やはり俺の個性はまちがっている。   作:いろは杏

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「――宣誓。俺が一位になる」


第16話 四千万人の観客

 控え室というのは、人間の本性が出る場所である。

 

 試合前の数十分。することがなく、逃げ場もなく、全員が同じ緊張を共有している。この状況で人がどう振る舞うかを見れば、そいつの人格の骨格が分かる。

 

 一年A組の控え室には、五種類の緊張があった。

 

 一つ目、爆豪勝己。

 

 壁にもたれて、目を閉じている。呼吸が深い。こいつの緊張は闘争のそれだ。獣が獲物を待つときの静けさに近い。

 

 二つ目、飯田天哉。

 

 ストレッチをしている。ラジオ体操みたいに正確な動きで。こいつの緊張は義務のそれだ。やるべきことをやらねばならないという類の。

 

 三つ目、緑谷出久。

 

 何度も拳を握っては開いている。震えている。だが目は死んでいない。これは覚悟の緊張だ。怖いままで前に出ようとしている人間の顔である。

 

 四つ目、大多数。

 

 やたら喋る、無駄に笑う、意味のない動きをする。これは不安の緊張で、最も一般的なやつだ。俺もこれに近い。

 

 そして五つ目。

 

「――ふふふ、稼ぐぞぉ……」

 

 麗日お茶子が、拳を握って笑っていた。

 

 目が、据わっていた。

 

「あの、麗日さん?」

 

 緑谷が引き気味に声をかけた。

 

「あっデクくん! いやな、うちな、この体育祭で絶対結果出さんとあかんくて」

 

「え、なんで?」

 

「事務所に指名されるやろ? そしたら将来プロになったとき、給料ええとこ入れるやん」

 

 麗日はあっさり言った。

 

「うち、実家が建設会社やってんねんけど、ぜんっぜん儲かってなくて。だからうちが稼いで、親に楽させたるんよ」

 

 教室の空気が、少しだけ変わった。

 

 誰かが「泣ける」と言った。誰かが「えらい」と言った。

 

 俺は、少し違うことを考えていた。

 

 ――ああ。

 

 こいつも、生存のために勝とうとしてるのか。

 

 俺はこの二週間、自分の動機を持て余していた。

 

 俺が体育祭で結果を出さなければならない理由は、就職できないと免許が失効して、国の管理下に戻されるからだ。

 

 人助けのためではない。夢のためでもない。

 

 単に、そうしないと詰むからだ。

 

 こんな理由でヒーロー科の体育祭に出るのは、たぶん不純だろう。周りの連中は『憧れのヒーローになるため』とか、そういう真っ当な燃料で動いている。

 

 ――そう思っていた。

 

 だが、目の前の女は違った。

 

 こいつの動機は金だ。実家の事業だ。生活だ。

 

 純度でいえば俺と大差ない。ただ方向が逆なだけだ。麗日は稼ぐために勝ち、俺は詰まないために勝つ。

 

 プラス方向の生存と、マイナス方向の生存。

 

 ――なんだ。

 

 俺だけじゃないのか。

 

 その事実は、驚くほど俺を楽にした。

 

 自分でも呆れる。他人の困窮を知って安心する人間が、この世で一番みっともない部類であることは分かっている。

 

 だがまあ、俺はそういう人間だ。今さらだ。

 

     * * *

 

 控え室のドアが開いた。

 

 轟焦凍が立っていた。

 

 まっすぐに緑谷のところへ歩いていって、こう言った。

 

「客観的に見て、俺はお前より強い」

 

「え、あ、うん……?」

 

「だが、オールマイトはお前に目をかけている。……何かあるんだろう」

 

 俺は少し離れた場所で、それを聞いていた。

 

 教室が静かになった。爆豪が薄目を開けた。

 

「詮索する気はない。ただ、宣言しておく」

 

 轟は言った。

 

「俺は、お前に勝つ」

 

 場が凍った。

 

 いや、正確には、みんなが轟の言葉の中身に驚いていた。

 

 俺が引っかかったのは、別のところだ。

 

 ――言い聞かせてるな。

 

 あの言い方には、聞き覚えがある。

 

 第一に、あいつは「勝つ」と未来形で言った。「勝てる」でも「負けない」でもなく。

 

 第二に、宣言の前に理由を並べた。「客観的に見て俺のほうが強い」から始めた。

 

 本当に確信している人間は、理由を述べない。爆豪を見ろ。あいつは「俺が一番だ」としか言わない。理由を言わないのは、理由が要らないからだ。

 

 理由を並べるのは、自分を説得しているときだ。

 

 ――誰に対して勝ちたいんだ、こいつは。

 

 緑谷ではない気がした。

 

 どうでもいい話だ。俺には関係ない。

 

 俺の脳は、こういうどうでもいい情報ばかり勝手に記録する。

 

     * * *

 

 競技場に出た瞬間、音の壁に殴られた。

 

 歓声だ。

 

 スタンドが埋まっている。三百六十度、全部。数万人。そしてその上に、中継用のカメラが何十台も並んでいる。

 

 俺は反射的に、視線を落とした。

 

 こういう場所は苦手だ。というより、俺は見られるという状態そのものに耐性がない。中学三年間、俺は誰の視界にも入らないことを目標に生きてきた。

 

 その俺が今、四千万人に見られている。

 

「――さぁーて! 野郎ども、盛り上がってっかァ!」

 

 実況席にプレゼント・マイクがいた。声がでかい。

 

「解説はイレイザーヘッド!」

 

「帰らせろ」

 

 包帯だらけの相澤先生が呟いた。

 

     * * *

 

 選手宣誓は爆豪だった。

 

 一年A組の首席。個性把握テスト一位。壇上に上がって、マイクの前に立った。

 

 そして。

 

「――宣誓。俺が一位になる」

 

 会場が、爆発した。

 

 ブーイング。怒号。他クラスの生徒が身を乗り出す。

 

「ざけんな一組!」

 

「調子乗んじゃねーぞ!」

 

 A組の連中が頭を抱えていた。飯田が「なんということを!」と叫んでいる。

 

 俺は爆豪を見ていた。

 

 ――こいつ、天才だな。

 

 性格の話ではない。あれは最悪だ。

 

 だが、戦略として見たとき、あの宣言は完璧だ。

 

 まず、全会場の注目を集めた。次に、全選手の敵意を集めた。敵意を集めた人間は、常に映される。カメラは対立を追う。

 

 そして今日、この会場において映らないことは存在しないことである。

 

 爆豪は、たぶん何も考えていない。ただ本心を言っただけだ。

 

 だが結果として、この日の最適解を実行している。

 

 ――目立つことが、正義か。

 

 平塚先生の言葉が、そこで裏付けられた。

 

『目立たない人間は、選ばれない』

 

     * * *

 

「第一種目はこれだァ!」

 

 スクリーンに表示された。

 

『障害物競走』

 

「競技場外周をぐるっと回る、全長約四キロ! 道は塞がなきゃ何やってもいいぜ! 上位四十二名が次に進む!」

 

 ――厳しいな。

 

 いや、正直に言えば、絶望的だ。

 

 俺の五十メートル走は七秒二一。個性は走行に一切寄与しない。四キロの持久走で四十二位以内に入る根拠が、どこにもない。

 

「位置について――」

 

 全員がスタートゲートに詰め込まれた。

 

 トンネルだ。競技場から外周へ出るための、幅の狭い通路。

 

 幅数メートルのトンネルに殺到する構造。

 

 ――ボトルネックか。

 

 俺はそこで、ひとつだけ理解した。

 

 この競技は、走力を測る競技じゃない。

 

「――スタァァァト!」

 

     * * *

 

 皆が、一斉に動いた。

 

 悲鳴が上がった。

 

 当然だ。幅の狭いトンネルに同時に突っ込めば、詰まる。前が詰まり、後ろが押し、真ん中が潰れる。

 

 俺は最初から走らなかった。

 

 走れば人にぶつかる。ぶつかれば俺の手が誰かの皮膚に触れる。ここは体育祭で、俺の周りにいるのは他クラスの生徒であり、その全員が俺の個性を知らない。

 

 握手で腕が腫れる程度だが、それでも事故だ。

 

 だから俺は、集団の外縁を歩いた。

 

 そして、二十秒後。

 

 トンネルの中が、白くなった。

 

「――うおっ、なんだこれ!」

 

「足が、氷っ!?」

 

 轟焦凍。

 

 あいつが後方から地面を凍らせた。トンネルの床を氷結させて、後続を一斉に転倒させた。

 

 皆が雪崩を打って転んだ。

 

 俺も足を取られた。

 

 が、俺は走っていなかったので、単に尻餅をついただけで済んだ。

 

 ――走ってなくてよかったな。

 

 人生で初めて、運動能力の低さが役に立った瞬間だった。

 

     * * *

 

 立ち上がって、周囲を見た。

 

 地獄だった。

 

 転倒者の山。悲鳴。氷の上で滑って起き上がれない人間が、何人も折り重なっている。

 

 この状況で、俺が取れる選択肢は二つある。

 

 一、氷の上を走って追う。

 

 二、氷を避けて歩く。

 

 一は無理だ。氷の上で走れる運動能力がない。

 

 だから二を選んだ。

 

 俺は氷の縁を歩いた。壁際、氷が薄い場所。そこを一歩ずつ、確実に。

 

 速くない。だが転ばない。

 

 そして、転倒者を踏まない。

 

 ――こいつら、邪魔だな。

 

 そう思いながら、俺は倒れている生徒の間を縫って歩いた。

 

 一人が起き上がろうとして、俺の足元に手をついた。

 

 俺は避けた。触れないように。

 

 その動作を、何度も繰り返した。

 

     * * *

 

 トンネルを出たとき、俺の順位は、たぶん百番台だった。

 

 前方はるか先に、上位陣が見える。轟、爆豪、緑谷、飯田。

 

 ――遠いな。

 

 四キロある。まだ三.八キロ残っている。

 

 その間に、俺は六十人を抜かなければならない。

 

 物理的には不可能に近い。

 

 だが、この競技には障害物がある。

 

 障害物というのは、足の速い人間を止める装置だ。

 

 つまり、この競技の設計者は、走力以外の要素で順位を入れ替えるつもりでいる。

 

 だったら、まだ終わっていない。

 

     * * *

 

 第一関門が見えた。

 

「――さぁ最初の関門はこいつだ! ロボ・インフェルノ!」

 

 巨大な影が、外周コースを塞いでいた。

 

 ロボットだ。

 

 二メートル級。五メートル級。十メートル級。

 

 そして、二十メートル級。

 

 ――見覚えがあるな。

 

 俺は足を止めなかったが、目は動いていた。

 

 あの外装。あのキャタピラ。あの関節の構造。

 

 入試の仮想敵と、同じだ。

 

 同型。おそらく同じ製造ライン。サイズが違うだけで、素材と構造は共通している。

 

     * * *

 

 俺は入試のとき、二メートル級を一体倒している。

 

 方法は単純だった。

 

 キャタピラの駆動部を掴んで、離さない。それだけだ。

 

 所要時間、四十秒。

 

 あのとき俺は、その数字に絶望した。四十秒で一点。効率最悪。

 

 だが今は、状況が違う。

 

 まず、ここは競技場じゃない。ポイントを稼ぐ場所ではなく、通過する場所だ。

 

 ロボットを倒す必要はない。抜ければいい。

 

 そして。

 

 俺は自分の両手を見た。

 

 包帯が巻かれている。まだ塞がっていない傷。

 

 ――血は使わない。

 

 これは決めていた。

 

 あの傷はまだ生きている。血を使えば止まらなくなる。四キロのレース中に失血すれば、俺は完走できない。

 

 使えるのは、素手の腐食だけだ。

 

 接触時間に比例する、あの遅い個性だけ。

 

 前方で、爆豪が二十メートル級を爆破して吹き飛ばした。轟が氷漬けにした。緑谷が――何かをやって、突破した。

 

 化け物どもだ。

 

 俺には、あんな真似はできない。

 

 できないが。

 

 俺はロボットの群れを見上げながら、頭の中で秒数を数え始めた。

 

 四十秒。

 

 あのときは四十秒かかった。

 

 ――今の俺なら、何秒だ。

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