ドゥーのリベリオン 作:夏で腐ったチキン南蛮
――なんなの、こいつ。
マチュは、目の前の見知らぬ少女を、頭のてっぺんから爪先まで、素早く見て取った。
自分と似た、学生の制服。乱れのない髪。そして、その割に、こんな場所で迷子のような顔をして立っている、ちぐはぐさ。
どこかのお嬢様学校の子が、道でも間違えたのだろうか。最初に浮かんだのは、その程度の見立てだった。
「ここで、何してるの」
もう一度、聞いた。今度は、答えを急かすように。
「……別に、何も。歩いてたら、これが目に入って」
少女――ドゥーと名乗ることになる、その子の声は、思ったより落ち着いていた。だが、目線は壁と、マチュたちの顔を、せわしなく行き来している。
「歩いてたら、って」
マチュは、わざと語尾を強めた。
「ここ、そんな気軽に通りかかるとこじゃないでしょ。制服のあんたが」
我ながら、自分もここにいることが場違いであるし、詰問みたいな口調になっているのは分かっていた。だが、止まらなかった。
理由は、自分でもよく分かっている。
この壁は、シュウジのものだ。
通行証代わりのようなこの落書きを見つけて、そこからシュウジに繋がって、ニャアンと三人になって――そうやって積み上げてきた、まだ日の浅い、けれど確かに自分とシュウジのものだと思っていた繋がりだった。
それを、見ず知らずの少女が、当然のような顔で覗き込んでいる。
――冗談じゃない。
その苛立ちが、真っ先に口をついて出た。
「……」
ドゥーが、何も言い返せずに黙る。
ニャアンが、横から静かに口を挟んだ。
「この子、前も見た?」
問いは、ドゥーにではなく、マチュに向けられていた。
「ううん、初めて」
マチュは、ドゥーから目を離さないまま、短く答える。
実際、見覚えはなかった。この辺りをうろつくには、ドゥーはあまりに浮いていた。制服も、歩き方も、何もかもが、ネノクニの空気に馴染んでいない。
だから、最初のうちは、ただの部外者、あるいは迷い込んだよそ者、というだけの話のはずだった。
「これ、見て、何か思った?」
試すように、マチュは聞いた。
本当は、聞くまでもないと思っていた。適当にはぐらかされるか、意味が分からないという顔をされるか、そのどちらかだろうと。
「……綺麗、とは思ったけど」
その答えを聞いた瞬間、マチュの中で、何かが小さく引っかかった。
――綺麗。
その一言そのものは、別に、おかしなものではない。壁の落書きを見て、綺麗だと思う人間くらい、いくらでもいるだろう。
だが、その言い方に、マチュは覚えがあった。
初めてジークアクスに乗って、シュウジの赤いガンダムと動きを合わせたときの、あの感覚。言葉にしようとすると、いつも「綺麗」とか「気持ちいい」とか、そんな薄っぺらい言葉しか出てこなくて、もどかしかった、あの感覚。
ドゥーの声には、その時の自分と同じ手触りの何かが、混じっている気がした。
――まさか。
マチュは、無意識のうちに、ニャアンと視線を交わしていた。ニャアンの方は、まだそこまでの疑いは持っていないようだった。ただ、部外者への警戒だけを、変わらず滲ませている。
マチュだけが、別の種類の焦りを感じ始めていた。
この子も、分かるのだろうか。あの、名前のつけようがない感覚を。
もしそうだとしたら――シュウジと繋がれるのは、自分だけではない、ということになる。
そう考えた瞬間、胸の奥が、嫌な形にざわついた。
「……あんた、名前は」
声が、我ながら硬くなっているのが分かった。警戒を解かないまま、そう聞いた。
「……ドゥー」
「ドゥー。あたしはマチュ」
名乗りながら、マチュは自分に問いかけていた。
――なんで、こんなに苛立ってるの、あたし。しかも名前も名乗って……
答えは、うっすらと分かっていた。だが、それを、まだ言葉にする気にはなれなかった。
「……ニャアン」
ニャアンも、短く名乗った。だが、その声には、まだ棘が残っていた。
「なんでここに来たか、もう一回ちゃんと聞くけど」
マチュは、腕を組んだ。声の刺々しさを、抑えるつもりはなかった。
「……本当に、たまたま。この辺、初めて来て、迷ってて」
「迷って、ここに?」
「……うん」
我ながら、心許ない説明だとは思う。だが、マチュにとっては、その説明の中身よりも、目の前の少女がまとう気配の方が、ずっと気になっていた。
しばらく、ドゥーの顔を見つめる。噓か本当か、値踏みしているような間だった。だが、本当のところ、マチュが探ろうとしていたのは、噓かどうかではなかった。
――この子から、シュウジの匂いがする。
根拠のない、感覚だけの話だった。それでも、その感覚は、無視できないくらい、はっきりとしていた。
「……まあ、いいけど」
やがて、そう言って、腕組みを解いた。だが、警戒が完全に消えたわけではなかった。
「これ、誰が描いたとか、知らないよね?」
念を押すような聞き方だった。自分の声が、少し早口になっているのが分かった。
「……知らない」
ドゥーは、そう答えた。
嘘だ、とマチュは思った。根拠はない。だが、確信に近いものがあった。
「なら、いいや」
それ以上、深くは追及しなかった。追及すれば、自分の焦りの方まで、見透かされてしまいそうな気がした。
「あんまり、ここらへんうろつかない方がいいよ。柄悪い連中もいるし」
親切ごかしの言葉だったが、その底には、もっとはっきりとした意図があった。
――こっちに、来るな。
ニャアンは、何も言わなかった。ただ、ドゥーの全身――制服、鞄、靴――を、もう一度、値踏みするように見ていた。
マチュだけが、その静かな観察の裏で、一人でざわめいていた。
「……分かった。もう、行く」
ドゥーが、そう言って頭を下げた。
「うん、気をつけて」
我ながら、さっきよりは幾分柔らかい声が出た。だが、完全な友好ではなかった。あくまで、部外者を無難に送り出すための言葉だった。
ドゥーが、二人に背を向けて、来た道を戻り始める。
その後ろ姿を見送りながら、マチュは、まだ胸の中のざわめきが収まらないのを感じていた。
「……大丈夫かな、あの子」
ニャアンが、抑えた声で言った。
「知らない。でも、あの壁、見られたのは、あんまりよくないかも」
「シュウジに言っとく?」
「……どうだろ」
言いながら、マチュは自分でも、その答えに迷っていた。
シュウジに話せば、あの子はもう、二度とここには来られなくなるかもしれない。それは、都合がいいはずだった。だが、なぜか、素直にそう思いきれない自分がいた。
――なんで、あたし、こんなに気にしてるんだろ。
答えの出ない問いを、マチュは口の中だけで転がした。
ドゥーの後ろ姿は、もう路地の先に消えかけていた。マチュは、それを見つめながら、なんとなく落ち着かない気分のまま、水路沿いに立ち尽くしていた。
その時だった。
少し離れた場所の地面――マンホールの蓋が、下からガタン、と音を立てて持ち上がった。
「――え」
マチュとニャアンが、同時にそちらを見る。
鈍い音を立てて、金属の蓋が横にずらされる。その隙間から、まず顔を出したのは、四本の細い脚を持つ、小さな機械だった。カメラのようなレンズが、きょろきょろと辺りを見回す。
「――コンチ?」
ニャアンが、驚いたようにその名を呼んだ。
コンチに続いて、蓋の下から、のっそりと人影が這い出してくる。
髪をぼさぼさにした、見慣れた少年だった。コンチは、いつものように、その頭の上にちょこんと乗っている。
「シュウジ」
マチュが、思わず声を上げた。
シュウジは、地上に出るなり、大きく伸びをした。特に緊迫した様子もない、いつも通りの、気の抜けた顔だった。
「あ、こんにちは」
そう言いながら、シュウジは、ポケットから塗料缶を一本、無造作に取り出した。壁の方へ向き直りかけて――そこでようやく、少し離れた場所に立つ、見慣れない少女の後ろ姿に気づいたらしい。
ドゥーも、足音と話し声に、振り返っていた。
水路を挟んで、三者の視線が、一瞬で交錯する。
「……あっ」
誰のものとも判然としない、短い声が、三つ、ほとんど同時に重なった。