ドアを閉めたのは、正しい判断だった。
なぜなら、俺が閉めた時点で教室内には二十人近い人間がいて、その全員がこちらを見ていたからだ。二十人の視線というのは、火力に換算するとそこそこの重機関銃に相当する。生身で受けるものじゃない。
しかし世の中は、正しい判断をした人間を救わない。
「ちょっと! 閉めないでってば!」
ドアが内側から開いた。
由比ヶ浜結衣が、廊下に半身を乗り出して、俺の袖を掴もうとして――止まった。
空中で、指が開いたまま。
覚えていたのだ。
まあ、当然か。忘れられるはずがない。忘れるための努力をしているとしたら、それは俺のほうだ。
「……あ、その、ごめん」
「何が」
「えっと、なんかその、勝手に、触ろうとした」
「別に。反射だろ」
俺は彼女の横を通り抜けて、教室に入った。
* * *
一年A組。
入学式の日にホームルームがある。その程度の常識はある。だがその程度しかない。俺が中学三年間で培った教室内サバイバル技術は『席に着いて動かない』だけであり、これは新品の教室では役に立たない。
自分の席を探して、俺は視線を落としたまま歩いた。
その途中で、いきなり真横に人が立った。
「そこの君!」
「うおっ」
声が大きい。それから、動きも大きい。
眼鏡の男子だった。背が高く、姿勢が異様に良く、腕を直角に曲げて振っている。ロボットが人間の礼儀作法を学習した結果、みたいな動きだ。
「入室の際、一度ドアを開けて閉めるという行為に何か意図があったのかね! 私は飯田天哉、私立聡明中学出身! もし何らかの儀礼的作法であれば私も習得したいと考えている!」
「ない」
「ない!?」
「ないです」
「ふむ、しかし理由なき行動というものは……」
「飯田くーん、絡まないの絡まないの」
由比ヶ浜が割って入った。助かったと思ったが、直後に彼女は俺の隣に立って、教室に向かって宣言した。
「この人ね、あたしの命の恩人なの!」
ちょっと待て。
「入試のときにさ、あたし個性暴走させちゃって、そんで瓦礫が落ちてきて、この人が下敷きになってくれたんだよ!」
やめろ。
教室の空気が、明確に変わった。
視線の質が変わったと言ってもいい。さっきまでの懐疑的な『なんだこいつ』から、好意的な『なんだこいつ』への遷移。これは非常に良くない。俺の生存戦略は無関心の中でしか機能しない。
「へえー! すごいじゃん!」
「え、ちょっと待って、それレスキューポイントってやつ?」
「実際に人助けで入った人いるんだ!」
ざわつきが広がる。
俺は無表情で自分の席を探し続けた。窓際の、一番後ろ。あった。あそこだ。あそこまで五メートル。歩け。
「――ちょ、ちょっと待って!」
背後から声がした。
振り向くと、緑髪の男子が立ち上がっていた。小柄で、そばかすがあって、なんというか、全身から『気弱』という文字が滲み出ている。
だがその目だけが、妙にぎらついていた。
「レスキューポイントで、その、敵ポイントはどのくらいだったの?」
「……五点」
「五点! じゃあ救助で四十五点!? それってかなり大きい配点だよね、僕は六十点だったんだけど内訳が敵ポイント〇の救助六十で、つまり配点上限は少なくとも六十以上あって、いや待って、そもそも救助ポイントの評価基準ってどうなってるんだろう、行為の危険度? それとも結果? もしくは判断の質そのものを見てるとしたら試験官は映像を何度も……」
早口だった。
そして、俺のほうを見ていなかった。俺を見ているようで、視線の焦点は俺の後ろ三十センチくらいにある。要するに、こいつは俺と会話していない。俺という情報を材料に、自分の脳内で会議をしている。
俺はこの手の人間を知っている。
オタクだ。それも重症のやつだ。
ちなみに俺も同類なので分かる。分かるからこそ関わりたくない。同族の集会は空気が薄い。
「――で、君の個性は何なの?」
ぴたりと止まって、緑髪がこっちを見た。
来たか。
この質問が、俺は一番嫌いだ。
個性社会において、個性を聞くのは自己紹介の一部だ。血液型を聞くようなものだと思っている奴もいる。だが実際には、これは能力の申告であり、履歴書の提出であり、値踏みだ。
そして俺の答えは、だいたい会話を終わらせる。
「腐食」
「ふしょく?」
「触ったもんが腐る」
教室が、少し静かになった。
「腐るって、どのくらい?」
「時間による。一秒なら一秒ぶん、一時間なら一時間ぶん」
「オンオフは」
「できない」
沈黙。
そう。この沈黙だ。
人間は、危険な個性そのものより、『制御できない』という一語に反応する。爆破も凍結も、本人が止められるなら安心なのだ。止められないものだけが、本当に怖い。
「……じゃあ、その、今も?」
「今も」
俺は自分の指先を見せた。爪の周りが荒れている。これは俺の個性が俺自身の皮膚に及ぼしている影響で、要するに俺は自分で自分を腐らせながら生きている。
「制服は炭素繊維の特注。俺の個性はガラス、陶器、炭素系には効かない。だから握手はできないが、隣に立つぶんには問題ない」
最後の一言は、まあ、サービスだ。
言っておかないと、こいつらは一年間、俺の半径一メートルを空けて歩くことになる。それはそれで快適だが、体育の授業などで支障が出る。
「――なるほど、つまり接触時間が唯一の変数なんだね」
緑髪はノートを取り出していた。いつの間に。
「じゃあ戦闘では『掴んで離さない』が基本戦術になる? でも掴まれ続けるってことは相手の攻撃も受け続けるわけで、つまり耐久力とのトレードオフ、いや違うな、そもそも掴む対象を相手じゃなくて環境にすれば、たとえば足場とか支柱とか、あっそれなら安全に……」
三十秒で、俺が三年かけて考えたことに追いついてきた。
なんだこいつ。
「おい」
「あっ、ご、ごめん! 僕、緑谷出久です!」
* * *
結局、俺が席に着くまでに七分かかった。
途中で赤と白の髪をした無口な男の横を通り、爆発物みたいな目つきの金髪に睨まれ、やたら胸を張った黒髪ロングの女子に「私は八百万百と申します、以後お見知りおきを」と丁寧に頭を下げられた。
推薦組らしい。雄英には推薦入試というものがあり、そこを通った人間は実技試験を受けずに入る。要するに、入る前から国が認めているエリートだ。
「――あの、比企谷さん」
その八百万が、俺の席まで来た。
「先ほどの個性のご説明、ありがたく存じます。あらかじめ伺えれば、こちらも配慮ができますので」
「あー……どうも」
「私の個性は『創造』と申しまして、脂質から物質を生成いたします。もし手袋などの防護具が必要になりましたら、いつでもお申し付けくださいませ」
思わず顔を上げた。
こいつ、俺の話を聞いた三分後に、俺の生活上の不便を解決する提案をしている。
……いや、待て。
俺はこれを何度か経験している。中学の頃、俺の個性を知った直後に親切にしてくれた人間は、何人かいた。だいたい二週間で疲れて離れていく。人間の善意は消耗品で、消耗品を無償で受け取ると、後で請求が来る。
「必要になったら言う」
そう答えた。当たり障りのない、断りに近い返答だ。
八百万は「はい!」と嬉しそうに頷いて、自分の席に戻っていった。
* * *
最後に俺が認識したのは、教室の一番前の席の女子だった。
黒髪。長い。背筋が伸びている。そして、教室がこれだけ騒がしいのに、一度もこちらを見ていない。
手元の本を読んでいる。表紙は文庫本のカバーがかかっていて見えない。
俺は関わらないことにした。関わらない相手を見分けるのは得意だ。あれは、集団の中で一人でいることに慣れているタイプであり、そういう人間に話しかけるのはマナー違反である。俺も同種なので分かる。
そう思っていたのだが。
「――比企谷くん」
その女子が、本を閉じて振り返った。
顔立ちが整いすぎていて、一瞬、現実感が薄れた。
だが目つきが冷たい。冷たいというより、温度がない。感情の代わりに何か別のものが詰まっている目だ。
「私は雪ノ下雪乃」
「……そうか」
先ほどの赤と白の髪をした無口な男や八百万同様、入試で見なかった顔――つまるところ、推薦入学者なのだろう。
そう思っていると、後ろの席から小さな声が上がった。
「まあ、雪ノ下家の……」
八百万だった。口元に手を当てて、目を見開いている。
「では、あの雪ノ下ヒーロー事務所の。……失礼、以前パーティーでお姉様にご挨拶を」
「……その話は結構よ」
雪ノ下の声が、一度だけ低くなった。
ほんの一音だ。氷点下の相槌を打つような、短い遮り方。
八百万が「……申し訳ありません」と口を閉じた。
俺は、その一連のやり取りを見ていた。
雪ノ下ヒーロー事務所。聞いたことがある気もするし、無い気もする。俺はヒーロー番組を見ないので、この手の固有名詞にはとことん疎い。飯田の兄がインゲニウムだという話も、さっき本人が言うまで知らなかった。
だが、それとは別に、ひとつ確実に分かったことがある。
――こいつ、家の話をされるのが嫌いだな。
どうでもいい情報だ。
どうでもいいが、俺の脳はこういうものばかり勝手に記録する。人間の嫌がることを察知する能力だけが、三年間の教室生活で異様に発達してしまった。使い道はない。強いて言えば、地雷を踏まないために使える。
踏む予定はないので、やはり使い道はない。
そんな益体もないことを考えていると、雪ノ下は仕切り直すかのように、一つ咳払いをして、再び口を開いた。
「先ほどの話、聞かせてもらったわ。入学試験で他の受験生を救助したそうね」
「……ああ」
「そのとき、あなたはその受験生を負傷させた。違うかしら?」
教室の音が、すっと引いた。
由比ヶ浜が、離れた席で息を呑むのが分かった。
何故この女がそのことを知っているのかはわからない。だが、変に取り繕うのは悪手だと感じた。
つまり俺がすべき答えは――。
「そうだ」
「なぜかしら?」
「他に手がなかった」
「本当に?」
雪ノ下は立ち上がった。
俺の机の前まで来る。
「彼女の個性は引力よ。パニックによる出力上昇。であれば、対処の第一手は物理的な接触ではなく、視覚と聴覚の遮断による刺激の低減、あるいは呼吸誘導による鎮静。ヒーロー科の教本にも、救助対象がパニック状態にある場合の初期対応として明記されているわ」
「知らん」
「知らないから、傷つけたのね」
教室が完全に静まった。
誰かが「おい」と言いかけて、飲み込む音がした。
俺は雪ノ下の顔を見た。
こいつは俺を貶めるために言っていない。それが分かる。侮蔑も嘲笑もない。ただ、事実の欠落を指摘している。ドリルの問題文を採点しているのと同じ顔だ。
だからこそ、性質が悪い。
「――そうだな」
俺は言った。
「知らなかった。だから傷つけた」
雪ノ下の眉が、わずかに動いた。
「反論しないのかしら」
「する材料がない。お前の言ってることが正しいなら、俺は無知ゆえに他人を傷つけた馬鹿だ。異論はない」
「……」
「ただ、ひとつ確認したい」
俺は続けた。
「その教本に書いてある方法で、どのくらい時間がかかる?」
「三十秒から一分程度でしょうね」
「そうか。俺のときは、たぶん保たなかった」
雪ノ下が黙った。
「胸郭に数百キロ乗ってる状態だった。呼吸誘導ってのは、こっちが喋れる前提の技術だろ。俺は喋るたびに肺が縮んでた」
「……」
「だから、これは正解を知らなかった話じゃない。正解を実行する条件がなかった話だ。まあ、条件を作れなかった時点で俺が無能ってのは、変わらんが」
沈黙が落ちた。
雪ノ下は俺を見ていた。今度は、ドリルを採点する目ではなかった。
「……なるほど」
それだけ言って、彼女は自分の席に戻ろうとした。
途中で足を止めて、振り返らずに言った。
「訂正するわ。あなたは馬鹿ではない。ただ、選択肢が少なすぎただけ」
「褒めてんのかそれ」
「いいえ。同情よ」
最悪だ。
「――ちなみに、お前の個性は?」
なぜ聞いたのか、自分でも分からない。売られた喧嘩を買い戻すような気分だったのかもしれない。
雪ノ下は振り返った。
そして、机の上のペン立てに指先を触れた。
瞬間、金属のペン立てが、白く曇った。
霜が張っていく。中のペンごと、数秒で凍りついた。
「氷結よ」
彼女は言った。
「熱を奪う。速度も、水分も、動きも、すべて止められる」
止める。
俺の腐食は、進める個性だ。時間を早送りして、物を朽ちさせる。
こいつのは、止める個性らしい。
――正反対だな。
そう思った。
思っただけで、そのときの俺は、それ以上何も考えなかった。
考えなかったことを、後で俺は少し後悔する。
* * *
教室のドアが開いたのは、その直後だった。
「――静かにしろ」
黄色い寝袋が立っていた。
いや、寝袋の中に人が入っていた。
黒髪をぼさぼさに垂らした男が、寝袋から顔だけ出して、床に転がっている。目の下の隈が尋常じゃない。
「入学式で騒ぐな。時間の無駄だ。……八秒。着席するのにかかった時間だ。合理的じゃない」
誰も動けなかった。
男は寝袋から這い出すと、教壇に立った。
「担任の相澤消太だ。……体操服に着替えてグラウンドに出ろ」
「え、あの、入学式は――」
「そんなもの出ても強くならん」
彼はスポーツテストの用紙を掲げた。
「個性把握テストをやる」
そして、最後に、こう付け加えた。
「最下位の奴は、除籍だ」
教室が凍った。
雪ノ下の個性とは無関係に、完全に凍った。
俺だけが、少しだけ、息を吐いた。
――なんだ。
脅しじゃないか。
新学期の初日に生徒を除籍する権限が担任にあるわけがない。あったとしても、行使すれば教育委員会と保護者と週刊誌が同時に来る。要するにこれは、緊張感を作るための嘘だ。
中学のとき、似たようなことを言う教師がいた。
『次に喋った奴は内申点をゼロにする』
ゼロにはならなかった。
大人は嘘をつく。生徒を動かすために。それは別に悪いことじゃない。ただ、俺はそれに反応してやる義理がない。
周りが青ざめる中で、俺は立ち上がった。
どうせ最下位は俺だ。
俺の個性は、テストで測れる項目が何ひとつない。