病院という場所には、人生の縮図がある。
待合室に座っていると、順番が来る。名前を呼ばれる。処置を受ける。金を払って帰る。
その一連の流れに、個人の意思が挟まる余地がほとんどない。
俺はそれが嫌いではない。むしろ楽だ。人間関係の九割は何をどう頼むかで構成されているが、病院ではそれが不要になる。座っていれば呼ばれる。
つまり、ぼっちに優しい構造である。
* * *
USJ事件の翌日、俺は市内の総合病院にいた。
リカバリーガールの治療は受けられなかった。あの人の個性は傷を治すために体力を前借りする仕組みで、失血で体力が落ちている人間には使えない。
だから普通に輸血された。二百ミリリットル。
しかも八百万が創造した、腐ることのない特注の針で。
人生初の輸血だ。うれしくはない。
「――比企谷くん、手を見せて」
診察室で、医師が俺の右手の包帯を外した。
傷は塞がっていなかった。二日経っても、まだ滲んでいる。
「うん、まあ、予想通りだね」
医師は淡々としていた。
「君の場合、傷の治りが遅いんじゃなくて、治ろうとする端から個性が壊してるんだ。皮膚が再生する速度と、君の個性によって腐食する速度が、ほぼ拮抗してる」
「……はい」
「だから深い傷は作らないこと。浅い傷でも、放置すると感染する」
俺は頷いた。
「あと、これはカルテを見て気になったんだけど」
医師はモニターを見た。
「血液検査の数値、慢性的に低いね。ヘモグロビンも鉄も。……これ、昔から?」
「たぶん」
「たぶん、じゃなくて。定期検査は受けてる?」
「年に一回、個性登録の検診で」
「そこで何か言われてない?」
「……危険個性者にはよくあること、と」
医師が、少しだけ黙った。
それから、こう言った。
「まあ、事実ではあるんだ。強い個性を持ってる人ほど、自分の個性で消耗してる。……特に、常時発動型はね」
自分の個性に殺されかけている人間は、統計上そこそこいるらしい。
初めて知った。
いや、知っていた気もする。知らないふりをしていただけかもしれない。
「――先生」
俺は聞いた。
「これ、寿命に影響しますか」
医師は俺の顔を見た。
少し困った顔をした。
「……正直に言えば、可能性はある。ただ、君みたいなタイプの症例が蓄積し始めたのは、まだ二世代ぶんくらいでね。統計的なことは言えないんだ」
「わかりました」
「うん。……あんまり気にしないほうがいい。気にして良くなるものでもないから」
その通りだと思った。
* * *
三日後、警察が学校に来た。
USJ事件の事情聴取だ。生徒全員が対象で、俺の番は昼過ぎだった。
相手は個性犯罪対策課の警察官が二人。会議室のような部屋で、机を挟んで向かい合った。
「――比企谷八幡くん。土砂崩れエリアで、六名を無力化したそうだね」
「三人でやりました」
「うん。雪ノ下さん、由比ヶ浜さんとの共同行動だね。……ただ、そのうち二名については、君の個性が直接の原因だ」
書類が机に置かれた。
俺は読まなかった。読まなくても分かる。
「一人は右腕の欠損。腕の三分の一が壊死して、切断が必要になった」
「……」
「もう一人は、左肩から胸部にかけての深部組織損傷。それと、顔面。……右目の視力は戻らない」
俺は黙っていた。
目に入ったら失明する。あのとき、俺はそう考えた。考えた上で、投げた。
「まず、腕の件から聞かせてほしい。君は相手の腕を掴み続けた。……なぜ、途中で離さなかった?」
「離したら、相手が動けるようになるので」
「途中で離していれば、機能は残ったかもしれない」
「……それは、試したことがないので分かりません」
警察官はペンを止めた。
「……試したことがない?」
「人間に使ったのが初めてでした」
部屋が、少し静かになった。
「顔に血をかけた件は」
「相手が俺を蹴り殺そうとしていました。距離を取る余裕がなかったので、手持ちの手段を使いました」
「狙って顔を狙った?」
「狙っていません。俺は投擲が下手で、狙って当てられません。……ただ、当たる可能性のある範囲に投げました」
「それは、結果として顔に当たる可能性を認識していた、ということかな」
「はい」
俺は答えた。
嘘をつく理由がなかった。
「認識していました。目に入れば失明する可能性も、考えました」
「考えた上で、投げた」
「はい」
警察官は、しばらく何も言わなかった。
* * *
結論から言うと、正当防衛だった。
当然だ。相手は武装したヴィランで、こちらは高校一年生で、命を狙われていた。過剰防衛を主張するには、こちらに他の手段があったことを証明する必要がある。
そして俺には、他の手段がなかった。
だが、話はそこで終わらなかった。
「――比企谷くん。ひとつ、伝えておくことがある」
警察官は書類をまとめながら、言った。
「今回の件、君の個性使用記録に載る」
「はい」
「『対人使用、重傷二件』としてね。これは正当防衛の認定とは別に、事実として記録される」
「そういうものですか」
「そういうものだ。……それと、もう一点」
彼はペンで机を軽く叩いた。
「体液を武器として意図的に用いた事例は、国内で前例がほとんどない。だから今回、君のケースは審査に時間がかかった。……今後も同じことをするなら、事前に登録の更新をしたほうがいい」
「更新すると、どうなりますか」
「危険度の区分が上がる」
そうか。
「言っておくが、これは君を責めているんじゃない」
警察官は、そこで初めて少し表情を緩めた。
「君の判断は妥当だった。むしろ、あの状況でよく生きてた。……ただ、君はまだ十六歳だ。記録は残る。三年後、事務所に就職するときに、必ず見られる」
「わかりました」
「そのときに『こいつは人を壊す個性を持っていて、実際に壊した実績がある』と読まれる。……それだけは、覚えておいてくれ」
俺は頷いた。
* * *
教室の空気は、微妙に変わった。
誰かが露骨に避けるようになった、という話ではない。
変わったのは、質問だ。
入学して一ヶ月、俺はそこそこ質問されていた。腐食ってどのくらいで効くのか。金属も腐るのか。触ったら痛いのか。
その手の質問が、ゼロになった。
みんな、答えを知ってしまったからだ。
触ったら腕が落ちる、目に体液が入れば失明する――それ以上に知りたいことなんて、ない。
――まあ、こんなもんだろう。
俺は特に傷つかなかった。中学三年間で耐性がついている。それに、これは俺の個性の実態を正確に反映した反応であって、誤解でも偏見でもない。
正しい認識に傷つくのは、筋が通らない。
「――ヒッキー、購買行くけど何かいる?」
由比ヶ浜が俺の机の前に立った。
いつも通りだ。この女は本当に何も変わらない。
「いらん」
「じゃあ焼きそばパン買ってくるね」
「聞いた意味がない」
「あ、ヒッキーが好きなやつ知ってるから大丈夫」
大丈夫じゃない。
「――比企谷くん」
雪ノ下も来た。
「明日の課題、範囲を間違えていたわよ。あなたが写していたノートは先週のものよ」
「なんで知ってる」
「見ていたもの」
この女も、何も変わらない。
あと一人、変な方向で変わらない奴がいる。
「比企谷くん! あのっ、USJのときの、砂を浮かせるやつ! あれって事前に考えてたの!? それとも咄嗟!? 僕あれ見てすごいと思って、っていうか敵の重心を崩すっていう発想が――」
「緑谷、近い」
「あっごめん!」
ノートを持っていた。予想通りだ。
* * *
その週の金曜、俺は病院の再診に行った。
手の傷の経過観察だ。三十分で終わって、病院を出たときには七時を過ぎていた。
冬が終わったばかりの季節でも、この時間は暗い。
病院から駅までの道は、住宅街を抜ける細い道だ。街灯が少ない。人通りも少ない。
俺はいつも通り、人のいない道を選んで歩いていた。
その、暗がりの角で。
「――あ。八幡くんだ」
声がした。
俺の身体が、動いた。
考える前に、半歩下がっていた。
鞄を持ち直して、身体の正面を相手に向けて、両手を空けた。
自分でも驚いた。これは警戒の姿勢だ。俺は今、目の前の女を敵として認識した。
――ああ、そうか。
俺は調べてしまったのだ。
あの女が何をしてきたか、何人を殺したか、知ってしまった。知る前は、ただの変な女子高生として処理できていた。
今は、できない。
彼女は、少しだけ首を傾げた。
「……あれ?」
街灯の下に、彼女が立っていた。
制服姿。血は付いていない。いつも通りだ。
だが、その目が、俺の足元を見ていた。半歩下がった、その足を。
「八幡くん、いま」
彼女は言った。
「私のこと、こわい?」
俺は答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。
「――うれしい」
彼女は笑った。
衝撃が来たのは、その直後だった。
速い。
USJのヴィラン全員より速かった。
俺は背中からアスファルトに叩きつけられ、肺の空気を全部吐き出した。視界が揺れる。後頭部が痛い。
馬乗りになられていた。
彼女の膝が俺の脇腹を挟んで、両手が俺の肩を押さえている。
制服の上からだ。腐食は発動しない。彼女はそれを知っている。
「――っ、離せ」
「やだ」
彼女は俺を見下ろしていた。
笑っている。
その笑顔が、一年前の河川敷と同じものだった。
「ねえ、八幡くん」
彼女の右手が動いた。
銀色が光った。ナイフだ。どこから出したのか分からない。
「私ね、やっぱり、君になりたいんだ」
* * *
彼女は俺の右手を掴んだ。
制服の袖の上から。
そして、手のひらを露出させた。
包帯の巻かれた、あの手だ。今日、病院で診てもらったばかりの。
「知ってるよ。ここ、まだ治ってないんでしょ」
――なぜ知っている。
「USJで血をいっぱい使ったんだよね。それで倒れたって」
――なぜ、それを。
USJの負傷者の内訳は公表されていない。ニュースになったのは襲撃の事実と、教師の重傷だけだ。
考える時間はなかった。
ナイフが降りた。
包帯の上から、傷口を、正確に。
「――っ、ぐ」
痛みが走った。
塞がりかけていた場所が、綺麗に開いた。
血が溢れた。
「わあ」
彼女の声が、上ずった。
「すごい。……すごいね、八幡くん」
彼女が顔を近づけてくる。
俺の手のひらに向かって。
口を、開けて。
* * *
俺は左手で、彼女の肩を突き飛ばした。
制服の上からだ。腐らせないように。
彼女は簡単に転がった。
力を込めた抵抗ではなかったのに、あっさり離れた。抵抗されることを想定していなかったのか、あるいは――
いや。
わざと離れた。
俺は身体を起こして、後ろに下がった。三メートル。それから、自分の右手を持ち上げた。
血が、指先から垂れていた。
アスファルトに落ちた。
数秒で、その部分が黒く沈んだ。舗装が粉になって、風に散った。
「見ろ」
俺は言った。
「俺の血を飲んだらどうなるのか、知ってんだろ」
彼女は座り込んだまま、その黒い染みを見ていた。
それから、俺を見た。
――その顔を、俺は一生忘れないと思う。
彼女は、蕩けていた。
「……いま」
声が、震えていた。
「いま、心配してくれた?」
「は」
「私が飲んだら、痛いから。だから止めたんだよね?」
彼女は両手を頬に当てた。
「……あーっ、もう、ずるいよ八幡くん」
違う。
そう言うべきだった。
俺が止めたのは自衛だ。あの女がまた喉を焼いて、また泣いて、また面倒なことになるのが嫌だっただけだ。
だが言えなかった。
言っても無駄だと分かったからだ。
この女は、俺が何を言っても、都合のいいほうに翻訳する。
「君はさ」
彼女は立ち上がって、制服の埃を払った。
「素敵なヒーローになるよ」
「……ヒーローじゃない」
「なるよ」
断言された。
「だってさ、自分を刺した相手の心配するんだよ? そんな人、そういないよ」
* * *
彼女はナイフをしまった。
しまう仕草が、ペンをしまうのと同じくらい自然だった。
「あ、そうだ」
彼女は思い出したように言った。
「体育祭、もうすぐだよね」
雄英の体育祭は、国民的な行事だ。日程は毎年公表されるし、テレビで生中継される。
ただ、USJ事件を受けマスコミの注目の的である現状で、例年通り開催されるのかはわからないが。
「見るね。ぜったい見る」
「……そうか」
「応援してるね」
彼女は手を振った。
そして、背を向けながら、こう言った。
「君も。……あと、あの二人も」
俺は顔を上げた。
「雪ノ下さんと、由比ヶ浜さん、だっけ」
* * *
彼女の背中が、暗がりに消えていった。
俺はしばらく立っていた。
右手が痛い。血は止まっていない。包帯を巻き直さないと、シャツが駄目になる。
俺は鞄からハンカチを出して、手のひらに押し当てた。
それから、歩き出した。
駅までの道を歩きながら、俺は今日のことを整理していた。
押し倒された。刺された。血を狙われた。
物騒だ。控えめに言って、警察に行くべき案件である。
行かないが。
行かない理由は、この前と同じだ。証拠がない。俺の手の傷は、俺の個性のせいで治りが遅いだけだと説明できてしまう。
それに――
俺はそこで、足を止めた。
――今、なんて言った?
あの女は、最後に何と言った。
雪ノ下さんと、由比ヶ浜さん。
俺は歩きながら、記憶を遡った。
河川敷での会話。一度目。二度目。今日。
俺はクラスメイトの話をした。入試で助けて腐らせた女がいる、と言った。同じクラスに推薦組がいる、とも言ったかもしれない。
だが。
名前は。
――言っていない。
俺は、あの二人の名前を、一度も口に出していない。
俺の口からは、出ていない。
俺は暗い道の真ん中で、自分の手のひらを見た。
血が、まだ滲んでいた。