ドゥーのリベリオン 作:夏で腐ったチキン南蛮
それから数日、目立った変化のないまま日が過ぎた。
ドゥーの生活は、表向きはいつも通りだった。学校へ行き、授業を受け、帰宅する。軽キャノンでの出撃はない。ゲーツも、相変わらず端末とにらめっこをしている時間が長い。
時折、ゲーツの端末に短い連絡が入ることがあった。
「……ああ、了解した」
「何、今の」
「お前には関係ない」
いつものやり取りだったが、その頻度は、これまでよりも明らかに多かった。ドゥーには、断片的な言葉の端々しか届かない。「外周の確認」「接触なし」「継続監視」――そういった言葉が、ゲーツの口から漏れるたび、ドゥーはその意味を推し量ろうとしたが、結局は何も分からないまま終わった。
大人たちは、何かに追われている。
それだけは、はっきりと感じ取れた。だが、その「何か」の中身は、ドゥーには開示されない。子どもで、待機要員で、パイロットであるドゥーは、この状況の中で、ただ「普通にしていろ」とだけ言われる立場だった。
放課後、ドゥーは何度か、ジャンク屋へ立ち寄った。ゲーツには言っていない。整備要員に軽くからかわれながら、コクピットに座り、記録映像を眺める時間が、いつしか日課のようになっていた。
荷運びの手伝いを申し出たことも、一度や二度ではなかった。返事はいつも同じだった。
「ゲーツに聞いてみないと」
「聞かなくていいから」
その押し問答も、いつしか一種の儀式のようになっていた。
ある日の放課後、ドゥーがいつものように格納庫でコクピットに収まり、記録映像を眺めていると、通信端末が鳴った。
ゲーツからだった。
「今どこにいる」
「……友達のとこ」
「早く帰ってこい」
いつもより急いた声だった。何かあったのだろうか、とドゥーは身構えたが、深刻な響きというより、単に何か作業に追われているような早口だった。
「……分かった」
通信を切り、ドゥーはモニターの映像を止め、コクピットを出た。整備要員に軽く手を振り、ジャンク屋を後にする。
集合住宅に戻ると、ゲーツはリビングのテーブルで、端末の画面を睨んでいた。ドゥーが入ってきたのにも、すぐには気づかない様子だった。
「ただいま」
「……おかえり」
視線は画面から動かない。何かの映像を確認しているようだった。
「何、それ」
ドゥーは鞄を椅子にかけながら、画面を覗き込もうとした。ゲーツは特に隠す様子もなく、画面をそのままにしていた。
「例の裏試合の配信に動きがある、と連絡が来た」
「裏試合?」
「非合法のMS同士の私闘だ。クランバトル、というらしい」
ドゥーには初耳の言葉だった。
「何それ、知らない」
「知らなくていい。コロニーの裏社会で、細々とやっている見世物だ」
ゲーツの声は、いつも通り素っ気なかった。だが、その割には、画面から目を離さずにいる。
「なんで、そんなのゲーツが見てるの」
「別班からの連絡だ。『念のため確認されたし』と、それだけだった」
ゲーツは端末を操作し、共有されたリンクを開いた。粗い画質の映像が、画面に流れ始める。
ドゥーは、なんとなくその画面を覗き込んだ。
最初は、何が映っているのか、よく分からなかった。薄暗い、コロニー内部らしき区画。周囲を囲む、雑然とした群衆らしき人影。中央で、二機のMSが、ザク一機を相手に動いている。
一機は、見慣れない、どこか動きの硬い機体だった。まだ機体の扱いに慣れていない、そんな印象を受ける。
もう一機は――。
ドゥーの息が、止まった。
深く、鮮やかな赤。
「……え」
画面に釘付けになったまま、ドゥーは声を漏らした。
隣で、ゲーツも同じように動きを止めていた。
「……嘘だろう」
その呟きは、ドゥーに向けたものではなかった。ゲーツ自身も、目の前の映像が信じられないという顔をしていた。
赤いガンダムが、裏社会の見世物の中で、ザクを相手に戦っている。
映像の中の赤いガンダムは、迷いのない動きで、ザクとの距離を詰めていく。もう一機の見慣れない機体――動きの硬い方――も、隣で何とかザクの意識を引きつけようとしている様子だった。
二機は、決して息の合った連携には見えなかった。だが、それでも、互いに何かを補い合うような、そんな動き方をしている。
ドゥーの中で、何かが急速にせり上がってきた。
「……あの動き」
小さく呟く。
前に見た時とは、また違う印象だった。だが、あの、動きの硬い機体には、覚えがあった。
「鬼武者……また、一緒にいる」
確信はない。カメラ衛星と戦闘までの距離では、細部までは分からない。それでも、ドゥーの中では、疑いようのないものとして、その考えが根を張った。
あの日、コロニーの外で見た光景。互いの動きに合わせるように漂っていた、二つの機体。それと同じものが、今、目の前の画面の中にある。
ただし、今回は、遠く離れた宙域からの観測映像ではない。誰かが撮った、コロニーの片隅の見世物として、加工され、配信されている映像だった。
その事実が、ドゥーの胸の中で、何か別の感情に変わっていった。
ドゥーの手が、無意識のうちに握りしめられていた。
「……なんで」
声が、震えていた。
「なんで、今」
ゲーツが、ちらりとドゥーの方を見た。だが、何も言わなかった。
「私、ずっと待たされてたのに」
この数日、理由も分からず、ただ「駄目だ」とだけ言われ続けてきた。観測任務もなし。普通にしていろ、とだけ言われて。
その間、赤いガンダムは、こんな場所で、こんな風に、誰かに見られる形で戦っていた。
「あっちは、こんなところで、普通に戦ってる」
声が、次第に大きくなっていく。
「私は、ずっと我慢してたのに」
「ドゥー」
ゲーツが、名前を呼んだ。だが、いつものような、動きを止めさせる強さはなかった。
「なんでよ」
ドゥーは、画面から目を離さないまま、続けた。
「なんで、あんな適当な人たちが、簡単に見れるの」
「ボクは、あんなに、ずっと」
言葉が、途中で詰まった。何を言おうとしていたのか、自分でもよく分からなくなっていた。ただ、胸の奥から突き上げてくるものが、止まらなかった。
悔しさだけではなかった。もっと、粘つくような、行き場のない感情だった。
その感情は、これまでのように、胸の内側に留まってはくれなかった。
喉の奥から、自分でも制御できない声が漏れた。
「――ッ、や、」
言葉にならない音だった。ドゥーは両手で頭を抱えるようにして、椅子の上で体をよじった。視界が、急速に滲んでいく。
「ドゥー」
ゲーツの声が、初めて明確な緊張を帯びた。
ドゥーはその声にすら反応できなかった。テーブルの上にあった端末――さっきまで配信を映していたそれを、乱暴に払いのける。端末は鈍い音を立てて床に落ち、画面が真っ暗になった。
「なんで、なんでなの、なんでボクだけ」
声は、もう言葉としての体を保っていなかった。悲鳴に近い響きに変わっている。ドゥーは近くにあった椅子を蹴り倒した。倒れた椅子が床にぶつかる音が、狭い部屋に大きく響いた。
「ドゥー、落ち着け」
「落ち着けない!」
叫び返す声に、ゲーツが一瞬たじろいだ。
これまで、ドゥーがここまで感情を剥き出しにしたことはなかった。文句や不満を漏らすことはあっても、それはいつも、どこか可愛げのある我儘の範疇に収まっていた。だが今、目の前にいるのは、そういう種類のものではなかった。
瞳孔が、開きかけている。
呼吸が、浅く、速い。
研究所の白い部屋で、マスクなしではまともに座っていられなかった、あの頃と地続きの何か。半年、イズマでの生活の中で息を潜めていたものが、今、堰を切ったように表に出てきていた。
ゲーツが手を伸ばそうとした瞬間、ドゥーはその手を強く振り払った。
「触らないで」
低く、掠れた声だった。それだけ言うと、ドゥーは踵を返し、部屋を飛び出した。
「ドゥー、待て」
ゲーツの声が追いかけてきたが、ドゥーは振り返らなかった。廊下を駆け、自室のドアを開け放つと、そのまま中へ転がり込むようにして、後ろ手にドアを閉めた。鍵をかける音が、廊下にいるゲーツの耳にも届いたはずだった。
「……ドゥー」
ドア越しに、ゲーツの声がした。だが、いつものような命令口調ではなかった。どう声をかけていいか分からない、という戸惑いが、そのまま声に出ていた。
部屋の中で、ドゥーはベッドに突っ伏し、枕に顔を押しつけていた。
嗚咽が、止まらなかった。
「や……っ、う、う……」
声を殺そうとしても、殺しきれない。喉の奥から、獣じみた声が漏れる。涙も、鼻水も、構わなかった。今は、誰かに見られていることを気にする余裕すらなかった。
枕を強く抱きしめ、ドゥーは何度も同じ言葉を繰り返した。
「やだ……やだよ……なんで、ボクだけ……」
理屈ではなかった。赤いガンダムに近づけないことも、鬼武者が誰なのかも、ソドンが何をしに来たのかも、本当は、どうでもよかった。ただ、胸の内側で暴れる何かが、体の外に出たがって、出たがって、抑えが利かなくなっていた。
ベッドの上で身をよじり、時折、拳でシーツを叩いた。叩いても、何も解消されない。分かっていても、止められなかった。
ドアの外で、ゲーツはしばらくの間、動けずにいた。
ノックをするべきか、それとも、今は距離を置くべきか。判断がつかなかった。
部屋の中から漏れてくる声は、次第に小さくなっていったが、完全に止まる気配はなかった。時折、鈍い音――何かを叩きつけるような音が混じる。
「……ドゥー、聞こえるか」
声をかけてみたが、返事はなかった。ただ、嗚咽の合間に、切れ切れの言葉だけが漏れ聞こえてくる。
「……やだ……」
「……なんで、ボクだけ……」
ゲーツは、ドアに軽く手をついた。
これが、ドゥーという少女の、本当の姿の一端なのだと、頭のどこかで理解していた。ムラサメ研究所からの引き継ぎ資料に、何度も目を通していたはずの言葉。強化の度合いが高く、情緒の起伏が激しい。単独での安定した運用は難しい――紙の上の文字として読んでいた時には、ここまでのものだとは、正直なところ、実感していなかった。
この半年、ドゥーは驚くほど「普通」だった。文句を言い、不満を漏らし、それでも最後にはゲーツの言うことを聞く。その繰り返しに、ゲーツ自身、いつしか慣れてしまっていた。
だが、それは、ドゥーが必死に抑え込んでいた結果に過ぎなかったのかもしれない。
ソドンの脅威、灰色の幽霊という得体の知れない存在、そして目の前で見せつけられた、自分には許されない光景。積み重なったものが、今日、限界を超えた。
「……分かった」
ゲーツは、それだけ言った。
「今日は、もう休め。無理に開けなくていい」
ドアの向こうから、返事はなかった。ただ、嗚咽だけが、いつまでも続いていた。
ゲーツは、しばらくその場に立ち尽くしたあと、静かに離れた。
部屋の中で、ドゥーは泣き疲れ、いつしかベッドの上でうずくまるようにして目を閉じていた。
枕元に置いた薬液のハンカチには、まだ手が伸びていなかった。今日ばかりは、それすらも、意味を持たない気がしていた。
涙で濡れた頬に、乱れた前髪が張りついている。呼吸は、まだ整いきっていない。
胸の奥では、疼きが、いつまでも治まらずにいた。
――もっと近くで見たい。
――ううん、それだけじゃない。
――あの中に、入りたい。
言葉にできるほど、まだ形にはなっていない。それでも、その感覚だけは、確かにドゥーの中に居座っていた。
目を閉じても、瞼の裏には、深く鮮やかな赤が、いつまでも揺れていた。
リビングに一人残ったゲーツは、床に落ちたままの端末を拾い上げた。画面には、罅が一本入っていた。
それを見つめながら、ゲーツは静かに息を吐いた。
本部への報告文を打ち込む前に、ゲーツはしばらくの間、何も書けずにいた。
やがて、指を動かす。
「シャリア・ブルの動向を確認。ソドンはコロニー内に留まったまま。正確な目的は依然不明」
そこまで打って、指を止める。
もう一つ、報告すべき事項があった。
「対象機体、非公式なMS闘技――通称クランバトル――への出場を確認。詳細は追って調査する」
文面を打ち終え、ゲーツは椅子の背にもたれた。
灰色の幽霊がすぐそこにいるという事実。赤いガンダムが得体の知れない裏社会の見世物に姿を現したという事実。そして、ドゥーの中に、これまで自分が把握しきれていなかった、もっと不安定な何かが潜んでいるという事実。
三つの重さが、ゲーツの中で、うまく整理のつかないまま並んでいた。
どれも、今のこの小さな観測班の手には、あまりに余る話だった。
それでも、報告は上げなければならない。それが、ここでの自分たちの仕事だった。
送信を終えたゲーツは、しばらくの間、暗い画面をただ見つめていた。
閉じたままのドゥーの部屋のドアの向こうから、もう物音は聞こえなくなっていた。だが、それが眠りについたからなのか、それとも、ただ静かに涙を流し続けているからなのか、ゲーツには分からなかった。