黒咲瑠璃に転生してしまった…… 作:絶望神サガ
技術部研究室Aにて。
「議長。僭越ながら質問させてもらいますが、このプロジェクトの最終目標は何でしょうか?」
「別次元のポータル作成だ。そのためにはまず、別次元の存在を立証しなければならない」
「なるほど……ええと、前提が違いますね」
二人の議員たちがそこにはいた。片方は機械の傍らに立つ仙洞議員、もう片方がコーヒー片手に椅子に座る凍砂議員だった。
「どういうことだ?」
「端的に言いますと、別次元に繋がるポータル自体は突発的かつ瞬間的に限りの話ですが、割と世界中で観測されています。ですから、別次元の存在自体は判明しています」
「あれ、そうなのか」
時刻は午後4時ほど。別次元の研究を進めることが会議場で議決(という名の議長権限による強行採決)され、そのことを知ったハートランド評議会技術部が慌ただしくなりだした頃だ。会議終了後、現時点で別次元について判明していることを知らなくては、と思い立った凍砂議長が声をかけ、仙洞議員に解説してもらうことになった。技術部トップを兼任している仙洞議員がプロジェクターをパネルで操作すると、地球の3Dモデルが浮かび上がる。その一部分を拡大し、彼女は話を続ける。
「ただし、直接的な観測ではありません。どれもエネルギーの観測に異常値が発生した、という結果から考えられた推測に過ぎませんし、なんならポータルと言うにはあまりに荒々しいので次元の裂け目とでも言いましょうか」
「次元の裂け目、か」
「はい」
議会中はポケーとしながら資料を読んだり、たまに寝たりしている(ちなみに誰も気にしていない)仙洞議員だが、彼女の本領はまさに技術力にある。白衣を纏い、白髪を後ろに纏めて結んでポニーテールにすると彼女が技術員モードに入った証だ。ちなみに、髪を下してポケーとしているモードは評議員モードと技術部から言われているとかなんとか。素のモードはどっちかという議論が技術部で絶えず行われているのは、まさに彼女の二面性を象徴するものだろう。
「例えばこれは先月、オーストラリア中心部で観測された異常値ですが、30分で通常1日に観測される量の4倍ものエントロピー放出を観測しました。これは明らかに閾値を超えていますし、人為的に発生できるものとは到底思えません」
連続で核実験をしていたら話は別ですが、と付け足す仙洞議員。彼女がパネルを操作すると、地球の3Dモデルから2Dのエントロピー放出量を示すグラフが表示され、枠外まで飛び出した波があることが分かった。左右にあるなだらかに推移している値を見ると、やはり異常に突出している部分があるのが分かった。これが次元の裂け目が現れた証拠だと彼女は言う。だが、少し論理に飛躍があることに凍砂議長は気づいた。
「んん?ちょっと待て。異常なエネルギー値が観測されているのは分かった。だが、それで次元の裂け目が現れた、と結びつける根拠は何なんだ?」
「それ以外に説明がつかないからですね」
彼女曰く、次元の裂け目、賢く言うとワームホールを人為的に発生させるには数学的に考えればかなりのエネルギーが必要なんだそうだ。ワームホールは同一次元のある地点と、同一次元のある地点を距離を無視して結ぶ虫食い穴のようなポータル。物理的な距離を無視して移動できる穴を無理矢理開くというのは、常識的に考えればファンタジー世界の話だ。
こういうのはコピー用紙で例えるのがいいらしい。ここに、一枚のA4のコピー用紙がある。左上の角と右下の角、対極に位置する地点をそれぞれAとBと設定する。さて、AとBを結ぶ最短距離は鉛筆でどう表現できるだろうか?
普通に考えれば、忠実にAからBに向かって斜線を一直線に引けばそれが最短距離。俺は何も疑わずにそう答えたが、どうやら違うらしい。
確かに、二次元の平面上で考えたらそれは最短。大正解だ。だが、三次元上で考えればコピー用紙に斜線を引くのは最短ではない。答えはコピー用紙を折り曲げて左上と右上の角をくっつけて鉛筆でぶっ刺す、だ。驚愕の距離0。これが正解なんだそうだ。
「これがよくテレポートとかワープとか、瞬間移動の説明で使われる例え話です。この鉛筆で空いた穴をワームホールと呼びます」
どちらかというと意地悪問題に近いような気がしたが。仙洞議員が無造作に貫かれたコピー用紙をゴミ箱に捨て、鉛筆を元の場所に戻すと、再び俺のほうを向き話を続ける。
「これを現実で再現しようとすると、どうなるか分かりますか?」
「皆目見当がつかないな」
俺はそう言うと、仙洞議員は両手の手のひらをパン、と合わせて言う。
「無理矢理ぐしゃっ、と空間を歪めて接触させるんですよ。あ、接触といっても当然物理的接触ではありませんよ?時空間を経由して接触させます。簡単に言いますがもちろんハードルは高いです。正確かつピンポイントに実行するとなると時空間上の座標指定を行い表現し、物理上の空間に情報をエクスポートしてようやく実現することになりますが、当然、それには現在地球の誰しもが知らない時空間のアーキテクチャが必要です。しかもそれは三次元ではなくx,y,zに続く新軸の導入が何個も何個も必要です。四次元すら十全に表現できない領域にある現在の我々には不可能でしょうね」
あ、数学的に表現することは不可能ではありませんが、結局マッピングする必要があるので厳しいと思います、と補足になっていない補足をする仙洞議員。
ただでさえ難しい話がもっと急に難しくなったのを凍砂議長は感じながら、コーヒーに口をつける。数字を使わないのは恐らく彼女なりの親切心なのだろうが、難しいというかややこしいというかなんというか。なんかもう分からなくなってきた、というのが凍砂議長の本音だった。
「……兎も角、別次元のポータルを出現させるとなるとエネルギーはとんでもない量が必要になります。時空間はエネルギーを無限大に保有していますから、現実世界からそこにアクセスするまでには相応のエネルギーが必要なんですね。ですが、これはあくまでも我々の領域から出現させる場合の話。時空間側から開くには別に何の支障もありません」
知ったことか、と言わんばかりに彼女は持論を展開するが、正直ほとんど言っている意味が分からない。
「これを逆説的に言えば、世界中で観測されている異常値は、この時空間が何等かの要因で解放された際に放出されたエネルギーとも考えられるんです」
頭の中を必死で回し、彼女の言葉を理解しようと努める。
「あー、なるほど?だから、この異常値は次元の裂け目が現れた証左な訳だ?」
ひねり出すようにして答えると、彼女の首肯が見えた。よかった、間違っていないようだ。要するに次元の裂け目が現れた、と言えるのは他に説明がつけようが無いから、という訳だ。その際の残滓を異常値という形で、検出しているということか。
「ですが、気がかりなのは現れる要因が不明なことです」
「というと?」
「さっき私は、時空間側から開いて観測されたと言いましたが、普通そんなことは起こりえないんです。次元が破綻しかねませんから、なんならあってはならないことです。しかし、最古の記録で凡そ5年前に検出されてから、ここ数年は特に異常値の観測が増加傾向にあります」
ここまでさも当然かのように次元の裂け目、と言ってきたが普通に考えればどこからともなく異空間が接続されるなんてことはおかしいなんてことは誰でも分かることだ。
「現時点で考えられるのは、時空間側に何らかの現象が発生しているということです」
自然現象、という言葉で済ませていい現象では無い。しかも、それが5年前に出たのを境にして増加の一途を辿っている。凍砂議長は思わず、何か起こる前兆なのか、と不安を感じてしまうが同時に謎の安心感があった。
(夢の女が言ってたことは間違ってなかったってことか……融合次元?がこの世界に干渉しに来ている。仙洞議員は気づいていないようだが、この発生はどう考えても人為的なものだろう。融合次元が次元を超えて来るってのは、多分別次元へのポータルを通って世界を超えたってことなんだろうな)
ということは必然的に、融合次元の研究者が、前後はするだろうが大体5年前から次元の裂け目を開く研究をしているということになる。その影響が、次元を超えて異常値の観測という形であらわれているのだろう。であれば、まだ開発途中、或いは発展途中と言ったところか。
「だが、その理由は不明」
5年もの執念をして何故ハートランドに攻め入る理由がある、と思うも夢の女は不明、と返してきた。そこで最初自分は労働者不足、という推測をしたがそれは誤りだったということか。労働者不足は深刻な問題とは言え、5年もの年月をこの問題だけに費やす愚かな政治家はいないだろう。
「はい。最初私が異常値の観測が増加傾向にあることを知ったとき、どこかの研究者が次元の接続を試みて、その影響として開いているんじゃないか、と思い調べてみたんですが。そもそもエネルギーを大量に消費する以上、足跡が残らない訳が無いんですよね」
仙洞議員が頷く。ああ、この世界のどこかの研究者が開くのを試みる。その線もあったか。だが、やはりエネルギーがネックらしい。
「エネルギーはどれぐらい必要なんだ?」
「机上の空論に過ぎませんが、ハートランド全体が停電するくらいで満足に開放できるかな、できないかも、くらいの量ですね」
そんなにか。ハートランドは結構広い上発展している関係上、電気の消費量もとんでもない量だ。それでも、恐らく足りない。それを補おうとするには、流石に権力を持たないと不可能だろう。
(……ん?つぅことは、融合次元の研究者は電気かどうかはさて置き、結構権力者ってことか?いや、協力体制か?少なくとも、供給する手段があるということか。ふむふむ、何となく見えてきたな)
「ですから、何者かが開いている、なんてことは無いと思います。この世界で次元の研究をする時点でコストは必要不可欠ですから」
これからの予算計上が恐ろしい、と彼女は言うがそれは問題ない。町の予算で大抵落ちるからな……落ちるよな?
「丸々エネルギーを占有して開発している、なんて話があったらそれこそ大事だからな」
全くです、と首を縦に振る彼女に対し、俺は素朴な疑問を口にする。
「だがしかし、実際問題、観測されているんだよな?」
「そこが不可解なんですよ」
彼女は頭を抱え、悩ましい、悩ましいと呟きながら、白衣の裾を翻して研究室の中を右往左往し始めた。理詰めで考える彼女にとって、説明のつかない事象はよほど居心地が悪いらしい。動機が分からないのに発生しているという事実はまるで気持ちが悪いと感じるのだろう。
ここで、俺は直接的な確信――夢で見て、推測される融合次元からの干渉――への言及は避けつつも、彼女の思考を誘導するようにポツリと言ってみた。
「……別次元から開かれているとしたら?」
ピタリ。床を歩き回っていた仙洞議員の動きが一瞬にして止まった。プロジェクターの青白い光に照らされた彼女の背中が、微かに震えている。
「え?どういうことです?」
振り向いた彼女の顔には、純粋な疑問符が浮かんでいた。俺はあくまで素人のふとした思いつきを装って、言葉を続ける。
「いや、だから、別次元?別時空?別宇宙?並行世界?なんでもいいけど、パラレルワールドの人間がこの世界に次元の裂け目を作っている、なんて可能性は無いのかな、って思ったのさ」
パチ、と。彼女の中で何かのスイッチが入る音が聞こえた気がした。いつもはポーカーフェイス気味な彼女の瞳に急激に熱が宿り、パァッと顔を輝かせて俺に詰め寄ってくる。
「パラレルワールド、別次元……!なるほど、そういう訳ですか!!」
「何か分かったのか?」
「ええ、ええ、ええ!!感謝します議長、なるほどなるほどなるほど!!!」
彼女は先程までの冷静な研究者の仮面を完全に投げ捨て、興奮のあまり早口でまくしたて始めた。手元のパネルを物凄い勢いで叩き、新たな計算式を次々とモニターに展開していく。
「スッカリその線が抜けていましたね!同一次元もしくは時空間側からの解放ではなく、別次元からの意図的な解放の残滓、もしくは直接的な開放!!であれば理屈は通ります、すいすいすい~っですよ!!」
「これは新発見だ、妹を呼んではやく研究を……いやまずは時間と地点とエネルギー放出量の傾向を計算、からの次回の予想、自然現象ではない、人為的現象、ならば作為がそこには働いている!!ならば、ならば!!!」
ブツブツと呪文のように理論を連呼しながら、彼女の目は完全に据わっていた。キーボードを叩くタイピング音が、まるで機関銃のように研究室に鳴り響く。あまりの豹変ぶりに、俺は思わず一歩後ずさった。
「せ、仙洞議員?」
「すみませんが議長、私は今しがた仕事が入ったもので、退出願います!!!」
彼女はこちらを見向きもせず、モニターに噛み付くような勢いで叫んだ。退出願いますと言われたが、ここは彼女の研究室。拒否権は無いと同義だった。いや、無理に居座る必要も無いのだが。
「あ、ああ。邪魔して悪かったな、色々教えてくれてありがとうな」
苦笑交じりに背を向けてドアノブに手をかける俺の背中に、彼女の歓喜の叫びが飛んでくる。
「むしろ私がお礼を述べるまでですよ、ありがとうございます!久しく感じていませんでしたよ、そうでした!!五里霧中からの脱出とは、これほどの快感ですよ!!」
俺は頑張り給え、とだけ言って研究室を出る。
「うわーっ、久しぶりだーっ!!こんなワクワクするのはーッ!!!」
ドアを閉めた廊下にまで、奇声に近い彼女の歓喜の声が響き渡っていた。研究職っていうのは、何かしらの狂気にとり憑かれなければいけない生き物なのかもしれないな。俺は唯一手元に残ったコーヒーカップに入った残り分を飲み干し、呆れ半分、安堵半分の息を吐いてその場を後にした。
#
『戻ったぞ』
脳内に直接響く、仰々しくもどこか気の抜けた声。それに呼応するように、私──黒咲瑠璃の影から黒いモヤが這い出し、私が座るベッドの前に相も変わらず巨体のe・ラーが舞い降りた。
「おかえりe・ラー。初仕事、お疲れ様。どうだった?」
かつての絶望神としての威厳はすっかり鳴りを潜めた下僕に対し、私は手元の旧式のデュエルディスクこと、Dパットから視線を外さずに労いの言葉をかけた。ちなみにこれはお父さんからのお下がりだ。
『一人目は見込み通りまんまと信じ込んだが、しつこく根掘り葉掘り聞いてきたから突き放してきた。二人目は意外に抵抗はなかったぞ、何ならもう少し話してもいいかと思ったくらいだ』
私の作戦はこうだ。まず、若手議員一人にe・ラーが夢に入り込んで滅亡の未来を告げる。その次に、議決権を持つ議長にも滅亡の未来を告げる。全員に告げる必要はない。e・ラーに関心を向けられては困るからだ。
ここで私がe・ラーに注意しておいたのが、若手議員には常に尊大な態度を取り、耳を貸さずに一方的に告げることだ。老人だと怪しいが、反骨心がまだ残っているであろう若手議員なら御することは難しくなく、また何かしらのアクションを取ってくれるだろう、という読みだ。
二人目は議長。彼には変わらず尊大な態度を取るが、今度は逆に私が知っていることを元にして質問に答えてもよいと伝えておいた。これは心の余裕がある経験を積んだ人、という若手議員とは違う点を考慮し、一方的に伝えることが逆に不利に働くだろう、と考えた結果だ。あと議決権という強力無比の権力も持っていたため、スマートに済ませるなら適格だろう、という理由もある。
「ふぅん。作戦は大成功といったところか。もう議決されてるよ、権力ってのはすごいねぇ」
その読みは大成功だった。荒唐無稽と一蹴された場合、最悪e・ラーには議員の精神を汚染して強行採決するよう伝えておいたが、それまでには及ばなかったらしい。
私はDパットの画面を指で弾き、ハートランド評議会のホームページを示す。
『何々……?』
そこには今日採決された内容が既に羅列されていて、その中に『ハートランド評議会技術部における別次元の研究チームの立ち上げのお知らせ』と小さく明記されていたのが分かった。融合次元とのアクセス手段の研究が始まったということだ。
これでシンクロ次元かスタンダード次元に即座に繋がったりしたらそれはそれで問題だが、それはそれ、これはこれである。いざとなったらe・ラーにぶち壊してもらう。兎も角、たった2回の干渉でここまで物事が動くのだから、トップダウンの意思決定力というのは恐ろしい。
『おお、もう決定されたのか。フェイカーの奴が存在しないからもう少し手こずるものだと思っていたが、案外そうでもないのだな』
「見る感じ、評議会と言う名の雑務処理委員会に成り下がっていたからね。新たな風が欲しかったんだろうね」
完成された都市ゆえの停滞。彼らは無意識下で自分たちの存在意義を証明する、次なる課題に飢えていたのだろう。そこに絶望の未来というスパイスを与えてやれば、飛びつくのは明白だった。
『なるほど、変革を求めたということか……随分回りくどいようだが、大きな一歩と言えるな』
「何はともあれひとまず、これで融合次元に接続する手段の研究が始まった。正直どこまで時間がかかるかは未知数だけど、ここまで発展したハートランドだし大丈夫でしょう、多分」
これで最悪の破滅ルートを回避するための、第一の布石は打てた。あとは技術部の研究チームとやらがこちらの想定通りに動いてくれるのを待つだけだ。少なくとも、次元戦争が始まる前に別次元の存在が判明してくれると助かる。未来はもう既に変わり始めた。と、私が内心で小さくガッツポーズをキメた、その時だった。
「瑠璃ー? 出かけるわよ、さっさと着替えて出てきなさーい?」
階下から、お母さんのよく通る声が響いてきた。その瞬間、私の頭から壮大なビジョンが綺麗に吹き飛び、代わりにどっと重い疲労感がのしかかる。
『ム? 瑠璃、母親が呼んでいるようだが』
そうだ。e・ラーが出かけている間に、私は重大な試練が訪れることを知ったのだ。
「ああー、行きたくないぃ……」
私はDパットを放り投げ、ベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。シーツに顔を押し付け、思わず情けない声を漏らす。
『どういうことだ? 母親に拷問部屋でも連れていかれるということか?』
「どんな母親だよッ!?」
どういう思考回路で行きたくない場所、という単語を聞いて拷問部屋という言葉が出力されるのだ。思わず顔を上げてツッコミを入れた直後、バタンッ!と無遠慮に自室のドアが開け放たれた。
「瑠璃、早く出るぞ。父さんが車で待ってる」
そこに立っていたのは、準備をすっかり終えた兄さん――黒咲隼だった。私は咄嗟に手元にあったクッションを掴み、フルスイングでドア越しの兄さんへ向かって投げつける。
「……着替え中を覗く兄さんは嫌いだな」
「はぐァあッ!!!」
見事顔面にクッションがクリーンヒットした兄さんは、大げさに仰け反って廊下に倒れ込んだ。実のところ着替えどころか洋服の選定すらしていないのだが。それを気づかせないという意味でも、私は投げつけた価値があったと言えるだろう。
(ちょ、そこまで?)
とはいえ、いくらなんでも6歳児の投擲でそこまでのダメージは入らないだろうに。
「す、すまん……な、なるべく急いで出るんだぞ、瑠璃」
ああ、なるほど。妹に嫌われたかもしれないという事実が、彼の精神に想像以上のダイレクトアタックを決めたらしい。いや兄さんを嫌う訳ないでしょ。
「分かってるよ、兄さん」
逃げるようにパタンとドアが閉まる。兄さんは相変わらずだが、今はそれどころではない。私は重い体を起こし、一軍の洋服が眠る場所──クローゼットの前に立った。
『どういうことだ? 家族総出でどこにいくんだ?』
脳内のe・ラーが純粋な疑問をぶつけてくる。
「ショッピングモール……私の4月からの準備でね。ランドセルとか制服とか今のうちに揃えるんだってさ」
適当に服を身繕ってクローゼットの下の引き出し(身長が届かないため)から取り出し、着替えながら答える。
『?』
「楽しいんだってさ、小学校」
脱いだ上着を畳みながら、私はひどく投げやりな声で吐き捨てた。エビデンスは兄さんの語りである。
『ああ、なるほど。そういえばまだお前は6歳であったな……だが、前世でも小学校はあったのだろう? 何を恐れる必要がある?』
私の前世の知りえる知識の全てを話したe・ラーは、不思議で仕方ないように疑問を呈する。確かに、小学校自体は問題では無い。馴染めるかどうかは、そもそもあなたはコミュニケーション能力以前に見ず知らずの人に話しかけてこれから友情を育む勇気がありますか、という問いにYESと言えるかNOと言えるかの問題だ。最も、私が出かけることに恐れを抱いている要因は別なのだが。
「は、恥ずかしい……」
『ム?』
「恥ずかしいの!! お母さんがおしゃれさせてくるのを、兄さんとか父さんに見られるのが!!」
元・成人男性のメンタルを持った私が、フリフリの服を着せられたり、パステルカラーのランドセルを背負わされたりして、家族から「可愛い~!お父さん、どうこれ!?」「すごく似合ってると思うぞ。そうだよな、隼?」「ああ、父さん。この服の瑠璃……いい」などと絶賛される。その公開処刑のような時間がいかに精神をゴリゴリ削ってくるか、この神には到底理解できないだろう。
『何だ、良いではないか。お前は男だったのだろ? だからこそ分かるはずだ。女には女、男には男しか持ち得ぬ強みがあるのだから、豪胆に振舞っていけ』
だが、e・ラーは胸を張って自信満々に言う。
「あなたに言われると何も反論できないわ!!」
グラマー好きの男性の欲望の全てを詰め合わせたような風貌の彼女に言われると返す言葉がない。確かに、絶望神なんていかつい名前を冠しておきながら、今のこいつの精神は女性なのだ。妙に説得力のある謎のアドバイスに、私はぐうの音も出なかった。
『フッ、恐れる必要はない。我に言わせれば、お前はまだ地味すぎる。運命を変えるのなら、まずは外見から整えていけ!!』
「……ああ分かったよ、心頭滅却でやってやるよ!!」
どうせ逃げられないのなら、腹を括るしかない。次元戦争を生き抜く覚悟があるなら、試着室のプレッシャーくらい跳ね除けてみせる。私が両頬をパンッと叩いて気合を入れたところに、今度はドタドタと足音を立ててお母さんが上がってきた。
「ほら瑠璃、行くわよ。お父さん待たせちゃってるんだから」
部屋に入ってきたお母さんはそんなことを言いながら、獲物を見つけたハンターのような目をしていた。これから私を自分好みの着せ替え人形にする気満々だ。
「お母さん」
着替え終わった私はお母さんの目の前でさっ、と足幅を開き覚悟を決める。戦いは既に、始まっている。
「うん? どうしたの?」
私は決死の覚悟で、抗いようのない脅威を見据えるように真っ向からお母さんを軽く睨み据えた。
「……対戦、よろしくお願いします」
「ええ。喜んで」
お母さんは、まるで強敵の挑戦を受けた決闘者のように、ニッコリと、そして底知れぬ凄みを湛えた笑顔で頷いたのだった。
この後めちゃくちゃ試着室で着替えさせられた。