雨が降っていた。
動かないエヒルンの傍らで、アニスは魂が抜けたように力なく座っていた。
何も見てなかった。何も感じてなかった。何も考えてなかった。
『命』という物が持っていた意味を、今さらながらに知った。
心が受けたショックは、果てしなく大きかった。それを受け止められるほどの器をアニスは持ち合わせていなかった。
器に収めきれず、溢れ出したショックは、逃げ場を求めて、自分の罪を軽くする言い訳を求め始める。
そんな事は考えたくもなかった。しかしそれらを抑えきれない心がある自分を許せなかった。
だから見る事をしなくなった。感じる事をしなくなった。考える事をしなくなった。
「――いた!」
しばらく呆けていると、声が聞こえた。振り向けば……馬に乗った人影がこちらを見ていた。
「トウ……ヤ……?」
確かにトウヤだった。
馬から降りて、急いで駆け寄ってきたトウヤは、動かないエヒルンを見て――固まった。
「トウヤ、トウヤ! エヒルンがっ! エヒルンが……!」
アニスは固まるトウヤにしがみつき、ボロボロと涙を流した。
今までの説明をしようとするも、未だ混乱する頭と激しい嗚咽で言葉にならない。
「落ち着いて!」
「え……?」
背後からの声に振り向くと、動かないエヒルンの傍らに、青い人影があった。
青色の上衣……背には十字の文様が大きく描かれていた。
縦長の青い帽子の下には、雨に濡れてなお輝くアクアマリンのような、綺麗な青緑の長い髪が垂れ下がっていた。
それは……僧侶だった。女性の僧侶だ。
「落ち着いて、まだ死んでないから。気を失っただけ!」
「え……?」
その人は背を向けたまま、エヒルンの状態を確かめ、最初に毒を受けた腕に手をかざした。
「キアリー」
かざした手が淡く翠色に輝く。
その瞬間、エヒルンの身体がピクリと反応し、小さな呻き声も出た。
同時にアニスは、目頭にさらに熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
それを止める事は出来そうになかった。止める必要もなかった。
「毒は、どのくらい前に?」
振り向き、アニスに問いかけた人は……とても綺麗な人だった。
「あ、えっと……雨が降ってくる少し前だったかと思います」
トウヤが代わり答えたのは、アニスが泣きじゃくって言葉にならないからだ。
「そっか。見たところ体力も無さそうね。もう少し遅かったから本当に危なかったかもしれないけど、私が来たからには大丈夫。僧侶の誇りにかけて、私の目の前でそんな事にはさせないから」
そう言って、輝くような笑顔でウィンクをした。
――救われた。
そう思った。
絶望の淵から引っ張り上げられたような、そんな安心感が内側からあふれてくる。
「よし、解毒完了」
「はやっ!?」
思わず声が出た。
まだトウヤが来てからほとんど時間が経っていない。呼吸ですら30も数えていないだろう。
しかしエヒルンの顔色は、随分と良くなっているのがハッキリと分かった。
でも……まだ、エヒルンは苦しそうだった。
「うーん、解毒が遅かったせいか、だいぶ衰弱してるわねー。こりゃホイミだとこの娘には辛いかなー」
「え……?」
アニスの戸惑いをよそに、女性は全く緊張感も無くエヒルンの状態を確認をしながら独り言を呟いた。
そして祈るように両手を合わせると精神を集中し始めた。
合わされた手はゆっくり離れ……その間には淡く白い光が、人の頭くらいの大きさの不思議な輝きが浮いていた。
「そーれ、ベホイミっ!」
その白い輝きをそのままエヒルンの中に押し込むように、女性は呪文を唱えた。
「ベホイミ……上級回復魔法……すごい……」
それしか言えなかった。
「はい、終わり。これでもう大丈夫よ」
『はやっ!?』
トウヤと声が重なった。
女性はパンと手を叩き、何が何だか分からない内に、テキパキと全てを終わらせてしまった。
見ればエヒルンの表情は、ずいぶんスッキリとしていた。今はもう、気持ちよく眠っているようにしか見えないくらいだ。
「こっちは終わったけど……あなたも必要みたいね。はい、ベホイミ」
女性は、にこやかに生み出した淡い輝きを、今度はアニスに押し込むように手を当てた。
全身を鉛のように重く感じさせていた疲れが、まるで水が蒸発していくように、身体から消えていくのを感じた。
疲れだけではなく、痛みも、怪我も、そして心の受けたショックですらも全てが癒されていくようだった。
「はい、終わり。身体の調子はどう?」
女性は、何事も無かったようにアニスに笑いかける。
「え……あ……なんとも……ないです」
『呆気に取られる』と言うのは、こういう事なのかと思った。
本当に『なんともない』としか言えなかった。身体からあらゆる不調を感じない。文字通り、なんともない。
今朝からアニスを悩ませていた筋肉痛すらも消えてなくなっている。むしろ普段よりも調子が良いくらいだった。
「そう、それは良かったわ」
それは、この雨天の暗雲をも吹き飛ばせそうな、そんな輝くような微笑だった。
この人……凄い。アニスの頭にそんな思いがよぎった。
軽快な言葉遣いや、さわやかで綺麗な見た目から受ける外面の印象とは違い、その内面からはとても力強く、膨大な量の経験値を感じた。
「あれ、確かパーティー4人って言ってなかった?」
「――あ! ライドウさん!」
アニスは女性の言葉に、一人で足止めに残ったライドウの事をハッと思い出した。
「それじゃ行きましょ。あと一人しか乗れないけど……どっちが来る?」
行動が早い。気が付けば、すでに女性は馬の背に乗っていた。
「んじゃ、おれが――」
「私が行きます!」
トウヤの言葉を遮って、アニスが進み出る。
「え?」
「ごめんトウヤ、私に行かせて」
「まぁ……良いっすけど」
目を丸くしているトウヤに頼み込み、その役を譲ってもらった。
聞けば女性の仲間の馬車が追ってきているという話だった。その人達にエヒルンを頼むために、誰かが残らなければいけない。
アニスは、手綱を握っている女性を背にする格好で馬にまたがり、トウヤに後を任せて山道を駆け上がった。
「あの……」
走る馬の背に揺れながら、舌を噛まないよう気をつけてアニスは女性に話しかけた。
「ん?」
「そう言えば、お名前を伺ってなかったので教えてもらえますか」
「あはは、そう言えばそうだったねー」
緊張感の無い笑いをしながら、女性はアニスの問いに答えた。
「私はエミリー、僧侶のエミリーよ。よろしくね」