最強という言葉の意味を、俺は今日、初めて理解した気がする。
あれは強さの単位ではない。
誰かがそこにいる限り、他の全員が考えなくていいことの総量だ。
オールマイトがいるから、俺たちは災害の訓練を安心して受けられる。オールマイトがいるから、犯罪率が下がる。オールマイトがいるから、この国の人間は『誰かが何とかする』という前提で日常を送れる。
その前提が、今、脇腹を押さえている。
* * *
脳が露出した怪物は、オールマイトの拳を三発受けて、まだ立っていた。
いや、立っているどころではない。
殴り返している。
オールマイトの身体が吹き飛んで、地面を削って止まった。その距離が二十メートル近くある。
「――オールマイト!」
誰かが叫んだ。緑谷だ。中央広場の水辺のあたりに立っている。
オールマイトは立ち上がった。笑っていた。
『問題ない! 少年たちは下がっていろ!』
問題はある。
俺のいる位置からは、あの人の呼吸が見える。肩が上下している。あれは全力で走った人間の呼吸だ。
そして、その後方に。
黒い霧が湧いた。
「――オールマイト。まだお元気そうですね」
霧の中から、声が響いた。
人の形をしていない。霧そのものが喋っている。目のような光が二つ、宙に浮いている。
あれがワープの個性だ。俺たちを飛ばした奴。
『貴様か』
「ええ。……ですが、そろそろ終わりにしましょう」
霧が、オールマイトの足元に広がった。
そして。
オールマイトの右腕が、霧の中に沈んだ。
『――ぐっ』
沈んだのではない。転送されている。
俺は理解した。あいつはワープで、対象の身体を部分的に別の場所へ送っている。
腕の半分がここにあって、残りがどこかにある。
その状態で、脳が露出した怪物が拳を振り上げた。
* * *
「――どけやァ!」
爆発音。
斜面の向こうから、三人が飛んできた。
爆豪勝己。轟焦凍。それに赤髪の男子――切島だ。
爆豪が霧に突っ込んだ。掌を突き出して、爆発。
霧が晴れた。というより、爆風で吹き散らされた。
「霧のクセに実体あんじゃねえか、テメェ!」
「なっ――」
オールマイトの腕が自由になった。
同時に轟が地面に手をつく。氷が走って、怪物の足を固めた。
「先生、離れてください」
『少年たち! なぜここに――』
「他のヴィランは全員片付けたっス!」
切島が親指を立てた。
俺は少し離れた位置で、それを見ていた。
――駆けつけたのか。
三人とも、自分のエリアの敵を倒して、そのまま中央に来た。誰かに指示されたわけではない。
あれがヒーロー科の生徒というものらしい。
「比企谷くん」
隣で、雪ノ下が言った。
「行くわ」
俺は聞き返した。
「どこに」
「あそこよ」
彼女は中央広場を指した。
俺は数秒、その指先を見ていた。
「……本気か」
「本気よ」
「相澤先生も、十三号も倒されてる。オールマイトが押されてる。あの怪物に俺たちが何をできる」
「何もできないでしょうね」
「なら」
「けれど、私の氷は轟くんの氷を補強できるわ。由比ヶ浜さんの引力は、あの霧を集められるかもしれない。……そして、あなたの個性は」
雪ノ下はこちらを見た。
「あの怪物にも効くはずよ。生き物であるなら」
――そうかもしれない。
だが五秒で腕が壊れる程度の速度で、あの化け物を止められるとは思えない。
「あたしも行く」
由比ヶ浜が言った。
こいつは俺の右手を見て、それから前を向いた。
「ヒッキーは残ってていいよ。血、まだ止まってないし」
「……」
「あたしたちが行くから」
――ああ。
こういう言い方をするのか。
俺を除外するのではなく、俺の代わりに行くと言う。断りやすい形にして、それでも自分は行く。
こういうのが、一番厄介だ。
俺は自分の右手を見た。
手のひらの傷は塞がっていない。袖が重い。視界の端が暗いのも、まだ続いている。
合理的に判断すれば、残るべきだ。
俺が行っても戦力にならない。むしろ守る対象が増えるだけで、二人の足を引っ張る。
これは計算ではなく、事実だ。
――だが。
残った場合、俺はこの後、何を考えて生きることになる。
二人が中央広場へ走っていって、それを斜面の上から見ていた自分を、俺は一生記憶に残す。俺の記憶は都合の悪いことをよく覚える。
それはたぶん、失血より面倒だ。
「……待て」
俺は立ち上がった。
「行く」
「え、でも」
「お前らだけで行かせて、後で説教されるほうが面倒だ」
「誰に?」
「知らん」
俺は歩き出した。
* * *
中央広場に着いたとき、状況は変わっていた。
怪物が、轟の氷を砕いていた。
脚を固められたはずが、氷ごと足を振り抜いている。轟が舌打ちして、もう一度氷を伸ばす。
「ショックを吸収してるっス! こいつ、殴っても効かねえ!」
「爆破も効かねえぞクソが!」
「――少年たち、下がれ!」
オールマイトの声が、初めて焦っていた。
『それは私が引き受ける! その怪物は……』
言葉が途切れた。
オールマイトが咳き込んだ。血だった。
――限界か。
俺はそこで、動いた。
「雪ノ下、轟の氷に重ねろ。厚くするだけでいい」
「わかったわ」
「由比ヶ浜、あの霧が出たら吸え。集めて固めろ」
「うん!」
「……爆豪」
「ハァ!? 誰に指示してんだテメェ!」
「指示じゃない。確認だ」
俺は言った。
「あの怪物、ショック吸収だろ。だったら爆発は効かない。……熱はどうだ」
爆豪の目が、一瞬だけ止まった。
「……あ?」
「衝撃を吸収する構造と、温度に耐える構造は別だ。お前の個性は爆発だが、爆発には熱がある」
「……チッ」
爆豪は舌打ちして、前に出た。
「言われるまでもねえ!」
* * *
結局のところ、決めたのはオールマイトだった。
俺たちがやったことは、時間稼ぎと、ほんのわずかな条件の整備だ。
轟と雪ノ下の氷が、怪物の足を二重に固めた。砕くのに二秒かかるようになった。
爆豪が至近距離で爆発を叩き込み、表皮に熱を通した。効いてはいない。だが体温調整に処理が回った。
由比ヶ浜が霧を吸い寄せ、黒霧が形を保てずに離脱した。
そして、その二秒と、わずかな隙に。
『――少年たち、よくやった』
オールマイトが構えた。
空気が変わった。
あの人の周囲の大気が、圧で歪んだ。
『――ユナイテッド……』
拳が、引き絞られた。
『――ステイツ・スマァァァッシュ!!』
音が、遅れて来た。
俺は反射的に腕で顔をかばった。かばわなければ、風圧で目をやられていた。
衝撃波が広場を走り、水が吹き飛び、地面が抉れた。
怪物の身体が、後方へ吹き飛んだ。
USJの壁を突き破って、外へ消えた。
「……何発、殴った?」
俺は誰にともなく呟いた。
数えていなかった。だが、一発ではなかった。
通常なら一発で終わるはずのものだ。テレビで見るオールマイトは、いつも一発で終わらせる。
今回は、五発以上だった。
――やっぱりだ。
俺の仮説が、また一段、現実に近づいた。
* * *
問題は、その直後だった。
「――お前、弱くなったな」
声がした。
広場の中央に、男が立っていた。
手を全身に付けている。首にも、顔にも。無数の手が、身体にぶら下がっている。
髪は青白く、目が乾いていた。
「オールマイト。……そんなもんか」
『……何を』
「弱ってるだろ。分かるよ。おれは、そういうのを見るのが得意なんだ」
男が歩き出した。
その後ろに、崩れかけた黒霧が寄り添う。
オールマイトは動かなかった。
いや、動けなかった。
脇腹を押さえて、膝が震えている。呼吸が浅い。
――限界だ。
あの人は今、立っているだけで精一杯だ。
男が加速した。あの手を、オールマイトに伸ばそうとしている。
その手が何なのかは分からない。だが、あの数の手を身体に付けている人間の個性が『握手』であるはずがない。
そして。
「――オールマイトぉぉぉっ!」
緑谷出久が、飛び出した。
なぜあいつが飛び出せるのかは、俺にはずっと分からなかった。
考える前に身体が動く人間がいる。俺は違う。俺は考えてから動く。考えた結果として動かないことも多い。
だから緑谷が走り出したとき、俺はまだ計算をしていた。
距離。速度。間に合うか。
――間に合わない。
緑谷は速い。だが、あの手の男のほうが近い。緑谷が届く前に、オールマイトに手が触れる。
だったら、と俺は思った。
変えられる変数はひとつだけだ。
速度は変えられない。距離も変えられない。
変えられるのは、相手の動きだ。
「由比ヶ浜!」
「なに!?」
「あの男の足元だ、砂を吸え! 浮かせろ!」
「え、砂!?」
「土でも石でもいい、地面から浮くもんを全部だ!」
彼女が両手を突き出した。
男の足元の砂と砂利が、一斉に浮いた。
わずかだ。数センチ。
だが、地面を蹴る足が空を掻いた。
半歩。
男の踏み込みが、半歩ぶん遅れた。
その半歩に、緑谷が滑り込んだ。
「――スマァァァッシュ!」
拳が、男の顔面に届く直前で、逸れた。
男は身をひねって避けた。避けたが、オールマイトから離れた。
そして、その瞬間。
銃声が響いた。
USJの入口が、開いていた。
プロヒーローの群れ。十数人。相澤先生を含む教師陣も混ざっている。
「――生徒たちから離れろ!」
「イレイザー! こっちだ!」
男が動きを止めた。
それから、黒霧に何か言った。
次の瞬間、二人の姿は消えていた。
* * *
俺はその場に座り込んだ。
というより、脚が勝手に折れた。
視界が本格的に暗い。指先の感覚がない。
「ヒッキー!?」
「……大丈夫だ」
「大丈夫じゃないでしょ!」
由比ヶ浜が俺の肩を掴もうとして、止まった。
空中で、指が開いたまま。
俺は少し笑った。
この動きを、俺はもう三回見ている。
「……手袋でもしてくれ」
「え?」
「手袋でもあれば、多少は触れても大丈夫だ。……お前、毎回そこで止まるだろ」
由比ヶ浜が目を見開いた。
俺はそれ以上何も言わずに、地面に横になった。
空が見えた。
ドームの天井だ。人工の空でもない、ただの構造物。
偽物の災害を再現するための建物の中で、本物の災害が起きて、それが終わった。
――終わったのか。
終わったんだろう。
プロヒーローが来て、敵は逃げて、生徒は誰も死んでいない。
教師二人が重傷で、世界最強が膝をついて、生徒が何人か血を流した。
それを