やはり俺の個性はまちがっている。   作:いろは杏

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「あー……やば。すごい。今の、すごいよ」


第9話 一年前の女は歳上だった

 人間には、逃げるべき場面で逃げられないという欠陥がある。

 

 俺の場合、その欠陥は『逃げても無駄だと計算してしまう』という形で発現する。

 

 目の前の女は、一年前、俺より速く動いた。中三の俺と今の俺で運動能力に大差はない。つまり走っても捕まる。捕まった後の状況は、今より確実に悪い。

 

 よって、逃げない。

 

 これが合理的判断である。

 

 ……断じて、足がすくんだわけではない。

 

「座らないの?」

 

 彼女は護岸の隣を、ぽんぽんと叩いた。

 

 俺は座らなかった。

 

 立ったまま、三歩離れた位置に留まった。これは譲歩と警戒の中間点であり、我ながら小賢しい距離だと思う。

 

「ふうん。まあいいや」

 

 彼女はまた足をぶらぶらさせた。

 

 制服姿だった。俺の知らない学校の制服で、少し古びている。血は付いていない。一年前と違って、ごく普通の女子高生に見える。

 

 いや。

 

 この言い方は正確じゃない。

 

 彼女は一年前も、血さえ拭えば普通の女子高生に見えたはずなのだ。その事実こそが、たぶん一番怖い。

 

「雄英、受かったんだね」

 

「……なんで知ってる」

 

「ニュースで見たよ。合格発表の日、テレビでやってたじゃん。今年もすごい倍率でしたーって。校門のとこ映ってたし」

 

 映っていたかもしれない。合格者が校門の前で写真を撮っていたのは覚えている。

 

 俺はその輪から離れて歩いていたが、画面の端くらいには入るだろう。

 

「探したんだよ、キミのこと。何回も巻き戻して」

 

「……」

 

「見つけたときね、めっちゃ嬉しかった」

 

 彼女は笑った。

 

 悪意のない笑い方だった。それが余計に、頭の処理を難しくする。

 

     * * *

 

 その後、俺たちは三十分ほど話した。

 

 正確には、彼女が聞いて、俺が答えた。

 

「雄英ってどんな感じ?」

 

「校舎がでかい」

 

「それだけ?」

 

「あと、教師がまともじゃない」

 

「あはは、なにそれ」

 

「担任が寝袋で床に転がってる」

 

「うそだぁ」

 

「本当だ」

 

 こんな調子だった。

 

 彼女が知りたがったのは、事件でも個性でもヒーローでもなかった。制服のデザイン。学食のメニュー。授業の始まる時間。体育祭があるかどうか。掃除当番はあるのか。

 

 全部、どうでもいい話だ。

 

 その、どうでもよさに、俺は途中で気づいた。

 

 ――ああ。

 

 この女は、失っているのか。

 

 高校生活というものを。

 

 俺はそれを、あまり考えたくなかった。考えると、目の前の女に人間としての輪郭が生まれてしまう。

 

「私、学校やめちゃったから」

 

 彼女はあっさりと言った。

 

「――っていうか、やめたっていうか、行けなくなったっていうか。……まあ、そういう感じ」

 

「そうか」

 

「聞かないんだ」

 

「聞いても答えないだろ」

 

「うん、答えない」

 

 彼女は足を止めた。

 

「――でも、キミがどうしてもって言うなら、答えるよ」

 

「言わない」

 

「けち」

 

 こういう会話が、三十分続いた。

 

 控えめに言って、異常な三十分だった。

 

 俺は今、一年前に自分の血を舐めて吐いた女と、給食の話をしている。

 

 しかも、悪くないと思っている。

 

     * * *

 

 途中、一度だけ、由比ヶ浜の話をした。

 

 文脈は覚えている。「クラスに友達いる?」と聞かれて、俺が「いない」と答えて、それでも一人だけ妙な奴がいる、という流れだった。

 

「入試のとき、瓦礫の下敷きになりかけてた奴がいて」

 

「うん」

 

「助けた。ついでに腐らせた」

 

「ついで」

 

「経緯がある。……で、そいつが同じクラスになった。まだ懲りてないらしくて、話しかけてくる」

 

「へえ」

 

「傷は残った。一生消えない。……なのに、あいつは俺を怖がらない。理解できん」

 

 俺はそこまで喋って、少し喋りすぎたと思った。

 

 だから口を閉じた。

 

「……ふうん」

 

 彼女はそう言った。

 

 それだけだった。

 

 視線は川のほうを向いていて、表情は変わらない。足も相変わらずぶらぶら動いている。

 

「それでさ、給食っておかわりできるの?」

 

 話題が戻った。

 

 俺は「学食だからおかわりの概念がない」と答えた。

 

     * * *

 

 そろそろ帰る、と俺が言ったのは、九時前だった。

 

 彼女は「えー」と言って、それから素直に立ち上がった。

 

「じゃあ、また来ていい?」

 

「……」

 

「ねえ、いい?」

 

 俺は答えなかった。

 

 断るべきだった。

 

 この女は危険だ。一年前、全身に血を浴びていた。それが何を意味するかは、考えるまでもない。

 

 だが「来るな」と言ったところで来る気がしたし、言えば警戒される。警戒された相手が何をするかは分からない。

 

 ……というのは、たぶん建前だ。

 

 本当の理由は、別のところにある気がした。だがそれを言語化する気にはならなかったので、俺は黙っていた。

 

「返事しないってことは、いいってことだね」

 

「そうは言ってない」

 

「言ってないけど、ダメとも言ってないよ」

 

 彼女は勝ち誇ったように笑った。

 

 この理屈、どこかで聞いたことがある。妹だ。

 

     * * *

 

 土手を登っていく背中を見ながら、俺はふと、あることに気づいた。

 

 ――名前を知らない。

 

 一年前も、今日も、この女は名乗らなかった。俺も聞かなかった。

 

 なぜ今日それが気になったのかというと、たぶん、三十分も喋ったからだ。人間は三十分喋った相手を、いつまでも『あの女』とは呼べない。

 

 俺は口を開いた。

 

 開いてから、少し後悔した。

 

 だが、もう遅かった。

 

「おい」

 

 彼女が振り返った。

 

「名前」

 

「え?」

 

「お前の名前だ。……三十分も喋っといて、呼び方がないのは不便だろ」

 

 沈黙が落ちた。

 

 彼女は目を丸くしていた。

 

 それから。

 

 その顔が、ゆっくりと崩れた。

 

 崩れた、という言い方が正しいのかは分からない。ただ、笑顔とは違う何かが顔の中心から広がって、それから遅れて笑顔の形に整っていった。順序が逆なのだ。感情が先に来て、表情が後から追いついた。

 

 両手を口元に当てて、彼女は言った。

 

「……聞いてくれるんだ」

 

 声が震えていた。

 

「私に、名前」

 

「……そんな大袈裟なもんじゃ」

 

「大袈裟だよ!」

 

 彼女は数歩、戻ってきた。

 

「だってキミ、一年前も聞かなかったし、今日もずっと聞かなかったじゃん。私のこと、名前のないものだと思ってるんだと思ってた」

 

 思っていた。実際そうだ。

 

 名前を知らないほうが、無かったことにしやすい。俺はそういう計算で生きてきた。

 

「トガ」

 

 彼女は言った。

 

「渡我被身子。トガヒミコ」

 

 名乗ってから、彼女は自分の名前を確かめるように、もう一度繰り返した。

 

「渡我被身子だよ。……ね、呼んで」

 

「は?」

 

「呼んで。名前」

 

「なんでだ」

 

「聞きたいから」

 

 俺は数秒黙った。

 

 この状況で拒否するほうが、たぶん面倒なことになる。

 

「……渡我」

 

 言った瞬間、彼女は両手で顔を覆った。

 

 肩が震えている。笑っているのか泣いているのか、区別がつかなかった。

 

「あー……やば。すごい。今の、すごいよ」

 

「何がだ」

 

「ううん。なんでもない」

 

 顔を上げたとき、彼女はもう普通に笑っていた。

 

「じゃあね、八幡くん」

 

 ――待て。

 

 俺は一年前も、今も、名乗っていない。

 

     * * *

 

 家に帰って、俺は自分の部屋でスマホを開いた。

 

 検索窓に、指で打ち込む。

 

 渡我被身子。

 

 ――結果は、〇・二秒で出た。

 

 一番上に来たのは、ニュースサイトだった。

 

 二番目も。三番目も。

 

 俺はそのうちの一つを開いた。

 

     * * *

 

『渡我被身子容疑者(17)の行方 依然不明』

 

 二年前の記事だった。

 

 当時十五歳。中学三年生。都内在住。

 

 同級生の男子生徒に対する傷害事件。被害者は重傷。血液の大量流出。現場から逃走し、以後、行方不明。

 

 個性は『変身』。他人の血液を摂取することで、その人物の姿に変わることができる。

 

 ――ああ。

 

 そこで、俺は理解した。

 

 血を舐めた理由。

 

 あれは、俺になろうとしたのだ。

 

 そして焼けた。

 

 俺の血が受け付けなかった。

 

『なんで、飲めないの』

 

『私、キミになりたかったのに』

 

 一年前の声が、はっきりと思い出された。

 

 あのとき、俺は意味が分からなかった。今なら分かる。

 

 あの女は、俺になれなかった。

 

     * * *

 

 記事を読み進めると、続報がいくつかあった。

 

 その後も類似の事件が数件。同一人物の犯行と見られる、という表現。被害者はいずれも血液を失っている。死者は――出ていた。

 

 俺はそこで、スマホを一度伏せた。

 

 天井を見た。

 

 三十分。今日、俺はあの女と三十分話した。

 

 学食の話をした。担任が寝袋で寝ている話をした。相手は笑っていた。

 

 その相手が、人を殺している。

 

     * * *

 

 もうひとつ、俺を混乱させた情報がある。

 

 年齢だ。

 

 二年前に十五歳。ということは、今は十七歳。

 

 俺は今、十六歳になったばかりだ。

 

 ――歳上だったのか。

 

 俺はもう一度スマホを取って、記事の写真を見た。

 

 顔写真は、たぶん中学の卒業アルバムかどこかから引っ張ってきたものだ。制服姿で、正面を向いて、無表情に近い顔をしている。

 

 目が、死んでいた。

 

 河川敷で笑っていた女とは、別人に見えた。

 

 どちらが本物なのかは、分からない。

 

 両方だという可能性が、一番厄介だ。

 

     * * *

 

 通報という選択肢について、俺は三十分ほど考えた。

 

 結論から言うと、しなかった。

 

 理由はいくつかある。

 

 第一に、証拠がない。彼女は今日、何もしていない。座って喋っていただけだ。俺が通報しても、河川敷で指名手配犯に似た女と話した以上のことは言えない。警察が動くかどうかも怪しい。

 

 第二に、彼女は俺の名前を知っている。通報して逃げられた場合、次に会うときの彼女は今日の彼女ではない。

 

 第三に――

 

 俺はそこで、思考を止めた。

 

 第三の理由が、うまく言葉にならなかったからだ。

 

 いや、正確には、言葉にはなっている。頭の中には、はっきりした文章として存在している。

 

 ただ、それを認めると面倒なことになる気がしたので、俺は認めないことにした。

 

 人間には、そういう機能がある。都合の悪い結論を、結論の手前で止めておく機能。

 

 俺はそれを行使して、電気を消した。

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