ドゥーのリベリオン 作:夏で腐ったチキン南蛮
その報告が入ったのは、まだ夜が明けきらない時間帯だった。
イズマ・コロニー内、民間の事務所を装った臨時指令所。窓のない一室に、端末の通知音が短く鳴った。
ゲーツ・キャパは、仮眠も取らずに机に向かっていた。ソドンの動静を追う定時報告は、ここ数日、深夜であろうと構わず届く。慣れた手つきで画面を開く。
文面に目を通した瞬間、その手が止まった。
「……シャリア・ブル」
声に出すと、その名の重みが、あらためて胸の底に落ちてきた。
隣の端末を操作していた別班の要員――セイという名の、痩せた男が顔を上げた。
「本当か」
「艦の通信を傍受した別班からの報告だ。指揮系統の中に名前が上がっている。誤認の可能性は低い」
セイは淡々と答えたが、その声にも、隠しきれない硬さがあった。
「灰色の幽霊、か」
「独立戦争で活躍したニュータイプのエース。シャア・アズナブルのマヴだとは聞いていたが……よりによって、ここに出てくるとはな」
ゲーツは、椅子の背にもたれかかった。
「うちの戦力で、まともにぶつかれる相手じゃない」
「言うまでもない」
セイは短く応じた。
「軽キャノン二機と、潜入班が数名。向こうは強襲揚陸艦一隻に、歴戦のパイロットを揃えたMS部隊。オールレンジ攻撃を操る指揮官付きだ。接触すれば、抵抗する間もなく終わる」
その言葉に、ゲーツは何も言い返さなかった。反論の余地がなかった。
「今のところ、ソドンは外縁宙域に留まっている。それだけが救いだ」
ゲーツはそう言って、画面を閉じかけた。
その時だった。もう一件、通知が続けて届いた。画面を開いたゲーツの表情が、わずかに強張った。
「……セイ」
「どうした」
「ソドンが動いた。港湾部への進入を強行している」
セイが素早く自分の端末を確認する。
「――本当だ。軍警の制止を振り切って、港湾部のゲートを突破したらしい」
「地位協定は」
「向こうもその建前は崩していない。恐らく、現行犯逮捕された士官の解放が”見せて来る本音”だろうが……」
「それだけじゃないだろうな」
赤いガンダムの捜索。ソドンにいるシャリア・ブルが赤いガンダムに搭乗していたシャア・アズナブルのマヴであること、あの不明MS―― ドゥーは「鬼武者」と呼んでいた―― が赤いガンダムと接触して戦闘していることを顧みると、”本音”はそれなのだろう。
しかし、いずれにせよ確かなことは、灰色の幽霊が乗る艦が、正規の手続きを踏み倒す形で、このコロニーの内側まで踏み込んでくる。ということだった。
「本部の判断は」
「まだ来ていない。だが、現場としては、今動いている観測任務を、いったん止めるべきだと具申している」
「……そうだな」
ゲーツは短く頷いた。
「赤いガンダムの件は」
「後回しだ、今は。まず、こちらの存在を絶対に気取られないことが最優先になる」
セイはそう言うと、自分の端末に向き直った。ゲーツは、しばらくの間、画面に表示されたままの「シャリア・ブル」という文字列を見つめ続けていた。
これまで追っていたものより、遥かに大きく、遥かに危険なものが、すぐそこまで来ている。
その事実の重さを、どこまでドゥーに伝えるべきか――ゲーツには、まだ判断がつかずにいた。
自宅に戻ったのは、日が昇り切ってからだった。
ドゥー・ムラサメは、テーブルでパンをかじりながら、対面に座るゲーツの様子を横目に見ていた。
朝から、ゲーツはずっと様子がおかしい。端末を何度も確認しては、画面を睨みつけるように見つめている。
「ねえ、何かあった?」
「……ソドンが、港湾部を突破してコロニー内に進入した」
「……あの軍艦が、コロニーの中にいるってこと?」
「そうだ」
これまで、ソドンは外縁宙域に留まっていたはずだった。ドゥーもその程度のことは覚えている。それが、実際にコロニーの内側まで踏み込んできたという話は、単純な「近くにいる」という話とは、明らかに質が違って聞こえた。
「入ってきて、何するの」
「分からない。いずれにせよ、サイド6側は大騒ぎだ。実際、イズマのメディアも騒いでいる」
ゲーツは端末をテーブルに置き、テレビをつけると、そこには港湾部のゲートと軍警のザクを振り切って、コロニー内に突入してくるソドンの姿が中継されていた。
食い入るようにそれを見つめるドゥーとは対照的に、ゲーツはもう一度画面を確認した。続けて届いたらしい文面に、目を落とす。
そのまま、しばらく黙り込んだ。
「ゲーツ?」
もう一度呼びかけると、ゲーツはようやく顔を上げた。だが、その目はドゥーを見ているようで、どこか別のところを見ているようでもあった。
「……灰色の幽霊」
小さな呟きだった。ドゥーには聞き覚えのない言葉だった。
「何、それ」
「……いや」
ゲーツは首を振り、それ以上は答えなかった。だが、ドゥーはその一瞬の間に、確かに何かを見た気がした。
普段のゲーツは、どんな報告にも動じない。淡々と処理し、淡々と指示を出す。それが、今の一瞬だけ、違っていた。
手の中の端末を、握る力が強くなっていた。
「……ゲーツ」
「なんだ」
「今の、何」
「お前が気にすることじゃない」
いつもの台詞だった。だが、いつもより早口で、いつもより素っ気なかった。ドゥーはそれ以上聞かなかった。聞いても答えないことは分かっていたし、何より、ゲーツのその態度そのものが、これまでにない重さを持って部屋の空気に沈んでいた。
朝食を終え、ドゥーが制服のリボンを結んでいると、ゲーツが端末を見つめたまま、ぽつりと言った。
「今日から、しばらく観測任務はなしだ」
「……え?」
「軽キャノンでの出撃は、当面止める」
ドゥーは、リボンを結ぶ手を止めた。
「なんで。赤いガンダム出たら?」
「今は駄目だ」
「なんでよ」
「……今は聞くな」
その声には、拒絶というより、余裕のなさがあった。いつもの「駄目だ」の一言で終わる押し問答とは、少し違う響き。ドゥーは、それ以上食い下がる隙を見つけられなかった。
「……分かった」
釈然としないまま、そう答える。ゲーツはもう、端末の画面に視線を戻していた。ドゥーの方を見ていない。
鞄を持って玄関へ向かう間、ドゥーは何度か振り返った。だが、ゲーツはずっと同じ姿勢のまま、次々と届く文面を読み続けていた。
バス停へ向かう途中、ドゥーは何気なく空を――正確には、コロニー内部の湾曲した「空」を見上げた。
その途端、足が止まった。
居住区の建物の連なりの向こう、港湾部のある方角に、これまで見たことのない影があった。ビル群の隙間から辛うじて覗く程度だったが、それでも分かる。緑色と灰色がかった巨大な艦体の一部が、コロニー内部の光の下にはっきりと浮かび上がっていた。
あんなものが、もうここに。
ドゥーは、しばらくその場から動けなかった。距離があるせいで、細部までは見えない。それでも、「軍艦がすぐそこにいる」という事実の重みだけは、否応なく伝わってきた。
周りを歩く通行人たちも、ちらちらとその方向を気にしながら歩いている。誰もが足を止めて騒ぎ立てるわけではなかったが、いつもより早足になっている人が多い気がした。
バスに乗り込んでからも、ドゥーは窓の外、港湾部の方角から目を離せずにいた。
通学路そのものは、いつもと変わらない朝の景色だった。
バスの窓から見える運河沿いの道。同じ制服を着た生徒たちの列。表面上は、何も変わっていないように見える。
それなのに、頭の中では、さっきの艦影と、朝のゲーツの様子が、繰り返し再生されていた。
あんな顔、見たことない。
ドゥーはそう思う。ゲーツが動揺する場面など、この半年、一度も見た記憶がなかった。ザクの部隊が出た時も、ソドンが外縁に現れた時も、ゲーツはずっと同じ調子で指示を出していた。それが、今日は違う。
――灰色の幽霊。
あの言葉が、耳の奥に残っている。意味は分からない。だが、ゲーツがその言葉を口にした瞬間の空気だけは、はっきりと覚えていた。
「ドゥー、おはよ」
クラスメイトの声に、意識が引き戻される。
「……おはよう」
「今日、眠そうだね」
「うん、ちょっと」
愛想笑いを返しながら、ドゥーは教室へ向かう足を進めた。
教室に入ると、いつもより生徒たちの声が高い気がした。窓際に集まったグループが、何やら話し込んでいる。
「ねえ、見た? あれ」
「港湾のとこの? 見た見た、でっかいの浮いてたよね」
「ジオンの軍艦が入ってきたらしいよ。お父さんが言ってた」
「え、こわ。戦争とかになんないの」
「ならないでしょ、さすがに。サイド6は戦争中も中立だったみたいだし」
そんな会話が、教室のあちこちから漏れ聞こえてくる。誰も深刻な顔はしていない。どちらかといえば、ちょっとした事件、非日常のニュース程度の温度感だった。
「ドゥーは知ってた?」
隣の席のクラスメイトが、興味本位といった様子で聞いてくる。
「……ううん、知らない」
「ドゥーは相変わらずのんびりやさんだねぇ」
ドゥーは、それだけ答えた。噓ではなかった。港湾部に何が起きているのか、正確なところは、ドゥー自身も知らされていない。
ただ、他の生徒たちが軽い調子で噂している出来事の裏に、朝のゲーツが見せたあの動揺があるのだと思うと、教室の呑気な空気が、どこか他人事のように遠く感じられた。
チャイムが鳴り、教師が入ってくる。生徒たちの話し声が収まっていく中、ドゥーは席に着いたまま、窓の外の方角――港湾部があるはずの方向を、もう一度だけ見やった。
そこからは、艦影はビル群が陰になって微妙に見えなかった。ただの、いつもの街並みが続いているだけだった。
授業中、ドゥーはノートを開いたまま、ペン先を動かせずにいた。
教師の声は、いつものように右から左へ流れていく。それを聞き流す技術だけは、もう身についている。だが今日は、聞き流した先に何も残らない、というより、頭の別の場所が、ずっと別のことを考え続けていた。
――なんで、観測なし。
――ソドンが、港湾部に。
――灰色の幽霊。
考えても、答えは出ない。ゲーツが教えてくれないのだから、当然だった。
気がつくと、ノートの端に、小さな光の粒がいくつも描かれていた。丸を重ねたような、瞬くような形。指先が、また勝手に動いていた。
それに気づいて、ドゥーは慌てて手のひらでこすって消した。紙の繊維がこすれる感触が、指の腹に残る。
胸の奥が、ちりちりと焦げつくような感覚があった。
このところ、ずっとそうだった。前は、もっと稀にしかこの感覚は来なかった。今は、気を抜くとすぐにこれだ。
ドゥーは、制服のポケットに指先を伸ばしかけて、途中で止めた。まだ、我慢できる程度だった。
深呼吸を一つ。それだけで、ざわめきは少しだけ収まった。
教師の声が、また耳に入ってくる。ドゥーはシャープペンシルを握り直し、何事もなかったかのように、板書を写す作業に戻った。