ルミナスクエアの狭いビルの隙間に、夕暮れの茜色が最後の残光を投げかけていた。
薄暗い裏路地の空気は、一瞬にして刺すような緊張感によって張り詰め、アスファルトの上に溜まった名残雨の水面が、二人の放つ異なるエーテル粒子のプレッシャーによって小刻みに震え始める。
「これより、お嬢様の身柄確保、および障害となるホロウレイダーの『無力化』を執行する」
イヴリンの声には、戦闘を前にした高揚も、アルトへの個人的な敵意も一切含まれていなかった。ただ事実と防衛任務のみを遂行する、冷徹で理性的な軍人のような敬語。
タイトでスマートなプロフェッショナル・スーツに身を包んだ彼女の身体が、コンクリートの影へと滑り込むようにして、一瞬でその場から音もなく『消失』した。
「――っ!?」
アルトのフードの奥の灰色の瞳が、驚愕に小さく見開かれる。
気弱でおどおどとした放浪者の外皮を完全に脱ぎ捨て、超一流の剣士としての極限の集中力を発揮しているアルトの動体視力をもってしても、イヴリンの初動は完全に視界から遮断されていた。新エリー都のいかなる正規エージェントとも異なる、影そのものに溶け込むかのような徹底された隠密の『暗殺術』。
直後、アルトの鋭い直感が、頭上からの致命的な死の兆候を完璧に察知した。
キィィン――。
肉眼では到底捉えきれない、完全に目に見えない極細の特殊合金ワイヤーが、蜘蛛の巣のように裏路地のビルの壁間に張り巡らされ、夕日の光を弾いて一瞬だけ微かに明滅する。イヴリンはその目に見えないワイヤーワークを完璧に足場として利用し、重力を完全に無視した三次元的な制動から、アクロバティックな体術へと瞬時に移行した。
アルトを冷徹に無力化するため、死角から音もなく死の手刀を振り下ろしてくる。その無駄のない体術の軌道は、まさに命を冷酷に刈り取る暗殺者のそれだった。
「ハッ……!」
アルトは鋭い呼気とともに半身を翻し、引き抜いた長剣『エクスカリバー』の刀身でその手刀を受け止めた。
ギィィン!!!
鋭い金属音が裏路地に響き渡る。だが、イヴリンの目的はアルトの完全なる無力化。戦闘スタイルはそれだけでは終わらない。アクロバティックな空中機動から着地した瞬間、彼女の細い指先が、空間に張り巡らされた目に見えないワイヤーの束をピアノの鍵盤を叩くように鮮やかに操った。
目に見えない合金ワイヤーが生き物のように収束し、アルトの四肢を絡め取って身動きを完全に封じるための、極めて合理的かつ容赦のない波状攻撃。
シュン、シュババババッ!!!
肉眼では視認不可能な速度で空間を細切れにするワイヤーの包囲網が、避ける間もなくアルトの身体を縛り付けようと襲いかかる。
「ぐ、うぅっ……!?」
アルトの身体がワイヤーの強烈な引き込みによって後退し、アスファルトの水を激しく跳ね上げる。
イヴリンの戦闘スタイルには、一切の無駄な芝居も、手加減も存在しない。お嬢様の悪ノリに付き合う形での戦闘であり、アルトの正確な実力はまだ完全には見抜いていないものの、長年の過酷な防衛任務の経験が、彼女の理性の奥底で激しく警鐘を鳴らし続けていたのだ。この冴えない灰色の中に潜む、得体の知れない不気味さ。だからこそ、イヴリンは最初から彼を最も確実に排除・無力化するための、一切の油断を排したアクロバティック体術を淡々と繰り出していた。
すかさず、後退したアルトの首筋を刈り取ろうと、イヴリン自身が目に見えないワイヤーを蹴り、宙で華麗に身を翻しながら強烈な旋風脚を叩き込みにかかる。
だが、その絶体絶命の包囲網の中心で、アルトの灰色の瞳は、冷徹なまでに静かに澄み渡っていた。
(……すごい。ただの一般人じゃない。この人の戦い方には、一切の迷いがないんだ。……でも、ボクだって、ここで負けるわけにはいかない……っ!)
アルトは長剣を正しく両手で構え直した。あの強力すぎる力を解放する必要など、目の前のプロフェッショナルに対する礼儀としても、自身の自制としても不要だった。
彼はただ、内に秘めた純粋な、極限まで無駄を削ぎ落とした超一流の剣士としての「技の美」だけで、この最強のボディガードの猛攻をすべて凌ぎきる覚悟を決めた。
ドクン、と刀身から白銀のエーテル粒子が静かに、しかし濃密に沸き立ち、長剣を正眼に構える。
その瞬間、彼の頭の奥底で、鈴を転がすような、どこまでも可憐で甘く、けれど悪魔の囁きのように酷く冷徹なマナカの声音が、恍惚とした歓喜とともに響き渡った。
『――ああ……! なんて愛おしいのかしら、アルト。その傷だらけになりながら、懸命に誰かを守ろうと努力するあなたの姿、私、息が止まるほどに大好きよ。ふふ、あの小賢しいワイヤーや体術を前に、必死に剣を振るうあなたのきらめき、本当にいつまでも眺めていたくなっちゃう……。でもね、アルト。そんなに頑張らなくても、本当はいいのよ? ねえアルト……もっと、もっとその剣の力を引き出してみて? ほんの少し、あなたが私を求めて力を望んでくれるだけで、こんなお人形みたいな女の人のお洋服ごと、その綺麗な首を一瞬で消し去ってあげられるのに。さあアルト、私のすべてのエーテルをその刃に流し込んであげるから……もっと、もっと私を求めて、世界をあなたの光だけで染め上げて……?』
(マナカ、絶対に彼女を傷つけたりはしない。ボクはただ、チャーハンさんを守るために、この人の攻撃をいなすだけだ……っ!)
アルトは心の中で脳内の悪魔の誘惑を強く跳ね除けると、襲い来るアクロバティックな体術とワイヤーの嵐に向かって、真っ直ぐに踏み込んだ。
肉眼では視認不可能な速度で空間を細切れにするワイヤーの軌跡。しかし、アルトの放った白銀の一閃は、それらすべての目に見えない合金ワイヤーを、ミリ単位の狂いもなく正確に刀身の先端だけで弾き、切り払い、無力化していった。
長剣を一振りするたびに、裏路地に美しい白銀の光の弧が描かれ、イヴリンがアルトの無力化のために張り巡らせた鉄壁の暗殺網が、嘘のようにパラパラと音を立てて切断されていく。
「何……っ?」
イヴリンの感情を排した無機質な瞳に、初めて明確な「驚愕」の色が走った。
ただの野良ホロウレイダーのつもりだった。長年の経験による警戒心から全力のワイヤー暗殺術を放ったというのに、それらが初見で、それも洗練された一振りの片手半剣の技量だけで完璧に捌ききられた事実。イヴリンは即座に合理的な判断を下し、空中からの暗殺機動を中止。地上での絶対的な防衛と、アルトを直接無力化する肉弾戦へと切り替え、タイトなスーツからは想像もつかない俊敏さでアスファルトを蹴り、アルトの懐へと肉薄した。
目に見えないワイヤーの反動を利用した、人間の骨格を一撃で粉砕する容赦のないアクロバティックな近接体術。
だが、アルトはその重厚な蹴りの一撃を、避けるのではなく、長剣の刀身を滑らせるようにして『
コツン、とアルトの長剣の先端が、イヴリンが次のワイヤーを放とうとした指先に優しく、的確に触れた。
瞬間、刀身に収束されていた白銀のエーテル粒子が一気に弾け、凄まじい衝撃波となってイヴリンの構えを完璧に崩しにかかる。
「く……!!」
イヴリンの強靭な身体が、初めてその場から大きく弾き飛ばされた。彼女はタイトなスーツの裾をはためかせながら、ハイヒールでコンクリートを削るようにして着地し、荒い息一つ乱さずに再び鋭い構えを取る。だが、彼女の内心は、冷徹な理性が警鐘を鳴らすほどの驚天動地の大混乱に陥っていた。
(信じられない……。信じがたいほど無駄のない身のこなし。それでありながら、私の暗殺術とワイヤー体術のすべてが、まるで子供の手遊びであるかのように完全に先読みされ、美しくいなされている。……私の警戒は正しかった。この青年、一体どれほどの修羅場を潜り抜ければ、これほどまでに洗練された『技の極致』へと至るというのだ……!)
イヴリンが理性的な驚愕に硬直する、その傍ら――。
「――っ、あ、あははははは!! 凄い、凄い、凄すぎるよ新人くん!!」
裏路地のゴミ箱の影から、サングラスを完全に放り投げたアストラ・ヤオが、両手を狂おしいほどに激しく叩きながら、大興奮で叫び声を上げていた。
彼女の目の前で繰り広げられる、イヴリンの容赦のないワイヤー暗殺術と、それを息を呑むほどに美しい白銀の美技だけで完璧にいなし、完璧に崩してみせた謎の放浪剣士の絶技。
特等席で繰り広げられるその最高にスタイリッシュで、これ以上ないほどにドラマチックなバトルの光景。アストラのピュアで天才的な脳内には、昨晩のいかなるスタジオの重低音をも遥かに超越する、至高のニュー・アルバムのメインメロディが、爆発的な奔流となって溢れ返っていた。
「私の直感はやっぱり世界一正しかったわ! あの一閃、あのステップ、あの眩しすぎる輝き! ああ、もう頭の中で最高のトラックが鳴り止まない! 新人くん、キミ、本当に最高の私の『インスピレーション』だよ!! ねね、その調子で、あの
アストラは頬を紅潮させ、自由奔放なパッションを爆発させながら、興奮のあまりついつい余計な本音まで口を滑らせて満面の笑みで言い放った。
「…………え?」
その瞬間、アルトの手の動きがピタリと止まった。
彼はイヴリンとの距離を保ったまま、長剣を流れるように鞘へと収めると、その刹那、裏路地を支配していた圧倒的な風格は嘘のように消え失せ、いつもの肩をすくめた「灰髪灰瞳の気弱な青年」の佇まいへと瞬時に戻っていく。
「あ、あの……チャーハンさん、今……サボって大冒険を続けられる、って言いました……? 漆黒の拘束具とか、地下の監獄での過酷な儀式って、もしかして……ただの、お仕事のレコーディングの話……なんですか……?」
アルトはおどおどとした丁寧な声のまま、顔を真っ赤にして唖然としながら、信じられないものを見るような目でアストラを見つめた。すべては「世界を脅かす悪の手先からお姫様を守る」という大真面目な義憤による大いなる勘違いであったと自身の口から気付かされ、天地がひっくり返るほどの大混乱と虚脱感に襲われて、その場に呆然と立ち尽くすしかなかった。
一方、お嬢様の興奮による痛恨の口滑りによって「茶番」が完全にめくれたことを確認したイヴリンは、静かに残るワイヤーを解除した。彼女の瞳の奥には、アルトに対する深い畏敬の念と、そして何よりも――悪ノリで戦闘を泥沼化させた元凶に対する、極限まで冷徹に研ぎ澄まされた「静かななる怒り」の残光が、不気味に宿っていた。
「……タスクの遂行を一時中断します。お嬢様、ご自身の口からすべての『真実』が自白されましたね」
イヴリンは淡々とスーツの乱れを直すと、ゆっくりとアストラの方を振り返った。その冷徹な視線が突き刺さった瞬間、先ほどまで大はしゃぎしていたトップスターの身体が、再びピキリと凍りつくことになる。
「お嬢様。これにて本日の『サボり時間』は完全終了です。彼を巻き込んだ悪質な芝居のペナルティとして、明日からのスケジュールは5倍に過密化、徹夜のレコーディング儀式を3日連続で執行いたします。……よろしいですね?」
「ひゃいっっ!? 3日連続!? ごめんなさいイヴリン、私……つい口が滑って悪ノリが過ぎました……っ!」
最強のマネージャーからの、感情を一切排した理路整然たる「本当の恐怖の制裁」を突きつけられ、アストラは今度こそ本気で顔を青くしてガタガタと震え出した。アルトは自分の壮大すぎる大勘違いへの恥ずかしさと混乱のあまり、夕暮れの裏路地でただ一人、顔を真っ赤にして頭を抱え込むしかないのであった――。