新エリー都の歴史において、人類の文明の大半を瓦解させた災厄――それを人々は『七大ホロウ災害』と呼んだ。
……いや、それは現代の教科書や、ホロウ調査協会の公式記録には存在しない文字だ。今や誰もが、最初から世界を蝕む巨大ホロウは「6つ」しかなかったと信じ込んでいる。
だが、今から約8年前――旧都が陥落して3年が経ったあの頃。
エリー都の地図には、確かに存在していた。
他の六つのどれよりも巨大で、どれよりも高濃度。侵入した調査員や治安局の精鋭すらも手も足も出ず、触れた者すべてを一瞬でエーテリアスへと変異させた、第七の絶望。
――識別名『アヴァロン』。
当時のエリー都は、この未曾有の災厄に対してなす術を失っていた。
誰もが都市の滅亡を覚悟し、絶望に身を震わせていた、ある雨の日のことだった。
突如として、その『アヴァロン』は、エリー都から跡形もなく消滅した。
爆発が起きたわけでも、エーテル予報の予兆があったわけでもない。
ただ、夜天を切り裂くような一筋の『黄金の光』が走った瞬間、世界を覆っていた巨大なホロウの塊が、まるで初めからそこになかったかのように、一瞬で、完全に、この世界から消えてなくなったのだ。
防衛軍の上層部も、生き残りの研究者たちも、そのあまりにも人知を超えた超常現象に驚愕し、血眼になって原因を捜索した。
だが、その痕跡は見つからず、パニックや混乱を避けるために、第七のホロウ『アヴァロン』の存在自体が歴史から秘匿され、「六大ホロウ」へと事実を書き換えられた。
――誰も知らない。人類を救い、その奇跡を成し遂げたのが、ただ一人。泥まみれの『鉄塊』を背負った、物静かな青年であったことを。
◇
降り続く汚染された雨が、鉄と血の臭いを街へと染み渡らせていた。
旧都陥落から3年。人類の前に立ち塞がったのは、他の6つのどれよりも巨大で、どれよりも高濃度な第七の巨大ホロウ――識別名『アヴァロン』だった。
現在の新エリー都で語られる「六大ホロウ」という歴史の教科書には決して載っていない、人類が総力を挙げても傷一つ付けられなかった、文字通りの神罰。
そのホロウの内部は、常識の通用しない狂った常世の楽園だった。
一歩足を踏み入れれば、【完全なる時間停滞】の呪いが肉体を支配する。どれだけ動いても喉は渇かず、歳も取らず、負った傷の悪化さえも完全に停止する。だがそれは、決して祝福などではない。一歩でも現実世界へ出た瞬間、ホロウ内で停止していた膨大な「本当の時間」が肉体に一気に押し寄せ、一瞬で塵へと変えてしまう絶望のトラップだった。
「ああ……傷が、痛まない……」
瓦礫の影に倒れ込んだ防衛軍の若き兵士は、自身のちぎれかけた片腕を見つめ、虚ろに呟いた。
血は流れているはずなのに、感覚がない。この空間にいる限り死ぬことはないが、外に出れば自分は塵になる。肉体は生きたまま凍り付き、未来を剥奪されたも同然だった。その事実が、彼から生きる気力を完全に奪い去っていた。
だが、このアヴァロンにおいて「時間の停滞」など、波打ち際に押し寄せる最初の波飛沫に過ぎなかった。本当に恐ろしいのは、その停滞した時間の檻の中で、人間の尊厳を内側からじわじわと融かし尽くしていく、精神と肉体の完全なる崩壊――【変異】のプロセスだった。
周囲を埋め尽くすのは【超高濃度エーテルによる黒い霧】この瘴気は侵入した者たちの精神を優しく汚染し、肉体が異形へと侵食される苦痛すら「心地よい眠り」へと変換して、都合の良い幻覚を見せる。
「ほら、見てくれよ。死んだはずの姉さんが、そこで笑っているんだ……」
隣では、戦友だった男がうっとりとした表情で黒い霧の奥へ歩みを進めていく。引き留めようとする言葉すら、もう兵士の喉からは出なかった。戦友の背中を見つめる兵士の視界の中で、恐怖の光景が静かに、しかし悍ましく進行していく。
霧を吸い込み、歓喜の涙を流す戦友の肌が、徐々に不自然な鉛色へと変色していった。皮膚の直下をのたうつ血管が、禍々しい紫色の光を放ちながら膨れ上がっていく。それはまるで、肉体を内側から貪り食う寄生虫のようだった。
「ああ、姉さん……今行くよ、今……」
男の口から漏れる声は、徐々に人間のそれから遠ざかり、金属を擦り合わせるような不快なノイズへと変質していく。パキパキと、骨が異常な角度で折れ曲がり、再構築されていく生々しい音が静寂を引き裂いた。背中から這い出してきたのは、肉を突き破って肥大化した結晶質の硬質外殻。爪は獣のように鋭く伸び、顔のパーツは融解して、中央に不気味な単眼――エーテリアスの「コア」が形成されていく。
ほんの数十秒前まで、ともに未来を語り合い、故郷の家族のために戦うと誓ったはずの戦友。その男が、今や人類の天敵である『異形』へと完全に成り果てていた。
新エリー都の最新医療でも、どれほど優れたプロキシのナビゲートでも、この超高濃度エーテルによる「結晶化」と「精神融解」は防げない。一度吸い込めば、脳は幸福な夢を見たまま狂い、肉体は自ら進んで怪物の器へと成り下がる。周囲を見渡せば、同じようにして霧に呑まれ、狂いながら異形のエーテリアスへと変わっていった仲間たちの成れの果てが、無数に彷徨っていた。彼らはもはや人間としての記憶を持たず、ただ生存者を貪り食うためだけに、かつての同胞へと牙を剥く。
そして、その怪物たちの背後から、さらに底なしの絶望が這い出してきた。
地鳴りのような咆哮とともに、アヴァロンの奥底――【遺跡の墓場】と呼ばれる最深部から、地平線を埋め尽くすほどのエーテリアスの大群が溢れ出してきたのだ。
それは、既存のホロウで確認されるような規模のものではなかった。一匹一匹が治安局の重装備部隊を容易に蹂躙する個体であり、それが文字通り、底なしの津波となって押し寄せてくる。空間の裂け目から次々と産み落とされる異形たちは、まるであらゆる生命を根絶やしにするために組織された、死の軍勢だった。
「撃て! 撃ち続けろ! 怯むな!」
遠くの方で、まだ理性を保っている防衛軍の生き残りたちが、決死の防衛線を築いて重火器を乱射しているのが見えた。エーテル耐性を施した装甲車が咆哮を上げ、重機関銃の火線が夜のホロウを赤く染める。だが、どれほど弾丸を叩き込もうとも、どれほど肉体を消し飛ばそうとも、意味はなかった。
アヴァロンの最深部に鎮座するのは、100年前の最先端テクノロジーや兵器が打ち捨てられた遺跡。そしてそれらを取り込み、エーテルエネルギーと融合して自己修復を繰り返す、巨大な自律防衛システムだった。
それは山をも超える巨躯を持った、防衛軍の最高警戒クラスを遥かに凌駕する超大型の金属塊。自律防衛システムから放たれる高エネルギーのレーザーが防衛線を一瞬で薙ぎ払うと、装甲車は紙細工のように爆発炎上し、兵士たちの肉体は悲鳴を上げる暇さえなく蒸発していった。
さらに、倒れた兵士たちの死体に黒い霧が群がり、それらが再びエーテリアスとして起き上がる。殺しても、殺しても、敵の数は減るどころか増殖していく。無限に湧き出る怪物の蹂躙の前に、防衛軍の精鋭部隊が築き上げた戦線は、完全に瓦解した。
武器はすべて砕け、通信は途絶え、退路は完全に塞がれた。
周囲から聞こえるのは、肉体が引き裂かれる音と、かつての仲間だった怪物たちが飢餓感に任せて生者を貪る咀嚼音だけ。
瓦礫の影の兵士はただ、静かに目を閉じた。抗う術など何一つない。ここは人類立ち入り禁止の、絶対不可侵の地獄だ。肉体の時間は止まり、外に出れば塵に還り、ここに留まれば怪物になるか、怪物に食い殺される。ただ静かに、完全な終わりが自分を塗り潰すのを待つことしかできなかった。
――その時だった。
ガサリ、と至近距離の瓦礫が揺れ、兵士は恐怖に目を見開いた。黒い霧の向こうから、鋭い爪を閃かせたエーテリアスが、生肉の匂いにつられて兵士の鼻先へと飛びかかってきたのだ。牙の隙間から滴る紫色の不気味な体液が、兵士の頬に落ちる。死を覚悟し、彼が再び強く目を閉じた刹那――。
ドゴォォォォン!!!
鼓膜を激しく震わせる、重低音の破壊音が炸裂した。
「ガ、アァァァッ!?」
飛びかかってきていたはずのエーテリアスが、苦悶の絶叫を上げて真横へと吹き飛んでいく。何が起きたのか分からず、兵士が恐る恐る目を開けると、そこには、何重もの古びた布で幾重にも無骨にぐるぐる巻きにされた、一振りの『鉄塊』――大剣というよりは、洗練された、布越しにも美しく均整の取れた長剣を、両手で完璧な残心とともに構える一人の青年の後ろ姿があった。
青年がただ一振り、布に包まれたままの長剣を正確無比に一閃させただけで、精鋭の装甲すら噛み砕く怪物の肉体が、跡形もなく粉砕され消滅していた。
絶望のどん底で命を救われた兵士は、呆然と目の前の背中を見つめる。衣服のフードは雨と煤に汚れ、けれどその隙間から覗くのは、新雪のような灰色の髪と、すべてを静かに見つめる灰色の瞳だった。
「……もう大丈夫ですよ。ボクが来たからには、あなたをここで終わらせたりはしません」
青年は、恐怖と諦念に囚われていた兵士に向かって振り返り、あまりにも静かで、けれど心に深く染み渡るような優しい声をかけた。
彼は泥に汚れる前の長剣を再び両手で正しく握り締め、目の前の巨大な自律防衛システムと、地平線を埋め尽くして押し寄せてくる、底なしのエーテリアスの大群を見据えていた。
終わりを待つ兵士の目に、その姿はあまりにも小さく、あまりにも無力に映った。なぜこんな少年がここにいるのか、それを訝しむ気力すら残っていなかった。周囲を埋め尽くす何万という怪物の軍勢の前に、たった一人で突っ立っているその姿は、あまりにも無謀で、哀れですらあった。 青年が、その『言葉』を紡ぐまでは。
「――
瞬間、世界を覆う黒い霧が一斉に逆流し、時が止まった空間に猛烈な暴風が吹き荒れた。
荒れ狂う高濃度のエーテル流が青年の衣服を激しく煽り、深く被っていたはずのグレーのフードを乱暴にめくり上げる。
露わになったのは、神聖で、彫刻のように美しく整った青年の顔立ちだった。新雪のように純白で、どこか透明感のある灰色の髪が風に踊り、その奥から覗く双眸は、すべてを見透かすように静謐で、気高き意志に満ちている。
終わりを待つ兵士は、そのあまりの美しさと、凛とした顔立ちに、息を呑むことしかできなかった。
「――
肉体を内側から裂くような凄まじい衝撃が青年を襲い、その口から痛切な絶叫が漏れる。それは人間の肉体が耐えられる許容量を遥かに超越した、神の呪いを受け入れるための儀式。
青年の脳内では少女の狂おしいほどに甘い笑い声が爆音のように響き渡った。
『あはははは! 素晴らしいわ、アルト! 待っていたのよ、この瞬間を! さあ、その無粋な鎖をすべて引き千切って、一緒に溶け合いましょう!私のすべてをあなたに捧げさせて?私だけの王子様ぁ――!!』
激痛に狂いそうになりながらも、青年は前を見据えた。
瞬間、脳内で反転を始めた強大なエネルギーを肯定するように、少女の艶やかな承認の声が次々と重なっていく。それはかつてエリー都を守護し、そして去っていった伝説の「初代虚狩り」たちが遺した、最強の縛り。
『――第一誓約、解除。承認、レミエール。この戦いは生存の路を拓くためのものなり』
『――第二誓約、解除。承認、ヴァイク。この戦いは人理の守護なり』
『――第三誓約、解除。承認、サンブリンガー。この戦いに私欲なし』
驚愕に目を見開く兵士の目の前で、青年の灰色の髪が、内側から爆発するような黄金の光を帯びて、鮮やかな「金色」へと染まっていく。伏せられがちだった両眸が見開かれた刹那、それは濁りのない、深く美しい「
引き締まっていた体躯のシルエットすらも、世界の破滅を切り裂く、気高き王の意志そのものへと書き換えられていく。
「……これより、道を拓きます。
『――最終誓約、解除。承認、アーサー』
「是は、世界を救う戦いである――」
一人称が「ボク」から「私」へと切り替わった瞬間、布巻きの長剣から眩いエーテルが爆発的に編み上げられ、白銀と黄金に輝く一振りの聖剣――『
「
絶望の地獄に、突如として舞い降りた圧倒的な救済の光。
夜天を切り裂くような黄金の光波が放たれた瞬間、兵士たちの命を脅かしていた巨大な防衛システムも、精神を融かす黒い霧も、そして世界を覆っていた巨大なホロウの塊そのものが、アヴァロンの核ごと跡形もなく消し飛ばされた。
まばゆい光が収まった後に残されたのは、ただ静かに降り注ぐ、汚染の消えた本物の雨と、呆然と空を見上げる兵士たちの姿だけだった。
防衛軍の現上層部も、生き残りの研究者たちも、このあまりにも人知を超えた超常現象に驚愕し、パニックを避けるためにアヴァロンの存在自体を歴史から秘匿し、「六大ホロウ」へと事実を書き換えることとなる。
――そして、アヴァロンが消滅してから、8年。
かつて絶望のホロウを跡形もなく消し去り、初代虚狩りたちの誓約が刻まれたその強力な長剣とともに、青年はあてのない孤独な放浪を続けていた。誰とも交わらず、ただ己の中に眠る強大すぎる力と、脳内で囁き続ける少女の存在を抱えながら、あちこちのホロウの境界線を渡り歩いてきた。
そして今、青年は導かれるように、新エリー都――活気と混沌が入り混じる『六分街』の片隅へと、その足を向けていた。激しい雨が降りしきる中、グレーのフードを深く被った彼の放浪譚が、この街から再び動き出そうとしている。