リグが帰ってこなかった。
昼までには戻ると言って出ていったのが朝で、日が傾き始めても姿がない。
最初に気づいたのはミナだった。
「リグ、まだ帰ってない」
エリアフは床に寝転がったまま窓の外を見た。
「どっかで遊んでんじゃねえの」
「銀貨七枚持ってる」
それを聞いて起き上がった。
「七枚?」
「昨日ドバンから預かってた」
「何であいつに七枚持たせんだよ」
「革買うから」
「革くらい銅貨で買えるだろ」
「三十人分」
「ああ」
それなら要る。
エリアフはまた寝ようとしたが、一度聞いた七枚が頭に残った
七枚あればかなり食える。新しい靴も買えるし、前に見た短剣なら二本買ってもまだ余る。
「持って逃げたとか?」
そう言うと、窓際で靴紐を直していたボッカが顔を上げた。
「リグが?」
「金好きだろ」
「お前もだろ」
「俺は七枚じゃ逃げねえよ」
ミナがエリアフを見た。
「いくらなら逃げる?」
少し考えた。
「百」
「逃げるんじゃねえか」
ボッカが呆れた顔をした。ミナは今度はそちらを見た。
「百ならボッカも逃げる」
「逃げねえよ」
「二百でも?」
「何で俺まで聞かれてんだよ」
「うそつけよ」
エリアフは思わず声に出した。
「お前ら、人を何だと思ってんだ」
ボッカはこういう時にちゃんと答えるから面白い。リグがいれば、話はもっと長引くし、ボッカはもっと怒ることになる。
そのリグがいない。だんだん気になってきた。
リグは金には汚い。人の酒も勝手に飲むし、食い物も取る。
ただ、七枚持って消えるかと言われると、なんとなく違った。
「探してくる」
「俺も行く」
ボッカが立った。
「何で?」
「お前一人で出したら、途中で別のもん見つけて帰ってこねえだろ」
昨日、水を汲みに出て港で船を見ているうちに桶を忘れたばかりだった。
エリアフは言い返さず、靴を履いた。ミナも上着を取った。
「ミナもいくのか?」
「暇」
「ボッカと同じだな」
「一緒にするな」
「おい」
三人で町へ出た。
町へ来たのは四日前だった。三本の街道がぶつかる場所にできた町で、革屋、鍛冶屋、馬屋、酒場がひしめき、その間を荷車と旅人が絶えず通っている。
リグはこういうところへ来ると勝手に知り合いを増やす。
昨日も知らない女と道端で喋っていた。あとで誰か聞いたら、パン屋の娘だと言った。
「知り合いだったの?」
「いや。今なった」
エリアフにはその感じがよく分からなかった。
人に声をかけることはできる。必要ならいくらでも喋る。ただ、用がなくなればそこで終わる。リグはなぜか終わらない。パンの値段から兄弟の話になり、父親の仕事になり、気がつけば裏通りの倉庫に夜番が何人いるかまで知っている。
前にどうやっているのか聞いたら、「普通に喋ってりゃ出てくるだろ」と言われた。
その普通が分からないから聞いている。
革屋に着くと、店主はすぐリグを思い出した。
「あの茶髪の兄ちゃんだろ。朝来てたよ。散々値切って、結局買わずに出ていった」
「何してんだあいつ」
ボッカが額を押さえた。
「途中で何か見つけたみたいだったな。店の外見て、急に出てった」
「金は?」
ミナが聞いた。
「持ってたよ。七枚きっちり。六枚にしろって全部机に並べてきたから覚えてる」
「七枚あるのに六枚にしようとしたの?」
エリアフが聞くと、店主は嫌そうな顔をした。
「『七枚しか持ってない奴から七枚取るのはひどい』とか何とか」
エリアフは笑った。
「それで?」
「七枚だって言ったら、『じゃあ考える』って外出て、そのまま帰ってこねえ」
「絶対買う気なかっただろ」
ボッカが言った。
そこから市場を回った。
肉屋で見た者がいた。井戸のそばでも喋っていたらしい。馬屋にも顔を出している。
エリアフはだんだん腹が立ってきた。
「革買いに来たんだよな、あいつ」
市場の南まで来たところで、ようやく話が変わった。
「ああ、あの兄ちゃんか。南門のところで揉めてたぞ」
「誰と?」
「商人の護衛。役人も来てたな」
三人は南門へ向かった。
門の手前には十人ほど人が集まっていた。荷車の邪魔になるので門番にどけと言われながら、それでも少し離れた場所から眺めている。
エリアフは人の間を抜けて前へ出た。
リグが壁際に座っていた。口の端が切れて、頬も赤い。
「リグ」
声をかけると顔を上げた。
「遅かったな」
「何してんだよ」
その前には三十くらいの男が立っていた。短く刈った髪に灰色の上着。町の兵士ではない。その横に役人が二人いる。
男がエリアフたちを見た。
「仲間か?」
「そうだけど」
「こいつが俺の財布を持ってた」
エリアフはリグを見た。
「盗ったのか?」
「盗ってない」
「本当に?」
「お前まで疑うのかよ」
ボッカも人垣を抜けてきた。
「盗ったなら返せよ」
「盗ってねえって!」
「持ってたなら疑われるだろ」
「道に落ちてたんだって」
ミナはリグの横へしゃがんだ。
「七枚は?」
「あるよ」
リグが懐から革代の袋を出した。
音を聞いて、エリアフは安心した。
「じゃあ帰ろうぜ」
「待て」
灰色の男が、リグから回収したのであろう財布を持ち上げた。
「銀貨二枚がない」
「最初から入ってなかった」
リグが言った。
「入ってた」
「銅貨十九枚しかなかった」
少し間が空いた。
エリアフが聞いた。
「……何で中身知ってんの?」
「見たから」
「何で見るんだよ」
「落ちてたんだぞ。見るだろ」
ボッカが鼻から息を吐いた。
「お前、それで疑われてんじゃねえか」
「拾っただけだって」
「拾って、中見て、持って歩いてたんだろ?」
「返すつもりだった」
「いつ」
リグが黙った。
灰色の男が手を出し、銀貨7枚が入った袋を指してくる。
「その中も調べる」
「これは俺らの金だ」
「俺の銀貨が二枚なくなってる」
「だから取ってねえって」
役人が袋を受け取り、中を数えた。
「七枚だな」
「そいつが二枚抜いて混ぜたかもしれないだろ」
男の言うことは当然だった。
リグが何か言う前に、ミナがエリアフを見た。
「革屋」
「あ」
店主は、財布を拾うより前のリグが七枚持っていたのを見ている。
役人に話すと、一人が確認へ走った。
待っている間、灰色の男は腕を組み、リグは壁にもたれていた。野次馬はまだ残っていたが、門番が何度も追い払ううちに半分ほどになった。
しばらくして役人が戻ってきた。
「革屋が七枚確認してる。朝、この男が七枚全部を机に出したそうだ」
灰色の男はまだ不満そうだった。
「じゃあ身体に隠してる」
「それは詰所で調べる」
役人が言った。
リグは露骨に嫌そうな顔をした。
「嫌だね」
「お前が拾った財布を持って歩いてたんだ。諦めろ」
「拾っただけなのに」
「中身まで数えた奴が言うな」
「あーもう!分かったよ!」
立ち上がろうとしたリグが、少し足をもつれさせた。
エリアフはそこで気づいた。
「お前、逃げなかったの?」
「逃げたよ」
「じゃあ何で捕まってんの」
リグが灰色の男を顎で指した。
「こいつ固有持ち」
エリアフはそちらを見た。
さっきまで気になっていた銀貨二枚が、急にどうでもよくなった。
「何の?」
「知らねえよ。走ったら横に飛ばされた」
「横?」
「だから俺にも分かんねえって」
エリアフは男の手を見た。
「もう一回やって」
「何を?」
「今のやつ」
ボッカが肩を掴んできた。
「おい。詰所行けば済む話だぞ」
「ちょっと見るだけ」
「何でお前が見る必要あるんだ」
「見たいから」
リグが壁にもたれたまま笑った。
「やらせろよ。俺だけやられたのも癪だし」
「お前は黙ってろ」
ボッカに言われたリグが、今度はそちらを見た。
「じゃあボッカで試そうぜ」
「何で俺だよ」
「でかい方が分かりやすいだろ」
ミナも灰色の男とボッカを見比べた。
「重いものだと違うかもしれない」
「お前まで乗るなよ」
エリアフもその言葉で急に見たくなった。
「一回走ってみてよ」
「絶対嫌だ」
周りにまだ残っていた連中から笑いが漏れた。
ボッカがそちらを睨むと、余計に笑われた。
灰色の男は笑っていなかった。
「俺は芸人ではない。くだらん遊びには付き合わんぞ」
エリアフが前へ出た。
「一回だけ俺にやって」
「嫌だ」
「何で」
「何でそんなことをする必要がある」
「じゃあ捕まえてみて」
「エリアフ」
ボッカが止めた時にはもう走っていた。
男に突進する。ただ、リグに何をしたのか見たかった。
灰色の男が咄嗟に右手を出した。
胸に手のひらが触れた。
押された感じはほとんどなかった。
なのに、まっすぐ走っていた身体が右へずれた。
エリアフは自分では前へ足を出しているつもりだった。地面の方が急に横へ動いたような気さえした。次の足が追いつかず、肩から石畳へ転がった。
「……何だ今の」
起き上がる。
肩が痛い。
男は面倒そうな顔をしていた。
「これで満足か」
「もう一回」
「帰れ」
エリアフは男の返事を待たず、今度は左側から走った。
「おい!」
また手が来た。
肩へ触れた瞬間、今度は左へ流れた。前へ進む勢いそのものは消えていない。身体だけが別の方へ向かされた。
今度はどうにか踏ん張った。
エリアフは振り返った。
「押してないよな?」
「押してねえよ」
リグが横から言った。
「俺もそれやられた。全力で走ってたから、そのまま壁に突っ込んだ」
エリアフは足元の小石を拾った。
灰色の男が嫌な顔をした。
「投げるなよ」
「一回だけ」
「やめろ」
投げた。
「おい!」
男が反射的に手で払った。
石は手の甲に当たったところで、斜め上へ逸れた。勢いはほとんど落ちず、人垣の向こうまで飛んでいった。
「曲がった!」
エリアフは飛んでいった方を見た。
向こうで誰かが「痛え!」と叫んだ。
一瞬静かになった。
エリアフはそちらへ向かって「悪い!」と叫んだ。
「悪いで済むか!」
役人に頭を小突かれた。
ミナは石ではなく男の手を見ていた。
「止めてないね」
「うん」
「向きだけ変わってる」
エリアフは自分が転んだ場所を振り返った。
そうだ。
押し返されたわけじゃない。
「じゃあ、重いものなら?」
エリアフとミナが同時にボッカを見た。
「やめろ」
ボッカがすぐ言った。
リグまで顔を上げた。
「ちょっと走るだけだって」
「走らねえよ」
「ボッカならそんな曲がらないかもしれない」
ミナが言う。
「何でそんなこと確かめなきゃいけねえんだよ」
「気になるから」
エリアフが答えると、ボッカはしばらく何も言わなかった。
「お前ら、俺を何だと思ってんだ」
リグが笑った。
「でかいもの」
「殴るぞ」
近くに空の木箱があった。
エリアフがそれを見ると、ボッカが先に言った。
「それ他人のだぞ」
「まだ何も言ってない」
「顔で分かる」
仕方なく諦めた。
その時、役人がリグの腕を取った。
「もういい。詰所行くぞ」
リグは嫌そうに身を引いた。
「だから触んなって」
「逃げるなよ」
「逃げねえよ」
言いながら、少しずつ門の方へ身体が向いている。
エリアフには分かった。
こいつ逃げる気だ。
次の瞬間、リグが走った。
灰色の男が舌打ちして追った。
リグは人の間を抜け、屋台の脇を走る。速い。さっきまで足を痛めていたのに、もうほとんど分からない。
しかし男も相当早い。もう追いつきそうだ。
男の右手がリグの肩へ触れた。
リグの身体が急に横へ流れた。
今度は転ばなかった。
流された先にあった屋台の柱を片手で掴み、その勢いのまま身体を回して、男の脇から抜けた。
エリアフは思わず叫んだ。
「おお、うまい!」
リグがちらっとこちらを見た。
得意そうな顔をした。
そのまま木桶につまずいて転んだ。
ボッカが吹き出した。
「何やってんだお前」
「うるせえ!」
エリアフも笑いながら駆け寄った。
「ドヤ顔しながらこっち見るからだ」
「見てねえ」
「見てた」
ミナも追いついてきた。
「格好つけてた」
「つけてねえよ」
「つけてたな」
ボッカにまで言われ、リグが地面から睨み上げた。
「ボッカにだけは言われたくねえ」
「何で俺なんだよ」
「昨日、馬乗る時に反対側から落ちたじゃん」
エリアフは初耳だった。
「何それ」
「言うな」
ボッカの顔が変わった。
「どういうこと?」
ミナまで少し身を乗り出した。
「乗ったあと?」
「その話やめろ」
「こいつな、鐙に足かけた時――」
リグが言いかけたところで、ボッカが飛びかかった。
リグは転んだ直後なのに、そこだけはやたら速く逃げた。
「最後まで言えよ!」
エリアフも追った。
「お前は黙ってろ!」
「俺まだ聞いてねえ!」
そこへ役人の怒鳴り声が飛んだ。
「お前らいい加減にしろ!」
今度は本気で怒っていた。
門番も来た。
残っていた野次馬は散らされ、四人まとめて詰所へ連れていかれた。
身体と荷物を調べても、灰色の男が言う銀貨二枚は出なかった。革代の七枚については、革屋の主人が財布を拾う前から持っていたと証言している。
役人は灰色の男に言った。
「ここまでだ。こいつが財布を持っていたのは事実だが、銀貨を盗った証拠はない」
「二枚入ってたんだ」
「財布を落としてから拾われるまでに、誰かが抜いたかもしれん。お前の勘違いかもしれん。これ以上はどうにもならん」
男は納得していなかったが、それ以上押し通すこともできなかった。
詰所を出る時、リグが男の背中へ舌を出した。
エリアフが見ているのに気づくと、何事もなかったような顔をした。
「何だよ」
「いや」
「何」
「別に」
「笑うなよ」
「笑ってねえよ」
革屋へ戻る途中、ボッカが言った。
「今度こそ寄り道すんなよ」
「分かってるって」
リグは口を尖らせた。
「そもそも財布が落ちてたのが悪いんだよ」
「お前が拾わなきゃよかっただけだろ」
「落ちてる金見て素通りできる?」
エリアフは少し考えた。
「無理だな」
「だろ?」
ボッカが二人を見た。
「お前らほんと駄目だな」
ミナが言った。
「ボッカなら届ける?」
「届けるよ」
三人ともボッカを見た。
「何だよ」
リグが笑った。
「やっぱお前、盗賊向いてねえんじゃねえの」
「うるせぇ」
エリアフはまた笑った。
革屋へ帰る途中、エリアフは昼間のことを何度も頭の中でやり直していた。
石が手に当たった瞬間。
リグの身体が横へ流れた瞬間。
止めてはいない。
勢いもほとんどなくなっていない。
あの男は、動いているものを横へ曲げていた。
矢ならどうなる。
もっと速いものなら。
馬なら。
重い荷車なら。
あの時、本当にボッカを走らせればよかった。
前を歩いていたボッカの背中を見た。
今から頼んでもやらないだろうか。
「エリアフ」
ミナが呼んだ。
「なに」
「革屋通り過ぎた」
振り返ると、店はだいぶ後ろにあった。
「早く言え!」
走って戻った。
その夜、ドバンに事情を話した。
銀貨七枚は無事だった。
革も買った。
「で」
ドバンが低い声で言った。
「誰が固有持ちに喧嘩売った」
三人ともエリアフを見た。
「いやどう考えてもリグだろ。財布盗ったのが悪い」
「お前だろ」
リグが言った。
「そもそも別に喧嘩じゃねえだろあれは」
「ボッカはなんで何もしなかったんだ」
「リグはドヤ顔で転んでた」
「関係ないだろ!」
ドバンが机を叩いた。
「うるせえ!」
部屋が静かになった。
エリアフは椅子に座り直した。
ドバンはしばらく四人を睨んでいたが、最後にリグを見た。
「財布は?」
「返した」
「中身取ったか?」
「取ってねえよ!」
「本当に?」
「何で全員そこ疑うんだよ!」
ドバンまで笑った。
リグだけ笑わなかった。
エリアフは横でまた笑った。
そのあと、寝床へ戻ってからも、昼間の男の手が頭から離れなかった。
触ったものの向きが変わる。
どうやっているのかは分からない。
自分にも固有術が欲しいと、そう思う。
暗い天井を見ながら、自分の手を上げた。
何も起きない。
試しに横で寝ているリグの頬を押した。
「何すんだよ」
「何も起きねえな」
「起きたよ。俺が起きた」
「もう一回」
「寝ろ」
手を叩かれた。
エリアフはしばらく自分の掌を見ていたが、いつの間にか眠っていた。