静寂がホロウの闇を支配していた。
数匹の凶悪なエーテリアスが一瞬にして光の塵へと還り、その残光が完全に消え去った後も、アストラ・ヤオは瓦礫の上に腰掛けたまま、完全に言葉を失って呆然と立ち尽くしていた。サングラスを小さくずらしたその麗しい瞳は、目の前の「冴えない新人ホロウレイダー」の背中に、釘付けになったまま動かない。
しかし、そんな彼女の視線に気づいたアルトは、流れるような動作で長剣『エクスカリバー』を鞘へと収めると、瞬時にいつもの肩をすくめた気弱でおどおどとした放浪者の佇まいへと戻ってしまった。
「あ、あの……チャーハンさん、お、お怪我はありませんか……? びっくりさせてしまって、ごめんなさい……」
顔を真っ赤にして恐縮しながら、申し訳なさそうに頭を掻くアルト。その様子を見たアストラは、ようやくハッと我に返ったように深く息を吸い込むと、弾けるようなエネルギーとともに瓦礫から飛び降りた。
「――っ、すごーい!! 何それ、今のめちゃくちゃ格好いいわ!!」
アストラは瞳をキラキラと輝かせ、アルトの目の前で無邪気に両手を叩いて大絶賛し始めた。
「あんな一瞬で、しかもあんなに綺麗にバケモノたちを片付けちゃうなんて、私、本当にびっくりしちゃった! キミ、やっぱりただの新人なんかじゃないよね!? 最高、最高にイケてるわ!」
「ひゃいっ!? い、いえ、そんな……ボクなんて、ただ、ちょっと実戦経験があるだけで……。チャーハンさんが無事なら、それで、本当によかったです……」
予想を遥かに超えたトップスターからの熱烈な大絶賛に、アルトは激しく困惑し、完全に動転してしまった。彼はパーカーのフードをさらに深く引っ張りながら、顔を真っ赤にしておどおどと視線を彷徨わせる。生まれてからずっと孤独に放浪し、他者からこれほど真っ直ぐに褒められた経験の乏しいアルトにとって、アストラのピュアな言葉は、ただただ照れくさくて心臓に悪かった。
だが、アストラはそんな彼の困惑など全く気に留めず、真剣な、それでいてどこか恍惚とした表情を浮かべてアルトの顔を覗き込んだ。
「ねえ、聞いて、新人くん。私、今の一瞬で、すっごい『インスピレーション』を得ちゃったの!」
「え……? い、いんすぴれーしょん、ですか……?」
アルトはさらに大困惑して首を傾げた。彼としては、大切な依頼主である一般人の少女に魔の手が迫っていたから、ボディガードとして必死に剣を振るっただけに過ぎない。それがなぜ、彼女の言う「インスピレーション」に繋がるのか、世間に疎いアルトには完全に理解の範疇を超えていた。
「そうだよ! 私の魂がね、ドクンドクンってめちゃくちゃ激しく鳴ってるの! これ、絶対に次の新しい楽曲の核になる最高の刺激! ああ、もう、じっとしてられない!」
アストラは自由奔放なピュアなパッションに突き動かされるまま、アルトのテックウェアの袖をぎゅっと力強く掴んだ。
「ねえ、もっとキミの輝きを私に見せて! このまま、もっとホロウの奥まで探検を続行しちゃおう! さあ、次のステージへ突撃!」
「ええっ!? だ、ダメです、チャーハンさん! 離してください……っ!」
アルトは慌てて抵抗し、彼女の強引な牽引を必死に止めようとした。普段なら依頼主の我が儘にある程度は従うべきだと自制するアルトだったが、今回はボディガードとして、そしてホロウの危険性を知る者として、絶対に譲れない一線があった。
「チャーハンさん、落ち着いて聞いてください。ボクたちの今回のホロウ探検、もうかなりの時間を使っています。ほら、見てください、大気のエーテル粒子の色が少し変わってきて、外はもうすぐ日が暮れそうなんです。夜のホロウは、今よりもずっと危険が跳ね上がります……! だから、もし続きをやるとしても、やるなら明日です……!」
アルトは自信のなげな声を必死に張り上げ、大真面目な顔でアストラを諭した。宿代と飲食費を稼ぐための仕事とはいえ、彼女の命を危険に晒すわけにはいかない。その真っ直ぐな説得の眼差しに、アストラは掴んでいた袖をパッと離すと、不満そうに整った唇を大きく尖らせた。
「えー……。明日までお預けなんて、私不満だなぁ……。せっかくいいトラックが頭の中に浮かんできそうなのに……」
アストラは退屈そうに地面を蹴り、ブツブツと文句を言っていたが、アルトのどこまでも真剣でおどおどとした態度に免じて、やがては「はぁーあ」と小さくため息を吐いた。
「しょーがないなぁ。新人くんがそこまで言うなら、今日のところは渋々承諾してあげる。私、物分かりのいい女の子だからね!」
「あはは……ありがとうございます、チャーハンさん。分かってくれて、本当によかったです……」
アルトはホッと胸を撫で下ろし、苦笑いを浮かべながら、彼女の安全を確保しつつゆっくりとホロウの境界線の外へと脱出した。
ホロウを出ると、ルミナスクエアの裏路地には、アルトの予言通りに美しい夕暮れの茜色の光が差し込んでいた。ビルの狭間に落ちる影が、一日の終わりを告げている。
「それじゃあ、チャーハンさん。本日の探検はこれで終わりということで、ボクはこれで……」
アルトが丁寧にお辞儀をし、今日の宿代を稼げた安堵感とともに別れの挨拶を口にしようとした、その瞬間だった。
「――げっ!?」
突如として、アストラの口から、トップスターらしからぬぎょっとした短い悲鳴のような声が響き渡った。
「えっ? あ、あの、何事ですか、チャーハンさん……?」
アルトが驚いて聞き返すと、アストラは自身の携帯端末を、まるで爆弾でも握らされているかのように、ガタガタと両手で震わせながら見つめていた。その画面には、緊急の着信インジケーターが血のように赤く点滅している。
「……来るわ。新人くん、大変。ついに、あの『鬼』が来るわ……!!」
アストラはサングラスを完全に跳ね上げ、恐怖に引き攣った深刻極まりない表情で、ぽつりと呟いた。
「お、鬼……!?」
アルトは驚愕し、思わず彼女の言葉をそのままオウム返しに復唱した。
彼の脳内で、それまで静かにしていたマナカが、おっとりとした、けれどどこか嬉しそうな声音で頭の奥に這い寄ってくる。
『――ふふ。ねえ、アルト。鬼、だって。おもしろいね。新エリー都には、そんな不細工な怪物がストリートを歩いているの? もしその鬼が、私たちの邪魔をしようとする悪い怪物なら……可哀想だけど、私の刃で、綺麗に細切れにして殺してあげようね……?』
(マナカ、不謹慎なことを言わないでくれ……っ!)
アルトが心の中で大焦りしていると、アストラは「ええ、そうなのよ!」と激しく相槌を打ちながら、その『鬼』の正体について、いつになく真剣な面持ちで語り始めた。
「あの鬼はね、本当に恐ろしい存在なの。私の大切な自由(サボり時間)を、容赦なく根こそぎ奪い去っていく……言わば、この世界の『悪(社会)』の手先そのものよ……!!」
「ええっ……!! 世界の、悪の手先……!?」
アストラのその、天真爛漫な普段の様子から完全にかけ離れた、悲壮感すら漂う真に迫った言葉の数々。
世間の常識や、アストラ・ヤオが「事務所をサボって大冒険をしていたトップスター」であるという背景を全く知らない純粋なアルトは、彼女の言葉を額面通りに完全に受け止めてしまい、「新エリー都の裏で、彼女の自由を奪い、世界を脅かそうとする本物の悪の組織の怪物が、今まさにここへ襲撃にやってくるのだ」と、壮大な勘違いをしてしまった。
「そ、そんな恐ろしい存在が、チャーハンさんを狙って……!? それは、冗談なんかじゃありませんね……! 早く、早くこの場から離れましょう、チャーハンさん! ボクが貴女を絶対に守って、安全な場所へ連れていきますから!」
アルトはいつもの気弱さをどこかへ吹き飛ばし、大真面目な正義感と焦燥感を瞳に宿して、アストラの腕を引いて逃走を図ろうとした。アストラは彼のその純粋すぎる大勘違いに「えっ、あ、いや、そういう意味じゃ……」と一瞬固まりかけたが……。
「――随分と、楽しそうな『大冒険』をされていたようですね、お嬢様」
突如として、薄暗い裏路地の奥から、氷の刃のように冷徹で、極めて理性的な大人の女性の声が、凛と響き渡った。感情の起伏を一切排した、テキパキとした軍人のような、どこまでもドライな敬語。
「ひゃいっっ!?」
その声音が鼓膜に届いた瞬間、アストラの身体が、まるで凍りついたかのように完全に硬直して動かなくなった。
コツン、コツン、コツン――。
人通りの途絶えたビルの狭間のコンクリートに、一定の完璧なプロフェッショナルのリズムを刻みながら、硬質なハイヒールが歩みを進める音が裏路地に冷たく響き渡る。アルトはその音の鋭さに、背筋に走るただならぬ緊張感を察知し、おどおどと視線を音の先へと向けた。
夕暮れの影の向こうから、一点の隙もない鉄壁の佇まいで姿を現したのは、タイトでスマートなプロフェッショナル・スーツスタイルを完璧に着こなした女性――アストラのマネージャー兼ボディガードである、『イヴリン』の姿だった。
彼女は出張を電光石火の速さで終わらせ、我が儘なトップスターの単独行動の位置情報を完璧に補足して先回りしていた。感情を表に出さず、ただ防衛任務を淡々と遂行する、冷徹でドライな彼女の周囲には、文字通りの完璧な『プロの防壁』としての威圧感が渦巻いていた。
「他エリアへの出張業務は先ほど16時30分をもちまして完了いたしました。お嬢様が私の不在に乗じて未認可のホロウレイダーを雇用し、不正規のホロウへ侵入したログは、すでに私の端末へ同期されております。これより、本日の防衛任務およびスケジュール遅延の修正を執行いたします」
「い、イヴリン……。出張、終わるの、早すぎない……?」
アストラは恐る恐る振り返り、引き攣った笑顔で、完全に蛇に睨まれた蛙のようになっていた。アルトは彼女を背後に庇うように立ち塞がりながらも、目の前の「鬼」と称されたイヴリンが放つ、理性的で徹底してドライなプロフェッショナルのオーラに、ただただ圧倒されて硬直するしかなかった――。
夕暮れの茜色の光が、ルミナスクエアの細い裏路地に長い影を落としていた。
タイトでスマートなスーツスタイルを完璧に着こなした女性、イヴリンは、感情を一切排した理性的で冷徹な眼光を、アストラを背後に庇うように立ち塞がるアルトへと向けた。彼女の周囲には、事実と任務を淡々と遂行する完璧なプロフェッショナルとしての、静かな威圧感が満ちている。
「お初にお目にかかります。私はイヴリンと申します。お嬢様のマネージャー、および身辺警護を兼任している者です。これより、お嬢様の不正規なスケジュール行動を修正し――」
「――待ってください、イヴリンさん」
イヴリンが淡々と事務的な自己紹介を進めている、まさにその途中だった。アルトはいつもの気弱さをどこかへ置き忘れたかのような、極めて真剣で、真っ直ぐな声音で彼女の言葉を遮った。
「ボクは、チャーハンさん……いえ、彼女からキミの正体をすべて聞いています。キミが彼女の自由を奪い、世界を脅かそうとする『鬼』であり、容赦のない『悪の手先』なのだと」
「……は?」
イヴリンの完璧なポーカーフェイスが、そのあまりにも斜め上すぎるアルトの糾弾によって、一瞬だけピキリと凍りついた。
静まり返る裏路地。イヴリンはゆっくりと眼鏡の位置を直すと、冷徹な瞳の奥に隠しきれない「静かなる怒り」を宿し、フッと微かな含み笑いを漏らした。感情を表に出さない彼女にしては、これは極めて珍しい拒絶の兆候だった。
「なるほど。お嬢様は、この純真無垢なレイダーにそのような『デタラメ』を吹き込んでおられたのですか」
「ゲ、ゲゲッ……」
その背後で、アストラはサングラスを完全に落とし、顔を引き攣らせて冷や汗を流しながら苦笑いを浮かべていた。さすがの自由奔放な彼女も、アルトが自分の大袈裟な表現(サボりの言い訳)を100%額面通りに受け止めて、最強のボディガード相手に大真面目に宣戦布告するとは夢にも思っていなかったのだ。
だが、この世界の常識やアストラの「サボり癖」という背景を全く知らない純粋なアルトは、現在の不穏な状況を完全に別の意味で誤認していた。
「チャーハンさん、大丈夫です。安心してください。ボクがここにいる限り、貴女を誰にも奪わせはしません」
アルトはゆっくりと半身を引き、背中の長剣の柄へと手をかけた。その瞬間、彼の細く引き締まった体躯から、これまでの冴えない放浪者の気配が完全に霧散する。それは、ただ立っているだけで周囲の空間を支配してしまうかのような、極限まで無駄を削ぎ落とした超一流の剣士だけが持つ圧倒的な気品とまばゆい輝きだった。長剣を覆う泥まみれの布から漏れ出る白銀の気配が、夕暮れの路地裏に凛として溢れ出す。
その、誰の目にも麗しく気高い王子様のようなアルトの輝きに、彼の頭の奥底で、どこまでも可憐で、けれど背筋が凍りつくほど無垢なマナカの囁きが響き渡った。
『――ねえ、アルト。すごく素敵。誰にも奪わせはしない、だなんて。そんな格好いい愛の誓いを口にするあなた、本当に私の大好きな王子様そのもの。でもね……アルト。どうしてそれを、私以外の女の子のために言っちゃうの? 誰にも奪わせないのは、私のことだけでいいのに。あなたを愛して、あなたの世界のすべてになって、あなたの言葉を独り占めしていいのは私だけ。そんな泥泥しい女の人のためにあなたが傷つくなんて可哀想だから、私、あの人たちを今すぐ私の刃で、綺麗に、優しく、粉々に噛み砕いて殺してあげたくなっちゃった。ねえ、いいよね、アルト……?』
(静かにしてくれ、マナカ……! ボクは、誰も傷つけたくないんだ……っ!)
アルトは心の中で、脳内の狂える少女の嫉妬心を必死に宥めながら、イヴリンに向けて凛とした声を響かせた。
「イヴリンさん、ボクは貴方と戦いたくはありません。……どうか、ここから退いてください」
「……っ」
そのアルトの、ただの野良レイダーとは思えない美しく洗練された佇まいと、先ほどホロウ内で自分を助けてくれた時の姿が、アストラの脳裏で完全に、一つに重なり合った。
退屈だと言い放った彼女の胸の奥で、再び激しい『インスピレーション』が爆発する。アストラの天才的なお転婆としての閃きが、この最高にドラマチックな状況を前にして、悪ノリのスイッチを全力で押し下げてしまった。
(うわぁ……! 何これ、最高に格好いい! これ、私の次のアルバムの完全なメインテーマになるチャンスじゃん! イヴリン、私の最高の楽曲の犠牲になってね。心の中でだけど、ちゃーんと謝っておくから!)
アストラは瞬時に瞳を潤ませると、悲壮感すら漂う完璧な「囚われのお姫様」の演技を開始した。
「う、ううっ……! そうよ、新人くん! このイヴリンという鬼は、本当に恐ろしいの……! 私が少しでも自分の思い通りに動こうとすると、容赦なく私の自由を奪って、冷たい漆黒の
「な、何だって……!?」
アストラが語る「サボりに対するいつものマネージャーとしての当然の制裁(連れ戻しと仕事)」の数々。しかし、彼女の天才的な表現力によって、それはまるで『悪の組織による非道な拷問と監禁』のような恐ろしい所業へと完全に脳内変換され、アルトの耳へと届けられた。
「なんて、なんて非道なことを……!」
純粋で、どこまでも正義感の強いアルトの胸の内に、激しい義憤の炎が燃え上がった。目の前で可哀想に怯えている(演技をしている)アストラを守るため、アルトは一切の躊躇なく、背中から古びた布に包まれた長剣『エクスカリバー』を正しく引き抜いた。
ギィィン、と白銀のエーテル粒子が刀身の表面を覆うように脈動し、鋭い風切り音が裏路地に渦巻く。
一方、アストラのいつもの悪ノリと、完全にその悪質な芝居に騙されている純粋すぎるアルトの様子を冷徹に見つめていたイヴリンは、感情を排した顔のまま、アストラに向けて凍りつくような極低音の声を放った。
「――お嬢様。この『茶番』が終わりましたら、今後の全スケジュールを3倍に過密化いたします。……相応の覚悟をしておいてくださいね」
「ひゃっ……!?」
イヴリンの、背筋を完全に凍りつかせるような冷徹な警告に、アストラは思わず本気で小さく悲鳴を上げた。
イヴリンは感情を表に出さないまま、心の中で深く、深く辟易としてため息を吐いていた。出張帰りの疲弊した身体で、なぜこのような悪質なサボり魔の悪ノリ(茶番劇)に付き合わされ、挙句の果てにホロウレイダーと直接対決を演じなければならないのか。
だが、完全に義憤に駆られて白銀のエーテルを編み上げているアルトの瞳は、これ以上の対話を一切拒絶している。イヴリンは、この目の前の青年との戦闘がもはや避けられない事態であることを理性的に悟った。
「やむを得ませんね。これより、お嬢様の不正規行動の排除、および障害となるレイダーの『無力化タスク』を淡々と遂行いたします」
イヴリンはテキパキとした軍人のような動作で構えを取り、感情を完全に排したドライなプロフェッショナルの眼光でアルトを見据えた。
お互いの正体と真実が完全にすれ違ったまま、夕暮れの不気味な裏路地で、放浪の騎士と最強のマネージャーによる、絶対に対決不回避の戦いの火蓋が、今まさに切って落とされようとしていた――。