新エリー都の最先端のカルチャーと流行が交錯する中心地、ルミナスクエア。
高くそびえ立つ近代的な高層ビルの壁面には、色鮮やかな巨大ホログラムやビルボードがひしめき合い、表のストリートには洗練されたシティライフを謳歌する人々や、最新のガジェットを載せたボンプたちが絶え間なく行き交っている。だが、そんなまばゆい喧騒から何本か細い回廊を外れた、高層ビルの狭間に隠れたエリアは、日中でも直射日光が遮られ、普段はあまり人通りが少ない静かな裏路地となっていた。
ひっそりとしたビルの通用口のエントランス付近。アルトはグレーのパーカーとフードを限界まで深く被り、借りてきた猫のように小さくなって佇んでいた。
手元の携帯端末の画面には、裏掲示板のプライベートメッセージで指定された、この人目を避けた待ち合わせ場所と、依頼主のユーザー名が表示されている。
「……『混沌のチャーハン』、さん……?」
アルトは端末を見つめたまま、不器用にこめかみを押さえて、おどおどと首を傾げた。
宿代と飲食費を稼ぐために投稿した新人ホロウレイダーの募集に、最初に届いた記念すべき依頼。生活費に困っていたアルトにとっては救いの神のような連絡だったが、そのあまりにも独創的で不可思議なネーミングセンスには、どこか言葉にできない圧倒的な不安を覚えざるを得なかった。どんな恐ろしい裏社会の人物が来るのだろうかと、アルトの心臓はさっきから緊張で小さく跳ね続けている。
「ねえ、キミが掲示板の新人くん?」
突如として、人通りの途絶えたビルの影から、弾けるような明るく澄んだ少女の声が降ってきた。高級カスタム車から身軽に降り立ち、誰の目にも触れないよう素早く滑り込んできたその足取りは、驚くほど軽やかだった。
「ひゃいっ!? は、はい、そうです……!」
アルトは驚きのあまり情けない声を上げながら、大慌てで振り返った。
そこに立っていたのは、目元に大きめの黒いサングラスをかけただけの、驚くほどに華やかでスタイル抜群の少女だった。アストラ・ヤオを知る人が見れば一瞬でバレてしまうような、サングラスだけのあまりにも無邪気で薄い変装。しかし、変装のつもりなのだろう本人はいたって堂々としており、衣服の隙間から放たれる圧倒的なオーラは、どう見ても新エリー都のトップスターその人だった。
だが、生まれてからずっと世界の片隅を孤独に放浪し、最近この新エリー都へ辿り着いたばかりのアルトは、世界の芸能界や流行のトップアイコンに関する世間の常識を、驚くほどに全く持ち合わせていなかった。
「あ、の……ボクの書き込みを見てメッセージをくださった、『混沌のチャーハン』さん、でしょうか……?」
「そうそう! 私のこと、混沌のチャーハンって呼んでいいよ! 掲示板の名前、すっごく強そうで美味しそうでしょ?」
アストラはサングラスの奥の瞳を悪戯っぽく輝かせ、自由奔放な笑みを浮かべて胸を張った。 アルトは彼女のあまりにも無邪気な態度に戸惑いつつも、フードの奥の灰色の瞳で、目の前の少女をじっと見つめた。彼女が世界的な大スターであるとは夢にも思わなかったが、ただ、新エリー都のどんな派手なネオンの光すらも霞んでしまうほどの、息を呑むようなその美しさに、純粋に圧倒されてしまっていた。
(……すごく、綺麗な人だな……)
アルトが心の中で、一点の邪念もなく素真な感嘆を抱いた、その瞬間だった。
『――ねえ、アルト。どうしてそんなにあの女の人を見つめているの? 』
彼の頭の奥底で、鈴を転がすような、どこまでも優しくおっとりとした、けれど背筋が凍りつくほど無垢なマナカの囁きが響き渡った。
『――綺麗な人だなんて。私の王子様にそんな無価値な言葉を言わせるなんて、可哀想だけど……その瞳、抉り潰してあげたくなっちゃう。キミに決めた、だなんて……あのアストラとかいう小娘、少し図々しすぎるわ。ねえアルト、あなたの世界のすべては私だけで満たされていればいいの。あなたを愛して、讃えて、その身を捧げていいのは私だけ。だからお願い、今すぐあの女の人を私の刃で、綺麗に、跡形もなくバラバラに引き千切らせて……?』
(静かに、静かにしてくれマナカ……! 彼女はボクの大切な依頼主なんだ。ここで騒ぎを起こしたら、宿代どころか今日のご飯も食べられなくなってしまう……!)
脳内でどこまでも可憐に、けれど狂気的な全肯定の愛を囁くマナカを、アルトは冷や汗を流しながら必死に心の中で宥め、なだめた。
「うん、やっぱりキミに決めて大正解! その困ったようなおどおどとした顔、すっごく私のインスピレーションを刺激するかも!」
アルトの内心の冷や汗など気にも留めず、アストラは無邪気にステップを踏むようにしてアルトの距離を詰めると、楽しそうに本題を切り出した。
「実はね、イブリンっていう私の厳しいマネージャーが出張でいないのをいいことに、次のニュー・アルバムの制作に繋がる最高の『インスピレーション』を探しに行きたいの! だから新人くん、私のボディガードとして、六分街の地下に繋がる伴生ホロウを特等席で案内してよね!」
「ええっ!? ホ、ホロウに……ですか!? でも、あそこは一般の人が気軽に行くような場所じゃ……」
「大丈夫、大丈夫! だからすご腕のレイダーさんを雇ったんだもん。私の安全はキミに全部お任せね! さあ、大冒険の始まりだよ、出発!」
アストラは自由奔放にそう宣言すると、アルトの返事を待つこともなく、クルリと身を翻して六分街の地下配管セクターへと繋がるホロウの境界線へ向かって、楽しそうに走り出してしまった。
「あ、あの! 待ってください、チャーハンさん……! チャーハンさんってば!」
アルトは慌ててテックウェアのパーカーをはためかせ、背中に無骨な布で巻かれた長剣『エクスカリバー』を揺らしながら、彼女の後を必死に追いかけた。
数分後。二人は空間が歪み、空気中に紫色のエーテル粒子が薄く結晶化し始めている、六分街地下の伴生ホロウの内部へと足を踏み入れていた。
通常の人間であれば、長居すれば肉体のエーテル侵食が徐々に進行していく死の迷宮。アルトはホロウレイダーとしての初仕事、そして何よりも目の前の一般人の少女を守るボディガードとして、極限まで神経を尖らせて慎重に立ち回ろうとしていた。周囲の物陰にエーテリアスが潜んでいないか、足元に危険な結晶化のトラップがないか、彼は細心の注意を払ってルートを確認する。
――しかし、彼のそのプロフェッショナルな慎重さは、同行するアストラの圧倒的なお転婆っぷりの前では、完全に無力だった。
「わあぁぁ! 見て見て新人くん! このエーテル結晶、紫色でライトアップされててすっごくステージ映えしそう!」
「ちょっと、チャーハンさん! そっちの結晶は侵食の危険が――って、いない! チャーハンさん何処ですか!?」
アルトが危険を警告しようと一瞬だけ視線を外した隙に、アストラは既にそこにはいなかった。焦ったアルトが辺りを見回すと、彼女ははるか前方の崩落したコンクリートの基礎の上によじ登り、無邪気にポーズを取っている。
「私、この崩れた壁の反響音、新曲のイントロに使えるかも! 叩くとどんな音がするかな?」
「危ないです! 勝手に進んじゃダメですってば……!」
アルトは本来の気弱でおどおどとした性格のまま、彼女の自由奔放で予測不可能な動きに完全に翻弄され、右往左往するしかなかった。注意してもアストラは「はーい!」と元気よく返事をするだけで、次の瞬間にはまた別の気になるものを見つけて、おもちゃ箱をひっくり返すようにどこかへ駆けていってしまう。
(……うぅ、なんてお転婆娘なんだ……。案内人のプロキシもないのに、こんなに自由にホロウを動き回る人、初めて見たよ……)
アルトは心の中で完全に辟易し、ため息を吐き出しそうになっていた。だが、彼は長剣の重みを背中に感じながら、自身の不甲斐なさを自制するように首を振った。
(ダメだ、諦めちゃいけない。これはボクが宿代と食費を稼ぐための、大切な仕事なんだ。それにボクが目を離して、彼女が本当にエーテリアスに襲われてしまったらどうするんだ!……しっかりしろボク!)
アルトはおどおどとした佇まいを維持しながらも、絶対に彼女から少し離れた距離を維持しつつ、彼女の影のように必死に付き従い続けた。
しかし、探索を開始してから数十分が経過した頃、アストラは不満そうに整った唇を尖らせ、コンクリートの瓦礫に腰掛けた。
「うーん……。なんか今回の探索、思ったより普通だなぁ。綺麗な結晶はいっぱいあるけど、私の魂を揺さぶるような、新しい楽曲に繋がるインスピレーションが全然湧いてこない。退屈、退屈ー」
アストラは気怠げに足を揺らしながら、サングラスを指先で弄り、ホロウの景色に飽きてしまったかのように息を吐いた。
その、アストラが完全に緊張感を欠き、アルトからも数メートルほど離れた無防備な状態の、一瞬の隙だった。
キィィ、と大気中のエーテル粒子が不気味に凍りつくような、微かな異音がホロウの闇に響いた。アストラが腰掛ける瓦礫の背後、濃密な紫黒の霧の深淵から、大気と同化して隠れ潜んでいた数匹のエーテリアスたちが、音もなくその悍ましい姿を現したのだ。怪物たちは、何も気づかずに退屈そうにしているアストラの背後に向けて、その鋭い結晶の爪を、電光石火の速さで伸ばそうとしていた。アストラは、背後に迫る死の脅威に全く気づいていない。
――だが、その凶行がアストラに届くより、遥かに早く。
ドクン、とアルトの胸の奥で、言語化できない原初的な『直感』が爆発的に脈動した。それは、彼の肉体に密かに起きている変化の影響による、世界の本質や危機の兆候を完璧に察知する宿命的な超感覚だった。封印の内側から発せられたその絶対的な確信が、アルトの身体を思考よりも早く突き動かす。
「――チャーハンさん、動かないで!!」
先ほどまでの気弱でおどおどとした放浪者の気配が、嘘のように一瞬で消滅した。
アルトは地面を力強く踏み締めると、人間業とは思えない電光石火の踏み込みで、アストラと怪物の間の空間へと滑り込んだ。背中から引き抜かれた長剣『エクスカリバー』。八の拘束をその身に宿した通常状態のままでありながら、アルトは一切の躊躇なく、白銀のエーテルエネルギーを刀身へと極限まで収束させた。
剣身を覆っていた古びた布の隙間から漏れ出た不可視の圧縮風が暴風となって吹き荒れ、アルトの灰色の髪が激しく風に逆立つ。
「ハァァァッ!!」
鋭い呼気とともに放たれた、限界まで洗練された流麗な一閃。
白銀の光を纏った圧倒的な斬撃の残光が、ホロウの闇を白昼のように切り裂き、迫り来るエーテリアスたちの巨躯を、肉眼では捉えきれない超高速の美技によって未然に完全に塞ぎ、一刀両断にした。
ズザァァァン……!!!
怪物の質量ごと空間を切り裂いた一撃の衝撃波が走り、襲撃を企てていたエーテリアスたちは、アストラの身体に触れることすら許されず、跡形もなく光の塵となってホロウの闇へと完全に消滅していった。
あまりにも一瞬の出来事だった。
アルトは何事もなかったかのように、流れるような美しい動作で長剣を背中へと収めると、その刹那、溢れ出ていた圧倒的な風格は嘘のように霧散し、いつもの肩をすくめた「灰髪灰瞳の気弱な青年」の佇まいへと瞬時に戻っていった。
「あ、あの……チャーハンさん、お、お怪我はありませんか……? びっくりさせてしまって、ごめんなさい……」
アルトはおどおどとした丁寧な声で、顔を真っ赤にして恐縮しながら、恐る恐るアストラの様子を窺った。
だが、瓦礫の上でサングラスを少しだけずらしたアストラは、アルトの問いかけにすぐには答えなかった。彼女の端正で麗しい瞳は、今まさに自分の目の前で世界の原則を書き換えるような圧倒的な美技を披露し、構造的にまた気弱な姿に戻ったこの謎多き新人ホロウレイダーの背中へと、完全に、釘付けになっていた。
退屈だと言い放った彼女の胸の奥で、昨晩のいかなるトラックの重低音をも遥かに超越する、未だかつてないほどの激しい『インスピレーション』が、狂おしいほどに鳴り響き始めていた。