少年の父親は、三日前から酒を飲んでいなかった。
それだけで、ろくでもないことを企んでいると分かった。
いつもなら朝から酒瓶を抱え、昼には床で眠り、夜になると少年を蹴り起こして、飯か金を探しに行かせる。ところが、この三日間は違った。伸び放題だった髭を剃り、破れた上着に針を通し、少年にまで川で身体を洗えと言い出した。
父親がまともな人間になったわけではない。
まともな人間に見せなければならない用事ができたのだ。
「耳の裏まで洗えよ! お前、そこだけ犬みてえな臭いがすんだ」
父親は欠けた鏡の前に立ち、濡れた手で髪を撫でつけていた。撫でつけてもすぐに跳ねるので、もう十回近く同じことをしている。
「どうして洗わなきゃいけねえんだ」
「汚えガキは嫌われる」
「誰にだよ」
「うるせえな! さっさと川に行け!」
父親の声は、狭い家では大きすぎた。壁に吊るしてあった鍋が、わずかに震えた。
少年は桶を持って外へ出た。
父親は嘘も隠し事も下手だった。
後ろめたいことがあると、人の顔を見なくなる。その代わりに手元だけが忙しくなる。杯を拭き、服の埃を払い、火のついていない煙草を噛み、何も映らないほど曇った鏡を磨く。
今朝も、鏡がなくなってしまいそうな勢いで布を擦っていた。
少年は父親のことが好きだったが、信用はしていなかった。
父親の言う「すぐ戻る」は、早くて三日後だった。「絶対に儲かる」は、だいたい誰かに追われて終わった。「お前の分も残してある」と言いながら、鍋の底を舐めていたこともある。
それでも父親が帰ってくると、少年はほっとした。
玄関を蹴り開け、大声で何かを喋りながら入ってくる。その声がすると、家の中が急に狭くなった。うるさくて、酒臭くて、腹が立つ。だが、父親が何日も帰らない夜は、家がやけに広く感じられた。
少年は川へ向かわず、家の裏へ回った。
壁板には、去年の冬に少年が蹴って開けた穴がある。
父親が酔って家の中で小便をしたので、少年が怒って壁を蹴った。その穴だった。父親は翌朝、鼠が開けたのだと言い張った。鼠が好むようなものは家にはないだろと少年は思ったが、面倒だったので、それ以上は教えなかった。
穴へ耳を近づける。
しばらくして、表の扉が開いた。
「遅えぞ!」
父親の声だった。
「昼前に来いと言ったのはお前だろうが」
知らない男が答えた。
「近所の目があんだよ。 俺は顔が広いからな!」
「借金取りにか?」
「そうだ!」
少年は穴から中を覗いた。
父親の前に、丸い帽子を被った男が立っていた。
腹が大きく、右手の指すべてに指輪を嵌めている。腰には短剣を差していたが、柄だけが豪華で、鞘は擦れて白くなっていた。
帽子の男は部屋を見回し、露骨に鼻を曲げた。
「臭えな」
「お前が香水臭えんだよ」
「ガキは?」
「川だ」
「逃げたんじゃないだろうな」
「逃げる金がねえよ」
「お前の子だろ。金がなくても逃げる知恵くらいあるんじゃないか」
父親が鼻で笑った。
「俺の子だから逃げねえんだよ」
少年はなぜか少しだけ嬉しくなった。
直後に、自分でも馬鹿らしいと思った。
「歳は?」
「九つ」
「小せえな」
「飯を食わせりゃ育つ」
「病気は?」
「見ての通りだ」
「見てねえよ」
帽子の男が笑った。
父親は笑わなかった。
「いくらだ」
帽子の男が尋ねた。
「銀貨十五枚」
「五枚」
「ぶっ殺すぞ!」
「それをしたら一枚にもならんぞ」
「十五だ! 頭は回るし、足も速え! 鍵も開けられる!」
父親の声が大きくなる。
少年は反射的に穴から耳を離した。
「九つのガキがか?」
「こいつは六つで開けたぞ! 市場の裏の金物屋だ! 親父が夜ごと鍵を三つもかけてた店を、一人で――」
「お前の自慢話を買いに来たんじゃない」
「自慢じゃねえ! 値段の話だ!」
帽子の男は、指輪のついた手で鼻を擦った。
「八枚。それ以上は出さん」
「十二だ!」
「八枚」
「十一!」
「八枚」
「十だ! 十なら今夜にでも渡す!」
「八枚だ。嫌なら他を探せ」
父親は黙った。
少年は壁の向こうで返事を待った。
去年の夏、父親は酒場で少年を立たせ、酔客たちへ自慢した。
「こいつは六つで鍵を開けた! 俺が六つの頃なんざ、鍵のある家を見たこともなかった!」
それは別に自慢になる話ではなかったが、周りの男たちは笑った。
父親も笑った。
少年の頭に酒臭い手を置き、首がぐらぐらするほど乱暴に撫で回した。
「見ろ、この目! 悪い目してんだろ! 俺よりでけえ盗人になるぞ、こいつは!」
少年はその手が嫌だった。
酔った父親は力加減を知らない。髪を掴んでいるのか撫でているのか、自分でも分かっていなかった。
それでも、父親が少年の話をするのは嫌いではなかった。
その少し前には、盗みに失敗した父親を、夜通し引きずって帰ったこともある。
路地裏で倒れていた父親は、鼻血を流し、片方の靴をなくし、懐には何も持っていなかった。
少年は父親の両腕を掴み、石畳の上を引きずった。
頭が何度も地面へぶつかった。
そのたびに父親は目を覚ました。
「おい! もっと丁寧に運べ!」
「重いんだよ!」
「親だぞ!」
「だから何だよ!」
「捨てたら化けて出るぞ!」
「捨てなくても毎日出てくるだろ!」
父親は腹を抱えて笑い、そのまままた気を失った。
少年は三度、本当に置いていこうとした。
一度目は橋の下。二度目は肉屋の裏。三度目は家まであと二本という路地だった。
結局、朝までかけて運んだ。
翌日、父親は自分で歩いて帰ってきたと思い込んでいた。
少年が違うと言うと、
「じゃあ誰か親切な奴が運んだんだろ!」
と笑った。
少年は最後まで自分が運んだとは言わなかった。
「八枚だ」
帽子の男が言った。
父親は長く息を吐いた。
「……九枚」
「八枚」
「畜生」
「決まりだな」
「前金を置いてけ」
「逃げるなよ」
「誰が逃げるか! 俺は約束だけは守る男だ!」
少年は思わず壁を殴りそうになった。
父親が約束を守ったところなど、一度も見たことがなかった。
金属の触れ合う音がした。
一枚。
前金だろう。
「明日の朝に迎えを寄越す」
「分かった」
「洗っておけよ」
「分かってる!」
「服も替えさせろ」
「替えがあるように見えるか!」
二人はしばらく言い争った。
帽子の男が出ていき、扉が閉まる。
少年は壁から離れた。
悲しいとは思わなかった。
まず腹が立った。
自分を売ることにも腹が立ったが、銀貨八枚で折れたことの方が、もっと腹立たしかった。
十五枚と言っていた。
鍵も開けられる。足も速い。頭も回る。自分より大きな盗人になる。
そこまで大声で言っておきながら、最後には八枚で売った。
少年は壁を蹴った。
穴の横に、新しい亀裂が走った。
「安すぎるだろ、馬鹿親父」
小さく言ったつもりだったが、家の中から声がした。
「だれだ!」
「おれだ!」
「川には行ったのか!」
「寒いから帰ってきた!」
少年は桶を持ったまま表へ回った。
家へ入ると、帽子の男はもういなかった。
父親は卓の前に座り、銀貨一枚を指で弾いていた。何度も宙へ上げ、受け損ねては床を這って拾っている。
「身体くらい洗えよ、汚えな」
「親父も臭い」
「俺は大人の臭いだ」
「腐った酒の臭いだろ」
「同じだ」
父親は銀貨を噛み、本物か確かめた。
その顔が妙に嬉しそうだった。
少年は卓の向かいに座った。
「明日、どこかに行くのか」
「ああ」
「誰が」
「お前が」
「どこへ」
「鉱山だ。石を運ぶ。飯も出る」
「帰ってこれんのか?」
父親は一瞬だけ黙った。
すぐに卓の下から酒瓶を取り出した。
三日間、栓を開けなかった酒だった。
「働きがよけりゃな」
「嘘つけ」
「嘘じゃねえ!」
「じゃあ親父も来いよ」
「俺には俺の仕事があんだよ」
「酒を飲む仕事か?」
「うるせえ!」
父親は栓を抜き、三日ぶりの酒を喉へ流し込んだ。
半分ほど一気に飲み、顔をしかめる。
「まずい!」
「三日も眺めてたからだろ」
「酒は眺めても腐らねえだろ」
少年は父親を見ていた。
父親は目を合わせなかった。
代わりに、酒瓶を布で拭き始めた。
今さら拭いても、瓶は少しも綺麗にならなかった。
その夜、少年はいつも通り父親の隣で眠った。
寝床は一つしかない。
父親はいびきをかき、何度も少年の毛布を奪った。少年が取り返すと、眠ったまま肘を飛ばしてきた。
少年はその肘を押し返し、壁際へ追いやった。
父親は銀貨八枚で自分を売る。
少年は暗闇の中で何度もそのことを考えた。
怒鳴りつけてやろうとも思った。
酒瓶で頭を殴って逃げようとも思った。
明日の朝まで何も知らないふりをして、迎えに来た男を刺すことも考えた。
だが、どれも気に入らなかった。
逃げれば、父親は銀貨一枚を持ったままだ。
帽子の男も別の子どもを買うだけだ。
何より、銀貨八枚で売られたままになるのが嫌だった。
少年は隣で眠る父親の顔を見た。
口を開け、涎を垂らしている。
昨日までは、もう少し大きな男だと思っていた。
「ふざけやがって」
少年は父親へ言った。
父親は答えず、大きないびきを返した。
朝になると、父親はまだ眠っていた。
少年は棚から干し肉を一切れ取り、もう一切れ取ろうとしてやめた。少し迷ってから、結局二切れとも懐へ入れた。
父親の古い靴を履く。
大きすぎて、歩くたびに踵が浮いた。
町の役所は丘の上にあった。
少年は坂を駆け上がった。
途中で靴が片方脱げ、振り返って拾い、また走った。
役所の入り口には、槍を持った衛兵が二人立っていた。
少年が近づくと、片方が手を振った。
「物乞いは裏へ行け」
「物乞いじゃねえ!」
「朝から騒ぐな」
「賞金首を知ってる!」
衛兵の手が止まった。
「誰だ」
「ガルド・カレンド!」
二人の衛兵が顔を見合わせた。
片方が屈み、少年の顔を覗き込む。
「どこで聞いた」
「本人からだ!」
「本人はどこだ」
「金をくれたら言う!」
衛兵が笑った。
「ガキが交渉する気か」
「笑うな! ただで教えたら、お前が自分で見つけたことにするだろうが!」
笑い声が消えた。
少年は役所の中へ通された。
立派な部屋ではなかった。
奥の物置に近い一室で、窓は小さく、机の上には埃を被った書類が積み上がっていた。その向こうに、赤ら顔の役人が座っている。
役人は少年の話を聞きながら、面倒そうに羽根筆を動かした。
「ガルド・カレンド。強盗、詐欺、密輸、傷害、殺人未遂……随分と働いているな」
「殺人はしてねえぞ」
「未遂だ」
「失敗したってことか?」
役人が少年を見た。
「そういうことだ」
「やっぱりな!」
「何がやっぱりだ」
「あいつ、人を殺したって酒場で自慢してたぞ!」
「未遂だ」
「嘘つきめ!」
「父親なのか」
「そうだ!」
「静かに話せ」
「話してる!」
「それでか?」
役人は耳を擦った。
「それで、実の父親を売りに来たのか」
「いくらだ!」
「何が」
「親父の値段だよ!」
役人は椅子へ深く座り直した。
しばらく少年の顔を眺めてから、書類をめくる。
「銀貨十二枚」
「十五枚!」
「決まっている」
「安い!」
「賞金は交渉するものではない」
「あいつは鍵も開けるぞ! 足は遅えけど、嘘はたくさんつける!」
「褒めているのか?」
「十二枚よりは高いって言ってんだ!」
「十二枚だ」
「十四!」
「十二枚」
「十三!」
「十二枚」
「畜生! じゃあ十二枚だ!」
役人は呆れた顔をした。
「随分と早いな」
「これ以上、上がらねえんだろ!」
「ああ」
「だったら時間の無駄だ!」
役人は少年を疑わしそうに見た。
「本当にそこにいるのか」
「今なら寝てる!」
「罠ではないだろうな」
「あいつに罠なんか作れねえよ! 縄の結び方も下手だ!」
役人は衛兵を四人呼んだ。
少年はその先頭を歩いた。
父親の靴が何度も脱げそうになった。途中で衛兵の一人が少年の肩を掴む。
「走るな」
「寝てる間に行かねえと逃げるだろ!」
家へ着くと、父親は起きていた。
卓の上には空になった酒瓶が転がり、床には帽子の男から受け取った前金が落ちていた。
父親は靴を探していた。
「おい! 俺の靴をどこに――」
少年の後ろにいる衛兵を見て、口を閉じた。
次の瞬間、父親は窓へ飛びついた。
「ガルド・カレンドだな!」
衛兵が叫んだ。
「違う!」
「逃げる奴はみんなそう言う!」
「人違いだ! 俺は弟だ!」
「お前に弟はいないだろ!」
少年が怒鳴ると、父親が振り返った。
「なんでお前がそれを言うんだ!」
衛兵二人が父親へ飛びかかった。
父親は椅子を投げ、卓を蹴り倒し、空の酒瓶を振り回した。狭い家の中で全員が怒鳴り、壁に吊るした鍋が落ち、床を転がった。
「離せ! 俺を誰だと思ってやがる!」
「賞金首だ!」
「そういう意味じゃねえ!」
父親は衛兵の手へ噛みついた。
殴られた。
鼻血を出しながらも、今度は別の衛兵の股を蹴った。
さらに殴られた。
三日間酒を抜いた程度で身体が強くなるわけではない。まして昨夜、三日分をまとめて飲んでいる。
ほどなく床へ押さえつけられ、両腕を縛られた。
「畜生! 四人がかりか! 恥を知れ!」
「賞金首が言うな!」
床へ頬を押しつけられた父親が、少年を見た。
最初は何が起きたのか分からない顔をしていた。
やがて少年の後ろに立つ役人と、その手に握られた革袋を見る。
それから、少年が履いている自分の靴を見た。
「お前か!」
「そうだ!」
「俺を売ったのか!」
「そっちが先だろうが!」
「俺はまだ売ってねえ!」
「明日の朝に売るつもりだっただろ!」
「明日と今日は違う!」
「同じだ、馬鹿!」
「親に向かって馬鹿とは何だ!」
「子どもを八枚で売る奴は馬鹿だ!」
「八枚じゃねえ! 前金を入れりゃ九枚だ!」
「もっと馬鹿じゃねえか!」
役人が顔をしかめた。
「お前たちは普段からこの声量なのか」
「こいつがうるせえんだ!」
親子が同時に怒鳴った。
一瞬、部屋が静かになった。
父親が先に笑い出した。
床へ頬を押しつけたまま、鼻血を垂らし、腹を震わせて笑った。
「何がおかしい!」
「お前、俺をいくらで売った?」
「十二枚だ!」
「十二枚?」
「安かったぞ!」
「安い!」
父親はさらに笑った。
「なんでもっと粘らねえんだ!」
「粘ったよ!」
「十五は取れた!」
「取れなかった!」
「俺なら取れた!」
「八枚で売った奴が言うな!」
父親は息が苦しくなるほど笑い、途中で咳き込んだ。
「俺がお前を売るより四枚も高えじゃねえか!」
「前金を入れたら三枚だ!」
「そうだ、俺の銀貨!」
父親が床に落ちた一枚へ手を伸ばそうとした。
衛兵が縄を引く。
「触るな! 俺のだぞ!」
「もう俺のだ!」
少年が怒鳴る。
「なんでだ!」
「家に落ちてた!」
「俺の家だ!」
「俺も住んでる!」
「家賃を払え!」
「家賃ってなんだよ!」
衛兵たちが父親を立たせる。
立ち上がった父親はふらつき、少年の肩へぶつかった。
「靴を返せ」
「嫌だ」
「俺のだぞ」
「もういらねえだろ」
「処刑場まで裸足で歩けってのか!」
「歩けるだろ」
「足の裏が痛え!」
「知らねえよ!」
父親は少年を睨んだ。
少年も睨み返した。
怒っているはずなのに、父親の口元はまだ笑っていた。
「お前、本当に俺の子だな」
「一緒にすんな!」
「同じ顔して怒ってやがる!」
「してねえ!」
「してる!」
少年は父親の脛を蹴った。
父親が大声で痛がり、衛兵に引きずられていく。
「覚えてろよ、馬鹿息子!」
「親父もな、間抜け!」
「十二枚は安いぞ!」
「うるせえ! 先に言え!」
父親は家の外へ連れていかれた。
通りへ出てもまだ喚いていた。
「靴だけ返せ! 靴だけ!」
声が坂の下へ遠ざかっていく。
少年は戸口に立ったまま、それを聞いていた。
急に家の中が静かになった。
鍋が床を転がり、ゆっくり止まった。
役人が革袋を投げて寄越した。
少年は胸で受け損ね、腹に当て、両腕で抱えた。
中で銀貨が重なり、乾いた音を立てた。
「十二枚だ」
「数える」
「好きにしろ」
少年は床へ座り、銀貨を一枚ずつ並べた。
一、二、三、四。
役人は途中で苛立った。
「十二枚ある」
「黙ってろ。間違える」
「役所が誤魔化すとでも思っているのか」
少年は顔を上げた。
「親父も、自分は約束を守る男だって言ってた」
役人は口を閉じた。
少年は十二枚目まで数えた。
それから床に落ちていた銀貨も拾った。
「それは証拠品だ」
「親父が俺を売った金だ」
「役所が押収する」
「これは俺のだ!」
「声を落とせ!」
「嫌だ!」
少年は銀貨を口へ入れた。
役人が呆然とする。
「何をしている」
「飲むぞ!」
「分かった。持っていけ」
役人は呆れたように言った。
少年は銀貨を口から出し、服で拭いた。
合わせて十三枚になった。
役人たちは家を出ていった。
少年は一人になった。
倒れた卓。割れた酒瓶。蹴破られた扉。床に転がる鍋。父親が寝ていた毛布。
どれも昨日までと大して変わらなかった。
ただ、うるさい声だけがなくなった。
少年は父親の靴を脱いだ。
寝台の下から、自分の靴を取り出す。泥だらけで、片方の底には穴が開いている。
それでも、父親の靴よりこちらの方が歩きやすかった。
家を出る。
坂の下に、父親を連れた一行が小さく見えた。
父親はまだ何か叫んでいる。
言葉までは聞こえなかった。
一度だけ振り返り、少年の姿を見つけると、大きく片腕を振った。
手を振ったのか、拳を上げたのかは分からなかった。
少年は少し迷った。
それから、父親の靴を両方抱え、坂の下へ向かって投げた。
靴はまったく届かず、隣家の屋根へ落ちた。
「下手くそ!」
遠くから父親の声が聞こえた。
「うるせえ!」
少年も怒鳴り返した。
父親の笑い声が、坂の下から微かに届いた。
少年は革袋を腰へ結び、父親とは反対の方角へ歩き出した。
行き先は決めていない。
銀貨十三枚があれば、少なくとも鉱山へ売られるよりは、もう少しましなことができるはずだった。
少年の名はエリアフ・カレンド。
のちに天下万悪の父と呼ばれることになる男の物語は、実の父親を銀貨十二枚で売った朝から始まった。