グラウンドに出た時点で、俺の敗北は確定していた。
個性把握テスト。八種目。ソフトボール投げ、五十メートル走、握力、立ち幅跳び、反復横跳び、上体起こし、長座体前屈、持久走。要するに中学でやったスポーツテストと同じで、違うのは個性使用可という一文が付いていることだけだ。
この一文が付いた瞬間、これは体力測定ではなくなる。
ソフトボール投げで五百メートル投げる奴が出てくる競技を、体力測定とは呼ばない。あれは能力の展示会だ。
そして俺は、展示するものがない。
* * *
最初の種目、五十メートル走。
爆豪という金髪が、掌の爆発で加速して四秒十三。
飯田という眼鏡が、脚のエンジンで三秒四四。
蛙みたいな女子が跳ねて、テープみたいな男子が伸びて、それぞれ数字を出していく。
俺の番が来た。
スタート。走る。ゴール。
七秒二一。
個性使用、ゼロ。理由は単純で、俺の個性は走るのに使えないからだ。
地面を腐らせても速くならない。むしろ足場が崩れて遅くなる。靴を腐らせても速くならない。裸足になるだけだ。空気は腐らない。腐るとしたら俺の肺だが、それは既に日常的に起きている。
俺は測定器の横を通り過ぎて、列に戻った。
誰も何も言わなかった。
* * *
握力。
俺は測定器を握った。
三十六キロ。平均だ。
問題はその後で、俺が手を離した測定器のグリップに、うっすらと黒い跡が残った。
「……比企谷」
相澤先生が寝袋から顔を出した。
「消耗品を壊すな」
「すみません」
「次から布を巻け」
言われて、俺は自分の手を見た。
これだ。
三秒握ればグリップが傷む。俺が生きているだけで、周りの物が少しずつ減っていく。
控えめに言って、迷惑な存在である。
* * *
立ち幅跳び。反復横跳び。上体起こし。
全部、平均か平均以下だった。
俺の身体能力は、中学三年間を教室の隅で過ごした人間として妥当な水準にある。つまり、雄英ヒーロー科では最下層ということだ。
ここまでの累計順位は、たぶん二十位。二十人中の。
そして俺は、既にひとつのことに気づいていた。
――もう一人、俺と同じ場所にいる奴がいる。
* * *
緑谷出久。
朝の教室で早口をまくし立てていた、あの緑髪だ。
こいつの記録が、ひどい。
五十メートル走七秒〇八。握力五十六キロ。立ち幅跳び、上体起こし、全部平均以下。
俺と同じくらいだ。
だが、俺とは決定的に違う点がある。
こいつは、個性を使おうとしている。
毎回だ。スタート前、握る前、跳ぶ前。ほんの一瞬、身体に力を込めるような素振りを見せる。何かを起動しようとしている。
そして、やめる。
顔が青ざめる。手が震える。それから、素の身体で計測に臨む。
俺は列の後ろから、それを三回見た。
三回見れば分かる。
こいつは、自分の個性が怖いのだ。
* * *
ソフトボール投げの番が来た。
この種目が、事実上の見世物だった。
爆豪が「死ねェ!」と叫んで投げて七百五メートル。叫ぶ必要は無いと思うが、まあ、ああいう種族なのだろう。
八百万が創造で作った補助器具を使い、麗日という女子が個性で重力を消して無限大。
そして緑谷の番になった。
こいつは投げる前に、長い時間立っていた。
助走の位置で、ボールを握って、目を閉じて。
周りがざわつく。相澤先生が寝袋の中で目を細める。
――投げろよ。
俺は思った。
別に応援したわけじゃない。ただ、あの立ち方は見覚えがあった。踏み切れない人間の立ち方だ。中学の教室で、手を挙げるかどうか迷って結局挙げなかった奴の背中に似ている。
緑谷が、振りかぶった。
投げた。
――四十六メートル。
ざわつきが止まった。
いや、正確には、緑谷本人が一番驚いていた。
それから彼の顔が歪んだ。手を見る。指を見る。
俺の位置からは見えなかった。だが後で聞いた話では、こうだった。
彼は個性を使おうと決意したが、使えなかった。相澤先生が個性を消していたからだ。
抹消――視認した相手の個性を無効化する。
その結果が、四十六メートル。
――個性が使えていたら、何メートルだったのか。
俺はそれを考えて、すぐにやめた。
考えても仕方がない。俺には関係ない数字だ。
* * *
「――比企谷」
名前を呼ばれた。
俺はボールを受け取って、円の中に立った。
ここで、俺は一応、考えた。
個性の使い道はあるか。
ある。ボールを数秒握れば、内部の繊維が劣化して軽くなる。軽くなれば初速が上がる。理屈としては通っている。
問題は、効果だ。
ソフトボールの重量はおよそ百八十グラム。腐食で減らせるのは、握った表面から内部へ数ミリ。せいぜい十グラムか二十グラム。
初速の上昇は数パーセント。飛距離は、良くて三メートル。
俺の素の記録は、たぶん三十メートル前後。
三十メートルが三十三メートルになる。
――意味がない。
順位は変わらない。ボールは壊れる。相澤先生にまた「消耗品を壊すな」と言われる。
費用対効果がゼロなら、やらない。
これは俺の人生における基本方針である。無駄な努力を美徳とする文化が世の中にはあるが、あれは努力の量で評価される立場の人間が作った価値観だ。俺のように、努力しても順位が変わらない人間には適用されない。
俺は普通に振りかぶって、普通に投げた。
二十九メートル。
……三十にすら届かなかった。
* * *
全種目が終わった。
相澤先生が空中にランキングを投影した。
俺は自分の名前を探した。探すまでもなく、一番下にあった。
二十位。
そして、その隣に、もうひとつ名前が並んでいた。
二十位。緑谷出久。
同率最下位。
* * *
妙な気分だった。
俺と緑谷は、まったく同じ順位で、まったく違う理由でそこにいる。
あいつは、撃てる弾を持っている。それもおそらく、規格外の弾だ。
だが撃つたびに、銃身のほうが壊れる。だから撃てない。
俺は違う。
俺の銃身は無事だ。壊れる心配はまったくない。
ただ、弾が入っていない。
どちらがマシかという話ではない。あいつの問題は制御の問題であり、いつか解決する種類のものだ。俺の問題は仕様の問題であり、たぶん一生このままだ。
だから羨ましいとも思わない。
――と、思いたかったのだが。
正直に書いておくと、少し、羨ましかった。
* * *
「――結果の通りだ」
相澤先生が言った。
「最下位は二名。緑谷、比企谷」
教室の空気が張り詰めた。誰かが息を呑む。由比ヶ浜が両手で口を押さえているのが視界の端に見えた。
「緑谷」
「はっ、はい!」
「お前は個性を制御できていない。それは自分を壊すだけじゃない。制御できない力を持った人間が現場にいれば、周囲が死ぬ。……お前がやったのは、努力じゃない。賭けだ」
緑谷が唇を噛んだ。
「比企谷」
「はい」
「お前は、一度も個性を使わなかったな」
「使う場面がありませんでした」
「ソフトボール投げは?」
「三メートル伸びますが、順位は変わりません」
相澤先生の目が、少しだけ細くなった。
「計算したのか」
「はい」
「そうか」
彼は一拍置いて、言った。
「――お前ら二人は、除籍だ」
悲鳴に近い声が上がった。
誰かが「そんな」と言い、誰かが「先生!」と叫んだ。飯田が挙手して何か言おうとして、緑谷が拳を握って俯いた。
俺は、手を挙げた。
「嘘ですよね、それ」
場が、止まった。
全員がこっちを見た。相澤先生も見た。
「初日に生徒を二人除籍したら、教育委員会と保護者とマスコミが同時に来ます。雄英ほどの学校が、そのリスクを取る理由がない。……合理的じゃないでしょう」
沈黙。
それから、相澤先生の口の端が、わずかに上がった。
「ああ、嘘だ」
グラウンドが、崩れた。
安堵の声。膝から崩れる音。「なんだよもーっ!」という誰かの叫び。緑谷はその場にへたり込んでいた。
俺は息を吐いて、手を下ろした。
それで終わりだと思っていた。
「比企谷」
だが、終わらなかった。
「はい」
「お前は嘘だと分かっていたから、最下位を回避しようとしなかったのか?」
「……は?」
「除籍が嘘だと見抜いた。結構だ。合理的な判断だな。だが、それとは別に、お前は最下位を取った。しかもボールを投げる前に、三メートルの上乗せを自分で切り捨てている」
「順位が変わらないので」
「試したのか」
「計算しました」
「……それが、お前の問題だ」
言葉が、真っ直ぐ入ってきた。
「計算で諦める奴は、計算の外側に一生出られない。お前の見積もりは正確かもしれん。だが正確な見積もりというのは、既に知っていることの範囲でしか作れない。……知らないことは、計算式に入らない」
「……」
「三メートルだったかどうかは、投げてみなければ分からなかった」
俺は何も言えなかった。
言い返す材料が、いくつか浮かんだ。試行にはコストがかかる。有限のリソースを期待値の低い行動に割くのは非合理だ。そもそも三メートルの誤差で順位は動かない。
全部、正しい。
正しいのだが、それを言った瞬間、俺は自分が「計算の外側に出られない」ことを証明することになる。
だから黙った。
「――解散だ」
相澤先生は寝袋を引きずって歩き出した。
途中で振り返らずに、こう付け加えた。
「言っておくが、褒めてはいない。お前は個性が弱い。それは事実だ。……ただ、弱いことを理解している奴のほうが、強いと思い込んでいる奴より死ににくい」
* * *
更衣室に向かう途中、俺は緑谷とすれ違った。
あいつは目を真っ赤にして、それでも前を向いて歩いていた。
俺と目が合うと、頭を下げてきた。
「あの、さっきは、ありがとう」
「何が」
「嘘だって、言ってくれたから」
「言わなくてもバレてた。俺が言わなきゃ五分後には誰かが言ってる」
「……それでも」
緑谷は少し笑って、それから真面目な顔になった。
「僕、次は使えるようにする。ちゃんと」
迷いのない声だった。
さっきまで震えていた人間の声とは思えない。
――ああ、こういう奴か。
俺はそれで理解した。
こいつは折れない種類の人間だ。折れないというのは、強いという意味ではない。折れるという選択肢を思いつかないという意味だ。
そういう奴は、たいてい何かを成し遂げるか、途中で壊れるかのどちらかになる。
俺はどちらでもない。
俺は折れる前に、折れずに済む道を計算する。その結果、何も成し遂げないが、壊れもしない。
それを賢いと呼ぶか、臆病と呼ぶかは、たぶん結果が出た後で決まる。
* * *
校門を出たところで、前を歩いていた雪ノ下が足を止めた。
順位は三位だったはずだ。爆豪と八百万に次ぐ。
彼女は振り返らずに言った。
「あの嘘、私も気づいていたわ」
「そうか」
「言わなかったのは、他人が慌てるのを見ているのが有益だと思ったからよ。緊急時の反応を観察できる」
「性格が悪いな」
「あなたに言われたくないのだけれど」
そこで彼女は、初めてこちらを見た。
「――なぜ、言ったの」
なぜ。
考えたこともなかった。
挙手した理由。あれは反射だ。目の前に明らかな嘘があって、それに全員が騙されていて、そして俺は騙されていなかった。だから言った。
いや。
違うな。
俺は、緑谷の顔を見た。あいつが拳を握って俯いたのを見た。
――ああ。
なるほど。
俺はそれが、嫌だったのか。
自分でも今、初めて気づいた。
「……別に。ただの正誤の指摘だ」
俺はそう答えた。
雪ノ下はしばらく黙って、それから「そう」と言った。
その一言に何が含まれていたのかは、分からない。
ただ、朝に俺を同情と切り捨てた声とは、少しだけ違った。
少しだけだ。