人間には、逃げるべき場面で逃げられないという欠陥がある。
俺の場合、その欠陥は『逃げても無駄だと計算してしまう』という形で発現する。
目の前の女は、一年前、俺より速く動いた。中三の俺と今の俺で運動能力に大差はない。つまり走っても捕まる。捕まった後の状況は、今より確実に悪い。
よって、逃げない。
これが合理的判断である。
……断じて、足がすくんだわけではない。
「座らないの?」
彼女は護岸の隣を、ぽんぽんと叩いた。
俺は座らなかった。
立ったまま、三歩離れた位置に留まった。これは譲歩と警戒の中間点であり、我ながら小賢しい距離だと思う。
「ふうん。まあいいや」
彼女はまた足をぶらぶらさせた。
制服姿だった。俺の知らない学校の制服で、少し古びている。血は付いていない。一年前と違って、ごく普通の女子高生に見える。
いや。
この言い方は正確じゃない。
彼女は一年前も、血さえ拭えば普通の女子高生に見えたはずなのだ。その事実こそが、たぶん一番怖い。
「雄英、受かったんだね」
「……なんで知ってる」
「ニュースで見たよ。合格発表の日、テレビでやってたじゃん。今年もすごい倍率でしたーって。校門のとこ映ってたし」
映っていたかもしれない。合格者が校門の前で写真を撮っていたのは覚えている。
俺はその輪から離れて歩いていたが、画面の端くらいには入るだろう。
「探したんだよ、キミのこと。何回も巻き戻して」
「……」
「見つけたときね、めっちゃ嬉しかった」
彼女は笑った。
悪意のない笑い方だった。それが余計に、頭の処理を難しくする。
* * *
その後、俺たちは三十分ほど話した。
正確には、彼女が聞いて、俺が答えた。
「雄英ってどんな感じ?」
「校舎がでかい」
「それだけ?」
「あと、教師がまともじゃない」
「あはは、なにそれ」
「担任が寝袋で床に転がってる」
「うそだぁ」
「本当だ」
こんな調子だった。
彼女が知りたがったのは、事件でも個性でもヒーローでもなかった。制服のデザイン。学食のメニュー。授業の始まる時間。体育祭があるかどうか。掃除当番はあるのか。
全部、どうでもいい話だ。
その、どうでもよさに、俺は途中で気づいた。
――ああ。
この女は、失っているのか。
高校生活というものを。
俺はそれを、あまり考えたくなかった。考えると、目の前の女に人間としての輪郭が生まれてしまう。
「私、学校やめちゃったから」
彼女はあっさりと言った。
「――っていうか、やめたっていうか、行けなくなったっていうか。……まあ、そういう感じ」
「そうか」
「聞かないんだ」
「聞いても答えないだろ」
「うん、答えない」
彼女は足を止めた。
「――でも、キミがどうしてもって言うなら、答えるよ」
「言わない」
「けち」
こういう会話が、三十分続いた。
控えめに言って、異常な三十分だった。
俺は今、一年前に自分の血を舐めて吐いた女と、給食の話をしている。
しかも、悪くないと思っている。
* * *
途中、一度だけ、由比ヶ浜の話をした。
文脈は覚えている。「クラスに友達いる?」と聞かれて、俺が「いない」と答えて、それでも一人だけ妙な奴がいる、という流れだった。
「入試のとき、瓦礫の下敷きになりかけてた奴がいて」
「うん」
「助けた。ついでに腐らせた」
「ついで」
「経緯がある。……で、そいつが同じクラスになった。まだ懲りてないらしくて、話しかけてくる」
「へえ」
「傷は残った。一生消えない。……なのに、あいつは俺を怖がらない。理解できん」
俺はそこまで喋って、少し喋りすぎたと思った。
だから口を閉じた。
「……ふうん」
彼女はそう言った。
それだけだった。
視線は川のほうを向いていて、表情は変わらない。足も相変わらずぶらぶら動いている。
「それでさ、給食っておかわりできるの?」
話題が戻った。
俺は「学食だからおかわりの概念がない」と答えた。
* * *
そろそろ帰る、と俺が言ったのは、九時前だった。
彼女は「えー」と言って、それから素直に立ち上がった。
「じゃあ、また来ていい?」
「……」
「ねえ、いい?」
俺は答えなかった。
断るべきだった。
この女は危険だ。一年前、全身に血を浴びていた。それが何を意味するかは、考えるまでもない。
だが「来るな」と言ったところで来る気がしたし、言えば警戒される。警戒された相手が何をするかは分からない。
……というのは、たぶん建前だ。
本当の理由は、別のところにある気がした。だがそれを言語化する気にはならなかったので、俺は黙っていた。
「返事しないってことは、いいってことだね」
「そうは言ってない」
「言ってないけど、ダメとも言ってないよ」
彼女は勝ち誇ったように笑った。
この理屈、どこかで聞いたことがある。妹だ。
* * *
土手を登っていく背中を見ながら、俺はふと、あることに気づいた。
――名前を知らない。
一年前も、今日も、この女は名乗らなかった。俺も聞かなかった。
なぜ今日それが気になったのかというと、たぶん、三十分も喋ったからだ。人間は三十分喋った相手を、いつまでも『あの女』とは呼べない。
俺は口を開いた。
開いてから、少し後悔した。
だが、もう遅かった。
「おい」
彼女が振り返った。
「名前」
「え?」
「お前の名前だ。……三十分も喋っといて、呼び方がないのは不便だろ」
沈黙が落ちた。
彼女は目を丸くしていた。
それから。
その顔が、ゆっくりと崩れた。
崩れた、という言い方が正しいのかは分からない。ただ、笑顔とは違う何かが顔の中心から広がって、それから遅れて笑顔の形に整っていった。順序が逆なのだ。感情が先に来て、表情が後から追いついた。
両手を口元に当てて、彼女は言った。
「……聞いてくれるんだ」
声が震えていた。
「私に、名前」
「……そんな大袈裟なもんじゃ」
「大袈裟だよ!」
彼女は数歩、戻ってきた。
「だってキミ、一年前も聞かなかったし、今日もずっと聞かなかったじゃん。私のこと、名前のないものだと思ってるんだと思ってた」
思っていた。実際そうだ。
名前を知らないほうが、無かったことにしやすい。俺はそういう計算で生きてきた。
「トガ」
彼女は言った。
「渡我被身子。トガヒミコ」
名乗ってから、彼女は自分の名前を確かめるように、もう一度繰り返した。
「渡我被身子だよ。……ね、呼んで」
「は?」
「呼んで。名前」
「なんでだ」
「聞きたいから」
俺は数秒黙った。
この状況で拒否するほうが、たぶん面倒なことになる。
「……渡我」
言った瞬間、彼女は両手で顔を覆った。
肩が震えている。笑っているのか泣いているのか、区別がつかなかった。
「あー……やば。すごい。今の、すごいよ」
「何がだ」
「ううん。なんでもない」
顔を上げたとき、彼女はもう普通に笑っていた。
「じゃあね、八幡くん」
――待て。
俺は一年前も、今も、名乗っていない。
* * *
家に帰って、俺は自分の部屋でスマホを開いた。
検索窓に、指で打ち込む。
渡我被身子。
――結果は、〇・二秒で出た。
一番上に来たのは、ニュースサイトだった。
二番目も。三番目も。
俺はそのうちの一つを開いた。
* * *
『渡我被身子容疑者(17)の行方 依然不明』
二年前の記事だった。
当時十五歳。中学三年生。都内在住。
同級生の男子生徒に対する傷害事件。被害者は重傷。血液の大量流出。現場から逃走し、以後、行方不明。
個性は『変身』。他人の血液を摂取することで、その人物の姿に変わることができる。
――ああ。
そこで、俺は理解した。
血を舐めた理由。
あれは、俺になろうとしたのだ。
そして焼けた。
俺の血が受け付けなかった。
『なんで、飲めないの』
『私、キミになりたかったのに』
一年前の声が、はっきりと思い出された。
あのとき、俺は意味が分からなかった。今なら分かる。
あの女は、俺になれなかった。
* * *
記事を読み進めると、続報がいくつかあった。
その後も類似の事件が数件。同一人物の犯行と見られる、という表現。被害者はいずれも血液を失っている。死者は――出ていた。
俺はそこで、スマホを一度伏せた。
天井を見た。
三十分。今日、俺はあの女と三十分話した。
学食の話をした。担任が寝袋で寝ている話をした。相手は笑っていた。
その相手が、人を殺している。
* * *
もうひとつ、俺を混乱させた情報がある。
年齢だ。
二年前に十五歳。ということは、今は十七歳。
俺は今、十六歳になったばかりだ。
――歳上だったのか。
俺はもう一度スマホを取って、記事の写真を見た。
顔写真は、たぶん中学の卒業アルバムかどこかから引っ張ってきたものだ。制服姿で、正面を向いて、無表情に近い顔をしている。
目が、死んでいた。
河川敷で笑っていた女とは、別人に見えた。
どちらが本物なのかは、分からない。
両方だという可能性が、一番厄介だ。
* * *
通報という選択肢について、俺は三十分ほど考えた。
結論から言うと、しなかった。
理由はいくつかある。
第一に、証拠がない。彼女は今日、何もしていない。座って喋っていただけだ。俺が通報しても、河川敷で指名手配犯に似た女と話した以上のことは言えない。警察が動くかどうかも怪しい。
第二に、彼女は俺の名前を知っている。通報して逃げられた場合、次に会うときの彼女は今日の彼女ではない。
第三に――
俺はそこで、思考を止めた。
第三の理由が、うまく言葉にならなかったからだ。
いや、正確には、言葉にはなっている。頭の中には、はっきりした文章として存在している。
ただ、それを認めると面倒なことになる気がしたので、俺は認めないことにした。
人間には、そういう機能がある。都合の悪い結論を、結論の手前で止めておく機能。
俺はそれを行使して、電気を消した。