バスの座席というものには、力学がある。
後方ほど不可侵で、通路側より窓側が上位で、隣が空いている席は勝者の証である。
俺は最後尾の通路側に座り、隣の席に鞄を置いた。
これは防衛線だ。鞄をどけろと言える人間は限られている。世の中の大半の人間は、他人の荷物が置かれた席に「そこ空いてますか」と聞くコストを払いたがらない。よって、この席は空き続ける。
完璧な設計である。
「ヒッキー、ここ空いてる?」
「……空いてない」
「鞄じゃん」
由比ヶ浜結衣は俺の鞄を持ち上げて、俺の膝の上に置いた。
そして座った。
防衛線が三秒で崩壊した。
「なんでお前は俺の設計を毎回破壊するんだ」
「設計?」
「なんでもない」
「ふーん。あ、そうだ聞いてよ、さっきね、峰田くんが女子の席の並び順に文句言っててさ」
由比ヶ浜が喋り始めた。
俺は窓の外を見ることにした。話を聞かないという意味ではなく、聞きながら別のことができる程度の内容だからだ。
通路の反対側では、緑谷と麗日が話している。緑谷は昨日から俺と目を合わせない。
まあ、当然か。
その前の席で、雪ノ下が文庫本を読んでいる。姿勢がいい。バスが揺れても背骨の角度が変わらない。
「――ヒッキー、聞いてる?」
「聞いてる。峰田が席順に文句を言ったんだろ」
「その先は?」
「知らん」
「聞いてないじゃん!」
* * *
USJの内部は、想像より広かった。
ドームの中に、複数の区画が並んでいる。水難、土砂崩れ、火災、山岳、市街地。それぞれが本物の縮尺で作られていて、境界だけが不自然に区切られている。
災害のショールームだ。
これらは全部ウソの災害で、ウソの遭難者がいて、ウソの緊急事態が発生する。
そのウソに、俺たちは本気で対処する訓練をする。
「私が担当します! スペーススーツの宇宙飛行士! No.13です!」
説明役の教師は、宇宙服のような姿をしていた。個性は『ブラックホール』。あらゆる物質を吸い込んで塵にする。
――俺と似た系統だな。
俺はそう思った。触れたものを分解する能力。俺のは遅く、あの人のは速い。
「私の個性は、使い方を誤れば簡単に人を殺せます」
「皆さんの中にも、そういう個性を持つ人がいるでしょう。……ですが、忘れないでください。個性は本来、誰かを救うためにあるのです」
クラスがざわつく。何人かが頷いている。
俺は頷かなかった。
いい言葉だとは思う。
思うが、俺には適用できない。
俺の個性は、使い方を誤ると人を殺す個性ではない。使い方に関係なく、触れたものを壊す個性だ。誤用と正用の区別が存在しない。
救助に使えるか、と考えてみる。
瓦礫は除去できる。壁に穴を開けられる。閉じ込められた人間のところまで、道を作ることはできる。
――だが、そこから先がない。
掘り出した人間を抱えて運ぶことができない。抱えれば腐る。手を引くこともできない。担架に乗せて押すのが限界だ。
結局、俺にできるのは物を壊すことだけで、人に触れることじゃない。
救助の現場で、俺は道具にはなれても、手にはなれない。
――道具で十分だろ。
俺は自分にそう言い聞かせた。
言い聞かせないと、たまに面倒なことを考えそうになる。
* * *
説明の途中、俺は雪ノ下の隣に立っていた。
意図的ではない。整列した結果そうなっただけだ。
「……手」
「え?」
「指、治ったのか」
雪ノ下が自分の右手を見た。
あの日、俺の手首を掴んだ手だ。人差し指と中指の先に、うっすらと変色が残っている。
「問題ないわ」
予想通りの返答だった。
「ただ、感覚が少し鈍いわね。細かい作業のときに気づく程度だけれど」
予想外の追加情報だった。
この女は、こういうところで嘘をつかない。
「……悪かったな」
「なぜあなたが謝るの」
「俺の個性だからだ」
「私が自分の判断で触れたのよ。仮説の検証コストを、あなたが払う理由はないわ」
合理的すぎる。
俺は少し黙ってから、話題を変えた。
「体育祭、出るのか」
「当然でしょう」
「そうか」
「……あなたは?」
「一応出る。欠席したら単位がどうこう言われるらしいからな」
「不真面目ね」
「真面目にやる理由がない」
雪ノ下は正面を向いたまま、言った。
「私にはあるわ」
声の質が、少し変わった。
「――私は、負けられないの」
俺は横目でそれを見た。
その表情に含まれていたものは、闘志ではなかった。もっと硬くて、もっと疲れているものだった。
誰かと戦う顔じゃない。何かに追われている顔だ。
俺は聞かなかった。
こういうときに踏み込んで、いいことがあった試しがない。
* * *
それから、二分後。
中央広場に、黒い霧が湧いた。
最初は、演出だと思った。
訓練施設だ。この手の施設には演出装置が付いているものだ。地震も火災も、スイッチひとつで再現される。だから黒い霧が出ても、俺は土砂崩れの粉塵か――くらいに思った。
だが、相澤先生がゴーグルを下ろした。
「――集まれ! あれはヴィランだ!」
空気が変わった。
霧の中から、人が出てくる。
一人。三人。十人。二十人。数えるのをやめた。
全員が異形か、あるいは武装している。統一感がまるでない。集団というより、寄せ集めだ。
「
相澤先生が走り出した。
あの人の個性は『抹消』。見た相手の個性を消す。だが対象は一度に数人が限度のはずだ。
あの数に、突っ込んでいく。
――正気か。
俺がそう思った瞬間、視界が黒く塗り潰された。
* * *
背中から落ちた。
傾斜。土。転がる。何度か回転して、腕で顔をかばって、ようやく止まった。
咳き込む。口の中が砂だらけだ。
「――っ、げほっ」
起き上がる。
土砂崩れゾーンだった。
崩落した山肌を再現した区画。傾斜のきつい斜面に、岩と土砂と、折れた木が散乱している。上のほうには壊れた建物の一部が半分埋まっていた。
空気が埃っぽい。
「ヒッキー!」
声がした。
由比ヶ浜が斜面の下から登ってくる。膝を擦りむいているが、動けている。
「大丈夫!? あたし、いきなり真っ暗になって」
「ワープだ。おそらく……個性で飛ばされたんだろう」
「え、じゃあみんなは」
「バラバラだろうな」
俺は周囲を見回した。
もう一人いる。
斜面の上、十メートルほどの位置に、雪ノ下が立っていた。埃をかぶっているが、無傷だ。落下時に足元を凍らせて衝撃を殺したのだろう。
「二人とも、動けるかしら」
「一応な」
「なら合流を。斜面の上に――」
彼女の言葉が止まった。
俺も、そのとき気づいた。
土砂が、動いている。
崩落ではない。人が掘り返している音だ。
斜面のあちこちから、人間が這い出してきていた。
六人。
いや、八人。
全員が黒っぽい服を着ていて、全員が笑っていた。
「おいおい、こっちにも来たぜ」
「三人か。餓鬼が三人」
「殺せって言われてんのはオールマイトだけだろ?」
「んなもん、ついでにやりゃいいんだよ」
会話の質が低い。
この時点で俺はひとつ理解した。こいつらは組織の中枢ではない。金か暴力で集められた末端だ。
だが、末端でも人は殺せる。
「――比企谷くん、由比ヶ浜さん」
雪ノ下の声は落ち着いていた。
「私が正面を抑えるわ。あなたたちは」
「待て」
俺は遮った。
「氷は使うな。まだ」
「なぜ?」
「足場が土砂だ。凍らせると固まって、俺の腐食が通らなくなる。……お前の氷は、俺の個性を止める」
雪ノ下が、一瞬で理解した顔をした。
「そうだったわ。相性が悪かったわね、私たち」
「……ああ。最悪の部類だ」
* * *
戦闘は、こちらの想定より速く始まった。
一人が斜面を駆け上がってきた。個性は身体強化系だろう。速い。
由比ヶ浜が前に出た。
「――っ、来ないでっ!」
両手を広げる。
瞬間、周囲の岩と土砂が一斉に浮き上がり、彼女のほうへ吸い寄せられた。
突っ込んできた男が、その流れに巻き込まれる。土砂と一緒に引き寄せられて、岩に激突した。
「うおっ、なんだこりゃ!」
「引力っ!」
由比ヶ浜が叫ぶ。
悪くない。入試のときとは制御の質が違う。範囲と強度を意識的に操作できている。
だが、彼女の弱点は明確だ。
――全部、自分のほうに来る。
「由比ヶ浜、下がれ!」
俺は叫んだ。
彼女が吸い寄せた岩が、彼女自身に降り注ごうとしていた。
そこに雪ノ下が割り込んだ。
地面に手をつく。斜面の一部が瞬時に凍りつき、岩の落下軌道を逸らした。
「由比ヶ浜さん、範囲を狭めて。全部を吸うのではなく、対象を選んで」
「え、えっと、うんっ!」
連携が成立している。
この二人、相性がいい。引き寄せる女と、止める女。
――俺の出番がない。
そう思った矢先だった。
斜面の横から、二人が回り込んできた。
由比ヶ浜と雪ノ下の視界の外だ。
一人の腕が、鎌のように変形している。個性だ。もう一人はナイフを持っている。
狙いは、由比ヶ浜の背中。
距離、六メートル。
俺の位置からは、三メートル。
――間に合う。
考える前に、身体が動いていた。
鎌の男の腕を、両手で掴んだ。
変形した部位はキチン質か何かに近い。硬い。だが有機物だ。
「あぁ? なんだお前」
男が笑った。
俺を振り払おうとする。力が強い。俺は振り回されて、足が地面から離れた。
離さない。
一秒。
二秒。
三秒。
「……っ、は?」
男の笑みが消えた。
鎌の表面が、黒く変色していた。
「なん、だこれ、腕が」
五秒。
鎌の付け根から、ひび割れが走った。
「うわああああっ!」
男が絶叫して、俺を投げ飛ばした。
俺は斜面に叩きつけられ、二回転して止まった。
肋骨に嫌な感触があったが、動けた。
男は自分の腕を押さえてのたうち回っている。腐食は止まらない。俺が離れた時点で進行は止まるが、既に壊れた組織は戻らない。
――五秒で、こうなる。
人間相手には、これが限界だ。
これ以上やったら、腕が落ちる。
* * *
「ヒッキー!」
由比ヶ浜が振り返った。
その隙に、ナイフの男が彼女に迫っていた。
雪ノ下が氷を放つ。だが男は横に跳んで避けた。速い。
距離が詰まる。
由比ヶ浜が振り向く。間に合わない。
俺は走った。
間に合わない。
――計算した。
三メートル。俺の脚では一秒弱。ナイフの到達まで、〇・五秒。
届かない。
だから俺は、走りながら、右手に目をやった。
手のひらの、さっき鎌野郎の鎌を握った時にできた切り傷。パックリと切れているおかげで血がダラダラと流れていた。
そこを指で押し広げて、血を指の先まで滴らせ――
ナイフ野郎を目掛けて、手を振るった。
狙いは男の顔だった。
外れた。俺の投擲精度は最悪だ。
だが、肩に当たった。
血が、服に染みる。
「――っ、なんだ、水?」
男が動きを止めたのは、一瞬だった。
その一瞬で、俺は距離を詰めた。
そして次の瞬間、男が悲鳴を上げた。
「ぎっ、あああっ! 熱っ、なんだこれっ!」
血の付いた肩口が、黒く沈んでいく。
服が溶け、その下の皮膚が変色する。
速い。
皮膚接触の三倍。俺が瓦礫の下で見た、あの速度だ。
男はナイフを落として、肩を掻きむしった。掻きむしるほど広がる。
俺は落ちたナイフを蹴り飛ばして、由比ヶ浜の腕を――掴もうとして、やめた。
「下がれ」
「え、う、うんっ!」
* * *
残りの敵は、そこで動きを止めていた。
仲間の二人が、地面を転がって悲鳴を上げている。片方は腕が使い物にならない。もう片方は肩が崩れていく。
どちらも死んでいない。
だが、どちらも戦えない。
「……なんだ、あいつの個性」
「触られたら終わりだ、近づくな」
「血だ! 血をかけられたぞ!」
恐怖が伝染していく。
俺はその真ん中に立って、右手を上げた。
手のひらの傷からは、まだ血の筋が垂れていた。
――ああ。
これ、使えるんだな。
俺は自分の手を見ながら、そう思った。
三ヶ月前、『使えないが面白い知識』の棚に放り込んだやつだ。
撃つたびに自分が減る武器。
――減るのは、俺だけだ。
それは、俺にとって、たぶん一番都合がいい。