きらびやかな重低音と、数万人もの観客が放つ熱狂の地鳴りが、遠くの壁越しに微かな振動となって伝わってくる。
新エリー都の巨大な屋内アリーナのバックステージ。関係者以外は一切の立ち入りを禁じられた、最高級の設備を誇るアストラ・ヤオの専用楽屋裏の一角は、表のステージの華やかさとは一線を画す、独特の緊張感に包まれていた。
「あ、の……チャーハンさん……いえ、アストラさん。やっぱり、ボク、こんな格好をする必要は、本当にないと思うんです……」
大きな姿見の鏡の前で、アルトは首元に回された上質な漆黒のネクタイを不器用に引っ張りながら、消え入りそうな声で抗議していた。
彼が現在着替えさせられているのは、アストラ専属のプロのスタイリストたちによって、完璧なフィッティングと仕立てが行われた最高級の黒のテーラードスーツスタイルだった。職人たちの見事な手際によって、仕立ての良い柔らかな生地がアルトの細く引き締まった見事な体躯を包み込み、いつもの泥まみれの放浪者としての姿を跡形もなく隠し去っている。
「だーめ! 抗議は却下。キミさ、せっかく元の素材がすっごく良いんだから、ちゃんとオシャレしなきゃ絶対に勿体ないわ」
スタイリストたちが手際よくアルトの衣装を整えるのを、横で楽しそうにワクワクしながら眺めていたのは、本日の主役であるアストラ自身だった。すでにライブ用のまばゆい衣装に身を包んだ彼女は、ステージに立つ前の完璧な、そして世界を魅了する美しい素顔を露わにしていた。アストラはまるで新しいおもちゃを手に入れた子供のように瞳をキラキラと輝かせ、自由奔放に笑いながらアルトの肩をポンと叩いた。
「いつものあのグレーのパーカーも可愛くて好きだけど、今日の特別公演は私にとっても、私の音楽にとっても最高に特別なステージなんだよね。だから、私の特等席にいてくれるボディガードくんにも、世界一イケてる格好をしてもらうって、私、心の中でちゃんと決めてたのよ」
「う、うぅ……でも、ボク、こんなに上等な服を着たことなんて一度もありませんし、なんだか身体が落ち着かなくて……足がすくんでしまいそうです……」
アルトは顔を真っ赤にして、借りてきた猫のようにおどおどと肩をすくめた。
そんな二人のやり取りを、楽屋のデスクの前に直立した姿勢のまま、テキパキとセキュリティ端末のチェックを行っていたイヴリンが、感情を一切排した理性的で冷徹な眼光で静かに見つめた。彼女自身は見目の麗しさやファッションといった主観的な要素には全く関心を持っていなかったが、今回の件に関しては、お嬢様の奔放な思いつきに対して、極めて理路整然とした視点から肯定的な判断を下していた。
「アルト。お嬢様の突飛な思いつきを差し引いても、今回のスーツスタイルの着用は警護任務上、極めて合理的だ。本日の会場には、私を含め、スーツスタイルで統一された公式の警備陣が数十名配置されている。その中にいつもの君の格好の姿で突立っていれば、それだけで異様に目立ち、不審者として治安局や協会の巡回回線に即座に検知されるリスクが生じる。……余計なトラブルを避けるためにも、受け入れてくれ」
「イヴリンさんまで……。あはは、わかりました。……そこまで防衛のために必要だと言うなら、ボク、渋々ですけど、頑張って着ます……」
イヴリンの冷徹でドライな正論を突きつけられ、アルトはこれ以上の抵抗は無理だと悟り、不器用に小さく息を吐き出して観念した。
アストラは「にひひ、物分かりが良くて偉いわ!」とはしゃぎながら、最後の仕上げと言わんばかりに、スタイリストに合図を出して、アルトが目深に被っていたパーカーのフードを完全に払い除けさせた。
ネクタイが完璧な位置で締められ、黒い仕立ての良いジャケットが彼の長い両腕に綺麗に収まった、まさにその瞬間だった。
「――っ」
「……」
楽屋の中に、同時に、短い息を呑むような静寂が訪れた。
姿見の鏡の前に立っていたのは、いつもの気弱でおどおどとした冴えない放浪者の気配を奇跡的にカモフラージュされた、一人の気高き青年の姿だった。フードの下から完全に露出した新雪のような透明なプラチナシルバーの灰髪。高級なスーツの漆黒の色彩が彼の端正な素顔と、長い手足の完璧なプロポーションを極限まで引き立てている。ただそこに静かに立っているだけで、冷たいコンクリートの楽屋裏が、まるで由緒正しい回廊へと変貌してしまったかのような、息を呑むほどの絶対的な気品とまばゆい輝きが、そこに満ち満ちていた。
アストラは口を半開きにしたまま、驚愕のあまり完全に言葉を失ってアルトの姿をじっと見つめていた。イヴリンもまた、手元のセキュリティ端末を操作する指をピタリと止め、感情を表に出さない冷徹な瞳に、長年の経験から得た強烈な感嘆の色を静かに走らせていた。その鋭い双眸が、アルトの劇的な変貌を克明に捉えている。
「う、うわぁ……! すごい……すごすぎるよ、新人くん……!!」
アストラは頬を紅潮させ、思わず感嘆の声を上げながら、何度もアルトの周囲をぐるぐると回り始めた。
「キミ、やっぱりただのホロウレイダーって感じしないわ。私の直感、本当に毎回天才的すぎるわ。その格好、なんだか……うん、まるでどこかのお城から迷い込んできた、本物の王子様みたいだよ!」
「ひゃいっっ!? お、王子様、だなんて……! そんなの、アストラさん、からかわないでください……っ!」
アストラからのあまりにもストレートで無邪気な揶揄いに、アルトは天地がひっくり返るほどに大焦りし、完全に動転してしまった。彼は顔を耳の裏まで真っ赤に染め上げると、上質なスーツの裾を不器用に握り締めながら、おどおどと視線を彷徨わせて小さくなって恐縮する。彼の中に眠る底知れない実力とは裏腹に、その身にまとうのはどこまでも純粋で、極限まで無駄のない洗練された超一流の剣士としての輝きのみであり、彼自身の本質はどこまでもピュアで、自信のなさそうな優しい青年そのものだった。
だが、そのあまりにも美しい王の如き輝きに、彼の頭の奥底で、おっとりとした少女の声音に極限の狂信を孕ませたマナカの囁きが、狂ったように、けれどどこまでも嬉しそうに響き渡った。
『――ああ、アルト。綺麗。本当に素敵、私の王子様。その漆黒の仕立て服、あなたの気高さを引き立てていて、私、息が止まるほどに大好きよ。ふふ、あの小娘が王子様みたい、だなんておねだりするように囁くの、本当に可愛くて……抉り潰してあげたくなっちゃう。ねえアルト、あなたのその眩しい騎士の姿を見つめていいのは私だけ。あなたにひざまずいて、その手を引いていいのも、私だけなのよ。だからお願い、今すぐあの女の人たちを私の刃で、綺麗に、綺麗にバラバラにして殺してあげましょう……?』
その、耳元で可憐に囁かれる甘美な悪魔の誘惑。
アルトにとって、この脳内に居座るマナカという存在は、いつ周囲の無関係な人間を巻き込んで暴発するか分からない、理不尽で制御不能な怪物に他ならなかった。だが、アルトの心に恐怖の文字は存在しない。彼はただ、無用な惨劇を未然に防ぐため、冷静に、かつ徹底して理性的にマナカの特異な性質をコントロールすべく、静かに心の中で言葉を紡いだ。
(マナカ、落ち着くんだ。……ボクはただ、周囲に溶け込むためにこの慣れない黒い服を着ているだけに過ぎない。誰かにこの身を委ねるつもりなんて、最初から一切無いよ。今日はボクの、この新エリー都での大切な任務だ。ここでこれ以上の不必要な破壊を行えば、ボクたちの目的そのものが頓挫してしまう。だから……今はその刃を収めてくれ。ボクの隣で、静かに事の顛末を見届けていてほしい)
『……ふふ。アルトったら、そうやっていつも私に理屈を並べて。でも、いいわ。大好きなあなたのお願いだもの。今日のところは、私だけのあなたのために、おとなしく特等席で見届けてあげる。……だけど、私のこと、絶対に忘れたりしちゃダメだからね?』
アルトの揺るぎない、けれど静かなる言葉の制止に、マナカは底知れない狂気を孕んだ吐息を微かに漏らしつつも、ひとまずは納得したように大人しく頭の奥底へと引き下がった。アルトは無駄な暴発を防げたことに静かに息を吐き出すと、鏡の中の自分をもう一度見つめ直した。
不本意な形で王子様のような黒いスーツを纏うことになってしまった放浪の騎士、アルト。 だが、このカモフラージュの奥で、彼の鋭い直感は、新エリー都の華やかな特別公演の裏側で、水面下から確実に這い寄ってきている、正体不明の無法者たちの不穏な悪意の気配を、静かに、冷徹に捉え始めようとしていた――。
◇
屋内アリーナの全域を揺るがすような爆発的な歓声と、五臓六腑に直接響く重低音のビートが、厚い防音壁を容易く透過してバックステージの通路へと絶え間なく押し寄せていた。
アストラ・ヤオの特別公演は、事前の懸念が嘘であったかのように、極めて順調かつ完璧な滑り出しを見せていた。イヴリンが統率する警備陣は一分の隙もない鉄壁の布陣でアリーナの各セクターを固めており、公演の序盤は何のトラブルも起きることなく、平和な時間が淡々と流れていく。
「――よし、これより私はアリーナ東側のAゲート周辺の哨戒へ向かう。アルト、君は予定通り、楽屋裏からバックステージ中央通路にかけての巡回を継続してくれ」
通信インカムから響くイヴリンの簡素で無駄のない指示に、アルトは「わかりました、気をつけて」と短く応じ、仕立ての良い黒のテーラードスーツの襟元を少しだけ直した。
人通りの途絶えた、機材搬入用の巨大なキャットウォークの影。アルトは足音を完全に消したまま、長い通路を静かに歩いていた。
ふと、ステージの袖へと繋がる巨大な遮光カーテンの隙間から、目が眩むほどのまばゆい演出照明の光が漏れ出しているのが見えた。アルトは吸い寄せられるように、その光の隙間からほんの一瞬だけ、数万人もの大観客の前に君臨するアストラの姿を視線に収めた。
「――っ」
その瞬間、アルトは無意識のうちに呼吸を忘れ、その場に縫い付けられたかのように釘付けになってしまった。
そこにいたのは、ルミナスクエアの裏路地で「混沌のチャーハン」を名乗って無邪気にはしゃぎ回っていた、あのお転婆で自由奔放な少女の姿ではなかった。ステージの中心、何条ものまばゆいスポットライトを一身に浴びながら、新エリー都のすべてを魅了するような圧倒的な歌声を響かせる、絶対的なポップアイコン。その堂々たる佇まいと、ピュアなパッションに満ち溢れた本物のトップスターとしてのまばゆすぎる姿に、世間に疎い放浪の騎士であるアルトの心は、純粋な敬意と深い感嘆によって激しく揺さぶられていた。
だが、アルトがそのまばゆい姿にほんの僅かでも目を奪われた、まさにその刹那――。
彼の頭の奥底で、おっとりとした少女の声音に、どろりとした悍ましいまでの狂信の愛を宿したマナカの囁きが、世界を凍りつかせるようなトーンで響き渡った。
『――ねえ、アルト。すごく、嬉しそうだね。どうしてそんなに優しい瞳で、あのステージの上の女の子を見つめているの? あなたのその綺麗な灰色の瞳に映っていいのは、私だけの光のはずなのに。アストラ、アストラ……本当に目障りな小娘。あんな無価値な歌声で私の王子様の心を惑わせるなんて、本当に可哀想だけど……今すぐあのステージごと、観客の人間たちもみんな一緒に、私の刃で細切れにして殺してあげなくちゃ……ねえ、アルト……?』
(マナカ、落ち着いてくれ。ボクはただ、彼女のプロとしての姿に感心しているだけだ。ボクの目的は君と共にある。だから、無関係な人たちを巻き込もうとしないでくれ)
アルトは心の中で、脳内に居座る怪物に向けて、徹底して冷静に、かつ確固たる理性の言葉を淡々と紡いでその暴発を制した。
しかし、運命の不条理はそこで終わらない。
何万人もの大観客を見渡しながら激しく躍動していたアストラが、ステージの袖に佇む黒スーツ姿のアルトの存在に、その天才的な視野で一瞬にして気づいたのだ。彼女は歌声を寸分も乱さないまま、アルトの視線に向けて、いたずらっぽくサバサバとした、けれど最高にチャーミングなウインクをパチンと投げかけてみせた。
『――ねえ、アルト。見てた? 今、あの小娘、あなたに向かって色目を遣ったわよね。私のアーサーをあんな卑しい瞳で誘惑しようなんて、やっぱりあの女、今すぐその首を綺麗にねじ切り落として、二度と不快な歌声が出ないようにバラバラに壊してあげなくちゃ。ねえアルト、いいよね……?』
(マナカ、やめるんだ……っ! 彼女はただの、お茶目な悪ノリをしているだけだ。ボクの心はどこにも移ったりしない。だから、静かにしていてくれ)
マナカの狂おしいほどの独占欲のエーテルが脳髄を直接締め付けるのを、アルトは冷徹なまでの自己制御によって淡々と宥めすかし、怪物の意識をどうにか大人しく頭の奥底へと引き下がらせた。
アルトは乱れた呼吸を小さく整え、再び哨戒任務へ戻るべく通路へと視線を戻した。
――その瞬間、彼の鋭い直感が、前方の薄暗い曲がり角から歩いてくる一人のボディガードの姿を捉え、脳内に激しい不協和音を響かせた。
その男が身に纏っているのは、イヴリンが手配した警備陣と全く同じ、完璧に仕立てられた黒いスーツスタイルだった。身分証の胸章も本物であり、外見だけを見れば何一つ不審な点はない。
だが、長年の孤独な放浪と、数々の死線を潜り抜けてきたアルトの絶対的な超感覚が、その男の歩幅、重心の移動から、明確な悪意の兆候を完璧に察知していた。
(……おかしい。あの人の歩き方、ただの警備員のものじゃない。あまりにも無駄のない歩幅、完全にコントロールされた重心の移動。あれは……かつて無数の戦場を渡り歩いてきたプロの軍人だけが放つ、音もなく獲物の息の根を止めるための冷酷な戦場の気配だ。イヴリンさんの手配した人の中に、どうしてこんな危険な人が……)
アルトはおどおどとした丁寧な佇まいを維持しつつも、男が通り過ぎようとしたまさにその瞬間、人混みから完全に離れた搬入路のエリアで、静かにその前に立ち塞がった。
「あ、の……すみません。ボク、今回の臨時ボディガードのアルトという者です。……念のため、貴方の身分証のコードの再確認を、ここで求めてもよろしいでしょうか」
アルトの声は、いつも通りの気弱で自信のなさそうな不器用なものだった。
男はアルトのその冴えない放浪者のような佇まいを見ると、少しだけ視線を細め、特に怪しむ様子もなく「ああ、構わない。確認してくれ」と心置きなく応じた。
男は胸ポケットから私物や端末を取り出し、アルトに見せるために不器用にバッグの中を漁り始める。
――だが、その男が私物を漁るフリをして、衣服の奥から何かを引き抜こうとした、まさにその一瞬。
ドクン、とアルトの胸の奥で、言語化できない宿命的な『直感』が爆発的に脈動した。世界の本質と危機の兆候を完璧に察知する、彼の中に眠る超常的な感覚。
「――っ!」
私物を漁るフリをしていた男の手が、衣服の裏側から、銃身に特殊な消音サプレッサーを装着した漆黒のハンドガンを、電光石火の速さでアルトの眉間へと突き付けた。男の瞳には、一切の感情を排した冷酷な暗殺者の光が宿っている。
プシュン――ッ!!!
サプレッサーによって極限まで殺音された、けれど確実に空気を引き裂く致命的な凶弾が、アルトの脳天を撃ち抜くべく至近距離から放たれた。
しかし、その弾丸がアルトの肌に到達するより、遥かに早く。
長年の過酷な戦いの経験と、肉体に刻まれた超一流の身体能力が、アルトの身体を思考よりも速く突き動かしていた。アルトは仕立ての良い黒のジャケットを鋭くはたかせる身のこなしとともに、背中から泥まみれの布に巻かれた長剣『エクスカリバー』を、目にも留まらぬ超高速の軌道で引き抜いた。
ギィィン!!!
暗い搬入路の中に、火花とともに鼓膜を鋭く穿つ重厚な金属の衝突音が炸裂した。
アルトが通常状態のまま極限まで研ぎ澄まされた剣技によって放った一閃は、至近距離から放たれた目に見えない銃弾の軌道を、ミリ単位の狂いもなく長剣の刀身の腹だけで完璧に捉え、白銀の火花を散らしながらアスファルトの床へと鮮やかに弾き返していた。
「な……っ!? 銃弾を、剣で……!?」
完璧な暗殺の失敗、何より人間の領域を超越したアルトの洗練されすぎた美技を前に、男は初めてその顔を驚愕と恐怖に大きく引き攣らせた。
アルトは黒いスーツ姿のまま、長剣を正眼に構え直し、フードのないその瑞々しい灰色の瞳に、おどおどとした気弱さを完全に排した、凛とした騎士としての鋭い眼光を静かに宿して、目の前の敵を見据えた――。