USJという施設がある。
正確には『ウソの災害や事故ルーム』という名前で、略してUSJになるらしい。
ネーミングセンスについては何も言うまい。世の中には言及すると負けになる話題がある。
要するに、災害救助の訓練施設だ。水難、土砂崩れ、火災、山岳、市街地。各種の災害を人工的に再現した区画が、ドーム状の建物の中に並んでいる。
来週、そこで救助訓練の授業がある。
その告知が出た日の昼休み、由比ヶ浜が俺の机の前に立った。
「ヒッキー、USJ楽しみだね!」
「災害の話だぞ」
「え、でもニセモノでしょ?」
「ニセモノの災害で人が死ぬ想定の訓練だ。楽しむ要素がない」
「うわ出た、そういうとこ」
由比ヶ浜は勝手に前の席の椅子を引いて、後ろ向きに座った。
こいつは最近、これをやる。昼休みに三分か五分、俺の机の前に座って、意味のない話をして、それから自分のグループに戻っていく。
目的が分からない。
いや、分からないというのは嘘だ。たぶん罪悪感か、義理か、その両方だろう。俺に傷をつけられた側が、俺を気にかけている。構図としては倒錯している。
だから俺は、この時間を早く終わらせようとする。
うまくいったためしがないが。
「そういえばさ――」
由比ヶ浜が言った。
「デクくん、最近どうしたんだろ」
俺は顔を上げた。
「誰だそれ」
「緑谷くん。あ、デクってのはあだ名で、かっちゃんが……あ、爆豪くんね、あの人が呼んでて、それで麗日っちが」
「情報量が多い」
「とにかく緑谷くん! なんかね、最近ずっと元気ないっていうか、昼休みいなくなるっていうか」
「そうか」
「ヒッキー興味なさすぎでしょ」
「ない」
「でもさ、同じクラスじゃん」
「同じクラスの人間の元気を全員把握してたら、脳の容量が足りない」
「そんな重いデータじゃないと思うけど……」
由比ヶ浜は頬杖をついた。
「あたし、あの子ちょっと心配なんだよね。無理してる感じするし」
それだけ言って、彼女は自分の席に戻っていった。
* * *
その日の五時間目、俺は緑谷出久を眺めていた。
理由は特にない。
いや、理由はある。由比ヶ浜が言ったからだ。だが言われたから見たというのは、なんとなく認めたくない。
だから俺は、こう定義することにした。
――暇だったから。
授業中に暇をしている人間が、教室内の他人を観察する。よくあることだ。俺は中学三年間ずっとそうしていた。あれは趣味ではなく、他にすることがなかっただけである。
で、緑谷出久だ。
まず、目立つのは指だ。
右手の人差し指と中指が、包帯で固定されている。三日前もそうだった。一週間前もそうだったが、そのときは別の指だった。
治っては折り、治っては折り。
ローテーションを組んでいるみたいだ。
次に、体格。
入学時と比べて、明らかに肩幅が変わっている。制服のシャツの張り方が違う。二ヶ月足らずで人間の骨格はそう変わらないので、これは筋肉量の増加だ。
筋トレをしている。それも、相当に。
三つ目。
昼休みと放課後の不在。
由比ヶ浜が言っていたやつだ。緑谷は最近、昼休みに教室にいない。放課後もすぐ消える。
――おそらく、誰かに指導を受けている。
俺はそう結論した。
ここまでは、まあ、誰でも辿り着く。
問題はここからだ。
* * *
俺が引っかかったのは、戦闘訓練のときの光景だった。
あいつは指を弾いて、突風を起こした。デラウェアスマッシュ、とか言っていた。技名を叫ぶあたり、根っこがオタクである。
あのとき、俺はこう思った。
――出力に対して、身体が追いついていない。
個性というのは、基本的に身体の一部だ。爆豪の掌は爆発に耐えられるようにできているし、轟の身体は自分の氷で凍らない。個性を持って生まれた人間は、その個性を使うための身体を、同時に持って生まれる。
当たり前の話だ。
自分の能力で自分が壊れる生き物は、進化の過程で淘汰される。
だが緑谷は壊れる。
毎回、確実に、自分の骨を折る。
これはおかしい。
個性と身体が、噛み合っていない。
――まるで。
まるで、身体のサイズに合わない服を着ているみたいだ。
* * *
その日の放課後、俺は校舎裏を歩いていた。
緑谷を探していたわけではない。
俺には人のいない場所を探して歩く癖がある。昼休みも放課後も、校内で最も人口密度の低い座標を探索し、そこで時間を潰す。中学時代からの習慣だ。
だから、これは偶然である。
偶然、旧校舎の裏手の、使われていない渡り廊下に差しかかった。
偶然、そこで声が聞こえた。
『――少年、無理をしすぎだ』
俺は足を止めた。
声の主は分かる。あの音量で喋る人間は一人しかいない。ただし、いつもの半分以下の声量だった。
『まだ君の身体は、この力を受け止められる段階にない』
『でも! 僕は早く……』
『焦る気持ちは分かる。だが君は、私が思っていたより早く進みすぎている』
俺は壁際に立ったまま、動かなかった。
立ち去るべきだったと思う。
だが、足音を立てずにこの場を離れる方法が思いつかなかった。ここの地面は砂利だ。歩けば鳴る。
だから俺は、その場に留まった。留まった結果として、聞いた。
これは盗み聞きではない。物理的制約による滞留である。俺は悪くない。
『君に譲ったこの力は――』
譲った。
俺はその単語を、頭の中で二回繰り返した。
『――私にも、時間がない』
* * *
会話はそこで終わった。
足音が二つ、こちらとは反対方向へ遠ざかっていく。俺は数を数えて、五十まで数えてから、渡り廊下の角から顔を出した。
オールマイトの背中が見えた。
昇降口のほうへ歩いていく。
――あ。
俺はそこで、目を細めた。
距離は三十メートルほど。夕方の逆光で、シルエットだけが見える。
肩幅が、狭い。
いや、そんなはずはない。あの人は身長二メートル超えの巨漢だ。テレビで見ても実物で見ても、あのシルエットは変わらない。
だが今、俺の目に映っている影は――
瞬きをした。
次の瞬間には、いつものシルエットに戻っていた。
* * *
帰りの電車で、俺は考えていた。
情報を並べる。
一、緑谷出久の個性は、本人の身体と噛み合っていない。使うたびに壊れる。
二、オールマイトは緑谷に個別指導をしている。他の生徒にはしていない。
三、オールマイトは「譲った」と言った。「この力を」と。
四、オールマイトは「私にも時間がない」と言った。
五、俺は入学式の日から、あの人の動きに違和感を持っている。あの質量にしては、床が鳴らなすぎる。
六、さっき見た影は、細かった。
* * *
ここから導かれる仮説は、ひとつしかない。
――譲渡可能な個性が存在する。
俺は電車の窓に映る自分の顔を見た。
我ながら、ひどい顔をしている。
この仮説は、控えめに言って荒唐無稽だ。
個性は遺伝形質である。血液型や目の色と同じで、譲ったり貸したりできるものではない。それは個性社会の大前提であり、小学校の理科で習う内容だ。
個性が移動するなら、社会構造が根本から変わる。強い個性を集めて一人に集約すれば、無敵の存在が作れる。逆に、他人から個性を奪うことも可能になる。
そんな技術が存在するなら、とっくに世界は別の形になっている。
だから、ありえない。
* * *
もうひとつ。
オールマイトの身体が、何らかの理由で維持できなくなっている、という仮説。
こっちは、まだマシだ。
個性には反動があるものが多い。強力な個性ほど、身体への負荷が大きい。あの人が三十年近く現役でいるなら、消耗があってもおかしくない。
時間がないというのは、引退の話かもしれない。
――だが。
二つの仮説を、俺は無理やり並べてみた。
オールマイトが自分の個性を維持できなくなっている。だから後継者に譲った。譲られた後継者――つまるところ緑谷は、その力に身体が追いついていない。だから毎回壊れる。
筋は通る。
通ってしまう。
* * *
俺は、笑った。
電車の中で一人で笑ったので、隣の乗客が離れた。まあ、いつものことだ。
馬鹿馬鹿しい。
いくらなんでも、話ができすぎている。
考えてもみろ。個性の譲渡なんてものが存在して、世界最強のヒーローが後継者を選んでいて、その後継者がたまたま俺のクラスにいる。
少年漫画か。
俺は今、少年漫画の読みすぎで現実に妄想を投影している中学二年生と同じことをやっている。高校一年生なので、ぎりぎり時期外れなまである。
証拠は何もない。
断片的な会話。逆光のシルエット。骨折の頻度。全部、別の説明が可能だ。
「譲った」は技術指導の比喩かもしれない。「時間がない」は多忙という意味かもしれない。シルエットは目の錯覚だ。逆光なんてそんなものだ。
俺は自分の推論を、順番に潰していった。
潰し終わって、なお残ったものが、少しだけあった。
残ったものは、頭の隅に置いた。
* * *
誰かに言うか、という選択肢は、一度も浮かばなかった。
第一に、言う相手がいない。
第二に、仮に相手がいたとして、内容が荒唐無稽すぎる。「オールマイトの個性が緑谷に移った気がする」と言い出す高校生を、俺なら病院に連れていく。
第三に、正しかった場合のほうが厄介だ。
もしこれが真実なら、これは国家機密に近い。世界最強のヒーローが弱っているという情報は、それだけで社会が揺れる。そんなものを知っている人間が、生きていて得をするとは思えない。
だから黙る。
黙るのは得意だ。ずっとそうしてきた。
ただ、ひとつだけ。
自分について、認めておきたいことがある。
俺は今、少しだけ気分がいい。
それはたぶん、誰も知らないことを自分だけが知っているという状況が、俺の中の何かを満たしているからだ。
情報の非対称は、俺にとって数少ない優位性だ。個性が弱く、身体能力が低く、コミュニケーション能力が壊滅している人間にとって、気づいているという状態だけが、唯一の武器になる。
それに――
秘密を抱えている人間は、抱えているというだけで、その相手と繋がった気になる。
実際には何も繋がっていない。向こうは俺の存在すら認識していない。一方的で、無害で、完全に空虚な繋がりだ。
だが俺は、それを心地よく感じている。
――気持ち悪いな。
俺は電車の窓に額をつけて、目を閉じた。
* * *
翌日の昼休み、俺は自販機の前で緑谷と鉢合わせた。
あいつは俺を見て、少し慌てた顔をした。
「あっ、比企谷くん」
「よう」
「え、えっと、その、来週のUSJ楽しみだね!」
会話の導入が下手すぎる。
この男は俺と同じ側の人間だ。人と話す訓練を積んでいない人間の喋り方をしている。
「そうだな」
「比企谷くんの個性、救助だと結構強いと思うんだ! 瓦礫の除去とか、あと閉じ込められた人を助けるときとか、腐らせて穴を開けられるでしょ? 入試のときみたいに」
こいつ、俺の入試の話を覚えている。
というか、たぶん分析している。ノートに書いてある気がする。
「そうかもな」
「うん! だから僕、比企谷くんとチーム組めたらいいなって……」
言いかけて、緑谷は言葉を切った。
自販機のボタンを押す。缶コーヒーが落ちてくる。
その動作を、右手の包帯が邪魔していた。
俺はそれを見ながら、口を開いた。
「緑谷」
「うん?」
「その指」
「あっ、これは、ちょっと訓練で……」
「無理してんだろ」
緑谷の動きが止まった。
俺は缶を取り出しながら、続けた。
「毎週どっか折ってる奴を、無理してないとは呼ばん」
「……」
「別に説教する気はない。俺には関係ないしな」
俺は缶を開けた。
「ただ、そのペースだと、そのうち誰かに気づかれるぞ」
緑谷が、こっちを見た。
顔から、色が抜けていた。
俺はそれを確認して、視線を外した。
「じゃあな」
それだけ言って、その場を離れた。
背中に視線を感じたが、振り返らなかった。
* * *
なぜ言ったのかは、自分でもよく分からない。
言わなくてもよかった。むしろ言わないほうが安全だった。俺が何かに気づいていると相手に知らせるのは、情報の非対称を自分から捨てる行為だ。
合理的に考えて、損である。
――ただ。
あいつが自販機のボタンを、包帯の指で押していたのを見て。
それを見た瞬間に、口が動いた。
ただそれだけの話だ。
深い意味はない。
ないことにしておく。