試験終了の合図は、聞こえなかった。
正確に言うと、聞こえてはいたのだと思う。ただ、そのとき俺は
「坊や、これはどうやったの」
「落ちてきたコンクリートに挟まれました」
「そうじゃなくて。挟まれた後、どうやって出てきたのって聞いてるの」
「腐らせて、蹴りました」
リカバリーガールは俺の顔をじっと見た。老眼鏡の奥の目が、思ったより鋭い。
「……蹴った。折れてる脚で」
「折れてたんですか」
「折れてるわよ」
初耳だった。感覚が飛んでいたので気づかなかった。まあ、道理で痛いわけだ。
彼女は俺の額に唇を寄せた。個性による治療というやつだ。ぐわん、と身体の内側から熱が湧いて、同時に猛烈な空腹が来た。
「これで骨はくっつくけど、体力は戻らないからね。三日は寝てなさい」
「はい」
「あと、これは治療しても跡が残るわ」
彼女が指したのは、左の前腕だった。瓦礫から引き抜いたときに擦れた場所。皮膚が変色して、乾いた樹皮みたいになっている。自分の個性でついた傷は、俺の場合、細胞のレベルで壊れているので再生が効きにくい。知っている。身体中にある。
「慣れてます」
「……そう」
彼女は少しだけ眉を寄せて、それから、次の受験生を呼んだ。
* * *
帰りの電車で、俺は自分の右手を見ていた。
掌の傷は塞がっている。だが、そこから流れた血が何をしたのかは、まだ手のひらに残っている感じがした。
血のほうが、速い。
三倍近い。おそらくは、皮膚が角質という死んだ層で覆われているのに対し、血液は生きた成分がむき出しで対象に接触するからだ。俺の個性が細胞のレベルで作用しているなら、この差は理屈が通る。
通るのだが。
だから何だ、という話でもある。
自分の血を流して戦う個性者。字面だけならそこそこ格好はつく。だが実際は、傷を作らなければ弾が出ない仕組みだ。撃つたびに自分が減る。そんな武器を運用に乗せる方法など、少なくとも今の俺には思いつかない。
だから俺はその発見を、頭の隅の『使えないが面白い知識』の棚に放り込んだ。俺の脳内にはその棚がやたら充実している。
窓の外を、住宅街が流れていく。
試験の結果について、俺は既に結論を出していた。
五点。落ちた。
三十分の試験時間のうち、最初の十分で五点、次の数分で他人の下敷きになり、残りは保健室で老婦人に説教されていた。加点要素がどこにもない。
むしろ減点があってもおかしくない。他の受験生に故意の個性使用による傷害を負わせている。事情はどうあれ記録には残る。
――まあいい。
落ちたら国の登録個性者制度に乗るだけだ。定期的な検診と行動報告と、指定された職種への就労。実質的な軟禁だが、飢え死にはしない。
人生とは、選ぶものじゃない。残るものだ。
俺はそう考えることにしている。そう考えると、たいていのことは腹が立たない。
* * *
家に帰ると、玄関で靴を脱いだ瞬間に妹が飛んできた。
「お兄ちゃんおかえりー! どうだった試験! あ、なんか制服ボロボロじゃん、ちょっと何これ、破れてる、うわ背中すごいことになってる!」
小町は俺の背後に回り込んで、遠慮なく制服の裾を引っ張った。
俺は反射的に身を硬くする。
が、こいつは気にしない。昔からそうだ。
「うわー、これもう捨てるしかないやつだよ。お母さんに怒られるよ」
「事故だ」
「事故で制服の背中が全部擦り切れる? どんな事故?」
「上からビルが落ちてきた」
「ビル!?」
小町は目を丸くして、それから、俺の左腕を見た。
包帯が巻かれている。その端から、樹皮みたいな皮膚が覗いている。
妹の顔から、表情が少しだけ抜けた。
「……お兄ちゃん」
「治療は済んでる。骨もくっついた」
「そうじゃなくて」
小町は俺の右手を取った。
包帯の上から、両手で包むように握る。
俺の身体が一瞬、強張った。それも昔からだ。誰かに触れられると、俺の身体は『離れろ』の信号を出す。訓練された反射だ。
だが、こいつは離さない。
「大丈夫? 痛くない?」
三秒。四秒。
「……離せ。腐るぞ」
「うん、知ってる」
「知ってるなら離せ」
「はーい」
小町はあっさり手を離すと、自分の手のひらを俺に見せた。
うっすらと赤い。日焼けの初期みたいな色。
「ほら平気。この程度なら明日には消えるって、お兄ちゃんも知ってるでしょ」
「知ってるが、毎回やるな」
「毎回やるよ。だってお兄ちゃん、誰にも触られないと自分が透明になったと思うタイプでしょ」
俺は言葉に詰まった。
この妹は、時々こういうことを言う。中学三年生が使っていい語彙じゃない。
「……そんなわけあるか」
「あるじゃん。今も『触るな』じゃなくて『腐るぞ』って言ったし」
「同じ意味だろ」
「ぜんぜん違うよ。前者は自分が嫌なとき、後者は相手が心配なとき。あ、小町的にポイント高いよ、その言い方」
こいつのポイントの査定基準は俺には未だに理解できない。
だが、その日はなぜか、それを言い返す気にならなかった。
俺は靴を揃えて、自分の部屋に上がった。
背中で、小町が「お母さんには小町から言っといたげるー」と言うのが聞こえた。
* * *
俺が「触るな」と言ってしまった相手のことを、その夜、少し考えた。
あの女は、俺が去るときに名乗った。
由比ヶ浜結衣。
傷つけられた側が、傷つけた側を呼び止めて、名前を教える。
意味が分からない。
礼のつもりだったのか。だとしたら順序がおかしい。俺はあいつを助けたが、その過程であいつを腐らせた。差し引きすれば、たぶんマイナスだ。
もし俺がもっと器用な人間だったなら、あるいは彼女の個性の暴走を、傷つけずに止められたかもしれない。声をかけて、落ち着かせて、呼吸を整えさせて。そういうやり方をする人間が、この世には確実に存在する。
俺はそれを選ばなかった。選べなかった。
結局、俺のやり方はいつもこれだ。最短で、最も痛くて、後に傷が残る方法。
そういう人間が、ヒーローになる学校を受けている。
冗談みたいな話だ。
* * *
通知が来たのは、一週間後だった。
封筒ではなかった。円盤状の端末が郵送されてきて、机に置くとホログラムが投影される。学校からの通知にこの演出を選ぶセンスが、俺には理解できない。
『私が来た! ホログラムで!』
金髪の巨漢が空中に現れた。
オールマイト。
なぜオールマイトが雄英の入試通知に出てくるのか。今年から教鞭を執るらしい、という噂は聞いていた。事実だったのか。
『比企谷八幡少年! 結果を伝えよう!』
俺は無表情で見ていた。落ちた通知をこのテンションで伝えられるのは軽く拷問だが、まあいい。
『まず筆記試験、これは問題なく合格ラインだ! そして実技試験、敵ポイント五点!』
五点。改めて数字で見ると、なかなか味わい深い。
『……正直に言おう。この数字は、合格ラインには届いていない』
だろうな。
『――だが!』
オールマイトが手を広げた。
映像が切り替わる。
画面に映ったのは、崩れかけたビルの前の路上だった。俯瞰のアングル。誰かが撮った映像じゃない。試験会場の監視カメラだ。
女子生徒がしゃがみ込んでいる。周囲の瓦礫が浮いている。
そして、画面の端から、走ってくる男がいた。
――俺だ。
『少年。君は他人を守るために、自分の身を差し出した』
映像の中の俺は、彼女に覆いかぶさり、瓦礫の下敷きになった。
『そして、その後の行動もな』
俺が彼女の襟元に触れる場面。彼女が悲鳴を上げる場面。俺が彼女を投げ飛ばす場面。俺が二度目の下敷きになる場面。
全部、映っていた。
『試験官の間でも、議論があった』
オールマイトの声が、少しだけ低くなった。
『他の受験生に故意に個性を使い、傷を負わせた。この一点だけを見れば、それは減点対象だ。……いや、本来なら失格の判断もあり得る』
そうだろうな。
『だが我々は、映像を最後まで見た』
映像が止まる。
瓦礫の外に転がり出た俺が、身体を起こして、座り込んでいる彼女に向かって何か言っている場面だった。
音声はない。だが俺は自分が何を言ったか覚えている。
――悪かった。
――病院で、比企谷って奴にやられたって言え。
『君は逃げなかった』
オールマイトは言った。
『傷つけた事実から目を逸らさず、責任の所在を自分に置いて、その場を去った。……少年。人を助けるという行為には、しばしば、こういう選択が伴う。取り返しのつかない何かを承知の上で、それでも手を伸ばすかどうかだ』
『我々は、それを評価する枠を用意している』
映像が消えて、また金髪の巨漢が現れた。
『レスキューポイント! 審査員による、救助行動への加点だ!』
数字が表示された。
『比企谷八幡少年! 救助ポイント、四十五点!』
俺は、しばらくその数字を見ていた。
『合計五十点! 堂々の合格である! ……少年、来たまえ。ここが君のヒーローアカデミアだ!』
ホログラムが消えた。
部屋が静かになった。
俺は椅子の背もたれに体重を預けて、天井を見た。
* * *
まず思ったのは、詐欺だな、ということだ。
試験の説明に、救助ポイントの存在は一言も無かった。あれば当然、全員がそれを狙う。狙われては純粋な評価ができないから伏せていたのだろう。理屈は分かる。分かるが、後出しで採点基準を追加するのは、要するに試験として不誠実だ。
俺はこの学校を、少し嫌いになった。
次に思ったのは、四十五点は多すぎるだろ、ということだ。
俺は人を助けた。同時に人を傷つけた。差し引きゼロか、むしろマイナスだと思っている。それに四十五点も付くなら、この学校の採点は
あの映像には、確かに物語がある。傷だらけの少年が、他人を庇って、謝って、去っていく。切り取れば感動的だ。編集次第で番組が一本作れる。
だが実際にそこにあったのは、思いつく限りの手段を三つ潰して、四つ目に一番痛い方法を選んだ人間の、追い詰められた判断だけだ。
美談ではない。
美談じゃないものを美談として採点されると、人間は気持ち悪くなる。俺は今、その気持ち悪さの真ん中にいる。
そして最後に、これが一番厄介なのだが。
――あの女は、どうなったんだろうな。
そう思ってしまった。
合格したのか。あの後どうしたのか。傷は治ったのか。
考えても仕方がない。仮に受かっていたとしても、雄英には科がいくつもあるし、クラスもある。同じところに配属される確率は低い。会わずに三年終わる可能性のほうがずっと高い。
むしろ会わないほうがいい。
俺は彼女の身体に、一生消えない跡をつけた。顔を合わせれば、彼女はそれを思い出す。そして俺も思い出す。誰にとっても得がない。
だから、会わない。それが最適解だ。
俺はホログラムの端末を机の引き出しに放り込んで、電気を消した。
* * *
入学式は、四月にあった。
その日、俺は一年A組の教室のドアを開けた。
開けた瞬間、右斜め前の席から、勢いよく椅子が引かれる音がした。
「――あ! あーっ! ヒッキー!」
誰だそれは。
いや。
誰かは分かる。分かるが、色々とギリギリだろ。
明るい色の髪を団子にまとめた女が、こっちを指さして立ち上がっていた。制服の襟元。その内側、鎖骨の下あたりに――たぶん本人は隠しているつもりなのだろうが――包帯の白い縁が覗いている。
教室中の視線が集まった。
俺は、静かにドアを閉めた。
「閉めないでよ!?」