やはり俺の個性はまちがっている。   作:いろは杏

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「素敵なヒーローになるよ」


第14話 記録に残るということ

 病院という場所には、人生の縮図がある。

 

 待合室に座っていると、順番が来る。名前を呼ばれる。処置を受ける。金を払って帰る。

 

 その一連の流れに、個人の意思が挟まる余地がほとんどない。

 

 俺はそれが嫌いではない。むしろ楽だ。人間関係の九割は何をどう頼むかで構成されているが、病院ではそれが不要になる。座っていれば呼ばれる。

 

 つまり、ぼっちに優しい構造である。

 

     * * *

 

 USJ事件の翌日、俺は市内の総合病院にいた。

 

 リカバリーガールの治療は受けられなかった。あの人の個性は傷を治すために体力を前借りする仕組みで、失血で体力が落ちている人間には使えない。

 

 だから普通に輸血された。二百ミリリットル。

 しかも八百万が創造した、腐ることのない特注の針で。

 

 人生初の輸血だ。うれしくはない。

 

「――比企谷くん、手を見せて」

 

 診察室で、医師が俺の右手の包帯を外した。

 

 傷は塞がっていなかった。二日経っても、まだ滲んでいる。

 

「うん、まあ、予想通りだね」

 

 医師は淡々としていた。

 

「君の場合、傷の治りが遅いんじゃなくて、治ろうとする端から個性が壊してるんだ。皮膚が再生する速度と、君の個性によって腐食する速度が、ほぼ拮抗してる」

 

「……はい」

 

「だから深い傷は作らないこと。浅い傷でも、放置すると感染する」

 

 俺は頷いた。

 

「あと、これはカルテを見て気になったんだけど」

 

 医師はモニターを見た。

 

「血液検査の数値、慢性的に低いね。ヘモグロビンも鉄も。……これ、昔から?」

 

「たぶん」

 

「たぶん、じゃなくて。定期検査は受けてる?」

 

「年に一回、個性登録の検診で」

 

「そこで何か言われてない?」

 

「……危険個性者にはよくあること、と」

 

 医師が、少しだけ黙った。

 

 それから、こう言った。

 

「まあ、事実ではあるんだ。強い個性を持ってる人ほど、自分の個性で消耗してる。……特に、常時発動型はね」

 

 自分の個性に殺されかけている人間は、統計上そこそこいるらしい。

 

 初めて知った。

 

 いや、知っていた気もする。知らないふりをしていただけかもしれない。

 

「――先生」

 

 俺は聞いた。

 

「これ、寿命に影響しますか」

 

 医師は俺の顔を見た。

 

 少し困った顔をした。

 

「……正直に言えば、可能性はある。ただ、君みたいなタイプの症例が蓄積し始めたのは、まだ二世代ぶんくらいでね。統計的なことは言えないんだ」

 

「わかりました」

 

「うん。……あんまり気にしないほうがいい。気にして良くなるものでもないから」

 

 その通りだと思った。

 

     * * *

 

 三日後、警察が学校に来た。

 

 USJ事件の事情聴取だ。生徒全員が対象で、俺の番は昼過ぎだった。

 

 相手は個性犯罪対策課の警察官が二人。会議室のような部屋で、机を挟んで向かい合った。

 

「――比企谷八幡くん。土砂崩れエリアで、六名を無力化したそうだね」

 

「三人でやりました」

 

「うん。雪ノ下さん、由比ヶ浜さんとの共同行動だね。……ただ、そのうち二名については、君の個性が直接の原因だ」

 

 書類が机に置かれた。

 

 俺は読まなかった。読まなくても分かる。

 

「一人は右腕の欠損。腕の三分の一が壊死して、切断が必要になった」

 

「……」

 

「もう一人は、左肩から胸部にかけての深部組織損傷。それと、顔面。……右目の視力は戻らない」

 

 俺は黙っていた。

 

 目に入ったら失明する。あのとき、俺はそう考えた。考えた上で、投げた。

 

「まず、腕の件から聞かせてほしい。君は相手の腕を掴み続けた。……なぜ、途中で離さなかった?」

 

「離したら、相手が動けるようになるので」

 

「途中で離していれば、機能は残ったかもしれない」

 

「……それは、試したことがないので分かりません」

 

 警察官はペンを止めた。

 

「……試したことがない?」

 

「人間に使ったのが初めてでした」

 

 部屋が、少し静かになった。

 

「顔に血をかけた件は」

 

「相手が俺を蹴り殺そうとしていました。距離を取る余裕がなかったので、手持ちの手段を使いました」

 

「狙って顔を狙った?」

 

「狙っていません。俺は投擲が下手で、狙って当てられません。……ただ、当たる可能性のある範囲に投げました」

 

「それは、結果として顔に当たる可能性を認識していた、ということかな」

 

「はい」

 

 俺は答えた。

 

 嘘をつく理由がなかった。

 

「認識していました。目に入れば失明する可能性も、考えました」

 

「考えた上で、投げた」

 

「はい」

 

 警察官は、しばらく何も言わなかった。

 

     * * *

 

 結論から言うと、正当防衛だった。

 

 当然だ。相手は武装したヴィランで、こちらは高校一年生で、命を狙われていた。過剰防衛を主張するには、こちらに他の手段があったことを証明する必要がある。

 

 そして俺には、他の手段がなかった。

 

 だが、話はそこで終わらなかった。

 

「――比企谷くん。ひとつ、伝えておくことがある」

 

 警察官は書類をまとめながら、言った。

 

「今回の件、君の個性使用記録に載る」

 

「はい」

 

「『対人使用、重傷二件』としてね。これは正当防衛の認定とは別に、事実として記録される」

 

「そういうものですか」

 

「そういうものだ。……それと、もう一点」

 

 彼はペンで机を軽く叩いた。

 

「体液を武器として意図的に用いた事例は、国内で前例がほとんどない。だから今回、君のケースは審査に時間がかかった。……今後も同じことをするなら、事前に登録の更新をしたほうがいい」

 

「更新すると、どうなりますか」

 

「危険度の区分が上がる」

 

 そうか。

 

「言っておくが、これは君を責めているんじゃない」

 

 警察官は、そこで初めて少し表情を緩めた。

 

「君の判断は妥当だった。むしろ、あの状況でよく生きてた。……ただ、君はまだ十六歳だ。記録は残る。三年後、事務所に就職するときに、必ず見られる」

 

「わかりました」

 

「そのときに『こいつは人を壊す個性を持っていて、実際に壊した実績がある』と読まれる。……それだけは、覚えておいてくれ」

 

 俺は頷いた。

 

     * * *

 

 教室の空気は、微妙に変わった。

 

 誰かが露骨に避けるようになった、という話ではない。

 

 変わったのは、質問だ。

 

 入学して一ヶ月、俺はそこそこ質問されていた。腐食ってどのくらいで効くのか。金属も腐るのか。触ったら痛いのか。

 

 その手の質問が、ゼロになった。

 

 みんな、答えを知ってしまったからだ。

 

 触ったら腕が落ちる、目に体液が入れば失明する――それ以上に知りたいことなんて、ない。

 

 ――まあ、こんなもんだろう。

 

 俺は特に傷つかなかった。中学三年間で耐性がついている。それに、これは俺の個性の実態を正確に反映した反応であって、誤解でも偏見でもない。

 

 正しい認識に傷つくのは、筋が通らない。

 

「――ヒッキー、購買行くけど何かいる?」

 

 由比ヶ浜が俺の机の前に立った。

 

 いつも通りだ。この女は本当に何も変わらない。

 

「いらん」

 

「じゃあ焼きそばパン買ってくるね」

 

「聞いた意味がない」

 

「あ、ヒッキーが好きなやつ知ってるから大丈夫」

 

 大丈夫じゃない。

 

「――比企谷くん」

 

 雪ノ下も来た。

 

「明日の課題、範囲を間違えていたわよ。あなたが写していたノートは先週のものよ」

 

「なんで知ってる」

 

「見ていたもの」

 

 この女も、何も変わらない。

 

 あと一人、変な方向で変わらない奴がいる。

 

「比企谷くん! あのっ、USJのときの、砂を浮かせるやつ! あれって事前に考えてたの!? それとも咄嗟!? 僕あれ見てすごいと思って、っていうか敵の重心を崩すっていう発想が――」

 

「緑谷、近い」

 

「あっごめん!」

 

 ノートを持っていた。予想通りだ。

 

     * * *

 

 その週の金曜、俺は病院の再診に行った。

 

 手の傷の経過観察だ。三十分で終わって、病院を出たときには七時を過ぎていた。

 

 冬が終わったばかりの季節でも、この時間は暗い。

 

 病院から駅までの道は、住宅街を抜ける細い道だ。街灯が少ない。人通りも少ない。

 

 俺はいつも通り、人のいない道を選んで歩いていた。

 

 その、暗がりの角で。

 

「――あ。八幡くんだ」

 

 声がした。

 

 俺の身体が、動いた。

 

 考える前に、半歩下がっていた。

 

 鞄を持ち直して、身体の正面を相手に向けて、両手を空けた。

 

 自分でも驚いた。これは警戒の姿勢だ。俺は今、目の前の女を敵として認識した。

 

 ――ああ、そうか。

 

 俺は調べてしまったのだ。

 

 あの女が何をしてきたか、何人を殺したか、知ってしまった。知る前は、ただの変な女子高生として処理できていた。

 

 今は、できない。

 

 彼女は、少しだけ首を傾げた。

 

「……あれ?」

 

 街灯の下に、彼女が立っていた。

 

 制服姿。血は付いていない。いつも通りだ。

 

 だが、その目が、俺の足元を見ていた。半歩下がった、その足を。

 

「八幡くん、いま」

 

 彼女は言った。

 

「私のこと、こわい?」

 

 俺は答えなかった。

 

 答えなかったことが、答えだった。

 

「――うれしい」

 

 彼女は笑った。

 

 衝撃が来たのは、その直後だった。

 

 速い。

 

 USJのヴィラン全員より速かった。

 

 俺は背中からアスファルトに叩きつけられ、肺の空気を全部吐き出した。視界が揺れる。後頭部が痛い。

 

 馬乗りになられていた。

 

 彼女の膝が俺の脇腹を挟んで、両手が俺の肩を押さえている。

 

 制服の上からだ。腐食は発動しない。彼女はそれを知っている。

 

「――っ、離せ」

 

「やだ」

 

 彼女は俺を見下ろしていた。

 

 笑っている。

 

 その笑顔が、一年前の河川敷と同じものだった。

 

「ねえ、八幡くん」

 

 彼女の右手が動いた。

 

 銀色が光った。ナイフだ。どこから出したのか分からない。

 

「私ね、やっぱり、君になりたいんだ」

 

     * * *

 

 彼女は俺の右手を掴んだ。

 

 制服の袖の上から。

 

 そして、手のひらを露出させた。

 

 包帯の巻かれた、あの手だ。今日、病院で診てもらったばかりの。

 

「知ってるよ。ここ、まだ治ってないんでしょ」

 

 ――なぜ知っている。

 

「USJで血をいっぱい使ったんだよね。それで倒れたって」

 

 ――なぜ、それを。

 

 USJの負傷者の内訳は公表されていない。ニュースになったのは襲撃の事実と、教師の重傷だけだ。

 

 考える時間はなかった。

 

 ナイフが降りた。

 

 包帯の上から、傷口を、正確に。

 

「――っ、ぐ」

 

 痛みが走った。

 

 塞がりかけていた場所が、綺麗に開いた。

 

 血が溢れた。

 

「わあ」

 

 彼女の声が、上ずった。

 

「すごい。……すごいね、八幡くん」

 

 彼女が顔を近づけてくる。

 

 俺の手のひらに向かって。

 

 口を、開けて。

 

     * * *

 

 俺は左手で、彼女の肩を突き飛ばした。

 

 制服の上からだ。腐らせないように。

 

 彼女は簡単に転がった。

 

 力を込めた抵抗ではなかったのに、あっさり離れた。抵抗されることを想定していなかったのか、あるいは――

 

 いや。

 

 わざと離れた。

 

 俺は身体を起こして、後ろに下がった。三メートル。それから、自分の右手を持ち上げた。

 

 血が、指先から垂れていた。

 

 アスファルトに落ちた。

 

 数秒で、その部分が黒く沈んだ。舗装が粉になって、風に散った。

 

「見ろ」

 

 俺は言った。

 

「俺の血を飲んだらどうなるのか、知ってんだろ」

 

 彼女は座り込んだまま、その黒い染みを見ていた。

 

 それから、俺を見た。

 

 ――その顔を、俺は一生忘れないと思う。

 

 彼女は、蕩けていた。

 

「……いま」

 

 声が、震えていた。

 

「いま、心配してくれた?」

 

「は」

 

「私が飲んだら、痛いから。だから止めたんだよね?」

 

 彼女は両手を頬に当てた。

 

「……あーっ、もう、ずるいよ八幡くん」

 

 違う。

 

 そう言うべきだった。

 

 俺が止めたのは自衛だ。あの女がまた喉を焼いて、また泣いて、また面倒なことになるのが嫌だっただけだ。

 

 だが言えなかった。

 

 言っても無駄だと分かったからだ。

 

 この女は、俺が何を言っても、都合のいいほうに翻訳する。

 

「君はさ」

 

 彼女は立ち上がって、制服の埃を払った。

 

「素敵なヒーローになるよ」

 

「……ヒーローじゃない」

 

「なるよ」

 

 断言された。

 

「だってさ、自分を刺した相手の心配するんだよ? そんな人、そういないよ」

 

     * * *

 

 彼女はナイフをしまった。

 

 しまう仕草が、ペンをしまうのと同じくらい自然だった。

 

「あ、そうだ」

 

 彼女は思い出したように言った。

 

「体育祭、もうすぐだよね」

 

 雄英の体育祭は、国民的な行事だ。日程は毎年公表されるし、テレビで生中継される。

 

 ただ、USJ事件を受けマスコミの注目の的である現状で、例年通り開催されるのかはわからないが。

 

「見るね。ぜったい見る」

 

「……そうか」

 

「応援してるね」

 

 彼女は手を振った。

 

 そして、背を向けながら、こう言った。

 

「君も。……あと、あの二人も」

 

 俺は顔を上げた。

 

「雪ノ下さんと、由比ヶ浜さん、だっけ」

 

     * * *

 

 彼女の背中が、暗がりに消えていった。

 

 俺はしばらく立っていた。

 

 右手が痛い。血は止まっていない。包帯を巻き直さないと、シャツが駄目になる。

 

 俺は鞄からハンカチを出して、手のひらに押し当てた。

 

 それから、歩き出した。

 

 駅までの道を歩きながら、俺は今日のことを整理していた。

 

 押し倒された。刺された。血を狙われた。

 

 物騒だ。控えめに言って、警察に行くべき案件である。

 

 行かないが。

 

 行かない理由は、この前と同じだ。証拠がない。俺の手の傷は、俺の個性のせいで治りが遅いだけだと説明できてしまう。

 

 それに――

 

 俺はそこで、足を止めた。

 

 ――今、なんて言った?

 

 あの女は、最後に何と言った。

 

 雪ノ下さんと、由比ヶ浜さん。

 

 俺は歩きながら、記憶を遡った。

 

 河川敷での会話。一度目。二度目。今日。

 

 俺はクラスメイトの話をした。入試で助けて腐らせた女がいる、と言った。同じクラスに推薦組がいる、とも言ったかもしれない。

 

 だが。

 

 名前は。

 

 ――言っていない。

 

 俺は、あの二人の名前を、一度も口に出していない。

 

 俺の口からは、出ていない。

 

 俺は暗い道の真ん中で、自分の手のひらを見た。

 

 血が、まだ滲んでいた。

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