ドゥーのリベリオン 作:夏で腐ったチキン南蛮
目が覚めると、瞼が重かった。
泣きすぎたせいだと、すぐに分かった。鏡を見なくても分かる。頬の皮膚が突っ張るような感覚が、まだ残っている。
ドゥーはベッドの上で、しばらく天井を見上げていた。
昨日のことが、断片的に頭をよぎる。端末を払いのけた音。椅子が倒れる音。自分の喉から出た、自分のものとは思えない声。
――なんで、なんでなの、なんでボクだけ。
思い出すと、胸の奥が、また少しだけ疼いた。だが、それは昨日の激しさに比べて、もっと鈍い、燃え殻のような疼きだった。
制服に着替え、リビングに出る。ゲーツは、いつも通りテーブルについていた。だが、いつも通りではなかった。
「……」
顔を上げたゲーツは、何か言おうとして、口を開きかけた。
「昨日は……」
そこで、言葉が止まった。続きが出てこないようだった。ドゥーは、椅子を引きながら、それだけで察した。
「……ううん」
短く、そう答えた。
それ以上、どちらも何も言わなかった。テーブルの上のパンを、ドゥーは黙って口に運んだ。味は、あまりしなかった。
気まずさが、部屋の中に薄く積もっている。これまでにはなかった質感だった。素っ気ないやり取りはいつものことだが、今日のそれは、素っ気なさの種類が違う。
「今日も、観測なし?」
沈黙に耐えかねて、ドゥーの方から聞いた。
「当面はそうだ」
「じゃあ、ボクは何すればいいの」
「いつも通りにしていろと言っている」
いつもの言葉だった。だが、いつもより、その言葉に力がなかった気がした。
ドゥーは、それ以上食い下がらなかった。昨日、あれだけのことがあったのだ。今日くらいは、大人しくしていた方がいい。頭のどこかで、そう思っていた。
鞄を持って、玄関へ向かう。
「行ってきます」
「……気をつけて行け」
いつもと違う一言だった。ドゥーは、振り返らずに、それだけ聞いて部屋を出た。
その夜のことだった。
ドゥーは、自室に戻ろうとして、リビングの前で足を止めた。
ゲーツの声がしていた。いつもの平坦な声だが、相手がいる。端末越しの、セイの声も、微かに漏れ聞こえてくる。
盗み聞きをするつもりはなかった。少なくとも、最初は。
だが、聞こえてきた単語のいくつかが、ドゥーの足を、その場に縫い止めた。
「――例のクラバの特定は」
「……ポメラニアンズという名義だ」
ドゥーは、ドアの陰に、そっと体を寄せた。
「非合法の興行主が、いくつか噛んでいるだろう。裏取りは」
「まだこれからだ。ただ、クラバの興行に関わっている業者の一つ、カネバン有限公司の可能性が高いという報告が上がっている」
「拠点は」
「……ネノクニ、としか。詳細はまだ絞り込めていない」
それ以上は、声が低くなって、うまく聞き取れなかった。ドゥーは、息を潜めたまま、聞こえた言葉を、頭の中で何度も繰り返した。
――赤いガンダムと、鬼武者。あれは、ポメラニアンズというチームにいる。
――ポメラニアンズは、カネバンという組織のチーム。
――カネバンは、ネノクニにある。
心臓が、少しずつ速く打ち始めていた。
物音を立てないよう、ドゥーはそっと自室へ戻った。ドアを閉め、ベッドに腰を下ろす。
知ってしまった。
誰かに教えられたのではない。自分の耳で聞いて、自分の頭で繋いだ。それだけのことなのに、これまで与えられてきたどんな情報とも、違う重みがあった。
――言えば、また止められる。
その考えが、真っ先に浮かんだ。ゲーツに話せば、間違いなく「近づくな」で終わる。今日の朝の、あの気まずさの中では、なおさらだ。
だったら。
ドゥーは、枕元に置いた薬液のハンカチに、視線をやった。触れる必要はまだなかった。今、胸の中にあるのは、あの焦げつくような疼きではなく、もっと静かな、企みに近い何かだった。
翌日の放課後。
「ドゥー、今日どうする?」
クラスメイトに声をかけられ、ドゥーは一瞬、返事に迷った。
「ごめん、ちょっと用事」
「またぁ? 最近多くない、それ」
「……友達と」
もう何度目かになる言い訳だった。口にするたび、以前ほど胸が痛まなくなっていることに、ドゥーはうっすらと気づいていた。慣れというのは、こういうことかもしれない。
校門を出て、ドゥーはいつもの下町の方向――ジャンク屋のある方角ではなく、その先、これまで足を向けたことのない区画へと歩き出した。
ネノクニ。
名前だけは、これまでも何度か耳にしたことがあった。戦災難民が流れ着く場所。スラム。表向きの、整った街並みの裏側。
実際に足を向けるのは、初めてだった。
ネノクニ駅を降りると、最初は、いつもの下町と、そう変わらないように見えた。
だが、歩みを進めるうちに、建物の様子が変わっていく。継ぎ接ぎの外壁。塗装の剥げた看板。使われているのかいないのか判然としない、雑然と積まれた資材やコンテナ。
通りを行き交う人々の目つきも、学生街のそれとは違っていた。値踏みするような、あるいは見ないふりをするような視線が、ドゥーの制服姿をちらちらと掠めていく。
制服のまま来たのは失敗だったかもしれない、と今更ながらに思う。だが、引き返す気にはならなかった。
ドゥーは、ポケットの中の端末を、それとなく確認した。地図アプリを開いても、この区画は表示が粗く、道の名前すら出てこない場所が多い。頼れるのは、自分の足だけだった。
「……カネバン、有限公司」
小さく声に出してみても、それらしい看板は見当たらない。ネノクニにある、という以上の情報を、ドゥーは持っていなかった。盗み聞きで拾った断片は、それだけの粗さだった。