体育祭が予定通り開催されると聞いたとき、俺が最初に考えたのは――なぜ中止しないのかだった。
三週間前、この学校はヴィランの襲撃を受けた。教師二人が重傷。生徒は全員無事だが、それは結果論であって、何人か死んでいてもおかしくなかった。
常識的な組織なら、当面のイベントは自粛する。
だが雄英は、開催すると言った。
「――理由は、報道対応だ」
相澤先生が言った。
顔の上半分が包帯で覆われていて、腕は吊られている。全身骨折と眼窩の損傷。医者が退院を許可するとは思えない状態で、この人は教壇に立っている。
「中止すれば『ヴィランに屈した』と書かれる。開催すれば『危機管理は万全』と書かれる。……どっちが学校にとって得か、分かるな」
あまりにも身も蓋もない説明だったので、クラスが一瞬静まった。
俺は少し感心した。この人は嘘をつかない。生徒を守るために嘘をつかない、という意味ではなく、単に嘘をつくのが面倒なのだと思う。
つまり、こういうことだ。
今年の雄英体育祭は、学校の広報活動である。
そして、生徒はその素材だ。
* * *
ホームルームが終わると、教室は騒がしくなった。
当然だ。雄英体育祭は、この国で最も注目される学生行事である。
「オレ、ぜってー一位取るからな!」
「うわ切島くん暑苦しー」
「デクくん、どうする? あたし、ちょっと緊張してきた」
「ぼ、僕も……」
俺は自分の席で、鞄に教科書を詰めていた。
参加はする。欠席すれば単位に響く。だが、それだけだ。
――目立つ理由がない。
そう思っていたところに、影が差した。
「比企谷さん」
八百万百だった。
背筋が伸びていて、いつも通り姿勢がいい。
「先日は、失礼いたしました」
「……何がだ」
「輸血の際の器具です。ご不快ではありませんでしたか」
ああ、あれか。
USJの後、俺は総合病院で輸血を受けた。そのとき使われた針は、八百万が創造したものだった。
通常の金属針だと、俺の血管内で数分もすれば劣化する。だから彼女が、腐食しない素材で作った。
どういう経緯で病院にそれが届いたのかは知らない。たぶん学校経由だろう。
「助かった」
俺は言った。
「あれがなかったら、輸血の途中で針が折れてた」
八百万の顔が、ぱっと明るくなった。
「よかったですわ! 組成には少し悩みましたの。炭素繊維では細い針にできませんし、ガラスでは折れますし、結局セラミック系の複合材にいたしまして――」
「待て」
「はい?」
「お前、あれを作るのに何時間かけた」
「ほんの数時間ほどですわ」
俺は少し黙った。
数時間。USJの当日――自分も傷ついていたはずの日に。
「……なんでそこまでする」
「必要だったからですわ」
彼女は即答した。
「私の個性は、必要なものを作ることです。必要としている方がいるのに作らないのでは、持っている意味がありませんもの」
――ああ、こういう奴か。
俺は、この手の人種が苦手だ。
善意を、コストとして計算しない人間。
こういう人間の善意は、受け取った側に負債を作る。本人はそれを望んでいない。望んでいないからこそ、返せない。
「……悪かったな」
「なぜ謝られるのです?」
「なんでもない」
* * *
「ところで比企谷さん、体育祭の準備はお済みですか」
「準備?」
「はい。事務所への対応です」
俺は顔を上げた。
「事務所」
「まあ、ご存じない……?」
八百万が驚いた顔をした。
それから、彼女は前の席の椅子を引いて、俺の前に座った。説明する気だ。
「雄英体育祭は、プロヒーロー事務所によるスカウトの場でもあるのです」
「それは知ってる」
「では、一年生の指名がほぼこの一日で決まることは」
「……は?」
「二年次以降の職場体験、インターン、そして卒業後の就職先。その大半が、一年時の体育祭での評価を基準に決まりますの」
俺は少し、頭を整理した。
「一日か」
「一日ですわ」
「三年あるのに、一年の一日で決まるのか」
「厳密には毎年ありますけれど、一年目の印象は強く残ります。……特に、上位入賞者は」
八百万は指を折った。
「昨年の一年生上位三名は、そのまま大手事務所の指名を受けて、現在も継続しています。逆に、下位に沈んだ生徒は、二年次以降に挽回できた例が非常に少ないのです」
「なぜだ」
「見られていないからですわ」
彼女はあっさりと言った。
「事務所は、映像で判断します。中継に映らなかった生徒は、存在しなかったのと同じですの」
俺はそこで、この行事の本質を理解した。
これは体育祭ではない。
就職活動である。
しかも、面接がない。書類選考もない。あるのは一日の実技と、それを撮る何十台ものカメラだけだ。
十六歳が、一日で採点される。
その採点結果が、四十年ぶんの職業人生を決める。
――冗談じゃない。
俺はそう思った。
だが同時に、こうも思った。
――ヒーローという職業を、正確に表してるな。
人助けの能力を見せて、雇い主に値踏みされる。人気で評価が決まる。中継に映らない仕事は、存在しないことになる。
俺が三年間軽蔑してきたものが、そのまま制度になっている。
「比企谷さんは、どちらを志望されているのですか」
「志望?」
「事務所ですわ。ご希望があれば、傾向を調べておきますけれど」
「ない」
「……ない、とは」
「志望も何も、俺を指名する事務所はない」
俺は鞄を閉めた。
「腐食だぞ。触った奴が腐る個性の人間を、どこが雇う」
八百万は何か言いかけて、口を閉じた。
困った顔をしていた。
その顔を見て、俺は少し悪いことをした気分になった。この女は善意で聞いてきただけだ。
* * *
その日の放課後、俺は職員室に呼ばれた。
呼んだのは平塚先生だった。
机の上に、書類が一枚置かれている。俺はそれを見て、内容を察した。
「個性使用記録ですね」
「話が早くて助かる」
平塚先生は煙草を回した。相変わらず火は点いていない。
「対人使用、重傷二件。正当防衛の認定付き。……これがお前の記録に載った」
「聞きました」
「意味は分かっているか」
「三年後に見られる、と」
「そうだ」
彼女は書類を裏返した。
「ヒーロー事務所は、記録を見る。特に大手ほど念入りに見る。……そして対人重傷の記録がある新人を、まず取らない」
「でしょうね」
「なぜだと思う」
「訴訟リスクです」
俺は答えた。
「ヒーローが現場で市民を傷つけた場合、事務所が賠償責任を負う。前科のある個性を持った新人は、その確率が高いと判断される。……保険料も上がる」
「よく分かってるじゃないか」
「調べました」
「調べて、どうする気だ」
「どうもしません」
俺は言った。
「別に構わないので」
平塚先生は、そこで椅子の背にもたれた。
しばらく天井を見ていた。
それから、こう言った。
「では、聞くが」
「はい」
「指名がゼロだった場合、お前はどうやってヒーロー免許を維持する」
俺は、一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……維持?」
「知らんのか」
彼女は身を起こした。
「ヒーロー免許は、職に就いていることが更新条件だ。事務所に所属するか、自分で事務所を開くか、公的機関に雇用されるか。いずれかがなければ、免許は失効する」
「……」
「失効すると、どうなるか分かるな」
分かる。
分かってしまった。
俺の個性は危険個性に分類されている。ヒーロー免許がなければ、俺は個性を合法的に持てない。持てない人間は、国の管理下に置かれる。
登録個性者制度。
定期的な検診と、行動報告と、指定された職種への就労。
――俺が、雄英に来た理由だ。
あれを避けるために、俺はここに来た。
「つまり」
俺は言った。
声が、少しかすれた。
「俺は、雄英を卒業しても、就職できなければ――」
「元の場所に戻る」
平塚先生は言った。
「三年かけて、振り出しに戻るわけだ」
* * *
俺はしばらく黙っていた。
頭の中で、計算をしていた。
三年間、俺はこの学校で過ごす。授業を受け、訓練をし、免許を取る。
その先に何もなければ、全部が無駄になる。無駄になるどころか、俺は十九歳で国の管理下に入る。しかも、対人重傷二件の実績を持つ危険個性者として。
高校に行かずに最初から登録していたほうが、まだ心証が良かったかもしれない。
――詰んでるな。
「……先生」
「なんだ」
「なぜ、今それを言うんですか」
平塚先生は、少し笑った。
「今が、体育祭の前だからだ」
「……」
「言っておくが、私はお前に優勝しろとは言わん。お前がその手の言葉で動く人間じゃないことは、前回の面談で分かっている」
彼女は煙草を机に置いた。
「ただ、事実は伝える。……お前が体育祭で何もしなければ、選択肢は減る。減った選択肢は、後から増やせない」
「増やす方法があるんですか」
「知らん。私はお前じゃないからな」
突き放された。
だが、その突き放し方は、なぜか嫌な感じがしなかった。
「――一つだけ、言っておこう」
部屋を出る直前、平塚先生が言った。
「お前は目立たないことを戦略だと思っているだろう。中学までは、それで正しかった。……だが、この先は違う」
「なぜですか」
「目立たない人間は、選ばれない。選ばれない人間には、選択肢がない。……そして選択肢のない人間から、順番に何かを諦めさせられる」
俺は何も言えなかった。
「まあ、頑張れ。ラーメンの賭けはまだ生きてるぞ」
* * *
教室に戻ると、由比ヶ浜と雪ノ下がまだ残っていた。
「あ、ヒッキー。どこ行ってたの?」
「職員室だ」
「怒られた?」
「脅された」
「学校で?」
由比ヶ浜は自分の鞄を抱えて、少し俯いた。
「……あたしさ、体育祭、ちょっとこわいんだよね」
「全国中継か」
「それもあるけど。……なんかさ、みんなに顔覚えられるじゃん。テレビ出るんだし」
「ああ」
「ヴィランにも、覚えられるってことじゃん」
俺は、それについて考えたことがなかった。
いや、考えないようにしていた。
あの女は既に、雪ノ下と由比ヶ浜の名前を知っている。俺が教えていない名前を。
「……そうだな」
俺はそれだけ言った。
言えることが、それしかなかった。
「――怖がる必要はないわ」
雪ノ下が言った。
「顔を覚えられるのは、こちらが強いと示せた場合よ。弱ければ誰も覚えない」
「ゆきのん、それ全然フォローになってないから!」
「事実を言ったのだけれど」
「そういうとこ!」
由比ヶ浜が両手を振り回した。
雪ノ下はそれを無視して、窓の外を見た。
「――私は、出るわ」
声の質が、変わった。
「勝つ。それ以外に、意味がないの」
俺はその横顔を見た。
USJへ向かうバスでも、同じ顔をしていた。
闘志ではない。追われている人間の顔だ。
「……なんか理由があるのか」
「あなたには関係のないことよ」
即答だった。
それはそうだ。俺には関係ない。
だが、こういう即答をする人間は、たいてい関係を持ってほしくないのではなく、説明できないだけである。
俺はそれを、経験上知っている。
* * *
その夜、俺は自分の部屋で、体育祭の中継予定を調べた。
総合チャンネルで、朝九時から夕方六時まで。全国生放送。昨年の平均視聴率は三十八パーセント。
三十八パーセント。
この国の人口を掛け算すると、だいたい四千万人になる。
四千万人が、俺の顔を見る可能性がある。
――そのうち一人は。
俺はスマホを置いた。
あの女は、確実に見る。そう言っていた。
四千万人の中に一人、俺を見つけるためだけに画面を凝視している女がいる。
そしてその女は、たぶん、俺だけを見ているわけじゃない。
雪ノ下と由比ヶ浜の名前を、あいつはもう知っている。
俺は電気を消して、布団に入った。
目を閉じても、しばらく眠れなかった。