるところだ。
潮田は、手ぶらで戻ってきた。
「渡してきた」
「どこで」
「墓の前だ」
俺は書類から顔を上げた。
「本人がいたのか」
「立ってた。ちょうど」
潮田は椅子に座って、火のついていない煙草を咥えた。
「命日だったんだと。十一年目の」
俺は少し黙った。
「偶然か」
「毎年来てるらしい」
潮田は言った。
「毎年来てるけど、線香もあげないし、手も合わせないんだと。ただ立って、五分くらいして、帰る。それを十一年やってる」
「……なんでだ」
「聞いてない」
潮田は煙草を口から離した。
「箱を渡した。中を見せた。ラベルの紙も見せた。あいつ、しばらく何も言わなかった」
「それで」
「それで、こう言った」
潮田は、少し声の調子を変えた。真似をしたわけではなく、思い出しているだけの声だった。
「『あの人、酒くさかったんですよ、いつも』」
俺は、書類の端を指で押さえた。
「それだけか」
「それだけだ」
「泣いたか」
「泣かねえよ」
潮田は、なんでもないことのように言った。
「三十だぞ。十一年経ってる。今さら泣かせるほど、俺たちは偉くねえ」
俺は頷いた。
「ボトルは」
「置いてきた。グラスも二つ。俺は帰った」
「開けたか、あいつ」
「知らん」
潮田は椅子の背にもたれた。
「あそこから先は、俺たちの仕事じゃねえ」
十二
五本は、三週間で全部売れた。
柄本の取り分を引いて、俺たちの手元には、宣言どおり三か月分が残った。潮田は真っ先にソナー用の部品の請求書を払い、それから母船の係留費の未払いを片づけた。俺は変換ケーブルの束を新しくした。二十六年前の規格のやつも、念のためもう一本買った。
潮田は、残りで車の後ろの足回りを直した。
部品は出ないから、作らせたそうだ。いくらかかったかは聞いていない。聞かなくてもわかる。三か月分のうち、まともな人間なら生活に回す部分を、この男は三十年前の四気筒に沈めた。
俺は何も言わなかった。言う立場ではなかった。俺は俺で、使う予定のない二十六年前の規格の変換ケーブルを買っている。
残った金は、思ったほど残らなかった。金というのはいつもそうだ。
噂の方は、金より早く回った。
白南風の開かずの間が開いた、という話は、俺たちが港に戻った翌週には港中を一周していた。柄本のところに、話を聞かせろという連中が三人来た。柄本は三人とも追い返して、俺には「三人来た」とだけ報告した。この男は、そういうところが商売人だ。
二週目に、二組目の連中から連絡が来た。あの梯子室を落とした奴らだ。どうやって通したのか、と聞かれた。
「腹でこすった」と答えた。
嘘ではない。相手は納得しなかった。
三週目には、鍵の開け方の方を聞かれるようになった。そっちは答えなかった。答えたところで、次に同じ型の扉に当たる確率など知れているし、当たったところで、その扉の向こうにいる人間の一生を四週間かけて調べる気のある奴は、たぶんそう多くない。
「有名になったな」
潮田がそう言ったのは、事務所の椅子でだ。
「なってない」
「開けた奴、で通ってるぞ」
「五本の酒瓶を引き上げただけだ」
「開かずの間から引き上げただろ」
俺は書類から顔を上げなかった。上げなかったのは、上げたら顔に出るからだ。
六年前に免許を返してから、俺は自分の腕がまだ残っているのかを、一度も確かめていなかった。確かめる機会は、たいてい金にならない形でしかやってこない。今回もそうだった。三か月分にしかならなかった。
それでも、三組が帰った扉が、俺の作った心臓で開いた。
そのことについて、俺は誰にも何も言わなかった。潮田にも言わなかった。潮田はたぶん、それに気づいていた。この男は理屈がわからない代わりに、そういうところだけ勘が働く。
あるとき、潮田が言った。
「なあ深町」
「なんだ」
「今度は誰の心臓を借りるんだ」
俺は端末から顔を上げた。
「金を払う奴のだ」
「相変わらずだな」
「相変わらずだ」
俺の商売は、死んだ人間の心臓を借りて、閉じた扉を開けることだ。
借りたものは返さない。返せる相手がもういないからだ。だから俺は、いつも借りっぱなしのまま、次の海へ行く。
ただ、あの一件だけは、少し違ったのかもしれないと思うことがある。
俺は黒岩栄一に心臓を貸したんじゃない。あの男が十一年前に自分でしまい込んだ心臓を、一回だけ、鳴らしてやっただけだ。しらふで、落ち着いていて、あと五十一日で息子が二十歳になる日の心臓を。
届いたのが十一年遅れで、しかも本人はもういない。
それでも、扉は開いた。
二千四百メートルの下で、黒い煙は今日も昇っている。あそこには風も光もない。ただ、閉じたまま誰にも開けられていない扉が、まだいくつも沈んでいる。
俺たちの商売は、当分なくならない。