夕飯の席で、小町が言った。
「お兄ちゃん、友達できた?」
俺は箸を止めた。
この質問は、人類が発明した最も残酷な問いのひとつである。答えが「いる」の場合は数を聞かれ、「いない」の場合は心配される。どちらに転んでも損をする。
しかも今回は事情が複雑だ。
クラスメイトはいる。会話もする。名前も覚えられている。中学時代と比較すれば、統計的には異常なまでの改善である。
だが友達かと言われると、違う。
「クラスメイトはいる」
「うわ出た。逃げの答弁」
「事実を言っただけだ」
「じゃあさ、名前で呼ぶ人は?」
「……」
俺は黙った。
俺が名前で呼ぶ人間。いない。全員「あいつ」か苗字だ。
「ちなみに、お兄ちゃんのこと変なあだ名で呼んでくる人は?」
なぜそこを突いてくる。
「一人いる」
「はい友達ー」
「違う。あれは命の恩人だと勘違いしてるだけだ」
「恩人?」
俺は箸を置いた。
説明が面倒だったが、しないと妹はこの話題を三日は引きずる。
「入試のとき、瓦礫の下敷きになりかけてた女がいて、俺がどかした。ついでに腐らせた」
「ついでに腐らせた」
「経緯がある」
「経緯があっても『ついで』はひどくない?」
小町は味噌汁をすすってから、こう言った。
「その人、お兄ちゃんのこと怖がってないんでしょ」
「……なぜそう思う」
「だってお兄ちゃん、怖がられた話は絶対しないもん。ずっとそうだったし」
俺はもう一度、箸を持った。
この妹には、時々こういう精度の高い一撃がある。
由比ヶ浜結衣は、俺を怖がっていない。
あれだけの傷を負わされて、鎖骨の下に一生残る跡をつけられて、それでも俺の袖を掴もうとする。
――どうかしてる。
俺はそう思うことにしている。そう思わないと、うっかり期待してしまう。
期待というのは、二度目の裏切りに必要な燃料である。
* * *
もうひとつ、家の話をしておくと――
うちの両親は、二人とも無個性だ。
個性発現率が八割を超えたこの時代でも、二割は個性を持たずに生まれる。俺の父も母も、その二割に属している。祖父母も、たぶん曽祖父母も同様だったらしい。
そして、小町も無個性だ。
つまり比企谷家において、個性を持っているのは俺だけである。
俺の個性が発現したのは、四歳のときだった。医者は隔世遺伝の可能性と言い、遺伝子検査を三回やって、三回とも該当する系統が見つからなかった。
突然変異。カルテにはそう書かれている。
説明のつかない現象に名前をつけただけの単語だ。
両親は俺を責めなかった。責める理由がないからだ。だが、責めないというのは、許すのとは違う。
母は俺が触った食器を、必ず二度洗う。
父は俺と握手をしたことがない。
どちらも悪意ではない。合理的な行動である。俺が触れた食器は劣化するし、握手をすれば父の手は荒れる。
ただ、合理的な行動を十六年続けられると、人間はそれを愛情と区別できなくなる。
だから俺は、その区別を放棄した。
その方が、生きやすい。
* * *
例外は、小町だけだ。
風呂上がり、廊下ですれ違いざまに、こいつは俺の背中を叩いた。
「おやすみー」
「……おい」
「なに?」
「二秒くらい触ってただろ」
「うん。じゃあ二秒ぶんだね」
こいつは自分の手のひらを見て、「あ、ちょっと赤い」と言って、笑った。
笑うところじゃない。
「やめろ」
「やだ」
「なんでだ」
「んー」
小町は少し考えるふりをして、言った。
「お兄ちゃんが、自分のこと触っちゃいけないものだと思ってるから」
「思ってるんじゃない。事実だ」
「事実だけどさ。事実だけで生きてると、人ってだんだん人じゃなくなるよ」
俺は反論しようとして、できなかった。
中学三年生の語彙ではない。
というか、こいつは俺が中学三年のときに何を考えていたかを、たぶん全部知っている。妹というのはそういう生き物だ。
「あー今の、小町的にポイント高い」
「高くない」
「高いって。名言じゃん今の」
「名言を自称する奴の名言は、だいたい名言じゃない」
「うわ性格わる」
小町は舌を出して、自分の部屋に消えた。
俺は廊下に残されて、自分の手を見た。
二秒。
あいつは毎回、こうやって秒数を刻んでいく。
俺の個性は接触時間に比例する。だから小町は、いつも短く触って、すぐ離れる。それを何年も続けている。
――計算してるんだよな、あいつも。
俺の妹は、俺が壊れない程度の距離を、毎日計算して生きている。
俺はそれを知っている。知っていて、止められない。
* * *
その週の金曜、現代文の時間に、進路希望調査票が配られた。
高校一年の四月に進路希望を書かせる意味を、俺は理解できない。四月時点の高校一年生が持っている情報など、パンフレットとテレビ番組だけである。そんな状態で書かせた紙に、どんな価値があるのか。
まあ、いい。
俺は用紙を眺めた。
第一希望。第二希望。第三希望。将来なりたいヒーロー像。目標とするヒーロー。
目標とするヒーロー。
いない。
なりたいヒーロー像。
ない。
俺は五分ほど考えて、それから、全部の欄を空白のまま提出した。
* * *
放課後、職員室に呼び出された。
呼び出したのは現代文の担当教師だった。名前は平塚静。三十手前くらいの女性で、黒のスーツを着ていて、指に煙草を挟んでいる。校内は禁煙のはずだが、火はついていないので黙っておいた。
彼女の机の上に、俺の白紙の調査票が置かれている。
「比企谷。これは何だ」
「白紙です」
「見れば分かる。なぜ白紙なのかと聞いている」
「書くことがなかったので」
「一年生の四月だぞ。全員が書くことなんてない。それでも書くんだ。適当に憧れのヒーローの名前でも入れておけば通る」
「嘘を書けと?」
「そうだ」
即答された。
俺は少し面食らった。
「大人はな、書類に嘘を書く生き物なんだ。志望動機も自己PRも、九割は創作だ。それを咎める大人はいない。……だから逆に、白紙は目立つ」
平塚先生は椅子の背にもたれて、煙草をくるくる回した。
「目立ちたくないんだろう、お前は」
「……はい」
「なら書け。嘘でいい」
「無理です」
「なぜだ」
「嘘を書くと、それを言い訳に使ってしまうので」
自分でも、なぜそう答えたのかは分からない。
だがそれは、たぶん本当のことだった。
「志望動機の欄に『人を助けたいから』とでも書いたとします。書いた瞬間から、俺はその文章を持ち歩くことになる。何かあるたびに、あれは建前だ、本心じゃない、と自分に言い訳し続ける。……面倒なんですよ、そういうのが」
「……ほう」
「白紙なら、言い訳する必要がない。俺は何も言っていないので」
平塚先生は、しばらく黙っていた。
それから、俺の調査票を手に取って、しげしげと眺めた。
「では聞き方を変えよう。……お前は、なぜ雄英に来た」
これも答えたくない質問だった。
だが白紙よりはマシだ。事実だから。
「消去法です」
「ふむ」
「俺の個性は危険個性に分類されてます。普通科の進学も、一般企業への就職も、実質的に選択肢から外れてます。残ってるのは、国の登録個性者として管理下に入るか、ヒーロー免許を取って合法的に個性を持つ人間になるか。……前者は軟禁なので、後者にしました」
「なるほど」
「ヒーローになりたいわけじゃありません。むしろ嫌いです」
言ってしまってから、しまったと思った。
教師の前で言う台詞ではない。ここはヒーローを養成する学校で、目の前の人間はその教師である。
だが平塚先生は、怒らなかった。
「なぜ嫌いなんだ」
むしろ、興味を持った顔をした。
俺は少し迷ってから、答えた。
「人助けが人気投票で採点されるからです」
「……」
「ヒーローの評価は、救助数じゃなくて知名度で決まる。事務所の売上とグッズの販売数で決まる。人を助ける行為に値札が付いてて、その値段を決めるのが観客だ。……そういう仕組みの中で人助けをする人間を、俺は信用できません」
「では、無償で人を助ける人間なら信用するのか」
「しません」
「ほう?」
「無償で人を助ける奴は、見返りに『自分はいい人間だ』という感覚を受け取ってる。金より質が悪い。金は数えられるが、自己満足は青天井なので」
平塚先生の口の端が、ゆっくりと上がった。
嫌な笑い方だった。何かを見つけた人間の顔だ。
「――比企谷。お前は、入試で他人を助けたそうだな」
「……」
「レスキューポイント四十五点。合格の主因だ。私は担任ではないが、職員会議で映像を見た」
「あれは自衛です」
「そうか」
「本当です。あの女の個性が周囲を巻き込んでいて、俺も範囲に入っていた。放置すれば俺も危なかった。だから排除しただけです」
「二十メートル離れていたそうだが」
「……」
「逆方向に走れば済んだな」
俺は黙った。
この人は、俺が三ヶ月間ずっと自分に言い聞かせてきた言い訳の、一番柔らかいところを正確に潰してきた。
「比企谷。お前は、自分のことを『人助けをする人間』だと思われるのが、心底嫌なんだな」
「……」
「なぜだ。褒められるのが嫌いか」
「褒められると、次も期待されるので」
声が、思ったより低く出た。
「一度でも人を助けると、周りは『そういう人間だ』と認識します。認識されると、次に助けなかったときに責められる。……最初から何もしない奴は責められないのに、一度やった奴だけが責められるんです。理不尽でしょう」
「理不尽だな」
「はい」
「だが、そうやって責められることを恐れて何もしなかった人間は、たぶん、一生誰の記憶にも残らんぞ」
平塚先生は、煙草を机に置いた。
「それでいいのか、という話だ」
「……いいです」
俺は答えた。
「記憶に残ると、期待されるので」
沈黙が落ちた。
平塚先生は俺を見ていた。呆れているのでも、怒っているのでもない。何かを測っているような目だった。
そして彼女は、白紙の調査票を、俺のほうへ押し戻した。
「持っておけ」
「え」
「今は白紙でいい。だが捨てるな。……お前が何かを書きたくなる日が来るかもしれん」
「来ませんよ」
「かもしれんな」
彼女は肩をすくめた。
「ただ、私の経験上、『来ない』と言い張る生徒ほど、二年後には志望動機を三枚書いてくる」
「賭けますか」
「賭けよう。負けたほうがラーメンを奢る」
この人は教師なのだろうか。
俺は調査票を折りたたんで、鞄に入れた。
「――比企谷」
職員室を出ようとしたところで、呼び止められた。
「ひとつだけ、覚えておけ」
振り返ると、平塚先生はまた煙草を回していた。
「お前のように、自分の行動に一切の善意を認めない人間はな。……いざという時に、誰にも助けを求められなくなる」
「……どういう意味ですか」
「言葉のままだ」
彼女は手を振って、俺を追い出した。
* * *
帰り道、俺はその言葉について考えた。
考えて、たいして理解できなかった。
俺はもともと誰にも助けを求めない。だから何も変わらない。そう結論して、それ以上考えるのをやめた。
駅前を抜けて、いつもの遠回りをする。人とすれ違わない道。河川敷に降りて、街灯の縞を数えながら歩く。
三十七、三十八、三十九。
――四十でやめた。
明かりの下に、人が座っていたからだ。
女子高生だった。制服姿で、コンクリートの護岸に腰かけて、足をぶらぶらさせている。
その日は、返り血を浴びていなかった。
彼女はこちらを向いて、犬歯を見せて笑った。
「あ。……ひさしぶり」