恐怖には、二種類ある。
逃げる恐怖と、賢くなる恐怖だ。
前者は楽でいい。相手が勝手にいなくなる。
問題は後者だ。恐怖した人間が、恐怖の原因を分析して、対策を立ててくる。これが一番厄介である。
そして残り六人のヴィランは、後者を選んだ。
「――近づくな! あいつは触られたら終わりだ!」
「距離取れ! 遠くから潰せ!」
斜面の上から、岩が飛んできた。
個性で射出しているらしい。バレーボール大の岩塊が、俺の頭上を掠めて背後の木を折った。
「ヒッキー!」
「わかってる」
俺は身を伏せた。
これだ。
俺の個性の本質的な欠陥。射程ゼロ。
触れなければ何も起きない。触れさせなければ、俺は無害な男子高校生である。しかも運動能力は平均以下で、防御手段は何もない。
要するに、間合いを取られた瞬間に詰む。
――さっきまで恐れられていたのに。
恐怖というのは持続しない。人間は三十秒あれば、恐怖の対象を対処可能な問題に翻訳できてしまう。
* * *
雪ノ下が斜面の岩陰に滑り込んできた。
「状況の共有を」
「見ての通りだ。俺は近づけない」
「射程は」
「ゼロだ」
「……訂正して。先ほど血を投げていたでしょう」
「あれは射程二メートルだ。しかも命中しない」
雪ノ下が眉を寄せた。
俺は続けた。
「俺の投擲能力は絶望的に低い。体育の授業でソフトボールを二十九メートルしか投げられなかった男だ。しかも血は液体で、風で散る。狙って当てるものじゃない」
「では、なぜ当たったの」
「相手が動きを止めてたからだ。あれは偶然だ」
雪ノ下は数秒黙って、それから言った。
「合理的な自己評価ね。……好ましくはないけれど」
「事実だ」
「ええ、事実よ。だから使えるわ」
彼女は斜面の上を見た。
「六人。全員が距離を取っている。つまり全員が、あなたに触られることを恐れている」
「そうだな」
「なら、あなたが動けば、彼らは動く」
――囮か。
俺はその発想の速さに、少し感心した。
「私と由比ヶ浜さんで挟む。あなたは、彼らの注意を引くだけでいい」
「俺が死んだらどうする」
「死なせないわ」
即答だった。
こういうのを平然と言えるあたり、この女は本当に厄介だと思う。
* * *
作戦は単純だった。
俺が斜面を横切る。敵の注意が俺に集まる。その隙に由比ヶ浜が引力で敵を引き寄せ、雪ノ下が着地点を凍らせる。
問題は、俺が単純に死にかけることだ。
「行くぞ」
俺は岩陰から飛び出した。
三歩目で、最初の岩が飛んできた。
避けた。というより、転んだ。転んだ結果として避けた。
四歩目で、二つ目。肩を掠めた。
「そこだ! あいつを潰せ!」
注意は完璧に集まっている。
――計画通りだが、計画が最悪だ。
俺は斜面を走り続けた。走るというより、転がりながら移動している。土砂の斜面は足場が悪く、一歩ごとに崩れる。
五人が俺を狙っていた。
残り一人が、まだ動いていない。
その一人が、由比ヶ浜のほうを向いていた。
――気づかれてる。
「由比ヶ浜! 右!」
叫んだ瞬間、彼女が動いた。
両手を突き出す。空気が唸った。
男が、宙に浮いた。
引力に掴まれて、彼女のほうへ引き寄せられる。
「――ゆ、ゆきのん!!」
「ええ」
雪ノ下が地面に手をついた。
男の落下地点に、氷が咲いた。
男は氷の上に叩きつけられ、そのまま足首から下を凍らされた。抜けない。
一人、無力化。
* * *
残り五人。
だが、こちらも消耗している。
俺は斜面の中腹で膝をついていた。肋骨がまずい。さっき投げ飛ばされたときのやつだ。呼吸するたびに刺すような痛みがある。
そして、右手が濡れていた。
傷が塞がっていない。
当然だ。俺の個性は自分の身体にも作用する。俺の傷は治りが遅い。人より血が止まらない。
――ちょうどいいじゃないか。
俺はそう考えた。
弾切れの心配がない。
* * *
二人目は、俺が仕留めた。
斜面を降りてきた男が、俺を蹴り飛ばそうとした。距離が詰まった。
俺は避けずに、右手を振った。
血が散った。
男の顔にかかった。
「――ぎゃあああっ!」
目に入ったらしい。
男は顔を押さえて転げ回った。俺はその横を通り抜けながら、少しだけ考えた。
目に入ったら、たぶん失明する。
――やりすぎたか。
だが、こいつは俺を蹴り殺そうとしていた。
等価だ。等価ということにしておく。
* * *
三人目は、雪ノ下が凍らせた。
四人目は、由比ヶ浜が岩ごと吸い寄せて叩きつけた。
残り二人。
その頃には、俺は立っているのがやっとだった。
視界の端が暗い。指先が冷たい。頭の中に薄い膜が張ったような感覚がある。
――これは。
知っている。貧血の症状だ。
血を三回使った。一回あたりは数十ミリリットルだろう。合計しても、たいした量じゃない。献血のほうがよほど抜く。
だが、俺の傷は止まらない。
使った量より、垂れ流している量のほうが多い。
俺は右手を見た。
手首まで赤い。袖が重い。
――ああ。
俺の武器は、こういう仕組みか。
撃つたびに自分が減る。それは知っていた。
知らなかったのは、減り続けるということだ。撃ち終わっても止まらない。銃口から自分の血が流れ続ける。
控えめに言って、欠陥品である。
* * *
「ヒッキー、それ――」
由比ヶ浜が俺の右手を見た。
顔色が変わった。
「……血、すごい」
「掠り傷だ」
「掠り傷でそんなことになるわけないじゃん!」
「俺の傷は治りが遅い。個性のせいだ。……昔からだ」
「じゃあなおさら止めなよ!」
「止まらん」
「そうじゃなくて!」
由比ヶ浜が声を張り上げた。
俺は少し驚いた。こいつがこの声を出すのを、初めて聞いた。
「使うのやめてって言ってんの! 自分の血なんか使ってさ、そんなの、そんなの――」
彼女は言葉を探した。
見つからなかったらしく、口を開いて、閉じた。
俺は続きを待った。
待ったが、来なかった。
「……なんでもない」
彼女は俯いた。
その代わりに、こう言った。
「あたしのほうが、体力あるから。前出るから」
そして、俺の前に立った。
俺の背中を守る位置ではない。俺の前に立って、盾になる位置だ。
――やめろ。
そう言いかけて、言えなかった。
なぜ言えなかったのかは、あとで考えることにした。
* * *
最後の二人は、頭が良かった。
斜面の上、二十メートル。動かない。じっとこちらを見ている。
消耗を待っているのだ。
こちらは三人。うち一人は失血中。時間が経てば経つほど不利になる。あいつらはそれを理解している。
「膠着ね」
雪ノ下が言った。
「このままだと、比企谷くんが先に倒れるわ」
「言い方に配慮がない」
「事実だもの」
「事実は配慮して言うものだ」
「では、こう言い換えるわ。――比企谷くん、あなた三分で倒れるから、二分で決着をつけましょう」
まったく配慮されていない。
だが、そのおかげで頭が動いた。
俺は斜面を見た。
土砂崩れゾーン。崩落した山肌の再現。斜面の上には、壊れた建物の一部が半分埋まっている。
あの建物。
俺は、それを支えている構造を目で追った。
鉄骨。地面に埋まった部分。斜面の土を押さえている擁壁の役目を果たしている。
「雪ノ下」
「なにかしら」
「斜面全体を凍らせられるか」
「規模による、と言いたいところだけれど」
彼女は斜面を見上げた。
「表層だけなら可能よ。深くは無理」
「表層でいい。凍らせて、重くしろ」
「――ああ」
この女は、一言で理解する。
「氷の重量で、斜面の荷重を増やすのね。そして支持構造を抜く」
「俺がやる」
「あなた、そこまで登れるの」
「登らない」
俺は自分の右手を見た。
まだ血が垂れている。
――使いどころだ。
* * *
俺は斜面を這って登った。
走らない。走れない。四つん這いで、土に指を沈めながら、少しずつ。
二人のヴィランは俺を狙った。当然だ。這っている人間は的である。
だが由比ヶ浜が前に出た。
飛んでくる岩を、引力で軌道を曲げる。全部は無理だ。半分は当たる。俺の背中に、肩に、脚に。
痛い。だが動ける。
十メートル。
鉄骨が見えた。
斜面から突き出た、赤錆びた鉄の柱。太い。俺が握って腐らせるには、十分や二十分では足りない。
だから握らない。
俺は右手を鉄骨に押し当てて、傷口を擦りつけた。
血を、塗った。
根元まで。埋まっている部分の際まで。
そして待った。
三秒。
五秒。
――速い。
血の腐食は、皮膚接触の三倍。錆びた鉄骨は、既に脆くなっている。
十秒。
鉄が、黒く沈んだ。
「雪ノ下! 今だ!」
斜面が、白くなった。
上から下へ、氷が走った。表層数センチ。だが面積が広い。土砂の斜面全体に、氷の膜が張った。
重量が、増えた。
そして、それを支えていた鉄骨が――
折れた。
* * *
音が、遅れて来た。
地鳴りだった。
斜面が動いた。氷ごと、土砂ごと、上から下へ。
二人のヴィランが、その真ん中にいた。
「うわっ、うわああっ!」
足を取られる。氷の上を滑る。滑りながら、土砂に巻き込まれる。
俺も巻き込まれた。当然だ。俺は斜面の中腹にいる。
――しまった。
そこまでは計算していなかった。
視界が回転して、土と氷と埃が口に入って、そして――
身体が、止まった。
いや、浮いた。
「――っ、ヒッキー!」
由比ヶ浜が両手を突き出していた。
俺の身体が、彼女のほうへ引き寄せられている。土砂の流れから引き抜かれて、斜面の外へ。
着地は最悪だった。いや、ある意味では最高だったのかもしれない。
以前突き止めたとおり、彼女の引力の起点は胸元だ。つまるところ俺の引き寄せられた先は、ある意味高校生離れな双丘。そこに顔面から突き当たり、極楽浄土への路が見えた。
「――ちょっ!! ヒッキー、マジ変態!!」
理不尽な罵声と共に無情にも個性が解除され、今度は地面に落下した。顔面から。
色々な意味で鼻からも血が出た気がする。
だが、生きていた。
* * *
土砂は斜面の下に溜まり、二人のヴィランは腰まで埋まって動けなくなっていた。
俺は仰向けに倒れたまま、それを見ていた。
六人。全員無力化。
「……終わったのか」
「終わったわね」
雪ノ下が斜面を降りてきた。
息が上がっている。この女がここまで消耗しているのを見るのは初めてだ。
由比ヶ浜は俺の横に膝をついて、俺の右手を見ていた。
「……病院、行こ」
「そのうちな」
「今すぐ」
「動けん」
「あたしが運ぶ」
俺は少し笑った。
笑ったら肋骨が痛んで、咳き込んだ。
* * *
中央広場に戻ったのは、それから十分後だった。
地面が抉れていた。
建物の柱が折れ、噴水が砕け、そこら中に人が倒れている。
その真ん中で、オールマイトが戦っていた。
相手は、人の形をした何かだった。
脳が露出している。黒い巨体。オールマイトの拳を受けて、平然と立っている。
俺は足を止めた。
――押されてる。
オールマイトが、押されている。
あの人は、俺が生まれる前から世界最強だ。テレビの中で、あの人は必ず笑って勝つ。負ける姿を見たことがない。
その人が、拳を打ち込んで、打ち返されて、後退している。
息が上がっている。
脇腹を押さえている。
俺の頭の中で、あの仮説が動いた。
電車の中で笑い飛ばしたやつだ。
オールマイトが自分の個性を維持できなくなっている。だから後継者に譲った。譲られた人間は、まだその力に耐えられない。
少年漫画か、と俺は嗤った。
嗤ったはずだった。
だが今、目の前にあるのは、消耗した最強の男の背中だ。
――当たってるかもしれない。
そう思った瞬間、俺の中に湧いた感情は、優越でも興奮でもなかった。
もっと単純で、もっと嫌なものだった。
この世界の一番強い柱が、腐りかけている。
そういう場所に、俺たちは立っている。