地面が揺れた、と思ったのは錯覚だった。
実際に揺れたのは、二百人ぶんの足だ。ゲートの前に固まっていた受験生が一斉に走り出して、その振動が舗装を伝ってきただけである。
俺は最後尾から三番目くらいの位置で、歩き出した。
念のために言っておくが、これは戦略ではない。単に、この人数の中に飛び込むのが物理的に無理だからだ。
走れば誰かとぶつかる。ぶつかれば俺の袖が相手の皮膚に触れる。制服の下には炭素繊維のインナーを着ているが、袖口と首元は露出している。人混みの中で全力疾走するというのは、俺にとって刃物を振り回しながら走るのとだいたい同じ意味を持つ。
つまり俺は、開始三十秒で他の受験生の背中を眺める立場になった。既視感がある。人生でだいたいいつもこの位置にいる。
仮想敵の第一号を見つけたのは、通りをふたつ曲がった先だった。
二メートル級。鉄骨とスクラップを寄せ集めたような外装で、キャタピラで前進してくる。額に「1」の数字。ポイントは一点。
周囲には誰もいない。前を走っていた集団は、もっと点数効率のいい方角へ散っていったらしい。俺のところに残ったのは、誰も欲しがらない一点だけだった。分かりやすい人生の縮図だ。
仮想敵がこちらを認識して、加速する。
俺は避けなかった。避けられなかった、が正しい。運動神経は平均以下だし、腐食に射程はない。当たるしかない。
肩から突っ込まれて、後ろに吹っ飛んだ。
背中から地面に落ちる。肺の空気が全部出ていって、視界が白くなる。
「――ぐ、っ」
痛い。当たり前だが、痛い。
だがこれでいい。俺は起き上がりざま、キャタピラの側面に手を突っ込んだ。
そして、掴んだ。
離さない。それが唯一の攻撃手段だ。
腐食は接触時間に比例する。一秒で表面が変色し、三秒で脆くなり、十秒でようやく構造が崩れる。それが金属に対する俺の速度だ。
仮想敵は俺を引きずったまま前進した。掴んでいるのはキャタピラの駆動部だから、当然そうなる。アスファルトの上を制服の背中で引きずられて、たぶん皮膚が何枚か削れた。
五秒。金属が黒ずむ。
八秒。指が沈み込む。
十二秒。
――ぶちん、と、駆動軸が折れた。
片側のキャタピラが空転して、仮想敵はその場で無様に円を描き始めた。俺は転がって離れ、今度は反対側に走った。
同じことをもう一度。掴んで、耐えて、待つ。
二台目の軸が折れたとき、そいつは完全に動きを止めた。
「……はぁ、っ、はぁ」
一点。
所要時間、約四十秒。
控えめに言って、終わっている。
三十分の試験時間で、この効率だと最大四十五点。そして俺は既に、両方の手のひらの皮が擦り切れて、背中の制服が破れて、息が上がっている。四十五点を取り切る前に俺の身体の方が先に壊れる計算だ。
立ち上がりながら、俺は自分の個性について考える。
腐食。触れたものを腐らせる。
これがもし、触れた瞬間に腐るならば、俺は最強の部類に入っていただろう。指一本で何でも崩壊させる能力。夢がある。厨二病的にも百点だ。
だが現実は、触れ続けた時間ぶんだけ腐るである。
この差は決定的だ。なぜなら戦闘というのは、要するに触れさせないことの応酬だからだ。殴られないように動き、掴まれないように距離を取る。あらゆる戦闘技術は接触の拒否のために発達している。その真逆を要求される個性が強いわけがない。
しかも日常では常時発動で他人を傷つける。
戦闘では弱く、日常では危険。
ヒーロー適性ゼロ、社会適性ゼロ。パーフェクトである。何かを完璧に達成する人間というのは、たぶん俺のような奴を指すのだと思う。
そんな益体もないことを考えながら、俺は次の仮想敵を探して歩き出した。
* * *
開始から十分で、俺は五点を稼いだ。
そのうち三点は、他の受験生が半壊させて放置していった個体にとどめを刺したものだ。恥じるべきかもしれないが、恥じない。ルールに書いていないことは全部やっていいというのが試験というものの本質であり、それに文句を言う奴はだいたい成績が悪い。
通りは徐々に静かになっていた。ポイント源が中央に集中しているのか、受験生の声も遠い。
俺は路地の日陰で膝に手をついていた。手のひらから血が出ている。仮想敵を掴み続けるというのは、当然ながら掴んでいる側も無事では済まない。金属の断面は鋭いし、俺は握力が続く限り離さない。
そのとき。
地面から、音が鳴った。
ずずず、という、低い音。振動が靴の裏から伝わってくる。
顔を上げる。
路地の先、二十メートルほど向こうの交差点で、何かが起きていた。
空き缶が転がっている。いや、転がっているんじゃない。
滑っている。地面を這うように、一方向へ。
缶だけじゃない。看板が、フェンスの破片が、砕けたコンクリートが、すべて同じ方向へ引きずられていく。
その中心に、女子生徒がいた。
しゃがみ込んで、頭を抱えている。明るい色の髪が団子にまとめられていて――ああ、と俺は思った。
正門の前で俺にぶつかりかけた、あの女だ。
「ごめっ、ごめんなさい、止まって、止まってっ」
悲鳴に近い声だった。
止まらない。それどころか、彼女がパニックになるほど、引き寄せる力は強くなっていく。空き缶が加速して彼女の背中に当たる。フェンスの破片が肩をかすめる。
万有引力とでも呼ぶべきか。
おそらく――半径数メートルの物体を、自分の方へ引き寄せる。そんな個性。
攻撃にも防御にも使える、恵まれた個性のはずだ。少なくとも俺のよりは百倍マシだ。
だが、この状況から鑑みるに、制御ができていない。
そして最悪なことに、彼女の頭上には、半壊したビルの外壁があった。
仮想敵が壊したのか、他の受験生の余波か。三階部分のバルコニーが根元から傾いで、鉄筋がむき出しになっている。数百キロ、あるいはトン単位のコンクリート塊。
それが、ゆっくりと傾き始めた。
引き寄せられている。
彼女自身の個性で。
「――っ、いや、やだ、やだ待ってっ!」
彼女が上を見た。見た瞬間、恐怖で個性の出力が跳ね上がったのが分かった。周囲の瓦礫が一斉に浮いた。
俺は動かなかった。
いや、正確に言おう。俺は一瞬、動かないという選択を検討した。
助けに入れば、俺は間違いなく怪我をする。あの質量を止める手段は俺にはない。腐食は時間比例だ。落下してくるコンクリートを触った瞬間に消し飛ばす、なんてことはできない。
できることといえば、下敷きになりながら、崩れるまで触り続けることくらいだ。
それに、周囲には俺以外にも受験生がいるはずだ。誰かが気づく。ヒーロー志望者が二百人もいる会場で、誰も助けに行かないなんてことがあるだろうか。
――あるに決まってるだろ。
答えは自分の中にあった。
ここは試験会場だ。二百人が有限のポイントを奪い合っている。他人の救助にポイントは付かない。試験官はそう言っていない。誰も知らない。
そして人間は、加点されないことをしない。
俺はこれまでの長くない人生で、それを見てきた。誰かが困っているとき、周囲がどう振る舞うか。見て見ぬふりは悪意じゃない。合理性だ。俺だってそっち側で生きてきた。ずっとだ。
だから、動く理由はない。
理由は、ないんだが。
「……クソっ」
俺は走り出していた。
言い訳をさせてほしい。これは正義感ではない。断じて違う。
あの女の個性は半径数メートルの物体を引き寄せる。俺は今、二十メートルの位置にいる。もう少し近づけば俺も範囲に入る。範囲に入れば俺も瓦礫と一緒に引き寄せられる。つまりこれは自衛だ。放置すれば俺の身も危ない。
我ながら苦しい理屈だと思う。二十メートル離れているなら、逆方向に走れば済む話だからだ。
まあいい。人間は自分に嘘をつけるから生きていける。俺は生きたい。だからこれは自衛だ。決定事項である。
「おい」
彼女が振り返った。涙でぐしゃぐしゃの顔だった。
「え、あ、だめっ、来ないで、私、止められな――」
「知ってる」
俺は範囲に踏み込んだ。
瞬間、身体が引っ張られる。足元をすくわれるような感覚。周囲の瓦礫と同じ速度で、俺は彼女の方へ引きずられた。
上を見る。
バルコニーの根元が、悲鳴のような音を立てて折れた。
落ちてくる。
俺は彼女の腕を掴もうとして、やめた。
触れば腐る。この距離、この時間、素手で掴めば彼女の腕は済まない。
だから代わりに、俺は彼女の襟首を掴んで、地面に押し倒した。
自分が上になるように。
背中に、世界が落ちてきた。