『比企谷に触られたら腐るぞ――』
小学生の時、幾度となく言われたその言葉が――比喩などではなく、現実のものとなった。
俺――比企谷八幡の個性は『腐食』という。名前の通りだ。俺が触れたものは腐る。有機物も金属も等しく朽ちる。ガラスと陶器と炭素繊維にだけは効かない。理由は知らん。医者にも学者にも聞いたが、誰も納得のいく説明をしなかった。
――要するに、そういうものらしい。
腐り方は接触時間に比例する。一秒触れれば一秒ぶん、一分触れれば一分ぶん。だから握手くらいなら誰も死なないし、手を繋いだままでいれば相手の手は落ちる。
ロマンチックだな。恋愛小説の帯に刷るといい。
『あなたと繋いだこの手は、二度と離せない。離す頃には無いから』
売れる気がする。売れねえよ。
そしてこの個性には、決定的な仕様がひとつある。
オフにできない。
常時発動。二十四時間三百六十五日、俺の皮膚は世界を腐らせ続けている。眠っている間もだ。だから俺は制服の内側に長袖のインナーを着ている。炭素繊維製。学校指定じゃない。学校指定の綿シャツは一週間で穴が開いた。
個性社会だなんだと言うが、要するに世の中は個性を『使える奴』と『使えない奴』に分類しているだけだ。そして俺の個性は第三のカテゴリに属する。すなわち、『使う以前の問題』。
控えめに言って、人生詰んでいる。
だから俺は、家に帰るのに遠回りをする。
駅前を抜けて商店街を通れば十五分の距離を、河川敷に降りて四十分かけて歩く。人とすれ違わないからだ。すれ違わなければ肩がぶつからない。ぶつからなければ謝らなくて済むし、相手が青ざめて飛び退く顔を見なくて済む。合理的な判断である。ぼっちの行動には常に合理性がある。合理性しかないとも言う。
その日も俺はそうしていた。十月の、やたら生ぬるい夜だった。街灯は等間隔に切れていて、河川敷の道は明暗が縞になっている。俺はその縞を数えながら歩いていた。三十七、三十八、三十九。
四十でやめた。
明かりの下に、人が座っていたからだ。
女子高生だった。制服姿で、コンクリートの護岸に腰かけて、足をぶらぶらさせている。それだけなら別にどうということはない。夜の河川敷に女子高生。
よくある。よくあるか? まあいい。
問題は色だった。
街灯の光が届いているのに、その制服の胸元から袖にかけてが、妙に黒い。濡れて光っている。頬にも一筋、同じものが流れた跡がある。
俺の足が止まった。理性が止めたわけじゃない。単に、動かなくなった。
女はこちらを向いた。
「あ」
と、彼女は言った。まるで教室で友達を見つけたみたいな声だった。
「見ちゃった?」
見ちゃったも何も、これだけ堂々と座っていて見るなという方が無理がある。というかその質問、答えたところで俺に得はない。イエスと答えれば口封じの対象になり、ノーと答えれば嘘つきとして口封じの対象になる。二択に見えて一択だ。世の中の二択はだいたいそうである。
だから俺は黙っていた。
女は護岸から飛び降りると、こちらに歩いてきた。近づくにつれて、匂いが分かった。錆びた鉄みたいな匂い。あれは血の匂いだと、後になって知った。
彼女は俺の三歩手前で止まった。首を傾げる。癖なのか、ずいぶん深く傾ける。
「逃げないんだ」
「逃げても追いつかれるだろ」
我ながら悪くない返答だと思った。事実だし、卑屈だし、何より会話を終わらせにいっている。俺の会話術の基本方針は常に『終わらせる』である。
始めない、続けない、終わらせる。三原則だ。
「へえ」
女は笑った。犬歯が覗いた。
「面白いね、キミ」
面白くない。俺の人生で「面白いね」と言われた回数はゼロ回で、その記録が今夜破られたことになるが、破られ方が最悪だ。全身に返り血を浴びた女に更新される記録なんて、あっていいものじゃない。
「ねえ、警察呼ばないの?」
「呼んでほしいのか」
「ううん、全然」
「じゃあ呼ばない」
女はきょとんとした顔をした。それから、腹を抱えて笑い出した。声を殺しもしない。夜の河川敷にその声だけが響いて、川の音が急に遠くなった。
なぜ俺が通報しなかったのか、後から考えると、いくつか理由が立つ。逃げても無駄だから。関わりたくないから。面倒だから。どれも本当だ。
だが一番近いのは、たぶんこれだ。
――この女、俺と同じ側の人間だ。
根拠はない。ただ、彼女が笑った瞬間に分かった。まともな側から見れば、彼女も俺も等しく「そういうもの」でしかない。触れれば腐る男と、血を浴びて笑う女。カテゴリが同じなのだ。
同族嫌悪という言葉がある。だが同族に嫌悪する余裕があるのは、同族が大勢いる奴の話だ。
「ねえ」
女は一歩詰めた。首を傾けたまま、俺の顔を覗き込む。
「キミ、血ぃ出てる」
言われて気づいた。左手の甲だ。学校で、下駄箱を開けようとして金具に引っかけた。金具はその時点で腐り落ちて、鋭利な断面が残っていた。自分の個性で自分が怪我をする。笑えない話だが、俺の負傷はだいたいこの構図だ。
「それ、舐めていい?」
「は?」
「舐めていい?」
二度目は聞き取れた。聞き取れたが、理解はできなかった。
返事をする前に、手首を掴まれた。
速い。俺の反応が遅いのか、彼女が速いのか。たぶん両方だ。
「おい、待て。離せ」
「やだ」
「離せって言ってんだろ。腐るぞ」
「腐る?」
彼女は不思議そうな顔をして、それから俺の左手を持ち上げた。
止められなかった。振り払えば済む話だった。振り払わなかった理由も、たぶんさっきと同じだ。
彼女は俺の手の甲に口をつけた。
その、直後だった。
「――ッ」
弾かれたように、彼女が離れた。
俺の手首から手が離れる。彼女の指が触れていた場所は、うっすらと赤くなっている。数秒ぶんの腐食。皮膚が少し爛れた程度。そんなものはどうでもいい。
彼女は自分の口を押さえて、後ずさっていた。
「あ、ぁ……なに、これ……」
その声は、さっきまでの声じゃなかった。
「なにこれ、痛い、いたい、口の中、焼けて……」
喉を押さえる。咳き込む。地面に膝をついて、彼女は吐いた。
俺は突っ立っていた。何が起きているのか、たぶん俺の方が正確に理解していた。
俺の個性は常時発動だ。皮膚の上でだけ働いているわけがない。血も、唾液も、俺という有機体の一部である以上、それは同じ性質を持っている。
つまり俺の血は、飲めない。
考えたこともなかった。考える機会がなかったからだ。俺の血を飲みたがる人間なんて、この世に存在しないはずだった。
彼女は口元を拭って、顔を上げた。
その目を見て、俺は初めて、本当の意味でぞっとした。
泣いていたからだ。
「なんで」
喉の焼けた声で、彼女は言った。
「なんで、飲めないの」
「知るか」
「私、キミになりたかったのに」
意味が分からなかった。当時は。
その言葉の重さを俺が理解するのは、もっとずっと後になってからだ。彼女にとって「なりたい」がどういう意味を持つのか。他人の血を飲むという行為が、彼女にとって唯一の愛し方だったということ。それを俺だけが、生まれつき拒んでいたということ。
彼女はゆっくり立ち上がった。口の端から血の混じった唾液が垂れていたが、拭かなかった。
そして笑った。
さっきまでの、教室みたいな笑い方じゃない。もっと静かで、もっと深くて、こちらの内側まで手を突っ込んでくるような笑い方だった。
「そっかあ」
彼女は言った。
「キミにはなれないんだ。私」
「……だから何だよ」
「じゃあさ」
首を傾ける。今度は反対側に。
「――そばにいるしかないじゃん」
川の音が戻ってきた。
俺は何も言えなかった。言うべき言葉が思いつかなかったんじゃない。この状況に適用できる言葉が、日本語に用意されていなかったのだ。
彼女は背を向けて、土手を登っていった。途中で振り返って、大きく手を振った。
「またね!」
名前は聞かなかった。聞かれもしなかった。
だから俺は、その夜のことを一年近く、悪い夢として処理していた。返り血の女。焼ける血。またね。全部、疲れた中三の脳が作り出した幻覚ということにしておいた。
人間は都合の悪い記憶を消せる。だが消したつもりのものは、たいてい消えていない。ただ、忘れたふりが上手くなっただけだ。
* * *
一年後の二月。
俺は雄英高校の正門の前に立っていた。
なぜか。理由は単純で、それ以外に行き場がなかったからだ。
俺の個性は危険個性に分類されている。分類されると何が起きるかというと、進路が消える。一般企業は取らない。普通科の高校ですら渋る。国が個性を管理する社会において、管理外の危険個性を放し飼いにする度胸のある組織など存在しない。
残された道はふたつ。国の監視下で登録個性者として生きるか、ヒーロー免許を取って合法的に個性を持つ人間になるか。
前者は実質的な軟禁だ。だから後者を選んだ。
言っておくが、ヒーローになりたいわけじゃない。むしろ逆だ。人助けを職業にして、それを人気投票で採点される社会構造に、俺は本気で吐き気がしている。誰かを助けた回数がグッズの売上に換算される仕事。それをやりたいと思う人間の神経が信じられない。
だが選択肢とは、選ぶものじゃない。残るものだ。
なりたくないものになるしかない。それが俺の受験動機である。志望動機欄には書けない。書いたら落ちる。世の中は建前で回っていて、建前を書けない奴から順番に沈んでいく。
正門をくぐる。受験生の群れ。誰もが浮足立っていて、誰もが自分の個性の話をしている。
俺は誰とも目を合わせずに歩いた。人混みでは肩をぶつけないことが最優先事項だ。俺にとって満員電車は殺人未遂の現場である。
だから、後ろから小走りで来た誰かが躓いたのに、反応が遅れた。
「わっ、と、ごめ――」
声。それから、髪の毛が視界の端をかすめた。明るい色の、団子にまとめた髪。
接触はしなかった。ぎりぎりで彼女が体勢を立て直したからだ。
「ごめんね! 大丈夫だった?」
彼女は謝った。俺の顔を見て、笑って、そのまま友達らしき集団の方へ駆けていった。
こういう時、俺は必ず同じことを考える。
――今、触れていたら。
数秒。ほんの数秒だ。それでも皮膚は爛れる。跡は残る。彼女はそれを一生持って歩くことになる。俺と一度すれ違っただけで。
だから俺は誰にも近づかない。近づかれても離れる。それは優しさではなく、単に責任を取る能力がないことの自覚だ。
俺は前を向いて歩き出した。
試験会場は目の前にある。実技試験。仮想敵を破壊してポイントを稼ぐ、単純明快な選抜方式。腐食は『触れ続けなければ効かない』個性だ。効率で言えば最底辺である。落ちる可能性の方が高い。
まあいい。落ちたら落ちたで、そのとき考える。
どうせ俺の人生は、最初から手遅れなのだ。
そのとき、スピーカーが鳴った。
『――さあ、開始だァ! 実戦に開始の合図なんてねえぞ! 走れ、走れェ!』
そして、地面が揺れた。