控え室というのは、人間の本性が出る場所である。
試合前の数十分。することがなく、逃げ場もなく、全員が同じ緊張を共有している。この状況で人がどう振る舞うかを見れば、そいつの人格の骨格が分かる。
一年A組の控え室には、五種類の緊張があった。
一つ目、爆豪勝己。
壁にもたれて、目を閉じている。呼吸が深い。こいつの緊張は闘争のそれだ。獣が獲物を待つときの静けさに近い。
二つ目、飯田天哉。
ストレッチをしている。ラジオ体操みたいに正確な動きで。こいつの緊張は義務のそれだ。やるべきことをやらねばならないという類の。
三つ目、緑谷出久。
何度も拳を握っては開いている。震えている。だが目は死んでいない。これは覚悟の緊張だ。怖いままで前に出ようとしている人間の顔である。
四つ目、大多数。
やたら喋る、無駄に笑う、意味のない動きをする。これは不安の緊張で、最も一般的なやつだ。俺もこれに近い。
そして五つ目。
「――ふふふ、稼ぐぞぉ……」
麗日お茶子が、拳を握って笑っていた。
目が、据わっていた。
「あの、麗日さん?」
緑谷が引き気味に声をかけた。
「あっデクくん! いやな、うちな、この体育祭で絶対結果出さんとあかんくて」
「え、なんで?」
「事務所に指名されるやろ? そしたら将来プロになったとき、給料ええとこ入れるやん」
麗日はあっさり言った。
「うち、実家が建設会社やってんねんけど、ぜんっぜん儲かってなくて。だからうちが稼いで、親に楽させたるんよ」
教室の空気が、少しだけ変わった。
誰かが「泣ける」と言った。誰かが「えらい」と言った。
俺は、少し違うことを考えていた。
――ああ。
こいつも、生存のために勝とうとしてるのか。
俺はこの二週間、自分の動機を持て余していた。
俺が体育祭で結果を出さなければならない理由は、就職できないと免許が失効して、国の管理下に戻されるからだ。
人助けのためではない。夢のためでもない。
単に、そうしないと詰むからだ。
こんな理由でヒーロー科の体育祭に出るのは、たぶん不純だろう。周りの連中は『憧れのヒーローになるため』とか、そういう真っ当な燃料で動いている。
――そう思っていた。
だが、目の前の女は違った。
こいつの動機は金だ。実家の事業だ。生活だ。
純度でいえば俺と大差ない。ただ方向が逆なだけだ。麗日は稼ぐために勝ち、俺は詰まないために勝つ。
プラス方向の生存と、マイナス方向の生存。
――なんだ。
俺だけじゃないのか。
その事実は、驚くほど俺を楽にした。
自分でも呆れる。他人の困窮を知って安心する人間が、この世で一番みっともない部類であることは分かっている。
だがまあ、俺はそういう人間だ。今さらだ。
* * *
控え室のドアが開いた。
轟焦凍が立っていた。
まっすぐに緑谷のところへ歩いていって、こう言った。
「客観的に見て、俺はお前より強い」
「え、あ、うん……?」
「だが、オールマイトはお前に目をかけている。……何かあるんだろう」
俺は少し離れた場所で、それを聞いていた。
教室が静かになった。爆豪が薄目を開けた。
「詮索する気はない。ただ、宣言しておく」
轟は言った。
「俺は、お前に勝つ」
場が凍った。
いや、正確には、みんなが轟の言葉の中身に驚いていた。
俺が引っかかったのは、別のところだ。
――言い聞かせてるな。
あの言い方には、聞き覚えがある。
第一に、あいつは「勝つ」と未来形で言った。「勝てる」でも「負けない」でもなく。
第二に、宣言の前に理由を並べた。「客観的に見て俺のほうが強い」から始めた。
本当に確信している人間は、理由を述べない。爆豪を見ろ。あいつは「俺が一番だ」としか言わない。理由を言わないのは、理由が要らないからだ。
理由を並べるのは、自分を説得しているときだ。
――誰に対して勝ちたいんだ、こいつは。
緑谷ではない気がした。
どうでもいい話だ。俺には関係ない。
俺の脳は、こういうどうでもいい情報ばかり勝手に記録する。
* * *
競技場に出た瞬間、音の壁に殴られた。
歓声だ。
スタンドが埋まっている。三百六十度、全部。数万人。そしてその上に、中継用のカメラが何十台も並んでいる。
俺は反射的に、視線を落とした。
こういう場所は苦手だ。というより、俺は見られるという状態そのものに耐性がない。中学三年間、俺は誰の視界にも入らないことを目標に生きてきた。
その俺が今、四千万人に見られている。
「――さぁーて! 野郎ども、盛り上がってっかァ!」
実況席にプレゼント・マイクがいた。声がでかい。
「解説はイレイザーヘッド!」
「帰らせろ」
包帯だらけの相澤先生が呟いた。
* * *
選手宣誓は爆豪だった。
一年A組の首席。個性把握テスト一位。壇上に上がって、マイクの前に立った。
そして。
「――宣誓。俺が一位になる」
会場が、爆発した。
ブーイング。怒号。他クラスの生徒が身を乗り出す。
「ざけんな一組!」
「調子乗んじゃねーぞ!」
A組の連中が頭を抱えていた。飯田が「なんということを!」と叫んでいる。
俺は爆豪を見ていた。
――こいつ、天才だな。
性格の話ではない。あれは最悪だ。
だが、戦略として見たとき、あの宣言は完璧だ。
まず、全会場の注目を集めた。次に、全選手の敵意を集めた。敵意を集めた人間は、常に映される。カメラは対立を追う。
そして今日、この会場において映らないことは存在しないことである。
爆豪は、たぶん何も考えていない。ただ本心を言っただけだ。
だが結果として、この日の最適解を実行している。
――目立つことが、正義か。
平塚先生の言葉が、そこで裏付けられた。
『目立たない人間は、選ばれない』
* * *
「第一種目はこれだァ!」
スクリーンに表示された。
『障害物競走』
「競技場外周をぐるっと回る、全長約四キロ! 道は塞がなきゃ何やってもいいぜ! 上位四十二名が次に進む!」
――厳しいな。
いや、正直に言えば、絶望的だ。
俺の五十メートル走は七秒二一。個性は走行に一切寄与しない。四キロの持久走で四十二位以内に入る根拠が、どこにもない。
「位置について――」
全員がスタートゲートに詰め込まれた。
トンネルだ。競技場から外周へ出るための、幅の狭い通路。
幅数メートルのトンネルに殺到する構造。
――ボトルネックか。
俺はそこで、ひとつだけ理解した。
この競技は、走力を測る競技じゃない。
「――スタァァァト!」
* * *
皆が、一斉に動いた。
悲鳴が上がった。
当然だ。幅の狭いトンネルに同時に突っ込めば、詰まる。前が詰まり、後ろが押し、真ん中が潰れる。
俺は最初から走らなかった。
走れば人にぶつかる。ぶつかれば俺の手が誰かの皮膚に触れる。ここは体育祭で、俺の周りにいるのは他クラスの生徒であり、その全員が俺の個性を知らない。
握手で腕が腫れる程度だが、それでも事故だ。
だから俺は、集団の外縁を歩いた。
そして、二十秒後。
トンネルの中が、白くなった。
「――うおっ、なんだこれ!」
「足が、氷っ!?」
轟焦凍。
あいつが後方から地面を凍らせた。トンネルの床を氷結させて、後続を一斉に転倒させた。
皆が雪崩を打って転んだ。
俺も足を取られた。
が、俺は走っていなかったので、単に尻餅をついただけで済んだ。
――走ってなくてよかったな。
人生で初めて、運動能力の低さが役に立った瞬間だった。
* * *
立ち上がって、周囲を見た。
地獄だった。
転倒者の山。悲鳴。氷の上で滑って起き上がれない人間が、何人も折り重なっている。
この状況で、俺が取れる選択肢は二つある。
一、氷の上を走って追う。
二、氷を避けて歩く。
一は無理だ。氷の上で走れる運動能力がない。
だから二を選んだ。
俺は氷の縁を歩いた。壁際、氷が薄い場所。そこを一歩ずつ、確実に。
速くない。だが転ばない。
そして、転倒者を踏まない。
――こいつら、邪魔だな。
そう思いながら、俺は倒れている生徒の間を縫って歩いた。
一人が起き上がろうとして、俺の足元に手をついた。
俺は避けた。触れないように。
その動作を、何度も繰り返した。
* * *
トンネルを出たとき、俺の順位は、たぶん百番台だった。
前方はるか先に、上位陣が見える。轟、爆豪、緑谷、飯田。
――遠いな。
四キロある。まだ三.八キロ残っている。
その間に、俺は六十人を抜かなければならない。
物理的には不可能に近い。
だが、この競技には障害物がある。
障害物というのは、足の速い人間を止める装置だ。
つまり、この競技の設計者は、走力以外の要素で順位を入れ替えるつもりでいる。
だったら、まだ終わっていない。
* * *
第一関門が見えた。
「――さぁ最初の関門はこいつだ! ロボ・インフェルノ!」
巨大な影が、外周コースを塞いでいた。
ロボットだ。
二メートル級。五メートル級。十メートル級。
そして、二十メートル級。
――見覚えがあるな。
俺は足を止めなかったが、目は動いていた。
あの外装。あのキャタピラ。あの関節の構造。
入試の仮想敵と、同じだ。
同型。おそらく同じ製造ライン。サイズが違うだけで、素材と構造は共通している。
* * *
俺は入試のとき、二メートル級を一体倒している。
方法は単純だった。
キャタピラの駆動部を掴んで、離さない。それだけだ。
所要時間、四十秒。
あのとき俺は、その数字に絶望した。四十秒で一点。効率最悪。
だが今は、状況が違う。
まず、ここは競技場じゃない。ポイントを稼ぐ場所ではなく、通過する場所だ。
ロボットを倒す必要はない。抜ければいい。
そして。
俺は自分の両手を見た。
包帯が巻かれている。まだ塞がっていない傷。
――血は使わない。
これは決めていた。
あの傷はまだ生きている。血を使えば止まらなくなる。四キロのレース中に失血すれば、俺は完走できない。
使えるのは、素手の腐食だけだ。
接触時間に比例する、あの遅い個性だけ。
前方で、爆豪が二十メートル級を爆破して吹き飛ばした。轟が氷漬けにした。緑谷が――何かをやって、突破した。
化け物どもだ。
俺には、あんな真似はできない。
できないが。
俺はロボットの群れを見上げながら、頭の中で秒数を数え始めた。
四十秒。
あのときは四十秒かかった。
――今の俺なら、何秒だ。