ドオォォォォォン……!!!
アリーナのバックステージに、最凶の秘密兵器『
粉々に粉砕された赤黒い胸部装甲の
プシュー、と過負荷によって限界を迎えたコックピットの頭部装甲が、激しい白煙を吹き出しながら力なくひび割れ、爆砕された。
隊長は大破した赤黒い鋼鉄の檻の内側にその身を深く沈めたまま、割れたバイザーの隙間から、血と煤に汚れた生身の『顔』だけが剥き出しになって現れたのだ。男は鉄塊と化したネメシスの内側で力なく膝を突きながらも、その手から滑り落ちた軍用ハンドガンを一瞥し、カランと虚しい音を立てて転がっていくのをただ睨み据えていた。
アルトは流れるような美しい動作で長剣を背中の泥まみれの布へと収めた。いつものような肩をすくめた気弱でおどおどとした放浪者の佇まいはなく、一人の剣士として覚悟を決めた鋭い眼差しが隊長に向けられていた。
数万人の命、およびアストラの命を脅かしたテロリストの首謀者を前に、アルトの開いた灰色の双眸には、極限まで研ぎ澄まされた真剣な光と、鋭い一人の剣士としての圧倒的な冷徹さが、微動だにせず完全に維持されていた。彼は一歩も退くことなく、真剣な気配のまま、実直に隊長の顔を見据える。
「……もう、終わりにしてください。貴方たちの計画は、もう終わりです」
アルトの声は、凛とした低く重い響きを帯びていた。
完璧に敗北し、数年を費やした復讐の機を完全に逸したというのに、ネメシスの内側から剥き出しになった隊長の顔は、口の端から血の混じった唾を床に吐き捨てると、その鋭い双眸を不敵に歪ませ、低く、どす黒い笑い声を漏らした。歴戦の兵士としての凄みは、その五体を深く傷つけられてもなお、微塵も衰えてはいなかった。
「……く、ふふふ……はははは! 強いねえ、本当に呆れるほどに強いじゃん、黒スーツくん……。だけどさあ、どうしてキミのような本物の化け物が、あんな腐りきった特権階級どもの
男の声音に、いつもの軽薄なふざけた口調の裏に隠されていた、骨の髄まで焼き尽くすような激しい『憎悪』のトーンが、どろりと混ざり合う。
「――ちょっとおじさんの独り言を聞いてくれよ……」
テロの炎と黒煙が燻るアリーナの舞台裏。真剣な眼差しのまま立ち尽くすアルト、そして駆け寄ってきたアストラとイヴリンは、ネメシスの奥に潜む男が放つただならぬ復讐の執念の前に、新エリー都という都市が抱える深い闇の深淵を予感するように、静かに、その次の言葉を待った。男は装甲に頭を預けて天を仰ぎ、自身の過去を、かつての優しい父親の記憶を呪うように、血を吐き出すような激情とともに自らの口から語り始めた。
「私はねえ、元は防衛軍の一軍人だったんだ。……私にだってさあ、私の帰りを待ってくれる最愛の家族がいたんだ。任務を終えて家に帰れば、私を待ってくれた愛娘を抱き上げてさ、よく言っていたんだよ。『お利口さんだねえ』ってさあ……その言葉が、私にとってどれほど幸福な愛の言葉だったか、キミたちに分かるか……!?」
男の剥き出しの顔が、凄まじい悲壮感と怒りによって歪んでいく。彼自身の言葉がその悲劇を克明に紡ぎ出す。
「だけどさあ、あの突発的なホロウ災害の日……私は家族を救うために、逃げ遅れた大勢の民間人たちと一緒に必死に脱出しようとしていたんだ…… なのに、現場の指揮権を握っていた新エリー都の巨大企業『
アリーナの舞台裏に、男の呪詛のような叫びが響き渡る。
「血の涙を流して軍の上層部に詰め寄ったらさあ、奴らは何て言ったと思う? 『仕方がなかった、防衛軍はTOPSから資金提供を受けているから奴らの機嫌を損ねることはできない。諦めて、お前もお利口さんにしておけ』……だとさあ! 資金提供という名の、腐りきった特権階級どものふざけた言い訳のせいで、私の家族は必要な犠牲にされたんだ! だったら、あの醜いTOPSの支配の象徴である歌姫アストラ・ヤオを拉致して、全都市に奴らの欺瞞を告発させるのは、私の当然の権利だろうが……!! 体制の欺瞞に従う無能な大衆や、綺麗事ばかりの治安官共が、私には心底から吐き気がするんだよ……!! 君はねえ、民衆の目を現実からそらすための、ただの都合のいい偶像なんだからさあ……っ!」
最愛の家族を失ったことで、かつての幸福な愛の言葉が、新エリー都のすべてを嘲笑うための冷酷な口癖へと反転してしまった男の真実。
男の口から直接語られたそのあまりにも重苦しい不条理の全貌を聞き、アルトは真剣な眼差しのまま、灰色の瞳を大きく見開いて静かに言葉を失った。新エリー都という都市が抱える深い闇の深淵を前に、彼の高潔な心は静かに、しかし冷徹に揺さぶられていた。
イヴリンは感情を一切表に出さないまま、テキパキとセキュリティ端末を操作し、ネメシスの強固な装甲ごと、中にいる男の四肢へと拘束用のワイヤーを淡々と巻き付けた。
「……貴方の抱える過去には同情する、だが、それが今回のような一件を成して良い動機にはならない。このの件については記録し、貴方は治安局に引き渡そう」
彼女の口調は徹底してドライで実務的だったが、その言葉の裏には、同じ元軍人として、男の抱える底知れない絶望の残光を静かに受け止めるような佇まいが存在していた。
アストラもまた、自身の音楽と存在が、巨大企業の支配の道具として裏で利用される、あまりにも重く恐るべき現実に、言葉を失っていた。彼女は唇を強く噛み締め、ステージの上で見せるまばゆいオーラを完全に潜め、一人の現代の少女としての深い苦悩と葛藤を瞳に宿して、静かに下を向いていた。アストラのピュアな胸の奥で、アーティストとしての激しい苦悩が、重く、重く渦巻き始めていた。
――しかし、この最悪の不協和音に満ちたアリーナの舞台裏で、悲劇の残光は未だ消え去ってはいなかった。
拘束用のワイヤーを全身に巻き付けられ、もはや完全に復讐を果たす術を失ったはずの隊長は、うつむいたまま、まるで魂の抜け殻のようになっていた。だが、彼の血に染まった唇が、突如として自傷気味な、この世のすべてを呪うような不気味な歪んだ笑いを静かに漏らし始めた。
「……く、ふふ……ははは、終わるわけがないだろう……。お前たちも、この欺瞞に満ちた新エリー都も……全員道連れだ……っ!」
男は最後の狂気的な悪あがきとして、大破したネメシスのコックピットの奥底に秘められていた、未認可の禁忌の機能を盲目的に作動させた。
それは、反乱軍の最高峰の科学者たちの頭脳、そして彼らが新エリー都の裏社会の深淵で手を組んだ、正体不明の『怪しげなカルト教団』によって極秘裏に共同開発されていた、文字通りの最悪の奥の手だった。大破したネメシスの内部機械がガチリと不気味な音を立てて強制駆動し、隊長の首元へと、禍々しく波打つ謎の液体で満たされた特殊な容器の注射針が、容赦なく突き立てられ、その中身がすべて生身の肉体へと強制注入された。
ドクン――ッ!!!!
その瞬間、アルトの胸の奥で、先ほどの大爆発の兆候すらも遥かに超越するほどの、これまでに経験したことがない未知なる原初的な『直感』が爆発的に脈動した。彼の肉体に密かに起きている変化の影響による超常的な超感覚が、アリーナ全体を包み込もうとしている最悪の破滅の気配を完璧に察知し、頭のてっぺんから爪先までを息の詰まるような強烈な警鐘で支配していく。
「――っ、イヴリンさん、お嬢様を連れて今すぐここから離れてください!! 何かが来ます……っ!!」
アルトが再びその瞳に鋭い剣士の眼光を宿し、今までにない焦燥の声を張り上げたその刹那。
空間全体のエーテル活性が、物理的な原則を完全に無視して凄まじい上昇を始め、測定不能なほどの濃密な紫黒の侵食エネルギーが一気に膨れ上がった。男の首元に注入された禁忌の液体は、生身の肉体の細胞を一瞬にして変異させ、意識を完全に失って白目を剥いた隊長は、アリーナの天井を完全に叩き割るほどの、人間とは到底思えないおぞましい苦悶の声を上げた。
「あ、ガ、あ、あああああああああああああああッッッ!!!!!!」
その身体は、意識を完全に消失したまま、強制的な変異の過負荷として驚異の変貌を遂げ始めていた。ネメシスの赤黒い鋼鉄の装甲を内側からメリメリと肉肉しく引き千切り、肉体と機械がドロドロに融合した歪なバケモノとしての実体が、アリーナの爆炎の中にその悍ましい牙を剥き出しにしながら急速に膨れ上がっていく――。
アリーナのメインステージに立ち込める灰色の爆煙を割って、最凶の殺戮兵器『
それは機械の駆動音などでは断じてなく、人間では到底ありえない、野生の獣そのものの凶暴で不気味な咆哮だった。カルト教団の禁忌の液体を強制注入され、肉体と機械がドロドロに融合する異形化の変異を遂げたその姿は、見る者の精神を直接侵食するかのような圧倒的な絶望のきらめきを放っていた。洗練されたスマートな人型の形状を取りながらも、その全身は血のように昏く禍々しい赤黒い色へと完全に変貌している。もはやコックピットに操縦者の生身の顔など存在しない。ネメシスは人間という枠組みを完全に捨て去り、肉と鉄が一体となった完全に一つの不気味な生命体へと新生していた。背中からうねるように生え伸びる異形なる四本の触手腕は、変異した肉装甲の隙間から「ガルルル……」と血を欲する獣の如き低い唸りを生々しく漏らし、その先端に備わった鋭利な五指(爪)が、獲物の肉を骨ごと引き千切るために飢えた野生の怪物の牙の如く、空気中の硝煙を切り裂いて狂暴に蠢いていた。割れたヘッドパーツの奥からは理性なき野生的な破壊衝動を宿した紅い単眼の光が、アルトたちを冷酷に射抜いている。
意識を完全に喪失したまま、復讐と破壊の執念だけを獣の如く暴走させる、何かの失敗作。
その歪な異形が、エーテル技術で強化された巨大な槍状の得物をその強靭なメイン腕で無骨に握り締め、アリーナのコンクリートの基礎そのものをグラグラと狂ったように揺らすほどの、かつてない凄まじいプレッシャーを放って立ち塞がった。
「――っ、イヴリンさん、お嬢様を連れて今すぐここから離れてください!!」
アルトの声は、いつも通りの気弱さを一切排した、冷徹で凛とした一人の『剣士』の声音そのものだった。
彼の灰色の瞳には、極限まで研ぎ澄まされた真剣な眼差しが静かに、しかし強固に宿っている。アルトは泥まみれの布に巻かれた長剣『エクスカリバー』を正しく両手で構え直すと、自身の身体をプロの防壁の如く展開し、ネメシスの放つ桁違いのエーテル圧を真っ直ぐに睨み据えた。
イヴリンは感情を排した顔のままアストラを抱きかかえ、アクロバティックな跳躍でステージの最奥の防壁へと瞬時に退避させ終えると、すぐさま戦闘へと復帰した。
彼女の細い指先が閃き、空間に目に見えない特殊合金ワイヤーを蜘蛛の巣の如く張り巡らせ、ネメシスの巨躯を絡め取ろうとアクロバティックに空中を舞う。
――だが、異形化したネメシスの野生的な暴威は、これまでの戦闘データを遥かに超越していた。
ヴオォォォォォォォォォンッッ!!!!!!
アリーナの天井を完全に引き裂くほどの、人間ではありえない野生的な咆哮が再び轟き、その凄まじい声波の衝撃波だけで通路の残るガラスが一斉に粉々に弾け飛んだ。次の刹那、空間の質量を完全に置き去りにするほどの、野獣の如き神速の跳躍と踏み込みで、ネメシスがアルトとイヴリンの正面へと肉薄した。
メインの両腕で振り下ろされる、空間そのものを爆砕するような重火力の槍の一撃。それに呼応するように、背後の四本の触手腕が、鋭利な爪を野生の怪物の凶刃としてミリ単位の狂いもなく正確に蠢かせながら、二人の退路を完全に塞ぐようにして三次元的な包囲網を描いて襲いかかる。
ギィ、ギギギギギギギギィン!!! ズババババババッ!!!
薄暗いステージの上で、野生の獣の如く容赦なく襲い来る爪と槍の猛攻に対し、鼓膜を激しく穿つ金属の衝突音が、無数に、激しく炸裂した。
アルトは終始真剣な気配のまま、通常状態の限界を超えるほどの超高速の剣技を繰り出し、迫り来る機関銃の弾雨と触手五指の鋭利な爪の嵐を刀身の腹だけで完璧に捉え、受け流しようと試みた。だが、変異し野生の怪物の如き狂暴さを得たネメシスの放つ一撃一撃の質量は、アルトの流麗なパリィの許容量すらも容易に捩じ伏せるほどに重く、凶悪だった。
「く……、うぅっ……!?」
弾丸を弾く凄まじい衝撃がアルトの両腕へと伝わり、仕立ての良い黒のジャケットを鋭くはたかせる彼の身体が、野生の怪物の強烈な圧力によって力ずくで後方へと押し込まれていく。
そこへすかさず、イヴリンの張り巡らせた目に見えないワイヤー網がネメシスの駆動関節を捉え、その動きを制動しようと全力で引き絞られた。しかし、ネメシスは感情を表に出さない単眼のセンサーを僅かに明滅させただけで、自身の肉体と融合した四本の触手腕を一気に激しく引き抜いた。
ブチチチィィン!!!
鋼鉄をも切断するイヴリンの特殊合金ワイヤーが、ネメシスの常軌を逸した野生の怪力によって、紙切れの如く一瞬にして力ずくで全て引き千切られた。
「くっ……なんて馬鹿力――」
ワイヤーの反動によってイヴリンの体勢が空中で僅かに崩れた、その一瞬の隙。ネメシスの赤黒い両肩の重装甲が左右へと大きく展開し、内蔵されていた二基の指向性高出力エーテルレーザー砲から、全てを焼き尽くすような凶悪な超熱線が一斉に解き放たれた。
アリーナのバックステージの壁や梁が瞬時に赤熱してドロドロに融解し、凄まじい爆炎の衝撃波が空中へと襲いかかる。
「イヴリンさんッ!!」
アルトは地面を力強く踏み締めると、電光石火の跳躍でイヴリンの前へと滑り込み、迫り来るエーテルレーザーの光線を長剣の一閃だけで正面から両断しようとした。しかし、過負荷エネルギーの増幅に合わせたレーザーの圧倒的な熱量と爆風は、アルトの白銀の闘気すらも強引に飲み込んで爆発した。
ドゴォォォォォンッ!!!
凄まじい爆煙と衝撃波に直撃され、アルトとイヴリンの二人の身体は、ステージの床を激しく削りながら、アリーナの硬固なコンクリートの壁へと同時に激しく叩きつけられた。
アルトの黒スーツの袖は破れ、その瑞々しい灰色の瞳には真剣な眼差しが維持されているものの、内臓を直接揺さぶられた激しい衝撃に、彼は初めてその場に片膝を突き、荒い息を吐き出して硬直した。イヴリンもまた、タイトなスーツの各所を焦がし、プロとしての完璧な身こなを完全に崩されて床へと膝を突き、その動きを物理的に完全に無力化されていた。
最強のマネージャーであるイヴリンのワイヤー術。最高峰の剣士であるアルトの洗練され尽くした超一流の美技。新エリー都のいかなるエージェントをも凌駕する歴戦の完璧な連携を組みながらも、二人は異形化したネメシスの圧倒的かつ絶対的な野生の暴威の前に、完全に『圧倒』され、これまでにない最大の窮地へと追い詰められていた。
「アルト!! イヴ――ッッ!!!」
ステージ最奥の防壁の裏から、二人が完全に打ちのめされ、膝を突く光景を目撃したアストラが、引き裂かれるような悲痛な絶叫の声をあげた。普段のお転婆な笑顔は完全に消え去り、その麗しい瞳からは恐怖の涙が止めどなく溢れ出している。自分のために命を懸けて戦ってくれた二人が、目の前で命を奪われようとしている冷酷な現実を前に、彼女はただ必死に、引き裂かれそうな声を張り上げるしかなかった。
ザザ……ザザザッ……。
肉と鉄がドロドロに融解したその歪な胸装甲の奥底、あるいは破損した音声出力回路から、激しいデジタルノイズを吐き出しながら、まるで壊れたレコーダーのように、生前の男の最期の執念の残滓が不気味に繰り返し呟き始められた。
『……ザザ……オ……利、口……さ、ん……。お……りこ……さ……ん……ザザザ……』
ネメシスはグガァァァ……と喉の奥から人間ではありえない野生の低い唸り声を激しく鳴らし、ノイズ混じりの不気味な機械音を周囲に撒き散らしながら、再びその四本の異形なる触手腕の鋭利な五指を狂暴に蠢かせた。そして、膝を突くアルトとイヴリンに向けて、今度こそ完全に息の根を止めるための致命的な一撃を振り上げようとしていた。
炎と黒煙が渦巻くステージの最奥、檻の中に完全に閉じ込められたアストラが絶望に息を呑む中、放浪の騎士と最強のマネージャーが物理的に完全に圧倒され、アリーナ全体の崩壊が目前に迫るという、これ以上ない最悪の展開のまま、決戦の第一幕は最悪の引きとともに幕を閉じるのであった――。
アリーナを包む爆炎と紫黒のエーテルが、不気味な不協和音を奏でながら渦巻いていた。
コンクリートの壁に叩きつけられ、破れた黒スーツの袖から血を滲ませながらも、アルトの灰色の瞳には、冷徹なまでに真剣な『剣士』の眼差しが未だ失われずに灯っていた。その視線の先では、肉と鉄が完全に一体となった異形の生命体『ネメシス』が、破損したスピーカーから「……お、利口、さ……ん……」と壊れたレコーダーのように呪詛のノイズを吐き出しながら、致命的な一撃を振り上げようと四本の触手腕を狂暴にうねらせている。
その絶対絶命の絶望の最中、アルトは脳内の深淵に視線を向け、自身の肉体に課していた最大の封印を解くための『覚悟』を静かに、しかし強固に固めた。
だが、彼には絶対に譲れない一線があった。彼が秘めるその真の力の全容は、新エリー都のいかなる人間にも、もちろん目の前で息を呑むイヴリンたちにすらも、決して見られるわけにはいかない秘密だった。力を解放する覚悟を決めたアルトは、まず目の前の二人をこの場から安全に遠ざけることを最優先に選択した。
「――イヴリンさん、アストラさんを。お嬢様を連れて、今すぐここから離れて、安全な通路へ避難してください」
アルトは壁に背を預けた状態からゆっくりと身を起こし、隣で膝を突くイヴリンへ向けて、気弱さを一切排した凛とした低い声を響かせた。
「……何を言っているんだ。アルト」
イヴリンはタイトなスーツを焦がしながらも、その冷静沈着な美しい素顔に、明確な驚きと困惑の光を走らせた。
アストラを命懸けで守るプロのボディガードとしての責任感が、現在の圧倒的に不利な戦況において、戦力を分散させ、ましてや出会ったばかりの臨時の青年一人をこの恐るべき野生の暴威を放つ怪物の前に残して撤退するなど、到底受け入れられるものではなかったからだ。彼女の誇りと理性は、その無謀すぎる提案に強く警鐘を鳴らしていた。
「お嬢様を安全な場所へ退避させることには同意する。だが、君を一人をこのような死地に残していくなど、私にできるか。君の剣技がどれほど優れていようとも、単独での撃破はあまりにも無謀だ。……私と共に、お嬢様を抱えてここから脱出するだろう」
「イヴリンさん。……ボクを、信じてください」
アルトはイヴリンの凛とした拒絶の言葉を遮るようにして、そのプラチナシルバーの灰髪を夕日に揺らしながら、彼女の鋭い双眸を真っ直ぐに見つめ返した。
その瞳の奥にある、いかなる世界の破滅をも切り裂いてきた超一流の剣士だけが持つ、どこまでも純粋で、揺るぎない真摯な『覚悟』の輝き。ただの野良レイダーが放てるはずのない、絶対的な信頼を抱かせる王の如き騎士の気品が、その真剣な眼差しから溢れ出ていた。
「ボクが必ず、あの怪物をここで止めます。……だから、お嬢様をお願いします」
「…………」
イヴリンは言葉を失い、その鋭く美しい瞳で、アルトの表情をじっと見つめ続けた。
彼の言葉には、何の論理的な根拠もなかった。だが、長年の過酷な防衛任務を生き抜いてきた彼女の確かな経験と野性的な直感が、目の前の青年の言葉には、すべての理屈を凌駕するだけの『絶対的な真実』が宿っていることを、その気高い魂で深く感じ取っていた。
「……分かった。そこまで強い覚悟があるならば、私は君のその言葉に、すべてを託そう」
イヴリンは静かに、けれど確固たる信頼を込めて頷くと、テキパキと身を翻して防壁の裏で恐怖に涙を流していたアストラの細い身体を優しく、確実に抱きかかえた。
「ちょっと、待ってよイヴっ!! アルトを置いていくなんて冗談じゃないでしょ、絶対にダメっ!!」
イヴリンの腕の中で、アストラは強い拒絶の声を張り上げ、激しく抵抗した。彼女の瞳には確かに恐怖の涙が浮かんでいたが、その奥にあるトップスターとしての芯の強さとエゴは、自分を命懸けで守ろうとするアルトを犠牲にして生き残ることを、断固として拒絶していた。
「アストラお嬢様、大人しくしてください。……今の彼は、命を懸けて道を切り拓こうとしてくれています。私たちは、彼のその真っ直ぐな意志を信じるべきです」
「信じるって、こんな化け物を相手に一人で戦うなんて無茶だよっ!! 私のために、貴方がそんな目に遭う必要なんてないじゃん、アルトっ!!」
アストラが必死に叫び、アルトへ向けて必死に手を伸ばすのを、イヴリンは洗練された大人の包容力をもって優しく、けれど確実に守るようにしてバックステージの崩落を免れた奥の非常通路へとアクロバティックに跳躍し、その姿を完全に避難させていった。
ガシャァァン……!!!
二人の姿が頑丈な防音隔壁の向こう側へと完全に消え去り、炎上するアリーナのメインステージには、完全に、アルト一人だけが残された。数万人の観客の悲鳴も、アストラの叫び声も、厚い壁の向こう側へと完全に遮断され、ここには肉と鉄が融合した異形の怪物と、一人の剣士の気配だけが濃密に沈殿していた。
誰もいない、たった一人きりの戦場。アルトはここで、脳内の深淵に居座る制御不能な怪物――マナカに向かって、心の中で真っ直ぐに、厳かに直接告げた。
(――マナカ。お待たせ。またキミの力を貸してくれないか……彼らが課した『
アルト自身が主導権を握り、自らの明確な意思で具体的な限定解除を求めたその瞬間、彼の頭の奥底で、おっとりとした少女の声音に極限の恍惚と狂信の愛を宿したマナカの囁きが、狂ったように歓喜に震えて響き渡った。
『――ああ……っ! アルト、私の大好きな王子様……! あなた自身の意思で私を求めて、この剣の封印を解いてくれるのね……! 自ら私の力を使ってくれるなんて、嬉しい、本当に嬉しいわ……!』
マナカは蕩けるような歓喜の声を漏らしたが、直後、その鈴を転がすような可憐な聲音の奥底から、背筋が凍りつくほどに冷徹で、絶対的な全肯定の狂気を孕んだ重い響きが静かに漏れ出た。彼女はアルトの覚悟の深さを測るように、再三にわたって真剣に確認を重ねてくる。
『でもね、アルト。忘れないで。……この剣の拘束を解く代償は、貴方のその生身の肉体にとって、とてつもなく重いのよ? ほんの一つの誓約を解除するだけでも、貴方の命の灯火は激しく削り取られちゃう。……それでも、本当に構わないのね、アルト?』
(――ああ、構わない。ボクは、ここでボクの成すべきことを成し遂げる。……マナカ、解いてくれ)
アルトの瑞々しい灰色の瞳には、一寸の迷いも恐怖もない、確固たる真剣な覚悟の眼差しが宿っていた。
『……ふふ。ええ、いいわよ、大好きなアルト。貴方がそこまで言うなら、私はあなたのすべてを肯定するわ。……さあ、その気高い誓約の鎖を、私の手で解き放ってあげる――』
脳内での対話が完了した、まさにその瞬間だった。
外界では、完全に理性を失い、拉致と破壊の執念だけで暴れ狂うネメシスの巨躯が、床のコンクリートを完全に木っ端微塵に爆砕しながら、アルトの命を今度こそ完全に貪り食うべく、野獣の如き神速の跳躍で真っ直ぐに突進してきていた。すべてを肉片に変えるための、野生の怪物の牙の如き槍の一撃。
『――
ピキィィィィィィン――ッ!!!
「――
――だが、その刹那、アリーナの全域に、マナカのどこまでも可憐で、世界を平然と書き換えるような美しい「拘束解除」の声が響き渡った。
アルトが両手で正しく構えた長剣『エクスカリバー』から、これまでのすべてのカモフラージュとしての光を完全に上書きするほどの、息を呑むほどに神聖で圧倒的な「黄金」の光の奔流が、ドロドロと大気中へ漏れ出て空間全体を瞬時に支配し始めた。
泥まみれの布が一瞬にして黄金の炎によって焼き尽くされ、その内側から、純粋な光そのものを編み上げて作られたかのような、眩いばかりの聖剣の刀身が遂にその姿を現す。アリーナ全体の歪んだ侵食エネルギーが、その絶対的な黄金の輝きによって一瞬にして完全に消滅し、燻っていた爆炎が嘘のようにパラパラと音を立てて消え去っていった。
アルトは終始真剣な剣士の眼差しのまま、迫り来る暴走した怪物を見据え、その端正な唇から、世界を救うための絶対的な言葉を静かに呟いた。
「――是は、世界を救う戦いである……」
その言葉がアリーナの静寂に響いた刹那、聖剣から放たれる黄金の光の奔流が極限まで収束し、世界の本質を塗り替えるほどの圧倒的な輝きとなって大気へと爆発した。アルトは鋭い眼差しのまま、黄金の光を纏った「約束された勝利の剣」を、正面から全力で一気に振り抜いた。
「――
シュン――ッ!!!!
裏路地の如き薄暗いアリーナの全域を、世界の夜明けの如き圧倒的な黄金の光の奔流が、一瞬にして完全に飲み込んだ。
アルトの放った限定解除の絶対的な一閃は、暴れ狂うネメシスの槍も、四本の触手腕の鋭利な爪も、その禍々しい赤黒い色彩を主体とした無機質な重装甲のすべてを、抵抗の余地すら一切相手に与えず、一瞬にして光の奔流の中へと完全に巻き込み、跡形もなく消滅せしめていった。異形の生命体は、アルトの圧倒的な聖剣の輝きの中に溶けるようにして完璧に機能停止し、静かに、塵へと還って消え去っていった。
アリーナに、完全なる静寂が戻ってきた。
アルトは流れるような美しい動作で、再び布を巻いた状態へと戻した長剣を背中へと収めた。しかし、その瞬間に全身を満たしていた鋭い剣士の気配は消え失せ、彼は余裕すら一切ないほどの、凄まじい疲労困憊の様子で行く手を失うように床へと崩れ落ちた。
「はぁ、はぁ……っ、ガはっ……はぁ……はぁ……」
仕立ての良い黒スーツを血と硝煙に汚したまま、アルトはその場に両膝を突き、さらには両手を床へついて、ただ荒い呼吸を繰り返すことしかできなかった。第一拘束を解除した代償はあまりにも重く、全身の筋肉が断線したかのように激しく軋み、命の灯火を直接削り取られた強烈な虚脱感が彼の体躯を容赦なく支配していた。額から流れる大量の冷汗が床を叩き、彼は頭を抱え込むようにして、限界まで消耗しきった身体の痛みに静かに耐え続けるしかなかった。
すべてを切り裂いた黄金の残光が夕暮れの茜色の中に溶けていく中、アルトは壊滅したアリーナの裏側で、新エリー都での次なる不穏な運命の足音を予感しながら、一人静かに、極限の疲労の中で佇むのであった――。