音がしなかった、というのが最初の感想だ。
実際には轟音がしていたはずだ。だが人間の脳というのは、処理能力を超えた入力を受けると、優先度の低い情報から順に捨てていくらしい。
音は捨てられた。代わりに残ったのは、背骨が軋む感触と、肺から空気が押し出される感覚と、暗くなった視界だけだった。
それから、遅れて痛みが来た。
背中。左の肩甲骨のあたりに、何かが乗っている。重い、では言葉が足りない。重量というより、圧力だ。俺の身体を地面に塗り広げようとする力。
「――ぐ、ぁ」
息が吸えない。吸おうとすると胸郭が押し返されて、途中で止まる。
目を開けた。数センチ先に、女の顔があった。
正門の前ですれ違いかけた、あの女だ。目を見開いて、口を半分開けて、俺を見上げている。無傷だ。少なくとも見える範囲では。
俺が上に覆いかぶさっている。俺の背中に瓦礫が乗っている。要するにそういう配置になっている。狙い通りではある。狙い通りだが、想定していたよりずっと痛い。
「……ぇ」
彼女の口が動いた。声になっていない。
「あ、あ、う、うそ、うそ、ど、どうし、なんで」
言葉が壊れている。パニックだ。
そしてパニックというのは、この女の場合、致命的な意味を持つ。
ずずず、と地面が鳴った。
俺の背中の圧力が、増した。
「――ッ、おい」
「え、え?」
「止めろ。個性」
「え、あ」
彼女は自分の手を見た。それから、はっとして、俺の背中の向こうを見た。何が起きているか理解したらしい。
彼女の個性は引き寄せる。半径数メートルの物体を、彼女自身のもとへ。
つまり今、俺の上に乗っている数百キロのコンクリートは、彼女に引かれ続けている。落下したから止まっているのではない。引かれているから押し付けられている。
「ご、ごめっ、ごめんなさい、止まって、止まっ、止まらないっ、止まらないよぉっ」
悲鳴が上がって、圧力がまた増した。
肋骨が鳴った。折れてはいない。まだ。
* * *
人間は追い詰められると、意外なほど頭が回る。
あるいは、他にやることがないから回っているように錯覚するだけかもしれない。どちらでもいい。結果として俺は、この数秒で、自分の人生で一番真面目に他人の個性について考えることになった。
観察する。
落ちてくる砂粒。指の間から零れた小石。それらが
俺の顔のすぐ横を、砂が滑っていった。彼女の顔の横を抜けて、その先へ。
顔じゃない。
肩でもない。手でもない。
視線を下げる。俺と彼女の身体の間、わずかな隙間。そこに、砂粒が吸い込まれるように集まって、制服の生地の上で渦を巻いている。
胸郭の、中心。
喉のすぐ下あたり。
――そこが出所か。
考えてみれば当然だ。俺の個性が全身の皮膚から出ているように、個性には出どころがある。彼女のそれは体幹の中心にあって、だから半径数メートルという球状の範囲を持つ。手足から出ているなら、もっと指向性があるはずだった。
分かったところで、と俺は思う。
分かったところで、どうにもならない。
いや。
――いや、待て。
ひとつだけ、方法があるかもしれない。
俺は自分の右手を見た。血が滲んで、砂と混じって、汚い色をしている。
この手で、そこに触れれば。
俺の腐食は、生き物に対しては最悪の作用をする。金属が朽ちるように、皮膚は爛れる。三秒も触れれば火傷に近い痛みが走る。俺はそれを知っている。実験したことがあるからじゃない。事故として、何度か起こしてしまったことがあるからだ。
人間は、強い痛みを受けると、集中が飛ぶ。
個性の発動には、程度の差こそあれ意識が要る。無意識に暴走している状態であっても、あるいは無意識だからこそ、そこに強烈な物理的入力を叩き込めば、回路が一度切れる可能性がある。
可能性だ。確証はない。
そして確証がないまま、俺は他人の身体を故意に腐らせることになる。
* * *
一秒。あるいは二秒。
その時間で、俺の頭を通り抜けたものを、正直に書いておく。
まず、無理だ、と思った。
俺は自分の個性が嫌いだ。嫌いという言葉では足りない。憎んでいる。俺はこれのせいで人と距離を取ってきた。触れないように、触れられないように、袖を伸ばして、遠回りをして、列の端に立って生きてきた。
それは全部、誰かを傷つけないためだったはずだ。
その俺が、今から、自分の意志で他人を傷つけようとしている。
事故じゃない。暴発でもない。狙って、狙った場所を、腐らせる。
それをやったら、俺は何になるんだ。
俺がずっと自分に言い聞かせてきた理屈――これは呪いであって、俺は加害者じゃないという、あの薄っぺらい免罪符が、そこで終わる。
使ってしまえば、それは能力になる。呪いは自分では選べないが、能力は選んで使うものだ。使った瞬間から、俺は自分の個性の共犯者になる。
だから無理だ、と思った。
次に、他の手段を探した。
彼女に這って出るように指示する。範囲の中心を移動させれば引力から外れる。だが、あれだけ壊れた声を出している人間が、指示を理解して、正確に動けるか。無理だ。少なくとも三十秒はかかる。俺の胸郭が三十秒保つかは、賭けだ。
誰かが助けに来る可能性。考えるだけ無駄だ。ここは試験会場で、二百人が有限のポイントを奪い合っている。他人の救助に点は付かない。人間は加点されないことをしない。俺はそれを身をもって理解している。見て見ぬふりは悪意じゃない。合理性だ。俺だってずっとそっち側にいた。
自力で瓦礫を腐らせる。俺の手のひらは十センチもない。数百キロの塊に対して、腐食できるのは接触面だけだ。十分か二十分かかる。その前に俺が潰れる。
三つとも、駄目だ。
最後に、俺は自分の中の、一番醜い部分を見た。
――こいつを傷つけたところで、俺の人生に不利益はない。
名前も知らない女だ。今日会っただけの他人だ。傷が残ったところで、俺には関係ない。むしろ助けた側なんだから、感謝されこそすれ責められる筋合いはない。
そういう計算が、確かに一瞬、頭をよぎった。
それが一番、嫌だった。
結局のところ俺は、その醜さを言い訳にして踏み切るのだ。どうせ自分は最低なんだからという自己認識は、最低な行動の免許証として実に便利にできている。
俺は最低だ。それでいい。
最低な奴が、最低なことをする。世界の整合性は保たれる。
* * *
俺は右手を、彼女の襟元へ動かした。
「――すまん」
言った。伝わったとは思わない。彼女はまだ、止まって止まってと繰り返している。
制服の襟。その隙間から覗く、鎖骨の下。
指を、置いた。
一秒。
彼女の身体が、びくん、と跳ねた。
「ぇ……」
二秒。
俺の指の下で、皮膚が変色していく感触があった。ざらつく。乾く。剥がれていく。
「――っ、あ」
三秒。
「あ、あああああっ!」
悲鳴が、変わった。
恐怖の悲鳴じゃない。痛みの悲鳴だ。
同時に。
背中の圧力が、消えた。
――止まった。
思考が飛べば個性も飛ぶ。賭けは当たった。だが喜んでいる暇はない。
なぜなら、彼女の頭上には、まだ壁があったからだ。
引力に引かれて浮いていたもの。ビルの外壁の残骸、鉄筋の破片、砕けたコンクリート。それらは今の今まで彼女に引き寄せられて宙で拮抗していた。
その力が消えれば、どうなるか。
落ちるに決まっている。
ただの自由落下として、真上から。
「――ッ!」
俺は手を離すと同時に、彼女の襟首を掴んだ。
そして、投げた。
丁寧さも配慮もない。ただ、質量を移動させるためだけの動作。彼女の身体が横に転がって、地面を滑って、俺の視界から外れた。
自分の身体を動かそうとした。
左腕が動かなかった。さっきの圧力で、感覚が飛んでいた。
視界が、暗くなった。
* * *
二度目の衝撃は、一度目より痛くなかった。
既に感覚が壊れていたからかもしれないし、単に落下高度が低かったのかもしれない。
ただ、状況は一度目より悪かった。
仰向けだ。胸から下に、コンクリートの塊が乗っている。腰と、右脚と、左腕。三点で固定されている。動かない。
完全に、動かない。
今度は誰も引っ張っていない。ただの物理法則としての質量が、そこにあるだけだ。
――ああ。
これは、詰んだな。
妙に静かな気持ちで、俺はそう思った。
人間、本当に終わったときには、案外じたばたしないものらしい。俺は空を見ていた。二月の、色の薄い空。あそこにヘリでも飛んでいれば絵になるが、何も飛んでいない。
十六年。短い。だが振り返って惜しむものが特にないので、長さの問題でもない気がする。
小町のことだけは、少し考えた。
あいつは泣くだろうか。泣くんだろうな。あいつは俺を怖がらない、世界で唯一の人間だったから。
そのとき。
ぼろ、と、音がした。
視線を動かす。
俺の左腕。コンクリートに挟まれた、その接触面。
黒ずんでいた。
当たり前だ。俺の個性は常時発動で、俺は今この瞬間も触れている。
何秒経った? 十秒か。二十秒か。腐食は進んでいる。
だが、それだけじゃなかった。
俺の右手の下。指先から血が流れて、コンクリートの表面に溜まっている。
その部分が。
――速い。
明らかに、速かった。
皮膚が触れている場所より、血が触れている場所のほうが、崩れ方が激しい。同じ時間で、二倍か、三倍か。血に浸ったところが黒い染みのように広がって、その内側から砂になって崩れていく。
なんだそれは。
考えたことがなかった。俺は自分の個性を触れたものが腐ると理解していて、その『触れる』は皮膚での接触を意味していると思っていた。
だが違う。
俺という有機体そのものが腐食性を持っているなら、血も、当然。
――ああ。
思い出した。
一年前の、あの河川敷。
俺の血を舐めた女が、地面に膝をついて吐いた。口の中が焼けると言って泣いた。
あれは、そういうことか。
* * *
理解と同時に、俺は動いていた。
右手はまだ自由だ。俺は掌の傷を、コンクリートの表面に押し付けた。血を塗りつける。撫でるように、広く。
そして待つ。
五秒。黒く染みる。
十秒。表面が粉を吹く。
十五秒。指が沈む。
二十秒――
右脚に力を込めた。動くのは膝から下だけだ。それでいい。
蹴った。
一度目、鈍い音。二度目、ひび。三度目。
――抜けた。
崩れた穴から脚を引き抜いて、身体を捻る。腰が自由になる。あとは左腕だが、これは諦めて、力任せに引き抜いた。何かが擦れる感触がして、それから熱が走った。
俺は瓦礫の外に転がり出た。
* * *
空が見えた。
仰向けに倒れたまま、俺は何度も息をした。吸うたびに肋骨が鳴ったが、鳴るということは形が残っているということだ。
左腕は、あまり見たくなかった。見なくても分かる。肘から先の感覚が、ぬるい水に浸かっているみたいに曖昧になっている。
制服の背中は原型がない。右の掌からは血が出続けている。
そして、視界の端に、彼女がいた。
座り込んでいる。片手で、自分の鎖骨の下を押さえている。
その手の下から、赤黒く爛れた皮膚が覗いていた。
俺がやった。
俺は身体を起こした。関節が全部軋んだが、起きた。
言うべきことは、ひとつしかなかった。
「……悪かった」
彼女が顔を上げる。
「他に手がなかった。……いや、それも言い訳だな。探せばあったのかもしれん。俺が思いつかなかっただけだ」
喋るたびに肺が痛んだが、続けた。
「その傷、たぶん残る。俺の個性でついたやつは、跡が消えにくい。……病院で、比企谷って奴にやられたって言え。俺の登録番号は個性使用記録に残ってるから、それで話は通る」
彼女は何も言わなかった。
ただ、俺を見ていた。
その顔が、何を意味しているのか、俺には分からなかった。怒っているようにも見えたし、泣きそうにも見えたし、どちらでもないようにも見えた。
複雑な顔だ、と思った。
そして俺は、複雑な顔を読み解けるほど、人間関係の経験がない。
だから立ち上がった。
立ち上がって、背を向けた。
「じゃあな」
試験時間はまだ残っている。俺のポイントは五点で、両腕はほぼ使えない。合格の目はない。
どうせ落ちる。落ちれば二度と会わない。
それでいい。むしろそのほうがいい。
俺が三歩あるいたところで、後ろから声がした。
「――待って」
振り返った。
彼女は、まだ座ったままだった。鎖骨の下を押さえたまま、それでも、こっちを見て、言った。
「あたし、由比ヶ浜結衣」
何を言われているのか、一瞬分からなかった。
「……は」
「名前! まだ聞いてなかったから――」
名前。
そういえば、と俺は思った。
一年前の河川敷で、俺は名前を聞かなかった。聞かれもしなかった。
あのときは、それでよかった。互いに名前を知らなければ、あれは無かったことにできる。実際、俺はそうやって処理した。
だが今回は、聞かれてしまった。
答えれば、無かったことにはできなくなる。
俺が腐らせた傷が、名前を持ってしまう。
「……比企谷八幡」
言ってしまってから、少し後悔した。
後悔したが、まあいい。どうせ落ちる。名前くらい、くれてやってもいい。
そう思っていた。
そのときは。