ルミナスクエアの薄暗いビルの狭間に、完全に気まずい沈黙が流れていた。
夕暮れの茜色の光が、アスファルトの水溜まりに反射して歪に明滅している。
アルトは両手で顔を覆ったまま、その場から一歩も動けずに完全に硬直していた。フードの奥の耳元までが、恥ずかしさと混乱のあまり真っ赤に染まっている。
漆黒の拘束具はただの高級車のシートベルト。地下の監獄は防音スタジオ。精神が崩壊する過酷な儀式はただの徹夜のレコーディング。目の前の少女が口を滑らせた「サボり」という単語が、彼の脳内で何度も不条理にリフレインしていた。
(……ボク、なんて取り返しのつかない大勘違いを……。悪の手先だなんて、そんなこと大真面目な顔で言って……っ!)
あまりの羞恥心に、アルトは今すぐその場に穴を掘って背中の長剣ごと埋まりたい衝動に駆られていた。
そんな彼の壊滅的な混乱を、イヴリンは感情を一切排した理性的でドライな眼光で見つめていた。彼女は自身のスーツの袖口をテキパキと直すと、じっと見つめ、アルトの不器用な佇まいと、彼が先ほど見せた圧倒的な絶技の残光を淡々と分析した。
(……お嬢様の悪質な虚言に完全に踊らされていたとはいえ。私の張り巡らせた目に見えない特殊合金ワイヤーを完璧に切断し、体術をすべて初見でいなしてみせたあの技量。……そして何より、見ず知らずの人間を命懸けで守ろうとした、あの真っ直ぐすぎるほどの正義感の強さ……)
イヴリンはまだアルトの真の強さの全容や秘密を知る由もなかったが、長年の防衛任務で培ってきたプロとしての経験と野性的な本能が、目の前の冴えない青年に「言語化できない底知れなさ」と、確かな信頼性を同時に感じ取っていた。
「レイダーの青年。君に、一つ提案がある」
イヴリンの感情を排した、テキパキとした軍人のような敬語が、裏路地に響いた。
「ひゃいっっ!? は、はい……なんでしょうか、イヴリンさん……っ」
アルトは驚きのあまり情けない声を上げながら、大慌てで頭を下げた。大真面目に刃を向けてしまった相手からの呼びかけに、彼は恐縮して縮こまるしかない。
「お嬢様の悪質な虚言に付き合わされたことには同情する。だが、君の実力とお嬢様を守ろうとしたその正義感の強さは本物であると、私の経験から高く評価したからこそ提案させてほしい……現在、非常に厄介な案件を抱えており、君のその腕前を必要としている」
イヴリンはポケットから携帯端末を取り出すと、テキパキとした手つきで画面を操作しながら、冷徹な声で事実を語り始めた。
「近日、新エリー都内で予定されている、お嬢様の次回の大規模ライブ公演。……実はその会場の近辺において、最近、裏社会の無法者たちや、彼らと繋がっている危険性の極めて高い悪質なホロウレイダーたちが、何やら不穏な暗躍を目論んでいるという確度の高い噂を耳にした。私は今回の公演はリスクが大きすぎると判断し、お嬢様には公演を直ちに中止、あるいは延期するべきだと何度も厳しく忠言したのだが……」
イヴリンはそこで一度言葉を区切ると、深く、感情を排したため息を吐き出した。
「……私の忠言を一切聞かないお嬢様によって、その公演は無理矢理に決行されることが決定してしまった。私の実力だけでは、それら不穏分子からお嬢様を100%守り抜くことは、少々懸念が残る。そこで、今回の新エリー都内での公演会場において、実力の高い臨時のボディガードとして、君を正式に雇い入れたい。……これが私からの提案だ」
「ええっ……!? こ、公演の、臨時ボディガード……ですか……?」
アルトはさらに大困惑して首を傾げた。しかし、イヴリンが口にした『裏社会の無法者たちの暗躍』という言葉を聞いた瞬間、フードの奥の灰色の瞳に、かすかな警戒の光が宿った。
(無法者たちの不審な動き……。もしかしたら、ボクが新エリー都で追っている讃頌会と、何か関係があるのだろうか……。まだ情報は少なすぎるけれど、この街のホロウの裏で暗躍する連中が関わっている可能性は捨てきれないな……)
アルトは長年の孤独な旅で培ってきた慎重な思考を巡らせた。現時点では曖昧な推測に過ぎないが、アストラという少女の身辺に近づけば、自分が追うべき宿命の尻尾を掴むきっかけになるかもしれない、という淡い予感だけは確かに存在していた。
「……受諾していただける場合、報酬としてこちらの
イヴリンが提示した電子画面の金額を見た瞬間、アルトの灰色の瞳が、驚愕のあまり完全に点になった。
それは、彼が六分街の安宿で毎日の宿代や食費、長剣の手入れ道具の費用に困って、必死に不器用な紹介文を投稿していたのが馬鹿らしくなるほどの、目玉が飛び出るような法外な大金だった。これだけの莫大なディニーがあれば、当面の生活費どころか、新エリー都で孤独な追跡を続けていくためのこれからの活動資金が、余裕で賄えてしまうことは明白だった。
「ちょっとちょっとイヴ! 私の臨時の相棒を勝手にスカウトしないでよ!……って、えっ、それって次の私のステージでも、キミが私のボディガードとしてあのキラキラを見せてくれるってこと!?」
アストラはスケジュール5倍の制裁に青ざめていたはずなのに、イヴリンの提案を聞いた瞬間、再び自由奔放に瞳を輝かせてアルトに飛びついた。
「賛成、大賛成! キミが会場で私を守ってくれるなら、どんな怖いバケモノが来たってへっちゃらだし、最高のライブになるわ! さあ決まり、契約書にサインしちゃって、新人くん!」
「あ、あの、チャーハンさん、離してください……っ! ボクのような、ホロウレイダーが、そんな大役なんて……」
アルトはアストラの無邪気な猛アタックに完全に大焦りし、完全に動転してしまった。
彼の頭の奥底では、おっとりとした少女の声音に、激しい狂信の炎を燃え上がらせたマナカの囁きが、再び静かに響き渡る。
『――ねえ、アルト。すごくおもしろいね、この女の人たち。私の王子様をお金で釣ろうだなんて、本当に不愉快だわ……。ねえアルト、そんなお金なんて、私の力があればこの新エリー都の金庫ごと、ぜーんぶあなたの足元にひっくり返してあげられるのよ? だから、あんな小娘の盾になんてならないで。どうしてもその契約を受けるっていうなら……可哀想だけど、あのアストラって女の子が、二度とあなたを誘惑できないように、私がその喉を優しく切り裂いて、綺麗な歌声が出ないように壊してあげるね……?』
(マナカ、絶対にそんな真似はしないでくれ……っ! ボクはこの街で、自分のすべきことを成し遂げなきゃいけないんだ。そのためには、この仕事は、これ以上ない助けになるんだから……!)
アルトは心の中で脳内の悪魔の誘惑を必死に宥めながら、冷や汗を流して契約端末を見つめた。莫大な報酬という現実的な生活の助け、そしてもしかしたら自分の目的にも繋がるかもしれないという選択。悩むアルトであったが、その圧倒的な条件の良さに背中を押され、この提案に応じる覚悟を決めた。
「……わかり、ました。ボクで、本当にお役に立てるか分かりませんけど……その、公演会場での警護の仕事、お引き受けします……」
アルトは緊張で震える指先で、電子端末の署名欄に『アルト』と不器用にサインを記入した。
イヴリンは感情を排したまま、テキパキと契約用の電子画面を切り替えると、流れるような事務的動作で話を次のステップへと進めた。彼女はスーツの内ポケットから、暗号化された極秘のデータストレージを取り出し、アルトの携帯端末に公演に向けた大量の防衛資料を転送し始めた。
「契約完了だ。契約の完了に伴い、これより公演に向けた具体的な業務資料の説明、およびブリーフィングへと移ろう。君の端末へ、当日の会場の3Dセキュリティマップ、お嬢様の動線、および周辺のホロウ侵食警告セクターの配置図を同期した」
アルトの端末が激しくバイブレーションを上げ、膨大なページ数の防衛資料データが次々と展開されていく。イヴリンは画面をスクロールさせながら、極めて淡々とテキパキとした口調で説明を続けた。
「公演当日の主要任務は、会場裏のバックステージ、および楽屋周辺の局所的な哨戒だ。現在会場近辺には複数の非合法なホロウレイダーたちの不審な動向が観測されており、会場のバックヤードへの不正侵入が実行される可能性がある。君には、私の死角となるエリアの防衛、および万が一の際のお嬢様の護衛を担当してもらいたい。詳細なスケジュールとシフト表、想定される脅威のリストはそちらの資料に網羅されているから、明日までに完全に頭へ入れておいてほしい。……何か質問はあるか?」
「え、あ、いえ……! わかりました、ちゃんと、読んでおきます……っ」
あまりにも徹底されたプロの防衛資料の綿密さと、イヴリンの実務的なテキパキさに、アルトはただただ圧倒されながら何度も深く頷いた。
その時、アストラがいたずらっぽくほくそ笑みながら、アルトのグレーのパーカーのフードを、無邪気にクイッと引き下げた。
「あはは! 契約したんだから、もう『チャーハン』さんじゃなくて、アストラ・ヤオってちゃんと呼んでよね、新人くん!」
フードが払われ、茜色の夕日に照らされたアルトのプラチナシルバーの灰髪が、美しく風に踊った。
アルトが何気なく顔を上げ、裏路地のビルの隙間から見える、六分街の大通りへと視線を向けた、まさにその瞬間だった。
街頭に設置された巨大な
『新エリー都が誇る絶対的ポップアイコン、アストラ・ヤオ、待望のニュー・アルバムに合わせた新エリー都特別公演が遂に今月開催決定――!』
スクリーンの大音量のニュース音声が、ルミナスクエアのストリートに響き渡る。
アルトは、その巨大ビルボードに映し出された世界一華やかなトップスターの顔と、いま自分の目の前でサングラスを外して「にひひ」と無邪気に八重歯を覗かせている、自称『混沌のチャーハン』の少女の素顔を、何度も、何度も交互に見比べた。
「…………え? えええええええええええっっっ!?!?!?」
裏路地に、アルトの天地がひっくり返るほどの大混乱に満ちた絶叫が響き渡った。
生まれてからずっと世界の片隅を孤独に放浪し、流行の常識を全く持っていなかったアルトは、ここにきてようやく、自分がただの「お転婆な一般人の女の子」ではなく、この新エリー都で知らない者はいない本物の超有名トップスターをホロウから案内し、さらにそのマネージャーに剣を向けていたという、恐るべき真実に完全に気づいてしまったのだ。
「あははは、やっと気づいたかしら? 遅いわよ、新人くん!」
アストラはアルトの大混乱っぷりを見て、おもちゃ箱をひっくり分けたように、無邪気で鈴を転がすような笑い声を上げてはしゃぎ回った。
アルトは恥ずかしさと混乱、あるいはあまりの重大任務へのプレッシャーの限界に達し、顔を真っ赤にして頭を抱え込んだまま、夕暮れのルミナスクエアの裏路地でただ一人、完全に呆然と立ち尽くすしかないのであった――。