圧倒的な圧力を伴ってアリーナの楽屋裏を支配していた熱気と、焦熱の残滓が、潮が引き去るように静まり返っていく。
つい十数秒前までそこにあったはずの禍々しい赤黒い肉塊も、空間を歪めるほどに炸裂していた指向性エーテルレーザーの掃射痕も、すべては一瞬の極光に呑み込まれて姿を消していた。後にはただ、切り裂かれたコンクリートの壁面と、焼き切られた太い配管から吹き出す僅かな白い蒸気、そして静寂だけが残されている。
ここはホロウ内部ではない。大気中に立ち込めるはずのエーテル粒子の歪みも、紫紺の結晶体も存在しない現実世界だ。だが、その光景はあまりにも現実離れしていた。
「……はぁ、……っ、……ぁ、……」
崩落した瓦礫の真ん中で、黒いスーツを纏った青年――アルトは、床に両膝と両手を突き、崩れ落ちるように伏していた。
日常の気弱さはおろか、実戦の瞬間に立ち現れる冷徹で鋭い高潔な剣士の佇まいを保つ余裕すら、今の彼には微塵も残されていなかった。プラチナシルバーの灰髪は汗で額に張り付き、胸の奥から吐き出される息は荒く激しい。
指先ひとつ、まぶたひとつ動かすことすら叶わない極限の疲労困憊。課されていた封印の内の第一を自らの意思で限定解除し、『エクスカリバー』の黄金の奔流を解き放った代償は、生身の肉体の命の灯火を削り取るほどに重く、深い。
(……なんとか、消滅させられたか……)
麻痺したように感覚を失っていく思考の底で、アルトはわずかに安堵の呼吸を漏らした。
『ふふ、可哀想なアルト。ねえ、アルト……どうしてそこまでして、あんな小さな価値もない生き物を守ろうとするの?』
思考の深淵から、脳内に直接届く声音があった。
鈴を転がすような、あまりにも可憐でおっとりとした可聴域の美声。だが、そこに込められた感情は、いつ無関係な人間を巻き込んで暴発するかも分からない制御不能な毒そのもの――マナカだった。
『貴方の尊い命をそんな風にすり減らしてまで……私以外の誰かのためにその美しい輝きを削るなんて。あの小娘、やっぱりどうしても気に入らないな。ねえ、今すぐ私が耳元で囁いてあげようか? 拘束をもっと外して、すべてを焼き払ってしまえば、貴方はもう二度と苦しまずにすむのに』
可憐な悪魔の誘惑が、耳元で甘く囁きかける。
普通ならば恐怖に慄き、冷や汗を流して懇願するような絶対的な怪物を前にして、アルトの意識は冷徹なまでに静かだった。他者を巻き込ませないため、彼女の異常な性質を誰よりも熟知する者として、彼は冷静かつ徹底して理性的、静かな心中の言葉で彼女を宥めすます。
(……だめだ、マナカ。これは僕が自分で選んだことだ……彼女たちは、守るべき大切な人たちなんだから)
『……ちぇっ。貴方がそうやって私を優しく制する時の声、すごく好きだけど……でも、やっぱり不愉快。貴方を傷つけるすべてのものが、大嫌い』
不満そうに、けれど恍惚とした余韻を残してマナカの気配が薄れていく。それとほぼ同時に、非常通路の頑丈な防火扉が激しい音を立てて跳ね上がった。
「アルト――っ!?」
静まり返った楽屋裏に響き渡ったのは、悲鳴に近い叫びだった。
駆けてきたのはアストラ・ヤオ。新エリー都のトップスターとしての圧倒的なプライドと輝きを放つその素顔には、拭いきれない涙の痕と、激しい動揺が浮かんでいた。そのすぐ後ろには、目にも留まらぬ速度で周囲の警戒を怠らないマネージャー兼ボディガード、イヴリン・シェヴァリエの姿がある。
二人が目にしたのは、悪夢のような不条理だった。
「……何が……起きたんだ……」
イヴリンの凛とした瞳が、限界まで見開かれる。
わずか数分前まで、ここには反乱軍の隊長が怪しげな薬物によって変貌を遂げた凶悪な暴威――人間を超越した異形が存在していた。ガトリングの連射と指向性レーザーによって自分たちを完璧に追い詰め、死の淵へと引きずり込もうとしていたあの異形の生命体が、跡形もなく消え去っている。
爆破されたわけでも、切り刻まれたわけでもない。肉片一つ、装甲の破片一つ落ちていないのだ。ただ、分厚いコンクリートの壁に穿たれた巨大な穿孔と、そこに微かに漂う、あらゆる物質を蒸発させたような「あり得ないほどの熱量」の名残りだけが残されていた。
(非常通路へ退避したわずか数分の間に、一体何が起きたというのだろう……。あの壁を砕き、異形化を果たしたあの怪物を一瞬で塵すら残さず消滅させた、あの極光は……)
様々な修羅場をくぐり抜けてきたイヴリンの脳裏に、凄まじい衝撃と深い疑問が駆け巡る。
目に見えない特殊合金ワイヤーと体術を組み合わせた自身の洗練された技術をも超える、圧倒的な破壊の痕跡。避難する直前、自分たちを逃がすために一人留まったこの青年の背中。
(彼の体の身のこなし……私のワイヤーすら完璧に把握して動いていたあの尋常ならざる身構え……彼はいったい、何者なのだ……?)
プロとしての鋭い観察眼が、黒スーツのまま倒れ伏すアルトの背中に向けられる。だが、その深い疑問を追及するよりも速く、アストラが崩れるようにアルトの元へ駆け寄っていた。
「アルト! しっかりしなさい、アルト……!」
膝を突き、震える手でアルトの肩に触れるアストラ。
トップスターとしての高いプライドと強い芯を持つ彼女が、今は誇りも何もかも投げ打って、ただ一人の少女として涙をこぼしている。
「あの怪物はどこへ行ったの……? ううん、そんなことどうだっていいわ……! どうしてこんな気になるまで戦ったのよ……! 私を守るために、またこんなボロボロになって……!」
「……あ、……アストラ、さん……」
かすれた声を搾り出し、アルトはゆっくりと顔を上げた。
力なく横たわる視線の先で、アストラの美しい素顔が涙で濡れている。
「無事で……よかった……。怪物は、もう……いませんから……」
「無事なわけないでしょう! 自分が一番無事じゃないくせに……!」
アストラの声が重く震える。
彼女の胸の中には、今も重い葛藤が渦巻いていた。反乱軍隊長の死に際の独白――自分の歌や音楽が、新エリー都を支配する巨大企業「TOPS」の欲望を満たし、無辜の民衆を抑圧するための綺麗な偶像として利用されていたという構造の真実。表現者として、自分自身の存在意義を根底から揺るがすような深い苦悩と苦痛。
けれど、そんな歪んだ世界の絶望の中でも、この青年は自分のために剣を振るい、命を削って護ってくれた。
自分の歌を評価してくれた時の真っ直ぐな瞳。ステージの上から見えた、誰よりも美しく、泥臭く、命を燃やして戦う男の姿。アストラ・ヤオにとって、彼はもはや単なる協力者や放浪者ではない。インスピレーションの源泉であり、心から信頼を寄せる「特等席の王子様」そのものだった。
「ありがとう、アルト……。私を……守ってくれて、本当にありがとう……」
涙を拭うこともせず、アストラはアルトの冷え切った手に自分の手を重ねた。その強い熱量が、命の灯火を削られたアルトの肉体に微かな温もりを与える。
「……お嬢様。お気持ちは察しますが、長居は危険です」
静かに近付いてきたイヴリンが、二人を見下ろしながら凛とした声で告げた。
その瞳には、なおも消えない深遠な疑問が宿っている。だが、今はそれを問いただす場ではない。
「アリーナ外部の治安局、およびTOPSの警備部隊が包囲網を敷き始めています。反乱軍の首謀者が消滅したとはいえ、彼にこれ以上の負担をかけさせるわけにはいきません。……アルト、立つことはできるか?」
「……すみ、ません……足に、力が入らなくて……」
身体機能が限界を迎えている声でアルトが答える。イヴリンは静かに頷くと、無駄のない洗練された身のこなしで腰を落とし、アルトの腕を自身の肩へと回させた。
「失礼する。……アルト。貴方が何者であり、ここでどのような力を使われたのか……私には知る由もないが。命を賭してお嬢様を守り抜いてくださったこと、そして私のような者の命まで救ったこと……一人の護衛として、心より感謝申し上げる」
耳元で静かに語られたイヴリンの言葉は、洗練された大人の女性としての気高さと、プロとしての深い敬意に満ちていた。アルトの正体も、限定解除の真実も彼女は知らない。しかし、目の前の青年が示した真っ直ぐな正義感と圧倒的な誇りを、彼女はプロとして確かに認めていた。
「私も支えるわ! ほら、アルト、私に体重を預けなさい!」
「アストラさん、服が汚れてしまいます……」
「そんなこと、どうでもいいと言っているでしょう! 早く行くわよ!」
アストラも反対側からアルトの身体を支え、小さな肩で彼の身体を引き上げる。
二人に両脇を支えられながら、アルトはゆっくりと足を前へと踏み出した。視界が激しく揺れ、意識の端々が白く霞んでいく。
アリーナのメインステージを包んでいた黒煙は、彼の放った神聖なる黄金の光の余波によって完全に吹き飛ばされ、雲の隙間から差し込む月光が、崩壊した楽屋裏を静かに照らしていた。
(これで……ひとまずは、終わったんだな……)
頭の奥底で、マナカが『ふんっ』と不機嫌そうに鼻を鳴らす気配を感じながら、アルトは重い瞼を閉じるようにして身を委ねた。 新エリー都の闇と、巨大企業の欺瞞。そして消滅した反乱軍が残した深い爪痕。
渦巻く陰謀と苦悩の余韻を残しながらも、過酷な決戦を生き延びた三人は、静まり返った楽屋の奥へと、事後処理という名の穏やかな日常へ向かって静かに歩みを進めていくのだった。
◇
月光が静かに差し込むアリーナの楽屋裏から脱出し、治安局やTOPSの警戒網を間一髪で潜り抜けた三人は、イヴリンが手配していた隠れ家へと無事に身を寄せていた。
そこは新エリー都の華やかさとは程遠い、静まり返った市街の隠れ家だった。激戦と限定解除の重すぎる代償によって命の灯火を削られたアルトは、清潔なベッドの上で丸一日の間、泥のように深い眠りにつき、ようやくゆっくりと意識を取り戻した。
「……気がついたのね、アルト」
ベッドの脇に置かれた椅子から、アストラが静かに立ち上がった。その素顔にはまだ疲れの色が残っていたが、いつもの凛としたトップスターとしての気品を取り戻している。
「……アストラ、さん……。すみません、僕……ずっと眠って……」
「謝ることなんて何一つないわ。貴方が倒れるまで戦ってくれたおかげで、私達はこうして生きているんだもの。……イヴ、お茶を入れてあげて」
部屋の隅で静かに待機していたイヴリンが、無駄のない所作で温かいハーブティーを注ぎ、アルトへと手渡した。
「アルト、身体の具合は大丈夫か……」
「あ、ありがとうございます……。だいぶ、楽になりました……」
アルトはおどおどとした気弱さを覗かせながらカップを受け取り、一口、口に含んだ。イヴリンの凛とした瞳には、あの夜目撃した「あまりにも不自然な黄金の極光」に対するプロとしての深い疑問が今なお漂っていたが、彼女はそれを言葉に出すことなく、ただ一人の護衛として洗練された静かな敬意を向けている。
「アルト。私、しばらく表舞台での音楽活動を休止することにしたわ」
アストラが静かに切り出した。
その言葉に、アルトは驚いて顔を上げる。アストラの表情には、反乱軍隊長から突きつけられた真相――自分の歌が巨大企業TOPSの支配の道具として利用されていたという事実に対する、表現者としての深い葛藤と苦悩の陰が落とされていた。
「今回のテロの件で、TOPSも治安局も表面上の揉み消しに躍起になっているわ。でも、私はこのまま彼らの思い通りに綺麗な偶像として歌い続けるわけにはいかない……。しばらく事務所の仕込みから身を隠して、この新エリー都のどこかで、一度自分自身の音楽と真っ直ぐに向き合ってみるつもりよ」
支配の渦中にある新エリー都に踏み止まり、自身の足で真実と表現を探求する決意を固めたアストラの瞳は、強く輝いていた。彼女はアルトの目を真っ直ぐに見つめ、微かに微笑む。
「……でもね、アルト。私にとって、貴方はいつだって誰よりも綺麗な音を響かせてくれた『特等席の王子様』よ。次に貴方の前で歌う時は……もっと胸を張って、私の本当の歌を届けてみせるわ」
「アストラさん……」
「だから、貴方もこんなところで立ち止まっていちゃダメよ。貴方には……まだ出会うべき景色や、巡り持つべき『運命』が待っている気がするの」
その言葉は、まるで予言のようにアルトの胸へと深く染み込んでいった。
新エリー都という広大な迷宮で始まったこの歪んだ物語は、ここが終わりではない。新たな仲間や新たな試練との出会いの予感が、静かに胸の奥で鼓動を打つ。
翌朝、朝靄が包む小さな停留所で、三人は静かに別れの時を迎えた。
アストラとイヴリンは静かに手を振り、都内の潜伏先へと向かう車両に乗り込む。アルトもまた、その背中を静かに見送った。車両が街の雑踏へと消えていくのを見届けながら、アルトは深く息を吐き出した。
(……僕も、僕の道を行かなきゃな)
『ふん、やっとあの生意気な小娘がいなくなったわね。せいぜい静かに縮こまっていればいいのよ』
脳内から、可憐で澄んだ鈴の音のようなマナカの声が響く。アルトを独占できたことに恍惚とする悪魔の囁きを、アルトは静かな思考で制しながら、ひとり新エリー都のストリートへと歩み出した。
――同刻。 静寂が戻ったはずのアリーナ楽屋裏。
封鎖テープが張り巡らされた廃墟の奥底、崩落したコンクリートと冷え切った焦土の渦中に、一筋の影が静かに揺らめいていた。
立ち込める息苦しい静寂の中、ヒールの音がカツン、カツンと冷ややかに響き渡る。 そこに立っていたのは、讃頌会の仮面を纏いし冷血なる執行者――サラであった。
彼女は、あらゆる物質が蒸発し、人間一人どころか異形の装甲すら跡形もなく消滅した凄惨な破壊痕を見下ろしていた。紫煙のような異様な雰囲気を身に纏い、その瞳には一切の感情が宿っていない。
「……愚かな隊長……フフ、サクリファイス化の試作投与としては、完全に『失敗』ね」
サラの口元から、冷酷極まりない呟きが漏れ出た。
隊長という一人の男の絶望も、家族を失った悲劇も、彼女にとってはただの不完全な実験データに過ぎない。
だが――サラの冷徹な眼光が、抉られたコンクリートの亀裂の奥でピタリと止まった。
「……あら?」
そこには、サクリファイスの赤黒い肉塊の残滓などどこにも存在しなかった。
代わりに、あらゆる物理法則を無視するように、ほんの僅かだけ空中に揺らめいている「神聖な黄金の残光」があった。
それはエーテル粒子でも、新エリー都に存在するどんなエネルギーの波長とも異なる、見る者の魂を震わせるほどに尊く、異質な威光。
サラは細く美しい指先を伸ばし、消え入りそうな黄金の粒子に触れようとする。指先が近づいた瞬間、黄金の光はパチりと小さく弾け、無へと昇華した。
「サクリファイスを一瞬で粉砕し、塵すら残さず消滅させたこの力……エーテルとは異なる、あまりに神聖な輝き。……新エリー都に、私たちの知らない『何か』が紛れ込んでいるようね」
正体も名前も判り得ない未知なる存在――だが、それゆえにサラの唇は、不敵で凶悪な愉悦とともに妖しく釣り上がる。
「フフ……姿を隠した正体不明の闖入者様。どこに潜んでいるのかしら……私を楽しませて頂戴ね」
暗闇の中でサラの影がゆらりと揺れ、煙のように楽屋裏の闇へと溶けて消えた。
消滅した反乱軍の影で、新たな凶悪なる悪意が、新エリー都に潜む未確認の黄金の力へとその毒牙を向け始めているのだった。