やはり俺の個性はまちがっている。   作:いろは杏

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「賭けよう。負けたほうがラーメンを奢る」


第8話 進路希望調査は白紙が正しい

 夕飯の席で、小町が言った。

 

「お兄ちゃん、友達できた?」

 

 俺は箸を止めた。

 

 この質問は、人類が発明した最も残酷な問いのひとつである。答えが「いる」の場合は数を聞かれ、「いない」の場合は心配される。どちらに転んでも損をする。

 

 しかも今回は事情が複雑だ。

 

 クラスメイトはいる。会話もする。名前も覚えられている。中学時代と比較すれば、統計的には異常なまでの改善である。

 

 だが友達かと言われると、違う。

 

「クラスメイトはいる」

 

「うわ出た。逃げの答弁」

 

「事実を言っただけだ」

 

「じゃあさ、名前で呼ぶ人は?」

 

「……」

 

 俺は黙った。

 

 俺が名前で呼ぶ人間。いない。全員「あいつ」か苗字だ。

 

「ちなみに、お兄ちゃんのこと変なあだ名で呼んでくる人は?」

 

 なぜそこを突いてくる。

 

「一人いる」

 

「はい友達ー」

 

「違う。あれは命の恩人だと勘違いしてるだけだ」

 

「恩人?」

 

 俺は箸を置いた。

 

 説明が面倒だったが、しないと妹はこの話題を三日は引きずる。

 

「入試のとき、瓦礫の下敷きになりかけてた女がいて、俺がどかした。ついでに腐らせた」

 

「ついでに腐らせた」

 

「経緯がある」

 

「経緯があっても『ついで』はひどくない?」

 

 小町は味噌汁をすすってから、こう言った。

 

「その人、お兄ちゃんのこと怖がってないんでしょ」

 

「……なぜそう思う」

 

「だってお兄ちゃん、怖がられた話は絶対しないもん。ずっとそうだったし」

 

 俺はもう一度、箸を持った。

 

 この妹には、時々こういう精度の高い一撃がある。

 

 由比ヶ浜結衣は、俺を怖がっていない。

 

 あれだけの傷を負わされて、鎖骨の下に一生残る跡をつけられて、それでも俺の袖を掴もうとする。

 

 ――どうかしてる。

 

 俺はそう思うことにしている。そう思わないと、うっかり期待してしまう。

 

 期待というのは、二度目の裏切りに必要な燃料である。

 

     * * *

 

 もうひとつ、家の話をしておくと――

 

 うちの両親は、二人とも無個性だ。

 

 個性発現率が八割を超えたこの時代でも、二割は個性を持たずに生まれる。俺の父も母も、その二割に属している。祖父母も、たぶん曽祖父母も同様だったらしい。

 

 そして、小町も無個性だ。

 

 つまり比企谷家において、個性を持っているのは俺だけである。

 

 俺の個性が発現したのは、四歳のときだった。医者は隔世遺伝の可能性と言い、遺伝子検査を三回やって、三回とも該当する系統が見つからなかった。

 

 突然変異。カルテにはそう書かれている。

 

 説明のつかない現象に名前をつけただけの単語だ。

 

 両親は俺を責めなかった。責める理由がないからだ。だが、責めないというのは、許すのとは違う。

 

 母は俺が触った食器を、必ず二度洗う。

 

 父は俺と握手をしたことがない。

 

 どちらも悪意ではない。合理的な行動である。俺が触れた食器は劣化するし、握手をすれば父の手は荒れる。

 

 ただ、合理的な行動を十六年続けられると、人間はそれを愛情と区別できなくなる。

 

 だから俺は、その区別を放棄した。

 

 その方が、生きやすい。

 

     * * *

 

 例外は、小町だけだ。

 

 風呂上がり、廊下ですれ違いざまに、こいつは俺の背中を叩いた。

 

「おやすみー」

 

「……おい」

 

「なに?」

 

「二秒くらい触ってただろ」

 

「うん。じゃあ二秒ぶんだね」

 

 こいつは自分の手のひらを見て、「あ、ちょっと赤い」と言って、笑った。

 

 笑うところじゃない。

 

「やめろ」

 

「やだ」

 

「なんでだ」

 

「んー」

 

 小町は少し考えるふりをして、言った。

 

「お兄ちゃんが、自分のこと触っちゃいけないものだと思ってるから」

 

「思ってるんじゃない。事実だ」

 

「事実だけどさ。事実だけで生きてると、人ってだんだん人じゃなくなるよ」

 

 俺は反論しようとして、できなかった。

 

 中学三年生の語彙ではない。

 

 というか、こいつは俺が中学三年のときに何を考えていたかを、たぶん全部知っている。妹というのはそういう生き物だ。

 

「あー今の、小町的にポイント高い」

 

「高くない」

 

「高いって。名言じゃん今の」

 

「名言を自称する奴の名言は、だいたい名言じゃない」

 

「うわ性格わる」

 

 小町は舌を出して、自分の部屋に消えた。

 

 俺は廊下に残されて、自分の手を見た。

 

 二秒。

 

 あいつは毎回、こうやって秒数を刻んでいく。

 

 俺の個性は接触時間に比例する。だから小町は、いつも短く触って、すぐ離れる。それを何年も続けている。

 

 ――計算してるんだよな、あいつも。

 

 俺の妹は、俺が壊れない程度の距離を、毎日計算して生きている。

 

 俺はそれを知っている。知っていて、止められない。

 

     * * *

 

 その週の金曜、現代文の時間に、進路希望調査票が配られた。

 

 高校一年の四月に進路希望を書かせる意味を、俺は理解できない。四月時点の高校一年生が持っている情報など、パンフレットとテレビ番組だけである。そんな状態で書かせた紙に、どんな価値があるのか。

 

 まあ、いい。

 

 俺は用紙を眺めた。

 

 第一希望。第二希望。第三希望。将来なりたいヒーロー像。目標とするヒーロー。

 

 目標とするヒーロー。

 

 いない。

 

 なりたいヒーロー像。

 

 ない。

 

 俺は五分ほど考えて、それから、全部の欄を空白のまま提出した。

 

     * * *

 

 放課後、職員室に呼び出された。

 

 呼び出したのは現代文の担当教師だった。名前は平塚静。三十手前くらいの女性で、黒のスーツを着ていて、指に煙草を挟んでいる。校内は禁煙のはずだが、火はついていないので黙っておいた。

 

 彼女の机の上に、俺の白紙の調査票が置かれている。

 

「比企谷。これは何だ」

 

「白紙です」

 

「見れば分かる。なぜ白紙なのかと聞いている」

 

「書くことがなかったので」

 

「一年生の四月だぞ。全員が書くことなんてない。それでも書くんだ。適当に憧れのヒーローの名前でも入れておけば通る」

 

「嘘を書けと?」

 

「そうだ」

 

 即答された。

 

 俺は少し面食らった。

 

「大人はな、書類に嘘を書く生き物なんだ。志望動機も自己PRも、九割は創作だ。それを咎める大人はいない。……だから逆に、白紙は目立つ」

 

 平塚先生は椅子の背にもたれて、煙草をくるくる回した。

 

「目立ちたくないんだろう、お前は」

 

「……はい」

 

「なら書け。嘘でいい」

 

「無理です」

 

「なぜだ」

 

「嘘を書くと、それを言い訳に使ってしまうので」

 

 自分でも、なぜそう答えたのかは分からない。

 

 だがそれは、たぶん本当のことだった。

 

「志望動機の欄に『人を助けたいから』とでも書いたとします。書いた瞬間から、俺はその文章を持ち歩くことになる。何かあるたびに、あれは建前だ、本心じゃない、と自分に言い訳し続ける。……面倒なんですよ、そういうのが」

 

「……ほう」

 

「白紙なら、言い訳する必要がない。俺は何も言っていないので」

 

 平塚先生は、しばらく黙っていた。

 

 それから、俺の調査票を手に取って、しげしげと眺めた。

 

「では聞き方を変えよう。……お前は、なぜ雄英に来た」

 

 これも答えたくない質問だった。

 

 だが白紙よりはマシだ。事実だから。

 

「消去法です」

 

「ふむ」

 

「俺の個性は危険個性に分類されてます。普通科の進学も、一般企業への就職も、実質的に選択肢から外れてます。残ってるのは、国の登録個性者として管理下に入るか、ヒーロー免許を取って合法的に個性を持つ人間になるか。……前者は軟禁なので、後者にしました」

 

「なるほど」

 

「ヒーローになりたいわけじゃありません。むしろ嫌いです」

 

 言ってしまってから、しまったと思った。

 

 教師の前で言う台詞ではない。ここはヒーローを養成する学校で、目の前の人間はその教師である。

 

 だが平塚先生は、怒らなかった。

 

「なぜ嫌いなんだ」

 

 むしろ、興味を持った顔をした。

 

 俺は少し迷ってから、答えた。

 

「人助けが人気投票で採点されるからです」

 

「……」

 

「ヒーローの評価は、救助数じゃなくて知名度で決まる。事務所の売上とグッズの販売数で決まる。人を助ける行為に値札が付いてて、その値段を決めるのが観客だ。……そういう仕組みの中で人助けをする人間を、俺は信用できません」

 

「では、無償で人を助ける人間なら信用するのか」

 

「しません」

 

「ほう?」

 

「無償で人を助ける奴は、見返りに『自分はいい人間だ』という感覚を受け取ってる。金より質が悪い。金は数えられるが、自己満足は青天井なので」

 

 平塚先生の口の端が、ゆっくりと上がった。

 

 嫌な笑い方だった。何かを見つけた人間の顔だ。

 

「――比企谷。お前は、入試で他人を助けたそうだな」

 

「……」

 

「レスキューポイント四十五点。合格の主因だ。私は担任ではないが、職員会議で映像を見た」

 

「あれは自衛です」

 

「そうか」

 

「本当です。あの女の個性が周囲を巻き込んでいて、俺も範囲に入っていた。放置すれば俺も危なかった。だから排除しただけです」

 

「二十メートル離れていたそうだが」

 

「……」

 

「逆方向に走れば済んだな」

 

 俺は黙った。

 

 この人は、俺が三ヶ月間ずっと自分に言い聞かせてきた言い訳の、一番柔らかいところを正確に潰してきた。

 

「比企谷。お前は、自分のことを『人助けをする人間』だと思われるのが、心底嫌なんだな」

 

「……」

 

「なぜだ。褒められるのが嫌いか」

 

「褒められると、次も期待されるので」

 

 声が、思ったより低く出た。

 

「一度でも人を助けると、周りは『そういう人間だ』と認識します。認識されると、次に助けなかったときに責められる。……最初から何もしない奴は責められないのに、一度やった奴だけが責められるんです。理不尽でしょう」

 

「理不尽だな」

 

「はい」

 

「だが、そうやって責められることを恐れて何もしなかった人間は、たぶん、一生誰の記憶にも残らんぞ」

 

 平塚先生は、煙草を机に置いた。

 

「それでいいのか、という話だ」

 

「……いいです」

 

 俺は答えた。

 

「記憶に残ると、期待されるので」

 

 沈黙が落ちた。

 

 平塚先生は俺を見ていた。呆れているのでも、怒っているのでもない。何かを測っているような目だった。

 

 そして彼女は、白紙の調査票を、俺のほうへ押し戻した。

 

「持っておけ」

 

「え」

 

「今は白紙でいい。だが捨てるな。……お前が何かを書きたくなる日が来るかもしれん」

 

「来ませんよ」

 

「かもしれんな」

 

 彼女は肩をすくめた。

 

「ただ、私の経験上、『来ない』と言い張る生徒ほど、二年後には志望動機を三枚書いてくる」

 

「賭けますか」

 

「賭けよう。負けたほうがラーメンを奢る」

 

 この人は教師なのだろうか。

 

 俺は調査票を折りたたんで、鞄に入れた。

 

「――比企谷」

 

 職員室を出ようとしたところで、呼び止められた。

 

「ひとつだけ、覚えておけ」

 

 振り返ると、平塚先生はまた煙草を回していた。

 

「お前のように、自分の行動に一切の善意を認めない人間はな。……いざという時に、誰にも助けを求められなくなる」

 

「……どういう意味ですか」

 

「言葉のままだ」

 

 彼女は手を振って、俺を追い出した。

 

     * * *

 

 帰り道、俺はその言葉について考えた。

 

 考えて、たいして理解できなかった。

 

 俺はもともと誰にも助けを求めない。だから何も変わらない。そう結論して、それ以上考えるのをやめた。

 

 駅前を抜けて、いつもの遠回りをする。人とすれ違わない道。河川敷に降りて、街灯の縞を数えながら歩く。

 

 三十七、三十八、三十九。

 

 ――四十でやめた。

 

 明かりの下に、人が座っていたからだ。

 

 女子高生だった。制服姿で、コンクリートの護岸に腰かけて、足をぶらぶらさせている。

 

 その日は、返り血を浴びていなかった。

 

 彼女はこちらを向いて、犬歯を見せて笑った。

 

「あ。……ひさしぶり」

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