新エリー都の夜が深まり、六分街の騒がしいネオンの輝きが次第にその光を潜めていく時間。
突発的なホロウ災害が去った後のストリートは、冷たい名残雨がコンクリートを濡らす微かな音だけを響かせ、静寂の中に沈み込んでいた。
ビデオ屋『Random Play』の、居候用に宛がわれた簡素な一室。
アルトは一人、薄暗い部屋の鏡の前に立ち、グレーのパーカーのフードを静かに払い除けていた。
鏡に映し出されたのは、新雪を思わせる透明な灰色の髪。だが、その前髪のほんの一房だけが、周囲の薄暗い闇を拒絶するように、眩いばかりの『黄金色』に染まったまま、部屋の僅かな明かりを弾いて鈍く煌めいている。
それは彼のその身に宿る超常的な力が、内側から確実に彼の身体の奥底を侵食し始めているサインであった。
「……やっぱり、こうなるんだな」
ぽつりと、アルトの口から漏れ出たのは、絶望でも恐怖でもない、冷徹なまでに静かな諦めの声だった。
彼はこの不可解な身体の変化に、強い諦観の念を抱いていた。この力を行使するたびに自身の肉体が何か別の超常的な存在へと近づいている感覚。それは、とっくの昔から自覚し、受け入れている運命の重さだった。
脳内で、低く、どこまでも深く甘い少女の囁きが、彼のその静かな諦めを愛おしそうに抱きしめるように響き渡る。
『ふふ、嬉しいアルト。拘束を解かずとも、また一歩、私の大好きな王子様に近づいてくれたのね。その綺麗な黄金の髪こそ、あなたの本来の姿。今の貴方も素敵だけど、やっぱり本来の貴方の方がとっても素敵……』
(……マナカ。ボクはまだ、すべてをこの街の人間たちに晒すわけにはいかないんだ)
アルトは心の中で、脳内のマナカの執拗な愛情表現を静かに遮ると、鏡の中の自身をもう一度冷徹に見つめ直した。
昼間、ホロウからビデオ屋のボンプである『イアス』と逃げ遅れた子供を救い出し、家まで送り届けたアルトは、アキラとリンの兄妹から涙ながらに感謝されていた。二人は命の恩人であるアルトをどうしても放っておけないと、手厚い「一宿一飯のお礼」として、温かい食事と、この静かな寝床を彼に提供してくれたのだ。お互いの裏の顔を隠したままであったとはいえ、二人のどこまでも紳士的で温厚な優しさは、孤独な放浪を続けていたアルトの心に深く染み渡るものだった。
だが、このままこの部屋に甘えているわけにはいかなかった。
前髪に現れたこの不可解な黄金色の変異。これをあの鋭い観察眼を持つ店主の兄妹に悟られれば、自分がただの「足がすくんで座り込んでいた放浪者」ではないことが瞬時に発覚してしまう。何より、アルトには新エリー都を隠密裏に調査しなければならない真の目的があった。
すべてのホロウの発生源であり、世界の破滅の引き金となった最悪の元凶――『始まりの主』。アルトは長年、その元凶を秘密裏に追跡し、その息の根を止めるために孤独な旅を続けてしてきた。そして最近、新エリー都の裏社会において、始まりの主を崇める狂信的な謎の組織――『
◇
少し前に、放浪の旅の途中で別のホロウ災害に巻き込まれ、今回と同じように剣の力を引き出して戦った際、前髪の一部が鮮やかな金色へと変色したことがあった。その時、アルトは激しい違和感に襲われながらも、自身の存在が外部の勢力に発覚することを防ぐため、市販の染髪剤を使い、髪を染めて元の「灰色」へとカモフラージュした。その過去の教訓からの学びが、今日の彼の迷いのない足取りを生み出していた。
アルトは六分街の隅にある、24時間営業のコンビニ『141』へと向かった。店番をしている小さなボンプが、早朝の眠気に耐えるようにピコピコと耳を揺らしている。アルトはおどおどとした不器用な態度でレジへと向かい、棚の隅に置かれていた、市販の安価なグレーの染髪剤を静かに購入した。
染髪剤の入ったビニール袋を抱え、アルトは六分街のさらに奥、誰も立ち入らないような寂れた公衆トイレの個室へと滑り込んだ。鍵を閉め、小さな鏡の前に立つと、薬品を開封して不器用に混ぜ合わせ、黄金に染まった一房にだけ丁寧に、慎重に薬剤を塗布していく。市販のツンとした独特の薬品臭が狭い個室に満ちていくが、脳内のマナカはそれがお気に召さないのか、不快そうに声を尖らせた。
『本当に嫌な匂い。あなたがそんな無粋なもので、せっかくの美しい光を覆い隠してしまうなんて、私はとても悲しいわ、アルト。なぜありのままのあなたを新エリー都の人間たちに見せつけてあげないの? 誰もがあなたの気高さに平伏するわ』
(ボクは、誰にも平伏してほしくなんてないよ。ボクはただの、冴えない青年、アルトだ。新エリー都のエージェントや治安局に目を付けられたら、あの元凶を追うことができなくなってしまう。だから、ボクはこの灰色の中に隠れていなきゃいけないんだ)
アルトは鏡を見つめたまま、一言一言を噛み締めるようにマナカに応じた。讃頌会の尻尾を掴み、始まりの主へと辿り着くためには、今はまだ牙を隠し、世界に溶け込む必要があった。
時計の針が静かに進み、指定の時間が経過した。アルトは洗面台の冷たい水で丁寧に薬剤を洗い流し、携帯用のタオルで前髪を乾かしていく。
再び鏡の前に立った時、そこには、昨日『Random Play』のドアを叩いた時と全く同じ、完璧に均整の取れたプラチナシルバーの灰髪を持つ、気弱そうな放浪の青年の素顔が戻っていた。黄金の輝きは薬品の膜の下へと完全に覆い隠され、一見しただけでは、ホロウを文字通り一瞬で消し飛ばしたあの規格外の使い手であるとは、誰も見破ることはできない。
「……よし。これで、大丈夫だ」
アルトは小さく息を吐き出すと、グレーのパーカーのフードを再び目深に被り直した。前髪を隠し、視線を落とせば、新エリー都のどこにでもいる、少しおどおどとした冴えない迷い人の完成だった。
完璧なカモフラージュを終えたアルトは、公衆トイレを後にした。すっかり夜が明けて眩しい朝の陽光が降り注ぎ始めた六分街のストリートを歩きながら、彼はこれからの情報収集と新エリー都での生活の拠点をどうするか、静かに考えを巡らせていた。
「これ以上、アキラさんたちに甘えるわけにはいかない。でも、六分街に留まる必要はある……」
アルトが選んだのは、六分街の路地裏の奥にひっそりと佇む、格安の古びた宿屋だった。剥げかけた壁紙と使い古されたベッドがあるだけの狭い一室だが、人目を避けて潜伏するにはこの上なく好都合な場所だった。アルトは懐の数少ないディニーを払い、当面の寝床を確保する。
しかし、当然ながら放浪の身である彼の貯蓄は底を突きかけていた。これからの毎日の宿代、長剣の錆を防ぐための最低限の手入れ道具、あるいは日々の飲食費を稼がなければ、情報収集どころか新エリー都で生きていくことすらままならない。
「……やるしかないな。ホロウに関する仕事なら、ボクでも役に立てるはずだ」
アルトは、ホロウ調査協会などの公的な組織に所属せず、新エリー都の非公式な裏ルートでホロウ内の資源やエーテル結晶を回収して生計を立てる無法者たち――『ホロウレイダー』となることを決意した。新エリー都において、ホロウレイダーを名乗るのに公的な認可やライセンス、ブローカーによる登録手続きなどは一切必要ない。ホロウへ潜り、己の力で資源を持ち帰る実力があれば、自身でそう自称するだけで、誰もがその瞬間からホロウレイダーとなるのだ。
アルトは宿屋の狭いベッドの上に腰掛け、自身の携帯端末を取り出した。画面の明かりが、フードの奥の灰色の瞳を静かに照らす。彼は新エリー都のホロウレイダーたちも利用する、無法地帯の匿名のネットワーク掲示板へとアクセスした。
不器用な手つきでキーボードを叩き、彼は自身の携帯端末から、『新人ホロウレイダー』として臨日の依頼募集という形で直接書き込みを投稿した。
『【依頼募集】新人ホロウレイダーです。六分街周辺の一般的なホロウでのエーテル結晶の回収、または未調査区域の簡単なマッピングなど、生活費(宿代・飲食費)程度でどんな雑用でも請け負います。実戦経験は一応あります。条件の合う方はメッセージをください』
文章を何度も読み返し、彼本来の気弱さや自信のなさがそのまま滲み出た、不器用で必死な文章になっているのを恐る恐る見返して、緊張しながら送信ボタンを押す。ホロウ内に直接足を踏み入れるこの募集は、当面の生活費を稼ぐためであると同時に、新エリー都で暗躍する狂信組織『讃頌会』の足跡や残滓に直接触れるために、彼が選び取った最も効率の良い手段だった。
――同じ頃。
新エリー都の中心部を滑るように走る、最高級カスタム車の遮音性に優れた後部座席。
室内のスピーカーからは、新エリー都でその名を知らない者はいないポップアイコン、『アストラ・ヤオ』の、まだ世界の誰も聴いたことのない未発表のニュー・アルバムの楽曲が、弾けるような重低音とともに大音量で流れていた。
「――っ、あはは! このベースライン最高! すっごくテンション上がっちゃう!」
ふかふかの座席の上で、長い足を無邪気にパタパタと揺らしながら、新曲のリズムに合わせて楽しそうにハミングしていたのはアストラ自身だった。新エリー都の巨大なビルボードを埋め尽くし、世界中のファンを熱狂させるその端正で麗しい容姿。ステージの上で見せるまばゆいオーラそのままに、私生活における彼女は、型に嵌まることを何よりも嫌う、どこまでも自由奔放で無邪気な少女そのものだった。
だが、現在のアストラを取り巻く状況には、少々いつもと違う事情が発生していた。
普段、彼女の身の回りを鉄壁の布陣で統率し、影のように付き従っている有能なマネージャー兼ボディガードである『イブリン』が、重要な他エリアへの出張のため、数日間新エリー都を離れることになったのだ。イブリンという厳しいお目付け役がいなくなったことで、アストラの周囲には一時的に、最高の「
「イブリンが出張で行っちゃうなんて、私に『自由に遊んでおいで』って言ってるようなものだよね! チャンス、チャンス!」
アストラは悪戯っぽく瞳を輝かせ、綺麗に整った唇の端を大きく持ち上げると、スマート端末を片手におもちゃ箱をひっくり返すように、裏社会の人間たちが集まる無法地帯の非公式掲示板をスクロールし始めた。イブリンが戻ってくる前に、誰も知らない内緒の「大冒険」を進めるため、彼女は自分の我が儘や思いつきにどこまでも付き合ってくれそうな、しがらみのない野良のホロウレイダーをワクワクしながら探していたのだ。
画面を埋め尽くすのは、虚勢と自慢話に満ち満ちていたホロウレイダーたちの自己アピール。誰もが己の派手な戦績や、治安局の追跡を巻いた自慢話をこれでもかと並べ立てている。それらを「うーん、どれも普通でつまんないなぁ」と退屈そうに指先でフリックしていたアストラの動きが、ふと、一つの奇妙な新規投稿の前でピタリと止まった。
「……ん? 何、これ」
アストラは画面に顔を近づけ、そこに並んだ不器用な文字列を、宝物を見つけた子供のように目を丸くして追いかけていく。
『新人ホロウレイダーです。……生活費(宿代・飲食費)程度でどんな雑用でも請け負います。実戦経験は一応あります。条件の合う方はメッセージをください』
それは、誇張と欺瞞に満ちた裏社会の掲示板において、異様なほどに異質で、驚くほど自信のなさそうな、おどおどとした放浪者の性格がそのまま滲み出た不器用な紹介文だった。 並み居る凶悪なレイダーたちの書き込みと比べれば、あまりにも冴えなくて、埋もれてしまいそうな初心者の文章。この人物が本当にすご腕なのか、それとも言葉通りのただの雑用係なのかは、この短いテキストだけでは到底判別などつかない。
――だが、アストラの持つ、理屈を超越したピュアで天才的な直感が、その瞬間に激しく脈動した。彼女の指先が、画面の中のその不器用な数行に対して、強烈に「これだ!」と、磁石に引き寄せられるように指し示していたのだ。
「あはは、おっかしい! この人、本当にすご腕なのかどうかは全然分かんないけど……私の長年の感が、この人こそ最高の相棒になるってめちゃくちゃ叫んでるの!」
遮音された高級車の後部座席に、アストラの無邪気で、鈴を転がすような鈴やかな笑い声が響いた。
新エリー都のどんな高名なエージェントや、大手事務所お墨付きのプロたちの派手なプロフィールを眺めても全くピクリとも動かなかった彼女の自由奔放な好奇心が、この新人ホロウレイダーのたった数行の書き込みに対して、理由のない確信とともに爆発的に呼び覚まされていた。
「理由は分かんないけど、私の直感が『キミだ』って言ってるんだから間違いなし! イブリンが出張のこの最高のタイミングでこんな面白い人に出会うなんて、私ってやっぱり世界一運がいいかも!」
アストラは新曲の再生をパッと停止すると、溢れるエネルギーのまま画面の返信ボタンをタタッとタップした。彼女の細く美しい指先が、正体を隠す時に使用するアカウントを通じて、アルトの投稿へ向けて直接、プライベートな依頼の申し込みメッセージを送信する。
「うん、決めた! キミに決めたよ、新人さん。アストラの内緒の特別ステージ、特等席で案内してもらうんだからね!」
新エリー都のトップスター、アストラ・ヤオが放った、無邪気で自由奔放な一通の秘密の依頼。 安宿の狭い部屋で携帯端末を握り締め、宿代と飲食費を稼ぐための最初の返信を待っていた放浪のホロウレイダー、アルトは、自分の人生を大きく変えることになるその通知のバイブレーションを、まだ知らない。
始まりの主を追う孤独な騎士と、新エリー都の光を一身に浴びる自由奔放なトップスター。 お互いの真の目的と裏の顔を隠したまま、二人の運命は六分街の混沌としたストリートを挟み、今まさにこれ以上ないほどにスタイリッシュに、そしてドラマチックに交錯を開始しようとしていた――。