暗い搬入路のコンクリートの床に、白銀の火花とともに弾き落とされた一発の弾丸が、カランと虚しい音を立てて転がった。
至近距離から放たれた銃弾を、長剣の刀身の腹だけで完全に完璧に弾き返したアルトの洗練されすぎた絶技。目の前で起きた人間の領域を超越したその超常的な光景に、警備員の黒スーツを纏った男の顔は、一瞬だけ驚愕と恐怖に大きく引き攣った。
――だが、男の瞳から動揺が消え去るまで、一秒の猶予すら必要なかった。
「チッ……化け物め。だが、任務は続行する」
男の口から漏れ出たのは、新エリー都の一般的な無法者や野良レイダーとは明らかに一線を画す、徹底して感情を排した冷酷な軍人の声音だった。
男はすぐさま信じがたい冷静さを取り戻すと、寸分のブレもない冷徹な手つきで再びサプレッサー付きの銃口をアルトの眉間へとピタリと向け直した。躊躇は一切ない。男の指が流れるように引き金を絞り、極限まで殺音された死の凶弾が、今度は連続して暗い通路へと解き放たれた。
プシュン、プシュン、プシュン――ッ!!!
音もなく空間を切り裂き、アルトの急所を的確に穿とうと迫り来る三発の連続射撃。
しかし、アルトの仕立ての良い黒のジャケットに包まれた身体は、まるで最初から弾道が見えているかのように、滑らかな流動の身のこなしで前方に滑り込んだ。引き抜いた長剣『エクスカリバー』。泥まみれの布に巻かれたままの刀身が、薄暗い搬入路の中に美しい白銀の残光を描いていく。
ギィ、ギギィン!!!
アルトが放った極限まで無駄を削ぎ落とした流麗な剣技は、迫り来るすべての凶弾をミリ単位の狂いもなく正確に刀身で捌き、火花を散らしながら左右の壁へと鮮やかに弾き落とした。弾丸を弾くたびに、アルトの足取りは確実に、引いては圧倒的なプレッシャーを伴って暗殺者の懐へと近づいていく。
「――ちぃ!」
銃撃が通用しないと悟った男は、即座にハンドガンをホルスターへと収めると、かつて無数の血生臭い戦場を渡り歩いてきたプロの軍人だけが修得し得る、徹底して無駄のない鍛え上げられた軍隊体術の構えを取った。男の強靭な身体がアスファルトを鋭く蹴り、アルトの顎を砕くべく、完璧にコントロールされた重心の移動から強烈なアッパーカットが音もなく放たれる。
――その瞬間だった。
それまでアルトの身に纏っていた、あの頼りなげで気弱なおどおどとした雰囲気のすべてが、嘘のように一瞬で完全に消え失せた。
長剣の柄を握る両手に微かな白銀の闘気が集中した刹那、彼の灰色の双眸は、見る者の背筋を凍らせるほどに鋭く、冷徹な一人の『剣士』の眼差しへと一変していた。その一分の隙もない圧倒的な戦闘態勢の前では、男の放った致命的な拳の軌道すらも、あまりにも遅く、あまりにも無防備なものに過ぎなかった。
アルトは鋭い眼差しのまま、半身を僅かにずらすだけで男の渾身の一撃を紙一重で回避。それどころか、すれ違いざまに長剣の腹を男の腕の関節へと優しく、大真面目に的確に当て、その凄まじい前進の質量ごと滑らかに『
「が、はっ……!?」
男の構えが完璧に崩れ、コンクリートの床へと倒れ込みそうになる。アルトはその隙を逃さず、流れるような美しい動作で男の背後に回り込むと、剣の柄頭で男のうなじを、寸分の狂いもなく正確に打ち据えた。
ズン……。
脳を直接揺さぶるような静かな衝撃。男の強靭な四肢から一瞬にしてすべての力が抜け落ち、ハンドガンを握ることもできぬまま、あえなくその場に崩れ落ちて無力化された。男の四肢は完璧に制圧され、アルトの鋭い眼差しと圧倒的な絶技の前には、元軍人の実力者すら子供の手遊びのように完封されていた。
男の意識が完全に落ちたことを確認したアルトは、長剣を流れるように鞘へと収めた。その瞬間、全身に満ちていた鋭い剣士の気配は綺麗に消え去り、彼はいつもの肩をすくめた「灰髪灰瞳の気弱な青年」の佇まいへと瞬時に戻っていった。
アルトはハッと我に返ったように乱れた呼吸を小さく整えると、すぐさま胸元に装着された通信インカムへと細い指先を当てた。この会場の公式特級警備陣の中に、明らかに異常な実力を持つ怪しげな男が紛れ込んでいた事実。一刻も早く、リーダーであるイヴリンにこの非常事態を報告しなければならない。
「あ、の、イヴリンさん……! 聞こえますか、イヴリンさん!? こちらアルトです。バックヤードの搬入路エリアで、警備のスーツを着た不審な男を無力化しました。この男、明らかに一般の警備員じゃなくて、プロの――」
ザザ……ザザザザザッ――……。
インカムのイヤホンから帰ってきたのは、イヴリンの理性的でドライな声音ではなく、鼓膜を不快に刺激する耳障りなジャミングノイズだけだった。どれだけチャンネルを切り替えても、完全に通信回線が外部から遮断されている。
「え……? つ、通信が、できない……? どうして……っ」
アルトは予想外の事態に、いつもの気弱でおどおどとした表情に戻って完全に困惑してしまった。
すると、アルトの足元で完璧に全力を奪われ、床に伏していたはずの怪しげな男の口から、低く、どす黒い笑い声が漏れ出た。男の胸ポケットに忍ばされていた、イヴリンたちの公式回線とは全く異なる『専用の秘匿インカム』のインジケーターが、作戦の無事な成功を示す緑色のサインを静かに点滅させていたのだ。
「……く、ふふふ……はははは! 狂い始めたな、新エリー都の無能なTOPSどもめ。通信が繋がらないか? 当たり前だ。すでにこのアリーナの基幹通信サーバーは、我々の部隊によって完全に遮断されている。……お前がどれほどの化け物だろうと、もう手遅れなんだよ」
男は瞳を狂気的に歪ませ、自身の敗北など全く気にも留めていない様子で、不敵に、勝ち誇るように嗤った。
「キミ、一体何をしようとしているんだ……!? アストラさんを狙って、ここで何を……っ!」
アルトはいつになく声を荒らげ、男の胸ぐらを掴んで尋問しようと激しく詰め寄ろうとした。
――その、まさに一瞬の隙だった。
男の血に染まった指先が、衣服の隠しポケットの奥から、不気味な黒い小型の『起動スイッチ』を素早く取り出すのが見えた。
ドクン!!!
その瞬間、アルトの胸の奥で、長年の孤独な放浪の旅の中でも未だかつて経験したことがないほどの、壊滅的なまでの『直感』が脈動した。彼の肉体に刻まれた超常的な超感覚が、頭のてっぺんから爪先までを、息が詰まるほどの強烈な警鐘で支配していく。
(――ダメだ!! あのスイッチを、絶対に、絶対に押させてはならない……っ!!!)
封印の内側から発せられたその絶対的な危機の兆候に、アルトは再びその瞳に鋭い剣士の眼光を宿し、半ば理性を失うほどの焦燥感とともに男の手元へ向けて目にも留まらぬ速さで手を伸ばした。
しかし、元軍人の暗殺者が放った、死を確信した最後の執念の指の動きの方が、ほんの僅かに、早かった。
「――新エリー都に、審判の鉄槌を」
男の指が、不敵な笑みとともに, カチリと黒いスイッチを深く押し下げた。
刹那。
ドオォォォォォンッ!!!!!!
鼓膜を激しく引き裂き、アリーナの巨大なコンクリートの基礎そのものをグラグラと狂ったように揺らす、凄まじい大爆発の爆鳴音と衝撃波が、バックステージの至る所から、同時に、狂暴に鳴り響いた。通路の照明が一斉に弾け飛び、凄まじい黒煙と炎の奔流が、悲鳴を上げる観客たちの熱狂の声を一瞬にして地獄の阿鼻叫喚へと変えながら、バックヤードの全域を瞬時に飲み込み始めた――。
◇
――ザー……ザザザッ……ザザ――。
アリーナ東側、Aゲート周辺のキャットウォークの上で、イヴリンは自身の耳元に装着された通信インカムに細い指先を当て、冷徹な眉を微かにひそめていた。
先ほどまで実務的に同期されていた警備陣の各セクターのログが、唐突に激しいデジタルノイズへと置き換わり、完全に途絶している。チャンネルをミリタリー規格の予備回線に切り替えても、返ってくるのは不快な遮断音だけだった。感情を表に出さないその素顔に、長年の防衛任務で培ってきたプロとしての冷徹な理性が、即座にただならぬ異常事態の発生を伝えていた。
「このインカムの通信不調……これは偶発的な障害ではなく、外部からの意図的な遮断、および
お嬢様の傍を離れているこのタイミングでの、あまりにも不可解で可笑しい状況。イヴリンはすぐさまアストラの元へ駆けつけなければならないと判断し、スマートなスーツの裾を翻して走り出そうとした。
――その、まさに次の瞬間だった。
ドオォォォォォンッ!!!!!!
アリーナの巨大なコンクリート構造そのものを底底から激しく揺るがすような、凄まじい大爆発の爆鳴音と衝撃波が、バックステージの至る所から、同時に、狂暴に鳴り響いた。ビルの壁を伝って押し寄せる爆風がイヴリンの衣服を激しく揺らし、アリーナ内の非常用スプリンクラーと警告灯が一斉に狂ったように作動し始める。
「ッ!アストラお嬢様!」
イヴリンは一瞬の動揺を見せるが、瞬時に冷静さを取り戻し、ミリ単位の無駄もない身のこなしでキャットウォークを飛び降りると、最短ルートを選択してアストラが立っているメインライブ会場へと猛スピードで急行した。
通路を駆け抜け、巨大な遮光カーテンを押し裂いてイヴリンがたどり着いた先。そこで彼女の目に飛び込んできたのは、まさに地獄絵図のような阿鼻叫喚とする数万人の観客たちの姿だった。
アリーナのすべての主要な出入口ゲート付近から、黒煙と激しい炎が激しく噴き上がっている。しかし、冷静なイヴリンの眼光は、その爆発が会場そのものを破壊するためのものではなく、アリーナの外部へと繋がるすべての
ステージの中心では、先ほどまで新エリー都のすべてを魅了する歌声を響かせていたアストラが、マイクを握り締めたまま、あまりの不条理な大爆発に完全に狼狽えて立ち尽くしていた。
「待っていてくださいアストラ――」
イヴリンがアストラの元へと滑り込み、彼女を安全な楽屋裏へ退避させようとした、まさにその時だった。
アリーナを囲むように配置されたすべてのキャットウォーク、そして崩落したゲートの影から、音もなく、けれど圧倒的な統率力をもって、不気味な一団が次々と姿を現した。
彼らが身に纏っているのは、新エリー都の旧式の防衛軍の制服をベースにした、全身を黒系で統一した無骨なタクティカルギアだった。その手には、新エリー都の一般的な無法者や野良レイダーが到底入手できるはずのない、エーテル技術によって極限まで強化された最新鋭の重火力兵器が、鈍い金属光を放って握られている。
完全な武装を施された反乱軍の兵士たちは、一斉にアリーナの観客席へと銃口を向け、地響きのような声音で威嚇した。
「動くな!!! 声を上げた奴から順番に頭を吹き飛ばすぞ!!!」
その容赦のない、戦場で鍛え上げられたプロの軍人の脅し文句の前に、先ほどまでの会場の阿鼻叫喚が、まるで嘘だったかのように一瞬にして水を打ったように静まり返った。数万人もの人間が恐怖によって呼吸を縛られ、ただ銃口を見つめてガタガタと震えている。
静寂に包まれた会場の中心へ向けて、崩落したメインゲートの奥から、一人の男がゆっくりと歩み出てきた。
周囲の黒武装の兵士たちとは明らかに異なる、どこかふざけた、軽薄な口調を隠そうともしない男。男は腰に手を当て、アリーナの花道を我が物顔で歩きながら、ステージの上のアストラの前へと迷いなく向かっていく。彼こそが、このアリーナを完全に支配した反乱軍の部隊を率いる隊長だった。
「いやあ、素晴らしいステージだねえ。私、ずっと貴方のファンだったんだよ、アストラ・ヤオお嬢様?」
隊長は完璧に整ったアストラの顔を見つめ、どこまでも胡散臭い、芝居がかった雰囲気を全身から醸し出しながら、にやにやとした不敵な笑みを浮かべて言い放った。
「こんな最高のライブを特等席で観られて、本当に光栄の至りさ。……そこでだ、ファンとしてのささやかなお願いなんだけど、私にサインをくれないかい?」
アストラはその胡散臭い男の接近に怯えつつも、持ち前の毅然としたトップスターとしての誇りを瞳に宿し、男をじっと睨み返した。隊長は「おや、書くものがないなあ」と大袈裟に呟きながら、自身の衣服のポケットや私物をガサゴソと漁り始める。
「……お、あったあった。これでいいや」
男が楽しそうに手にして取り出したのは、ペンなどではなく、銃身に特殊な加工が施された、鈍く煌めく本物の軍用ハンドガンだった。男はあろうことか、そのハンドガンの銃身をアストラの目の前に差し出し、ここにサインを書くよう、ふざけた口調で促してきたのだ。
「――ふざけないでっ!!」
アストラは怒りに声を震わせ、男の差し出した銃口を烈火の如き眼光で撥ね退けた。
隊長は「おやおや、断られてしまったか。残念だねえ」と、わざとらしく肩をすくめて溜息を吐いてみせたが、次の瞬間、その軽薄な態度をガラリと切り替え、アストラ、そして会場全体にいる数万人の人間に向けて、スピーカーの音声をジャックして冷酷に説明を始めた。
「まあ、ビジネスの話をしようか。諸君、安心したまえ。先ほどの爆発によって、このアリーナのすべての出入口は完全にコンクリートごと封鎖された。もう新エリー都の無能な治安局が助けに来ることもなければ、君たちがここから逃げることも、100%絶対に不可能だ」
男の非情な宣告により、会場全体が再び絶望の阿鼻叫喚に染まろうとした、その刹那。
ステージ脇に控えていた反乱軍の兵士の一人が、手にした重火器の銃口を天井に向けて、轟音とともに威嚇射撃を放った。アリーナの天井からコンクリートの破片がパラパラと降り注ぎ、観客たちは悲鳴を飲み込んで再び静まり返る。
パチ、パチ、パチ――。
男たちの隊長は、その完璧な恐怖による支配に対して、満足そうに一人で拍手をしてみせた。
「素晴らしい、お利口さんだねえ。私はねえ、うるさいことが何よりも大嫌いなんだよ。もしこれ以上、ここで私を五月蝿くしてしまうようなら……静かにしてもらうために、少々手荒な真似をしなくちゃいけなくなる。……分かってくれるよねえ?」
嘯くように、けれどその言葉の裏に確実な『死』の重みを孕ませた隊長の声音。その言葉がスピーカーを通じてアリーナ全域に響き渡った瞬間、会場全体に、肉体的な侵食すら超越するような、絶対的な絶望の恐怖が伝播していった。誰もが、目の前の男たちが冗談ではなく本物の狂気を孕んだ軍人集団であることを理解していた。
「うんうん、お利口さんだ。それじゃあ、私たちがわざわざ新エリー都の治安維持陣の目を盗んで、こんな派手なテロ行為を執行した『本当の目的』について、ちょっとだけお喋りしようか」
隊長はアストラの周囲をゆっくりと回りながら、自身の、そして彼らが所属する反乱軍の真の狙いについて、愉しげに語り始めた。
「新エリー都の巨大企業『
男の言葉の真意を悟り、アストラは息を呑んだ。イヴリンもまた、プロとしての冷徹な顔の裏で、事態の深刻さを理性的に分析していた。
「我々の計画は極めて合理的で、かつシンプルだ。アストラ・ヤオ、君をここで拉致させてもらう。そして、君のその美しい口から『新エリー都の欺瞞と、TOPSの腐敗』を克明に告発する声明を、全都市のすべてのビルボードと電波をハイジャックして、強制放送させてもらうのさ。……街のアイドルが涙ながらに体制の罪を告発すれば、あの偉そうな特権階級どもの権威は一瞬にして失墜する。……これが、私たちの真の狙いだよ、お嬢様」
無法のテロ部隊によって完全に檻の中に閉じ込められてしまった、新エリー都の歌姫。 全都市を揺るがしかねない最悪の拉致計画が、爆炎に包まれたアリーナの舞台裏で、今まさに最悪の形で執行されようとしていた――。